もも今日は咎めようともしません。ほんにあの時が最後のおん別れであったものを、意 地悪くお人れ申さないでしまったのだと思い出すにつけても、時方はおいとおしゅう存 じ上げます。あるまじき恋慕にお胸を焦がしていらっしやることと、日頃は苦々しくお 眺め中していたものの、ここへ来てみれば、お通いになった夜な夜なの宮のおん有様、 抱かれ給うて舟にお乗りになった女君のけはいの、上品で美しかったことなどを思い出 しますので、しみじみと悲しみに打たれない者はないのです。右近が会いに出て、はげ こうむ しく泣きますのも道理なのです。「かようかようの仰せを蒙ってお使いに参りました」 ほうば、 と言いますと、「今になって、朋輩たちに変に思われるのもいかがでございますし、お 伺いいたしましたところで、納得なさいますようなはきはきしたことなどは、中し上げ られそうもない心地がいたします。このおん忌が明けまして、『ちょっと用足しに』な どと申しましても、そんなにおかしく聞えないようになりました後に、もし田 5 いのほか に生きながらえていたとしまして、少し気分が落ち着きました折などになら、たとい仰 せがございませんでも、お伺いさせていただきまして、ほんにただもう夢のようであっ たことどもなども中し上げとう存じますが」と言いまして、今日は動きそうもありませ ふたかたさま ん。時方も泣いて、「お二方様のおん間柄につきましては、一向に詳しくも存じ上げず、 わきま ものの道理なども弁えぬ者でございますが、並々ならぬお志のほどを存じ上げておりま 454
いましたのですが、それとも聞き違いだったのかどうか、伺いたくてはいって参りまし なさけ た。そう餘所々々しくお扱いになれるはずはございますまいに、お清ないお仕打ちです ね」とお恨みになるのですが、返事をする気にもなれず、あまりなことに憎くさえなっ て来ますのを、強いて取りしずめて、「とんでもないお心でいらっしやるのですね。女 房たちがどのように思いますやら。まあ、呆れ果てた」と窘めて、泣きそうにしていま すのが、少しはもっともに思われますので、気の毒ではあるのですけれども、「これほ どのことが、どうだとおっしやるのでしようか。これぐらいの対面なら、あのいっぞや の一夜のことを思い出して下さいまし。亡きおん方のお許しもありましたものを、ひど いお扱いをなさいますのはなかなかお恨みでございます。でも失礼な婀娜めいた料簡は ないのだと、安心していらしって」と、精々落着きをお示しになりながら、月頃悔しさ を怺え通していた胸の中が、苦しいまでになって行く有様を、つぶつぶと言い続け給う けしき て、許す気色もありませんので、何としていいかも分らず、迷惑どころの段ではありま せん。かえって気心を知らない人よりは、知っていらっしやるお方だけにきまりが悪く 腹立たしくて、泣いておいでになりますのを、「これはどうなすったというのです。あ いとおし まり子供じみています」とは言いながらも、たとえようもなくいじらしくも、 いっぞやから見るとすっか くも思うのですが、お嗜みの深い、奥床しい御様子などの、 こら よそ あき たしな 218
な家で退屈しながら明かし暮していました折から、昔語りも聞かしてくれそうな入が訪 ねて来た嬉しさに、呼び人れてお会いになるのでしたが、自分の親でいらっしやるお方 のお側にお仕え申していた人だと思うと、なっかしい感じがするのでしよう。「いっぞ しの や人知れずお目にかからしていただきましてからは、お偲び申し上げない折はないので ございますけれども、こうまで世の中を捨てました身は、あの宮のおんもとにさえお伺 いもいたしませんのに、あの大将の君がしきりにおせがみになりますものでございます から、とうとう思い立ちまして」と申します。姫君も乳母も、かねてお立派なお方であ るとお拝み申していたお人が、お忘れにならないでそうおっしやって下さるのを、嬉し くは思うのですけれども、こう突然に何か計画なすったことがあるのだとは、田 5 いも 寄りません。と、宵を過ぎた頃に、「宇治から参った者でございます」と言って、忍び やかに鬥を叩きます。さてはと思って、弁が開けさせますと、そのまま車を引き人れて 来ます。乳母が訝しんでいますうちに、「尼君にお会い中したいのでございます」とい うことで、わざとあの山里に近い荘園の、番人の名を名のらせ給うので、弁が戸口にい ざり出ます。雨がばらばらと打ちそそいで、ひいやりした風が吹き込むのと一緒に、一「 たえかお いようもなく妙な薫りが匂って来ますので、君がお越しになったのだなと、誰も彼も胸 をときめかすのでしたが、そういう結構なおんけはいに対して、一向何の設けもしてな あや 337
りませなんだので、すぐにもおあとを追いそうに泣き沈み給うのでしたが、こればかり あとあと じようみよう は定命ですから、何の甲斐もありません。阿閣梨が、年頃承っていましたので、後々の おん佛事なども、万事お勤め中します。「お亡くなりなされたお姿をでも、今一度お拝 み申したい」と仰せになるのですけれども、「いまさらさようなことはあるまじきこと でございます。このほどじゅうも、もうお会いになりませんようにとお止め中し上げて いたのでございますものを、ましてお薨れになりました上は、互いにお諦めになるよう なお心づかいにお馴れにならなければいけません」と、そんな風にばかり中し上げます。 御参籠中のおん有様をお聞きになりますにつけても、あまりにも悟り切ったこの阿閣梨 ひじり′」ころ の聖心を、憎く展めしくお思いになるのでした。出家をなさりたいというお志は、昔か ら深くおありになったのですが、代ってお世話申し上げる人もありません姫君たちを、 ようお見捨てになりませんままに、生きながらえている限りはお側を離れず面倒を見て お上げになりますのを、心細い世の慰めになさりながら、それに絆され給うてお過しに なりましたのに、生死の道は先立ち給うお方も、後にお残りになるお方も、ともにまま くちお ならぬものなのでした。中納言殿は知らせをお聞きになりまして、あっけなく、口惜し く、今一度心静かに申し上げたいことどもがたくさん残っていたようにお感じなされて、 おしなべての世の有様も思いつづけられて、たいそうお泣きになります。「もう会えな
います。それでもてたりはせずに、しなやかに衣摺れの音をさせて、体裁よくおん茵 などをさし出します。「ここに控えているようにとおっしやって下さいますのは、人ら しいお扱いをしていただいているようで、嬉しい心地もいたしますが、やはりこういう 御簾の外へお隔てになる恨めしさに、始終はお伺いもしかねております」と仰せになり ふるな ますと、「ではどのようにいたしたらようございましよう」と中します。「こういう古馴 きたおもて 染が伺いましたら、北面のような内々のお部屋でこそ、休息さしていただくべきです。 それもお心一つにおありになることですから、不服がましく中すべきでもございますま しきい 閾のところにつ いい」と仰せになって、長押に倚り添っておいでになりますと、例のお側の人々が、「や ている下長押のこと はりあそこまで御挨拶にお出になりましたら」などと、おすすめ申し上げます。もとも と気短かな荒々しいところなどはおありにならないお人柄なのが、なおその上にも慎み 深くして取り澄ましていら「しゃいますので、女君も今はじきじきにお話しになります ことを、そうむやみに遠慮なさらないようになりまして、ようよう少しずつ親しみを感 じておいでになります。「お加減が悪いと伺いましたが、どうなさいましたか」などと お尋ね申されるのですけれども、はかばかしいおん答えもなさらず、常よりも沈んでい らっしやるらしいけはいもいとおしく、お胸の中も推し測られ給うてお可哀そうなので、 世の中はこうしたものたなどということを、こまごまと、兄妹であったらこうもあろう じみ げ うちうち ぎぬす はらから つつし しとね 189
中します。田舎にふさわしい風流なもてなしなどをするのでしたけれども、子供心には、 何となく気持が落ち着かないで、「せつかく仰せを受けまして、お使いに参りましたし るしに、帰って何と申し上げたらいいのでしよう。どうか一言だけおっしやって下さ い」などと言いますので、「ほんにごもっともで」などと言って、「こうおっしやってお いでですが」と取り次ぐのでしたが、やはり何とも仰せられませんので、仕方がなくて、 「ただこの通りおばっかないおん有様でいらっしゃいますと、おっしやってお上げにな イ、引き歌不明。京かりますよりほかはございますまい。『雲のはるかに隔たらぬ』ほどの所でございますか らそう遠くない所だ から、という意であら、山風が佗びしく吹きましようとも、どうか必ずまたいらしって下さいまし」と言い ろう ますと、もう何の用もないのに、ばんやり長居をしていますのも具合が悪いので帰って 行きます。人知れず慕っていました姉君に、とうとう会えないでしまいましたのが、歯 がゆくちお 痒く口惜しくて、不満に思いながら戻って来ました。今か今かと待ちこがれておいでな された殿は、そんなわけでたわいがなく帰って来ましたので、すっかり興がさめて、な まじ使いをお出しになったことが恨めしく、いろいろに気をお廻しになったりしまして、 かくま 誰かがあそこに匿っているのではないかなどと、御自分がかってかの山里へ、抜け目な くお隠しになって捨てておおきになりました経験から、そうも考えていらっしゃいます とやら。 596
利口がっても、ひどく皺だらけな年寄りになっているのだから、私が死んだらどうなる であろうと、思いやり給うにつけても哀れなのです。せめて、もう世の中にいられない ようになった仔細を、よそながらでも知らしておやりになりたいのですが、そうお思い あふ になる途端に言葉より先にどっと溢れて来そうな涙を、怺えようとなさるところから、 ものを言うこともできません。右近がお側近く寝かしていただくと言って、「そんな風 あくが に考えごとばかりなすっていらっしゃいますと、物思う人の魂は体の外に憧れ出るもの と中しますから、夢見もお悪いのでございましよう。どちらかお一方におきめになりま みずか して、後は御運にお任せなされませ」と打ち歎きます。おん自らは萎えた衣を顔に押し あてて臥せっておいでになりましたとやら。 しわ きぬ 430
イ 意 なくて、何か自分との関係が原因であるかのように思うであろうなどと、いろいろと不 びん 憫にお思いになります。 この家で亡くな「たのではありませんから、穢れということはないわけですけれども、 イ なえ みくるましじ 、車の轅を載せるお供の人々の手前もありますので、家にはお上りにならないで、御車の榻を取り寄せて、 台。それへ腰をかけ るのである。喪中の妻戸の前に坐「ていら「しゃいますのが何だか体裁が悪いので、こんもりと繁「た木の ところへ行った時は しとね 上らないで、こうす下に、苔をおん茵にしてしばらく休息なさいます。もうこれからは、この傷ましい田 5 、 るのが一般の例だと 出の上地に来て見る気にはなれないであろうと、あたりを見廻し給うて、 ふるさと 昔住んでいた方々 我もまた憂き故郷を荒れ果てば がっさっ」にいな くなり、私までがま たれやどり木の蔭をしのばん た、この憂い辛い思 りつし 、出のある里を捨てあの頃の阿閣梨が今は律師にな「ていました。それを召して、あとあとの法事のこと 去って荒れるに任せ てしま「たら、誰がをお命じになります。念佛の僧の数をふやしたりなさいます。自害は罪が深いものであ きようほとけ この宿を追懐する者 があろうか。「故郷」るからとお思いなされて、それを軽くするようにと、七日々々に経佛を供養することな はここでは生れ故郷 どを、こまごまと仰せつけになりまして、たいそう暗くなってからお立ち出でになりま の意味ではなく、自 分がかって住んだこ すにつけても、もし生きていたら、今宵あたりはこのまま帰りはしないものをと、そん とのある土地の意。 「やどり木の蔭」は なことばかりお思いになります。尼君にも消息をお遣わしになりましたが、「もうほん 「宿りをした所」の とうに忌まわしい身だと存じまして、引き籠ったきりでおりますので、いよいよものも けが しげ 464
君のように扱って人らしい住居に住まわせておいて上げたら、宮もかようなおあしらい はなさらないであろうものをなどと、なおさらお可哀そうにお感じになります。自分も 生きながらえていれば、しまいにはこういう目を見なければなるまい、中納言の君があ あのこうのと言い寄り給うのも、人の気を引いてみようとしていらっしやるのだ、自分 だけはいくら相手にしないつもりでも、言い逃れるのにも際限があるし、女房たちが性 懲りもなく取持ちをして何とか縁を纒めるようにしているのでは、、いならずも結局そう されてしまうであろう、さればこそ亡き父宮が、独り身を守って行くようにと返す返す 仰せになったのは、こういうことがないようにとのおん教えであったのだ、いかにも果 ったな 」よう」い 報の拙い身なればこそ、親たちにもくお別れするようになったのに、姉妹ながら同じ ように阯の物笑いになるようなことをしでかしたら、草葉の蔭のおん方にまで歎きをお かけ中すのがもったいない、やはり私だけはそういう浮いた苦労をせず、あまり罪など を重ねないうちに、何とかして死んでしまいたいとお考えしずみになりますと、心持も もうほんとうにお苦しいので、召上り物もさつばりお取りにならず、ただ亡くなった後 のことどもを明け暮れ田 5 いつづけ給うのですが、何ということもなしに、い細く、妹君を 御覧になりますにつけても心苦しく、私にさえ先立たれておしまいになったら、どんな にたまらなく寂しいであろう、今まではあの惜しいほど美しいお姿を見ては朝夕慰めら しよう 112
浮舟 がそれを聞きつけてお前に参りました。でもお帰りになろうという気持にはなれず、 つまでもしみじみと残り惜しく、再びお越しになりますこともむずかしいので、よしゃ 都で自分の行くえを捜し求めて騒いでいようとも、今日だけはここにこうしていよう、 イ、恋ひ死なんのちは何事も「生ける限りのため」ではないか、このまま別れを告げたのでは、恋しさに死ん 何せん生ける日のた めこそ人は見まくほでしまうであろうとお思いになりますので、右近を召し寄せて、「ひどく分別が足りな しけれ〔拾遺集〕 い者になりそうだけれども、今日は帰ることができそうもない。供の者どもはこのあた こも ときかた うま ロ、宮の家司の名 り近い所に、巧く隠れて待っているように。時方は京へ帰って、山寺に籠っているとで も、しかるべく言「ておいてくれるように」と仰せになりますので、これも始めて心づ しっさく ぼうぜん いて茫然としながら、不注意であった昨夜の自分の失錯を思いますと、狼狽するばかり なのですが、じ「と取り静めて、もうこうなったらいくら騒いでみたところで何の甲斐 もないことだし、失礼でもある、この間二条院でああいうことがあった折に、すっかり 打ち込んでおしまいにな「たというのも、結局こうならずにはいらっしゃれないおん宿 世だったのだ、誰のせいというわけでもないのだと、我と我が心を慰めながら、「今日 は母君が迎えを上げるということでございましたが、どうなさいますおつもりでいらっ しゃいましようか。お逃れになれない御宿縁がおありになりまして、かようにならせら れましたことは、とやこう中し上げようもございません。でもほんとうに折が悪うござ のが ろうば、 369