御息所 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第27巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第27巻

タ ごめ り固めて、妻戸を設籠の戸を両方とも開けて、そこからお渡りになります。 けてある室で、衣服 調度類を納めたり、 御息所は、御病苦の中でも並々ならず恭しくお扱いになります。平素の御作法をあや 寝室に用いたりす る。ここでは人目にまたず、身をお起しになりまして、「えらく取り乱しておりますので、お越しを願うの つかないように、普 通の通路でない所をも心苦しゅうございます。この二三日ほどお顏を拝みませんのが、長の年月のような気 経て行くために、塗 籠のこちら側とあち持がいたしますのも、さすがに心細くてなりません。後の世でも必ずお目にかかれると ら側と両方の戸を開 は限りますまい また廻り遇うとしましても、前世のことは覚えているはずもありませ けて、そこを通って 行くのである んから、 , 何の甲斐がございましよ、つ。 考えてみれば、瞬くびまに互いに遠く隔たってし まう世の中ですのに、今まであまりお親しくいたしましたのが、かえって悔しゅうござ いまして」などとお泣きになります。宮も悲しいことばかりが一途にお胸に込み上げま すので、何も申し上げ給うこともなく、ただ見守っていらっしゃいます。たいそう内気 な御本性でいらっしゃいます上に、そうはきはきと中し開きをなさるべきことでもあり ませんので、きまり悪そうにばかりしていらっしゃいますのがあまりにもおいとおしい みあかし ので、一体どういうことがともようお尋ねになりません。急いで御燈火などを差し上げ たり、お食事などをこちらで参らせたりなさいます。ものを召し上らないとお聞きにな りまして、何やかやと手ずからお料理をし直しなどしてお上げになりますが、箸をおっ けにもなりません。たた母君の御容態のよろしいのを御覧になりましては、少し胸を撫 くや 323

2. 谷崎潤一郎全集 第27巻

だいにちによら、 御容態のよろしいのを喜んで、「大日如来が偽りを仰せにならずば、かように愚僧が真 らを籠めて勤めており申す御修法に、何で験のないことがござろう。悪霊は執念深いよ い」うしようまと しわが うに見えても、どうで業障に纒われた、カなきものでござるのじゃ」と、嗄れた厳い声 で言われます。そして、たいそう聖らしい、気象のまっすぐな律師ですので、突然、 「そう言えばあの大将は、いっからここの姫宮に通うてござらっしやるのかな」と、お 尸い申されます。御息所は、「さようなわけでもございません。故大納言と大の仲好し 」ゆい′」んたが でいらっしゃいましたので、御遺言を違えまいと、もう久しいこと何かの折にはお越し わたくし になりまして、実に奇特なほどお世話をなすって下さるのでございますが、今度も私が かたじけ 患っておりますので、そのお見舞いにわざわざおいで下さいましたので、忝なく存じて いるのでございます」と中されます。「まあ、仰せられな、愚僧にお隠しなさるること がござりますか。今朝がた後夜の動めに上った時、あの西の妻戸から、えらい美しい男 の方が出て参られたのを、霧が深くて、愚僧はようお見分け中しませなんだが、伴僧ど もが、『大将殿がお出ましでござります。昨夜も御車を帰して、こちらにお泊りになり ました』と、口々に申しておった。いかさまあたりにひどく結構な薫りが充ちて、頭痛 がするほど匂いましたので、さてはと合点いたしましたのじゃ。あのお方は、いつも非 かぐわ 常に芳しい香を薫きしめてござらっしやりまする。じゃがこの御縁は、決してよいこと ひじり かお いかっ ばんそう 318

3. 谷崎潤一郎全集 第27巻

おぼ どにお案じ申し上げておりますのも、何のためと思し召します。恐れながら、御気分を 取り直されまして、晴れやかにおなりなさいますまでは、あなた様がしゃんとしていら っしゃいますことが、どなたのおんためにもお心丈夫なのではないかと、お察し申し上 げるからでございます。それを全く他人事のようにお取りなされて、長の年月の志も分 って下さいませんとは、本意ない心地がいたしまして」と申されます。「ほんにごもっ ともなことで」と、人々も申し上げます。 おぐら 日が人り方になるにつれて、空にもしっとりと霧がかかって、この山蔭は小暗くなっ ひぐらし て行くように感ぜられますのに、蜩が鳴きつづけて、垣根に咲いている撫子が揺れて靡 せんざい いている色も面白く見えます。お前の前栽の花どもが思いのままに乱れ合っています中 ものすご たいそう凉しそうな水の音がして、山おろしが物凄く、木深い松の間をひびきわた ふだん りなどしますのに、不断の経を読んでいますのが、交代の時間が来たので鐘を打ち鳴ら しますと、座を立っ僧と人れ代る僧との声が一つになって尊く聞えます。何につけても、 こういう場所柄眼に触れるものが心細く見えて、しんみりとものが思いつづけられます。 男君はお立ちになる心地もなさいません。律師も加持をしているらしくて、陀羅尼をた いそう貴い声で読んでいます。御息所がひどくお悩みになるというので、女房たちも皆 その方へ集ってしまって、もともとお供に参っている人もそう多くはない 旅のお宿は、 ひとこと なでしこ なび 306

4. 谷崎潤一郎全集 第27巻

になることはさらにありません。どういう折に思いのたけを正面から申し上げて、当の みけしき おん方の御気色をうかがうことができようかしらんと、考えつづけていらっしゃいます イ、比叡山の西の麓と、御息所が物怪のためにひどくお患いになりまして、小野というあたりに山荘を持「 きえ ていらっしゃいましたのへお移りになりました。昔から帰依しておられた祈疇僧で、前 ちょうふく こも にも物怪などを調伏したことのある律師が、山に籠って里には出ないという誓いを立て えいざんふもと ましたので、幸い叡山の麓に近い所ですから、そこまで下りて来て貰おうというおつも りなのでした。お出ましの御車を始めとして、お供の入数などは、大将殿から差し上げ 。、柏木の兄弟たちられます。故人と近い縁につながる君たちは、かえ「てめいめい自分たちの仕事の忙し 、紅梅 さに紛れて、よう思い出してもお上げになりません。弁の君はまた、思い寄る心がなく もないので、そんな素振りを見せましたのに、ひどく無愛想なお扱いでしたので、押し じよう十・ てお訪ねになるようなこともなくなっていました。結局大将の君だけが、たいそう上手 何気ない体で親しく取り人っていらっしやるのでした。修法をおさせになると聞き じようえ まして、僧への布施、人々の浄衣などのような細かなものまでもお贈りになります。御 息所は御病気なので、御返事もようなさいません。「普通の代筆では、失礼なとお思い になりましようし、何分にも重々しいお方でいらっしゃいますから」と、人々が中し上 げますので、宮がおん返りごとをおしたためになります。お手は非常に趣があ「て、ほ もののけ ふせ えん わずら 302

5. 谷崎潤一郎全集 第27巻

笛 しよう ひさしま たりを片附ける暇もなくて、そのままそこの南の庇の間にお請じ申されるのでした。端 の方にいた女房たちが、い ざりながら奥へはいって行くけはいがしるく、衣ずれの音も、 かぐわ たぎものにお 一体の芳しい薫物の匂いも、まことに奥床しいばかりなのです。例の御息所が対面なさ って、亡き人の生前の物語などを聞え交されます。いつも御自分の御殿では、朝夕人の 出人りが繁くて物騒がしく、 いとけない君たちなどが大勢がやがやしておられるのに馴 れておいでになりますのに、 ゝに、しんみりとしています。荒れた感 ここはいたって静カ せんざい じはしますけれども、上品に気高く住みなしていらっしゃいまして、前栽の花どもの、 、君がうゑし一むら「虫の音しげき野辺」と咲き乱れていますタ映えを、お眺めになっておいでになります。 すすき虫の音のしげ わごん き野辺ともなりにけ 和琴を引き寄せてごらんになりますと、律の調べになっていまして、たいそうよく弾き るかな〔古今集〕 込んでありまして、人の移り香がしみついていて、なっかしい感じがします。こういう 場所に来合わせると、思いのままの振舞いをする浮気心の持主は、己れを制することが できないで、見苦しい素振りを見せたりして ( けしからぬ浮名を立てたりするものだ、 などと思いつづけながら、お掻き鳴らしになります。故人が常に弾いていらしった琴な のでした。面白い手を一くさりほど、ちょっとお弾きになりまして、「かのお人は、い つもしみじみと美しい音でお弾きになっていらっしゃいましたね。きっとあの音がこの お琴にも籠っているでございましよう。一曲聴かしていただきまして、確かめてみとう しげ りつ おの 267

6. 谷崎潤一郎全集 第27巻

ずん わざとらしくなくお誦じになって、お出ましになりますと、御息所が早速に イ、ことしの春は衛門 この春は柳のめにぞ玉はぬく 督が亡くなった悲し みのために、咲いた 咲きちる花のゆくへ知らねば り散ったりする花の 行くえも知らないのと申されます。大して深みのある人というのでもないのですが、風流で、才気があると でございまして、た だ柳の芽に露が玉を評判されていらしった更衣なのでした。いかさまほどよい嗜みのある方らしいとお感じ 貫くように、眼に涙 になります。 の玉を宿すばかりで ございます。「柳の 致仕の大臣のおんもとへそのまま参上なさいますと、御子息たちが大勢お揃いでいら め」の「め」は「眼」 を利かしてある っしゃいまして、「こちらへおはいりになって下さい」とありますので、大臣のおん出 ロ、柏木の父、致仕の あるじ 大臣 居の方へお越しになりました。おん主人はしばらく涙をお怺えになりまして対面なさる 、客殿 かおかたち のでした。いつ見てもお綺麗でいらっしやるおん顔形が、たいそう痩せ衰えて、お髭な やっ そ どもお剃りになりませんので、伸びに伸びて、親御のおん服の時よりも目立って窶れて いらっしゃいます。お会いになるなり我慢しかねて、あまりにしだらなく乱れ落ちる涙 の恥かしさよと、無理にも隠そうとなさいます。大臣も、わけてこの君とは大の仲好し でいらしったものをとお思いになりますと、ただもう流れに流れ落ちますのを、ようお、 止めになることができません。きりのないお話を互いに語り聞え交されます。大将の君 は一条の宮に参上なすった有様などをお話しになります。大臣はいとどしく降りそそぐ おとど こら で 25 2

7. 谷崎潤一郎全集 第27巻

柏木 つくねんと引き籠っておりますのも、例ならぬことでございますから、出仕はいたして イ、神事に関係していおりますが、そんなわけでこちらへお伺いいたしましても、立ちながらではかえって物 る者が忌中の人を訪 ねる場合は立。たま足らないように存じまして、長いこと御無沙汰をしておりました。大臣などが途方にく まで話をするのであ る。「タ顔」一三五れていらっしやる御様子を見たり聞いたりいたしますにつけても、親子の仲の歎きは申 頁参照 すまでもございませんが、御夫婦のおん間柄はまた格別で、どんなにお心をお引かれに な「 , たことやらと、御推量申し上げますとたまらない気がいたしまして」と、たびたび 涙を押し拭うて、鼻をおかみになります。際立って気高いお姿ながらも、優しくあてや かでいらっしゃいます。御息所も鼻声におなりなされて、「悲しいことは、お言葉の通 り、定めなき世の習いでございます。どのように辛くても、ほかに例のないことではな あきら いからと、年を取った者は強いて気丈に諦めているのでございますが、お若い方はすっ かり沈んでいら「しゃいまして、すぐにもおあとをお慕いになりそうな、ひょんな御様 あげく 子さえ見えますので、とかく苦労ばかりいたしました身が、今日まで長らえました揚句、 そんな具合に、あちらこちらに逆縁の悲しみを見るようになることかと、気が揉めてな らないのでございます。亡きお人とはお親しくなすっていらっしゃいましたことですか ら、自然お聞き及びになりましたこともございましよう。私は最初からこの御縁談はあ まり進んでもおりませなんだのでございますが、大臣の御執心のほども心苦しく、院も し やさ 249

8. 谷崎潤一郎全集 第27巻

わごん おと おいでになった琵琶や和琴などの絃も、みじめに取り外されたまま音も立てすに置かれ ていますのが、ほんに佗びしい眺めなのです。お前の木立ちが色づきそめて、花が時を 忘れない風情であるのを眺めながら、侍う入々もうら悲しく、鈍色の衣にやつれていま すと、寂しい、所在のない昼っ方に、花やかに先を追う声がして、この邸の前に停まる 人があります。「あ、、故殿がおいでになったのだと、ふっと忘れて思い違いをしまし た」と言って、泣く者もあります。それは大将殿がお越しになったのでした。まず案内 をお乞いになります。内では例の弁の君か宰相の君などが来られたのだと思っていまし たのに、えらくお立派に、す「きりとした御様子ではい 0 ていらっしゃいました。母屋 ひさし の庇の間にお座席を設けてお入れ中し上げます。普通の客人のように女房たちがお相手 をしますのは失礼なように思われますので、御息所が御対面になります。 ゆかり まさ 「今度の御不幸をお悼み中しておりますことは、おん由縁の方々にも勝っているのでご ざいますが、他人が立ち入って申し上げる術もありませんので、世間並みの御挨拶にな ってしまいました。い まわの折にも仰せ遺されたことがございますので、おろそかには 存じません。誰も死ぬのを延ばすわけには行かぬ世の中でございますが、自分の命があ ります間は、気がっきましたことだけはさせていただいて、志のほどをも御覧に入れた わたくしごと いのでございます。この頃は神事などが多うございますので、私事の悲しみのために こどの さふろ はす まろうど にびいろきぬ 248

9. 谷崎潤一郎全集 第27巻

柏木 ちも優しく、失礼なことがないようにして上げていらっしゃいましたので、宮としては 格別恨む節もありません。ただこのように寿命の短いお人だ「たので、妙に夫婦仲のこ とに興味をお持ちになれなかったのであろうなどと思い出し給うと、悲しくてたまらず、 みやすどころ 、内親王が臣下と結塞ぎ込んでいらっしやる様子も、大層お気の毒なのです。母御息所も、人笑いになりは 婚して間もなくその 夫に死なれたことをせぬかと口惜しくて、この上もなく歎いていらっしゃいます。父大臣や母北の方などは、 さす はず まして言いようもなく、自分こそ先に死ぬべきだった、世の中は何という道理に外れた こが チ、女三宮 意地の悪さであろうと、泣き焦れ給うのですが、何の甲斐もありません。尼宮は、身分 柄を弁えぬ人の心の嫌らしさに、長生きをして貰おうとは思ってもおりませなんだもの ふびん の、かようになったとお聞きになりましては、さすがに不憫にお感じになります。若君 、「若菜」下一六九のおんことを、故人が正しく自分の子であると思っていたのも、なるほどこうなるはず 頁で柏木が「それで も今にお臥い当りに の約東事があって、あんな意外な歎かわしい事件が起ったのかも知れないとお考えにな なることもございま しよう」と言。たこりますと、さまざまのことが心細くて、つい泣いておしまいになります。 とをうけている 三月になりますと空の景色もうららかで、この若君も五十日のほどにおなりなされ、 たいそう色白で可愛らしく、日数のわりには御成育なされて、ロなどおききになります。 大殿もお渡りになりまして、「御気分は爽かになられましたか。でもまあ張合いのない ことですね。これがいつものお姿でいらっしやって、かようにおなりになったのでした ふさ やよい まさ さわや 241

10. 谷崎潤一郎全集 第27巻

特別にお扱いになりますので、女御も、そうまでになさるのはあんまりなと、嫉妬の心 をお起しになりました。何かにつけて心が穏かでなく、行き違いが起ったりしまして、 自然おん間柄が隔たって行くようなのです。とかくそういう場合には、下々の女同士の さカ 諍いでも、もともと筋の通っている本妻の方に、事情を知らぬ一般の人々も味方をする にきまっていますので、院の内でも上下の者が、年久しく貴い御身分でいらせられるお ん方にばかり道理があるように考えて、ちょっとしたことにも御息所を悪いように取っ はらから たりしますので、いよいよおん兄弟の君たちも、「だからこそ、おためを思ってああ申 いまいま したのではございませんか」と、一層さように申されます。前の尚侍の君も、 しく聞き苦しくて、世にはこういう心配をせずに、気楽に、体裁よく暮して行く人も多 いのではないか、よほど好運に生れついた者でなければ、宮仕えなど思い寄るものでは なかったのだとお歎きになります。そういえばむかし、姫君に言い寄った人々も、随分 出世して、あの時許して上げておいたら、相当な婿君におなりになったかと、悔まれる きやしゃ ようなのが大勢あります。中でも源侍従と言って、いたって若く、華奢に見えた人は、 イ、これは薫が十九歳今は宰相中将で、「匂うよ薫るよ」と聞き苦しく持て囃されて、騒がれていますとか。 の時のことである。 「匂宮」四四七頁参いかさま人柄も重々しく、奥床しくて、やんごとない親王たちや大臣などが、おん娘と 照 の御縁をお望みになったりしましても、なかなか承知しないなどという噂があるにつけ にお かお かみしも はや しもじも くや 512