直ぐにも「うん」と云ふであらうと、共れを樂しみにしながら今日までもじもじと躊躇して居るのである。 「承知はするに極まって居る」と信じつ、、どう云ふ風に切り出したものかと、毎日考へ暮らしては相手 の素振りを窺って居る。 けれども肝腎のお才の方は、巳之介に對して一向そんな態度は見せない。撥ねっ返りと云ふ評判は、兩國 邊の人々が本人のロ眞似までして頻りに取り沙汰するけれど、到底本嘗とは思はれぬほどにしとやかであ る。猫を冠って居るのだらう、そのうちには化けの皮が剥げるだらうと、巳之介は内々期待して居るのに、 いっ迄立っても容易にそんな気はひは見えない。色を賣るのを商賣にする遊女に對してさへ、何だか秘密 がありさうで打ち解け難く思はれる巳之介には、猶更素人の女の腹は諒解しかねて、うつかり云ひ寄る術 おぼしめ さつぎ もなかった。「若旦那はあのお才に思召しがあるのでせう」と先卯三郎に道破された時、さては餘所目に おもひ も判って居たか、卯三郎に気が付く、らゐなら、定めし本人のお才にも念が屆いて居るだらうと、甚だ心 細い事を便りにして、彼は嬉しさのあまり笑ひ崩れたのである。さうして、今日までぼんやりと腦中に潜 んでゐた戀慕の情が、俄に激しく燃え上って、もはや一日も制し切れない程に切迫して來たことを感じた。 「ねえ卯三どん、實は彼奴を口説いて見ようと思ってるんだが、どうも素人と云ふ奴はまだ一遍も手がけ た事がないもんだから、何だか勝手が違ふやうでちょいと閉ロして居るのさ。成る程悧巧な女かも知れな 介 之いけれど、表面は馬鹿に大人しいから、迂濶に冗談も云 ~ やしないぜ」 才巳之介は「素人を口説く法」に就いて、密かに教を乞ひたいのであるが、下手に出るのもいまいましいと お 考へたのか、こんな負け惜しみを云った。 うはべ したて よそめ 125
く闇に吸ひ取られて消えて了った。 去年の夏の花火の宵に、卯三郎と二人で屋形船の屋根へ倚りながら、川面を吹く涼しいタ風に樂しい戀を 語り合った事を、お露はふと想ひ出した。その晩の賑はひに引き換へて、兩岸の家々も室も川も死んだや うに暗く淋しく、吾妻橋と厩橋の橋下を潜った事だけは判って居たが、見覺えのある駒形堂も見返りの松 もいっ通り過ぎたか知らぬ間に、もう兩國を出て竪川筋へ漕いで這人った。 「お露ちゃん、お前は此の川を覺えて居るだらう。一昨年の夏四つ目の牡丹を見に行く時に、金龍山の米 まんちゅう 饅頭を船から落してお前がをかしがったのは、何でもちゃうど此處邊だぜ」 二つ目の橋を通る時分に、巳之介は小さな聲で慰めるやうに云った。彼はいつものお喋舌りにも似合はず、 どうしたものか妙に沈んで默って居たが、それでも張合ひのない調子で漸くこんな冗談を云ったのである。 「逆井まではまだどのくらゐあるのでせう。 私や何だか知らない所へかどはかされて行くやうで、 、い細うございますよ」 今頃内では女中達が眼を覺まして、大騒ぎをして居ないだらうか、此れ程の思ひをして逃げて來た自分の 體は、果してどうなる事であらう。悧巧で、猫冠りで、ロが上手で、心の底は案外つめたい卯三郎が、自 分を片田舍の百姓家へ連れて行って、いっ迄可愛がってくれるだらう。 ・ : お露は胸が一杯になって、 介 之 まごまごすればお腹の子供と一赭に死ぬばかりだと覺悟をきめて居る。 巳 才四つ目の橋を過ぎてから、左右の人家はだんだん疎らになって、夜目にもひろびろとした葛飾の野を吹き 越えるしめやかな風が、姐さん被りの手拭にはたはたと打ち着ける。いっ歸れるか解らない大江戸の街の ねえ よね 221
ある。既にいっぞやの證文が發覺して、二百兩の手切れ金を絞られた當座、兄の善兵衞は立腹のあまり巳 之介を勘當するといきまく事があったのを、漸く隱居が仲裁してどうやら今日まで收まって來たくらゐで ある。若しもその後再びお才と私通して居る事實が曝れたら、どんな始末になるかも知れぬ。「お前のや うな腑拔け者に内の身代を任せる譯には行きませぬ」と、兄貴が又も四角張って勘當すると云ひ出したら、 力と賴む母親も昔程の威光はなし、今度こそ本當に大變である。全く卯三郎の想像通り、妹のお露に婿を しゆったい さうなる日には、お才は愚か 迎へて、其れに家督を讓るやうな、ひょんな事件が出來せぬとは限らない。 其處の弱味を巳之介は勿 世間の誰彼が、一人として「若旦那」を見かへる者はなくなるであらう。 論、相手のお才も十分に呑み込んで居た。 「可哀さうでも背に腹は換 ~ られないから、いっそ卯三どんの頼みを幸ひ、今のうちにお露様を誘ひ出さ せてお了ひなさいな。さうさ ~ すりゃあ、あなたは上州屋の一人息子、どんな勝手な眞似をしたって、勘 當されつこはございませんよ」 っかお才は性惡の本音を現はして、紅 「うん、うん」と巳之介が優柔不斷な生返辭をして居るうちに、、 い美しい唇から非道な事を遠慮なく云ひ張った。 彼の女の云ひ草が何處まで本當で何處まで謔やら解らないが、成る程邪者の卯三郎に妹を預けて放り出 介 之したら、自分の戀は安全になる譯である。かう気が附くと巳之介は急に思案を變へて、一も二もなくお才 才のロ車に乘った。 お 「卯三公の方は共の積りでも、肝腎のお露の奴が何と云ふか、内々あたって見た上で手筈をきめるとしょ 211
私にまかせて置くがい、」 「いえ / \ 、私や一と言話をしなけりや、どうにも気持ちが濟まないから」 腰かけながら、沓脱ぎへ伸べた兩脚の先に地團太を蹈んで、傷々しい程息をはずませ聲を殺して、お露は 殆ど半狂亂に身を藻掻きつ、訴へる。昨日兄から意見をされた巳之介は、早速お才に一・伍一什を打ち明け た癖に、極めて卑怯な動機から、妺の方へは何等の豫告をもしてやらなかった。それ故お露は今の今まで、 卯三郎が店を放逐されようなど、は夢にも知らずに居たのである。ゅうべ夜半に自分の寢間へ男が忍んで あっし 來た折に、龜井戸で聞いた内證話のいきさつを根に持って、散々恨みを述べは述べたが、「一向私は存じ ませぬ」と飽く迄恍け拔いて居た憎さ口惜しさ。まだあれだけでは此方の胸の半分も、先へは通じて居な 0 カら、つ 話と云ふのは大方共れと、巳之介は直ぐに合點した。 「氣の濟まないのは解って居るが、此の場は兎に角勘辨して、彼奴の宿は知れて居るから、後でゆっくり 云ってやったらい、ぢゃあないか。恨みがあるなら何時でも云へる。今日に限った事ちゃあないわさ」 尚も振り切って飛び出さうとする女の念力をやっとこさと抑へ着けて、羽がひじめにした儘ぽた / \ と蟀 かみ 谷から汗を流しながら、巳之介は一生懸命に宥め賺かした。此の際お露が後を追ひ掛けて、又卯三郎の魘 術に罹ったら大變である。可哀さうだが彼奴は是非とも妹との縁を切って、未來永劫上州屋へは寄りつけ ないやうにして置きたい。成らう事なら唐天竺へ行って了って貰ひたい。お露に會へなくなりさへすれば、 自然とお才にも近づく機會を失ふであらう。 「限みはたんとあるけれど、外に話があるのでござんす」お露はとう / ( 、、縁側へ引き倒されて、張り詰め っ みらいえいごふ いちぶしじふ こめ 178
て居る積りであるが、若し見えなかったら千葉街道の右側に庚申塚の立って居る地點を曲って、田圃道を 半丁も行くと、門前に榎の大木が一本高く聳えて居る、比較的構への立派な野中の一軒家だから直ぐにわ かる。共處で巳之介はお露を卯三郎に引き渡し、駕籠を雇って大急ぎで歸ってくれば、夜明け迄には上州 屋へ着いて、何喰はぬ顏で奧の間へ這人り込んで寢た振りをして居られるだらう。 體の外に着換への二三枚もあったら澤山で、嵩張る程の荷物を持ち出すには及ばないが、唯必要なのは金 子である。卯三郎も暇を出されてから別段此れと云ふ收人はなし、二人が暫く姿を晦まして二た月なり三 月なりを過ごして行くには、相當の用意がなければならない。それは巳之介が自分で手引きをする以上、 お露の爲めに拵へてやる責任があるから、是非とも當夜出奔の刻限までに、諸方面から融通して來る。先 づ百兩はたしかと思って居るがい、。 此れで大體相談が纒まった。 豫め定めて置いた駈け落ちの日は追ひ追びに近づいた。お露は夜な / 、附き添ひの女中の寢息を窺って、 そっと蒲團を這ひ出しては、、、 ざと云ふ場合の荷物を風呂敷に包んだり、兄や母親に遺して行く手紙の文 ごん くめん 言を書き綴ったりした。巳之介は自分が請け合った金の工面に肝膽を碎いたが、勿論融通の出來る諸方面 などのある筈はなく、あっても自分が返却す可き能力はなし、つまる所は自宅の金をそっと盜み出す算段 介 しんしゃう 之ばかりである。「なあにあなた、いづれあなたの身上になるものぢゃあございませんか。他人の金を借り 才るよりか共の方がようございますよ。どうせ持ち出すなら二百兩が三百兩でも、知れないやうに浚って來 お て、お露さんと山分けになさいまし」とお才も傍から唆かした。 かうしんづか もん 217
「あは、、、、」と卯三郎は空を仰いで笑びながら、「だからあなたは甘いもんだと云びたくなるんです。 女を口説くのにそんな遠慮をして居た日にゃあ、幾年立っても埓の明きっこはありませんや。得て素人の 娘と云ふ奴は、年頃になるとみんなあ、云ふ鹽梅式に、乙う澄まして居るもんですが、あたって見るとあ れで案外造作なく承知するから妙ですよ。私に云はせると、お才なんざあ誰かゞ口説きにやって來るのを、 ( オカら一番ぶつかって御覽なさい。二つ返辭でおいそれと云ふにきま 待って居るやうな女でさあ。構まよ、ゝ ってますぜ。ほんとに私が請け合びます」 「ひどくたしかな事を云ふが、お前は素人を口説いた覺えはあるのかい」 「なくってどうするものですか。その御念にゃあ及びませんよ」 卯三郎は得々として肩を聳やかした。謔か本當か解らないけれど、人情本に出て來る素人の娘なんぞも、 金のある若旦那に口説かれ、ば大概承知するやうに書いてある。思ひ切って本人に打ち明けたら、よもや かう云ふ安心が、家へ歸り着く頃までには巳之介の頭の中へ立派に築か お才が嫌だとは云ふまい れて了った。 ごふくふとものどころ うまみち あづまばし 上州屋と云ふのは吾妻橋に近い馬路の大通りにあった。「呉服太物處、上州屋善兵衞」と筆太に染め出し た紺の日よけが、晝間になれば間ロの廣い店先へ景気よく曝されるのだが、二入の戻って來た時はまだ家 まっちゃま の中は寢靜まって、表ロの戸が嚴重に鎖されて居た。待乳山の鐘が漸う六つを打ったばかりで、廓がヘり の駕籠の外には、往來の人通りも稀である。二人はいつものやうに路次へ廻って、勝手口の井戸側を蹈み 臺にしてこけら葺の物置きの屋根へ上った。共處から四つ這ひに這ひながら奉公人の寢泊りしてゐる店の まれ あんばいしき おっ 126
と、きまりの悪るさうな風つきをする。卯三郎とても、巳之介が「あんまり持てもしなかった」のは内々 おいらんぎせがは みの 承知して居る。彼にぞっこん惚れ込んで居る玉屋の華魁の喜瀨川と云ふのが、「お前はんと巳之はんとを 比べて見ると、男振りが雪と墨ほど違って居る。お前はんの方が御主人で、巳之はんの方が家來のやう だ」と云ったのは、滿更喜瀨川一人の慾眼ではないらしい。淺草中で五本の指に數へられる物持ちの家の 忰だから、金は山程あるにしても、實際巳之介は女に好かれさうもない人柄である。小柄で貧相で恐ろし い縮れつ毛で、而も出齒の下品さ加減、取りえと云へば眼元にいさ、か愛嬌のある事と、顏色のいやに生 白い事ぐらゐであるが、當人だけは相應に得々としてにやけた男の積りで居る。たとひ容貌が醜くても、 大家の若旦那らしい鷹揚な態度を見せればよいのに、お喋舌りで輕卒で徒らに通人振って、ますノ \ 女に 馬鹿にされる一方である。その巳之介が今朝に限って妙に沈んで萎げて居るのは、餘程手ひどく振られた 結果に違ひないと、卯三郎は腹の中で気の毒でもあり、滑稽でもあった。 ふさ 「ねえ若旦那、たまに一度は振られたからって、何もそんなに鬱ぐもんぢゃあございませんよ。ちっと私 のろ の惚けでもお聞かせ申しませうか」 「お前の惚けも聞き厭きた。どうせ聞かせるくらゐなら、もうちッと新しいのを仕人れて來ねえ」 巳之介はいよノ \ 不機嫌さうに苦り切って答へたが、相手は一向頓着せず、い、氣になって語り績ける。 「まあさ、さう仰っしやらないで聞いて下すっても惡かあござんすまい。何しろあなた、あの高慢な喜瀨 あす 川が、お前はんの顏を三日見ないと、御飯が喉へ通らないから、きっと明日も來てくんなましって、歸り しなに掌を合はせて涙ぐんで居やしたぜ。昨夜なんざあ、夜っぴて私を寢かせないんで、今朝になったら でつば ふう のど しょ わっし わっし 114
「どうもお母さん、申譯がございません」 と、首をすぼめて長まって耳の附け根を掻いて見せるのが、まるで子供のやうである。 「出來た事なら仕方がないが、此れからちっと気を附けて貰はなくっちゃ困るぢゃないか。私や不斷から お前たちの肩を持って居るのに、こんな間違をし出かされちゃあ、善兵衞にも極まりが惡くって合はす顏 がありませんよ」 「へえ」 「善兵衞は私に遠慮をして居るから、女の方が惡いのだと云ふけれど、私にやさうは思はれない。お前が 出放題な上手口をきいて、何も知らない、正直な女の子を欺したに極まって居ます。ねえ、大方さうなん だらう」 「へえ、全く申譯がございません」 と云ったが、巳之介は急にだらしのない口元から涎を垂らしてにたにた笑ひをした。正直な女の子を欺す 手腕のある事を、母親から認められたのが非常に嬉しかったのである。 「笑ひ事ぢゃあありませんよ。 現にお前、 ' お才に暇を出さうと思って、先からいろ / \ 論して居る のだけれど、若旦那に捨てられたのが口惜しいと云って、可哀さうにお前の薄情を泣いて恨んで、なか 介 之 ノ ( 、云ふ事を聞きゃあしない。 才「成る程そりやさうでせう。 : 」と、巳之介は獨り心中で受け答をした。さうして、ます / \ 嬉しさ お うに得意になった。お才もお露と同じゃうに、別れが辛くて泣いて居るのか。かうなると己も卯三郎とあ よだれ さっき 191
を捻る途端に、 「巳之ちゃん、口惜しいのは私でござんす。私や口惜しい、口惜しい」 と、お露は突然張り裂けるやうに息を喘いで、着物の背筋が皺くちゃに揉まれる程、太った體を縱横に身 悶えする。 「なんだい、又しても大仰な。お前は男が出來てから、きつい泣き蟲になんなすったなう」 巳之介はあっけらかんと棒立ちに立ったま、、冗談の気勢を挫かれた形で、赤く上氣せたお露の耳朶の裏 側を視下ろした。 : 巳之ちゃん、お前も何卒しつかりしておくんなさい。お前も私も卯三郎に欺されたのでございま 、い、仲なのでございますよ」 す。疾うからお才はあの人と 「ハテめんような。 ギクンと胸が凹んだやうな氣持ちはしたけれど、どう云ふものか巳之介は、こんな場合に早速眞面目な調 子になって、惡ふざけを改められない人間である。何處までも精神が上すべりをして、大事件だと気が付 きながら、負惜しみでも何でもなく、たヾ冷やかしが止められない。 一體お前はどうして、そんな事を云ひなさる。何か二人にをかしな様子があ 「・ : : : : 藪から棒の話だが、 ったのかい」 お露は默って、鬢の髮の毛を顫はせながら、「うん、うん」と頤で頷くばかりである。 「こう、お前のやうに譯も云はずにくやしいくやしいと云ってた日にゃあ、さつばり埓が明きゃあしない。 172
: 華魁がお厭なら、了 食と云ってもまあ深川の藝者でせう。ところが此奴が、華魁よりも一倍我が儘 しろうと で、なか / 、生優しい代物ぢゃあござんせんや。かう中しちや失禮ですが、若旦那なんざあ一脣素人の娘 でも追っかけた方が宜うござんすね。お金はあるし、身分はよし、嫁にしてやると云って欺かしたら、素 人の娘はきっと惚れますぜ」 「さうさ、素人の娘も惡くはないさ」 「おや / \ 、さては何かお心あたりでもおあんなさると見えますね」 冷やかす積りで云ったのに、巳之介の方は案外眞に受けて、何故か頻りににやにやと笑って居る。アテの 外れた卯三郎は、暫く不審さうな面持ちをして、穴の明く程相手の顏を視詰めて居たが、忽ちふ、んと頷 「は、あ、わかった。若日一那、わかりましたぜ」 と、大きな聲で飛び上るやうに云った。 「華魁がいやになったの、吉原が莱に入らないのって、成る程若旦那は他に目星を附けた女があるんでせ う。成る程成る程、素人の娘も滿更惡かあござんすまいよ」 「一體それは誰の事だい。獨りで呑み込んで居るちゃあないか」 そらとぼ 之巳之介はかう云って室惚けたが、共の眼つきには嬉しさうな色が漲って了って、とても隱しては居られな 才かった お とぼ 「お惚けになっちゃあいけませんよ。あなたが狙っていらっしやる素人の娘と云ふのは、あのお才のこと みなぎ 121