からは、都に変ったことでもなければ、自分の方から人を差し上げたこともありません。 こちらから使いをお下しになった時にだけ、それにつけて、一筆でも尼君のもとへ折ふ くら しの音ずれをしていましたが、い よいよこの世にあとを晦ます最後の時となりましたの で、文をしたためておん方に参らせられました。 「この年ごろは同じ浮世のうちに暮しておりましたけれども、何の、こうしているとは 申せ、己れはあの世に生れ変ったようなものだという気になりまして、さしたることも ございません限りは、おたよりも申し上げませなんだ。仮名がきの文は読むのに暇がか むやく かりまして、念佛を怠るようになり、無益なので、おん消息も差し上げないでおりまし あが たが、入づてに承れば、姫君には春宮にお上り遊ばされ、男御子が御誕生になりました とやら。深くお喜び中し上げます。と申しますのは、自分はこういうつまらない山伏の 身で、いまさらこの世の栄華を思うのでもございません。今日まで長の年月のあいだ、 未練がましく、六時の勤めにも往生の願いをさし置きまして、ただあなたのおんことを 、いにかけ、お祈り申し上げていたのでございます。あなたがお生れになろうとしていら っしやった、その年の二月の夜の夢に、自分は須弥の山を右の手に捧げておりました、 山の左右から、月と日の光が鮮かにさし出でて世を照らしています、自分は山の下の方 の蔭に隠れておりまして、その光には当りません、山を廣い海の上に浮かべておいて、 ふみ
若菜下 た我が身であることよ、なるほど殿のおっしやったように、 人と違った仕合せな宿世も 持ち合わせた私でありながら、女としては怺えられない、満足しがたいこの物思いを捨 て去ることができないなりに、世を終らねばならないというのは何たるあじきないこと よ、などと思いつづけながら、夜が更けてからお寝みなさいますと、その明け方からお 胸が痛くおなりになりました。人々は御介抱申しながら途方にくれて、「殿にお知らせ 申し上げましよう」と申し上げますのを、「それは心ないことです」とお制しになりま して、堪えがたい苦しさを強いて抑えてお明かしになります。お体も熱があって、御気 分もひどく悪いのですが、院も急には帰っておいでになりませんのに、こちらからはこ うとも知らせて上げないでいます。女御のおん方からおん消息がありましたので、「こ れこれの容態で悩んでおりまして」と仰せられましたので、お驚きになりまして、そち らから知らしてお上げになりますと、胸のつぶれる思いで急いで戻っていらっしゃいま したが、御病人はたいそう苦しそうにしておいでです。「どんなお心持ですか」と触っ てごらんになりますと、非常に熱がおありになりますので、昨日お話しになっていらし やくどし った厄年のことなどをお思い合わせになりまして、気味悪くお感じになります。お粥な どをこちらの御殿へ運んで来て、大殿に差し上げましたけれども、振り向いてもごらん にならす、日一日附き切りで、万事のお世話をお焼きになって御心配なさいます。御病 おさ こら さわ かゆ 15 7
タ にんす 当日は、御自分は一条のガにいらっしやって、お迎えの御車や入数などを差し上げら れます。宮はどうしても行くのは嫌だと仰せになりますのを、女房たちが熱心におすす め申し上げ、大和守も、「それは決して御承引申しません。お心細く、寂しそうにして このほどじゅうの御奉公は、できるだけは いらっしゃいますおん有様のお傷わしさに、 いたして参りました。もはや任国の方の用事もございますので、下向いたさなければな りません。後々の御殿のお世話を引き継いで下さる人も見当らず、どうしたらいいカ えらい不都合なことになったと存じておりました折柄に、こうしていろいろと面倒を見 て下さいますのは、なるほど何かの思召しからだと考えますと、必ずしもお勧め申せる ようなおんことではございませんけれども、しかし昔も、お心ならずも御再縁なされた ためし 例が多くございます。何でこちらの姫宮お一方を世間がお悪く申しましようぞ。それは あまり子供らしいお考えです。どのようにしつかりしていらっしゃいましても、女のお ん身一つで、どうして御自分のことを始末したり、分別したりなさることができましょ あが いお考えや賢い御思慮も、 う。やはり大切に崇めかしずき給うお方に助けられてこそ、 それにつれて出て来るのでございます。いったいお側の方々が、ここの道理をお聞かせ 申し上げないという法はありません。一方ではけしからぬおん文の取次ぎなどを、御自 分たちの一存でなさり始めておきながら」と言いつづけて、左近や少将を責めるのです。 すす 355
若菜上 ロ、明石の上をさす を頼みにして、あんなに一徹に自分を婿に欲しがったのだな、自分が思わぬ憂き目を見 て、田舎にさすろうて行ったのも、この姫君一人を儲けるためだったのだとお思いにな りますと、入道の起した願というのはどんなことなのか知りたくなって、心の中で拝み イ、同様に、明石の姫ながら取って御覧になるのでした。そして女御には、「これにはまた添えて差し上げる 君についての源氏自 身の願文があるのをものもございます。ただいまじきにそのことも申し上げましよう」と仰せられます。そ のついでに、「これで昔のことどもがお分りになったわけでございますが、それにつけ ても対の上の心づくしを、おろそかにお思いなされますな。もともと親しかるべき仲の、 なさけ 切っても切れない親子や兄弟などの睦しさよりも、他人がほんの上べだけでも情を示し、 ひとこと やさ 一言でも優しい言葉をかけるということは、よくよくの志です。ましてこちらにはこの 人が附いておいでで、お世話を申し上げておられますのに、それを見ながら最初の心持 まま を変えず、深くねんごろにしておいでなのです。世の中の継しい間柄の例を見ても、 『うわべだけは親切そうにしてくれる』と、継子が小ざかしい推量をしますのは、利ロ のように見えますけれども、やはり間違っても、自分に対して内心では邪慳な継母を、 そうとも気づかず表裏なく仕えていましたら、しまいにはかえって哀れを催して、こん なに優しくしてくれる子にと、気が咎めるままに、田 5 い直すこともありますでしよう。 なみなみならぬ昔の世の正直な入々は、仲違いをしましても、どちらにも罪がなかった がん とが ままこ じやけん
タ いとおしくて、 に相済まぬことをした、せめて今日は御返事だけでも上げないではと、 すずりす 何でもないような顔つきで硯を磨りながら、どのようにしてしまったという風に取り繕 おまし ったものかと、考えていらっしゃいます。と、女君の御座の茵の、奥の方が少し持ち上 っていますので、試しにめくってごらんになりますと、そこに挿し込んでありましたの で、嬉しくもあれば馬鹿々々しくて、笑みを漏らしつつお読みになりますと、あの心外 なお歌の文句なのでした。はっとして、さてはあの晩泊めていただいたのを、何かわけ があったようにお聞きになったのだとお思いになりますと、お気の毒なやら立っ瀬がな いやらで、さぞ昨夜あたりも待ち明かしていらしったであろう、今日も今までおたより も差し上げなかったとはと、申しわけなくお感じになります。見るからに病苦を忍んで、 しどろもどろにお書きなされたらしいお筆の跡なのは、よくよくお胸に思いあまったか らなのであろう、今宵も空しく待ちくたびれて夜をお明かしになるのだとすると、全く つら 何とも申し上げようのない気がしますので、いまさら女君が辛く憎らしく、どうしてあ んな役にも立たぬいたずらをしたのであろう、いや、これも自分の躾が悪かったからな のだと、さまざまに自分の身も恨めしく、すべて泣きたい心地がなさいます。すぐにも お出かけになりたく思いながら、行っても宮が快くお会いになっては下さらないであろ うし、そうかといって御ま所はああおっしやるし、何としたらいいであろうか、あいに むな しとね しつけ 331
梅 紅 、。ほかの子たちと同じようにして差し上げましょ 上げて、私にも相談なすって下さ う」と、母北の方にも申されるのですけれども、「そんな世間並みな考えなどは、さっ ばりないらしゅうございますから、なまなかな縁組などは可哀そうでございましよう。 まあ御当人のおん宿世に任せることにして、私が生きております限りはお世話中しまし よう。わが亡き後はどういう風になりますか、それを田 5 うと心もとのうて、悲しくなる あま のでございますが、尼になるなりして、何とか人に笑われるような間違いもなしに、お 過しになるようにと願っているのでございます」などと泣いたりしまして、非の打ちど ころのない御性質のことなどを申し上げられます。 ままこ 殿としましては、継子と実子の区別をなさらず、どなたに対しても親と思っていらっ しやるのですが、一度お姿を見たいとお思いになりまして、「そうお隠れになるのは水 臭いではありませんか」と限みを言って、ひょっとお見えになることもあろうかと、人 のぞ 知れずそのあたりをお覗きになったりしますけれども、なかなか、絶えて片端をさえ御 そば 覧になることができません。「母上がお留守の間は、私が代りにお側へ参って見て上げ うとうと なさけ なければなりませんのに、そう疎々しく分け隔てをなさいますのは情ないことです」な どとおっしやって、御簾の前におすわりになりますと、おん答えなどは仄かになさいま きれい す。お綺麗な、品のいいお声をしていらっしゃいますので、姿形が思いやられて、お人 みす うら じっし ほの 45 9
まか 側近くへ参りません。人々が退り出て、あたりがひっそりとした時分に、「近頃春宮の 方の御用は、少しお暇にな「たと見えるね。毎日のようにお召しにな「ていらしったの じゅだい に、姉君が人内されてからは、お株を取られて体裁が悪くはないかい」と仰せになりま すので、「あのようにお召し出しに与りますと、忙しゅうて困ります。でも、こちらの 宮様のお前になら」と申し上げかけて、黙「ていますと、「姉君は、私を人らしくも思 っておられなかったのだそうだね。なるほどそれももっともなことだ。しかし私は我漫 イ、自分も、東の姫君がならない。同じ血筋で変りばえがしないけれども、東のおん方と聞える人に、互いに も、ともに皇族であ るからである 思い合うような間柄にな「ていただきたいと、こ「そりお伝え申しておくれ」などと仰 せになりますので、いい潮だと思って、例の梅の花を差し上げますと、につこり笑「て、 「限みを言ってしま「てからだと、しいことになったものを」と、下にも置かず御覧 になります。枝ぶりと言い、花房と言い、色も匂いも普通にあるのとは違っています。 かお 「園に咲く紅梅は、色に取られて白い梅のような薫りがないというけれども、これは見 事に二つながら兼ね備えて咲いたのだね」と仰せにな「て、もともとお好きな花ですか しようがん ら、大層よろこんで賞翫なさいます。 「今夜は宿直をするのであろう。このままここに泊っておいで」と、閉じ籠めておしま いになりましたので、春宮にもようお伺いせず、花も恥じらうような匂いのするお側近 との しお あすか くや 464
タ ごめ り固めて、妻戸を設籠の戸を両方とも開けて、そこからお渡りになります。 けてある室で、衣服 調度類を納めたり、 御息所は、御病苦の中でも並々ならず恭しくお扱いになります。平素の御作法をあや 寝室に用いたりす る。ここでは人目にまたず、身をお起しになりまして、「えらく取り乱しておりますので、お越しを願うの つかないように、普 通の通路でない所をも心苦しゅうございます。この二三日ほどお顏を拝みませんのが、長の年月のような気 経て行くために、塗 籠のこちら側とあち持がいたしますのも、さすがに心細くてなりません。後の世でも必ずお目にかかれると ら側と両方の戸を開 は限りますまい また廻り遇うとしましても、前世のことは覚えているはずもありませ けて、そこを通って 行くのである んから、 , 何の甲斐がございましよ、つ。 考えてみれば、瞬くびまに互いに遠く隔たってし まう世の中ですのに、今まであまりお親しくいたしましたのが、かえって悔しゅうござ いまして」などとお泣きになります。宮も悲しいことばかりが一途にお胸に込み上げま すので、何も申し上げ給うこともなく、ただ見守っていらっしゃいます。たいそう内気 な御本性でいらっしゃいます上に、そうはきはきと中し開きをなさるべきことでもあり ませんので、きまり悪そうにばかりしていらっしゃいますのがあまりにもおいとおしい みあかし ので、一体どういうことがともようお尋ねになりません。急いで御燈火などを差し上げ たり、お食事などをこちらで参らせたりなさいます。ものを召し上らないとお聞きにな りまして、何やかやと手ずからお料理をし直しなどしてお上げになりますが、箸をおっ けにもなりません。たた母君の御容態のよろしいのを御覧になりましては、少し胸を撫 くや 323
になることはさらにありません。どういう折に思いのたけを正面から申し上げて、当の みけしき おん方の御気色をうかがうことができようかしらんと、考えつづけていらっしゃいます イ、比叡山の西の麓と、御息所が物怪のためにひどくお患いになりまして、小野というあたりに山荘を持「 きえ ていらっしゃいましたのへお移りになりました。昔から帰依しておられた祈疇僧で、前 ちょうふく こも にも物怪などを調伏したことのある律師が、山に籠って里には出ないという誓いを立て えいざんふもと ましたので、幸い叡山の麓に近い所ですから、そこまで下りて来て貰おうというおつも りなのでした。お出ましの御車を始めとして、お供の入数などは、大将殿から差し上げ 。、柏木の兄弟たちられます。故人と近い縁につながる君たちは、かえ「てめいめい自分たちの仕事の忙し 、紅梅 さに紛れて、よう思い出してもお上げになりません。弁の君はまた、思い寄る心がなく もないので、そんな素振りを見せましたのに、ひどく無愛想なお扱いでしたので、押し じよう十・ てお訪ねになるようなこともなくなっていました。結局大将の君だけが、たいそう上手 何気ない体で親しく取り人っていらっしやるのでした。修法をおさせになると聞き じようえ まして、僧への布施、人々の浄衣などのような細かなものまでもお贈りになります。御 息所は御病気なので、御返事もようなさいません。「普通の代筆では、失礼なとお思い になりましようし、何分にも重々しいお方でいらっしゃいますから」と、人々が中し上 げますので、宮がおん返りごとをおしたためになります。お手は非常に趣があ「て、ほ もののけ ふせ えん わずら 302
紅 あきら ことはできないであろう、そうかといって、最初から諦めて卑下していたのでは何の甲 、タ霧は右大臣 ( 「匂斐もないであろう、春宮には左の大殿の女御が、並ぶ者もない有様で御寵愛を受けてい 宮」四三八頁 ) から 左大臣に昇進していらっしやるので、ここもなかなか張り合うことはむずかしいけれども、でもそうばかり る 言っていられようか、人並み以上になるようにと思う娘を持ちながら、宮仕えを断念す るのは本意ないことだとお思い立ちになりまして、結局そちらへお上げになります。そ れは十七八におなりなされる一の姫君で、美しい、可愛らしい感じのお方なのです。っ づく中の姫君も、上品で、優雅で、落着きのあるところは姉君にも勝って、風情に富ん ただびと でいらっしゃいますので、尋常人の妻にするのはもったいなく、気がすすみませんので、 = 、匂宮 兵部卿宮が御所望にならないものかしらん、などと思っていらっしゃいます。と、宮は ホ、真木柱の腹の男子この大納言の若君を、宮中でお見つけになりますと、お側に召して手なずけ給うてお遊 び相手になさいます。利ロそうで、行く末さぞと推し測られる眼つきや額つきをした少 年なのです。「弟と仲よくしただけでは物足りないと思っていると、大納言に申せよ」 などと仰せかけられますので、その通り父に伝えますと、父の大納言はにこにこして、 おく 願っていた甲斐があったと思っていらっしゃいます。「宮仕えをして人に後れを取るよ りも、みめ美しい娘であったら 、いっそこの宮に差し上げた方がよさそうだ。ああいう お方を精一杯お世話申し上げたら、きっと寿命が延びることであろう」とおっしやって おおいとのにようご まさ ふぜい 45 7