七 母親にせびってお才を喰ひ止めようとした巳之介の計畫は、見事善兵衞に裏をか、れて、共の日の午後に のつびき は更に彼の女にも退引ならぬ宜告が云ひ渡された。お露は朝から奥に引込んで唯めそめそと泣いて居る。 急を聞いて隱居所から飛んで來たお鶴は、今迄夢にも知らなかった忰とお才のふしだらを、段々と善兵衞 に説明されて、何と云ひ解く術もない。い くら巳之介が可愛くっても、お才が莱に人りでも、そんな不埓 介 之な奉公人は一日も家 ~ 置くことはなりませぬと、うまイ、自分が一杯喰はされた殘念さやらいまいましさ 才が一度にかッと破裂したのか、却って兄に加擔して、憤怒のあまり呆れ惑うてばんやりして居る。 巳之介も惡いには惡いけれど、あれ程に目をかけてやった女の仕打ちが憎らしいから、いっそ當人の兩親 お あっし 大方さうでございませうよ。 お才どんにゃあ教へてやっても、お露さんと私にゃあ 「えへ、、、 お隱しなすっていらっしやる。あなたも餘つほど人が悪いや」 「おい、おい、邪推もい、加減にするがい、ぜ。そんな事を誰がお前に云ふんだらう」 「そりや當人から聞きやした。 では若日一那、いづれゆっくりお目にか、ると致しませう。へえ左様 なら」 最後の一句で一度にどしんと叩き付けられたかのやうに、巳之介はぼかんとしたま、卯三郎の後姿を見送 って居たが、 やがて何とも云へない嫌な気持ちに襲はれて、胸糞の悪さうな顏つきをしながら、今度はと ばとばと歩き始めた。 185
こ、はお前も神妙にして、一旦宿へ歸った方が、後々の爲めに都合がい、やな。いづれ共のうち折を見て 戻れるやうにしてやるから、今日の所は我慢をするさ」 : でげすが若旦那、あなたが旦那に詑びを人れて下すったって、お露様との一件が顯れて居たんぢ や、容易にお店へ戻る譯にゃあ行きますまい。それとも大丈夫請け合って下さいますかね」 「請け合ふ譯にも行かないが、何とか一つ心配しやせう」 「心配しやせうぐらゐちゃあ、、い細いちやございませんか」 「あは、、、」と巳之介は空を見上げて笑ひ出した。頗る痛快に讐を取ってやったのが、嬉しくて溜らな ざま 。「態あ見やがれ、色男でも女たらしでも、手前は卑しい奉公入だ。己の内から追ひ出されりゃあ、宿 無し犬も同然だらう」と云ふ嘲弄が、冷然たる彼の態度に見え透いて居た。 「それではいよ / ( 、此のま、歸るとしやすかね。ところでどうでせう、いろ / ( \ 勝手を云って相濟みませ わっし んが、當座の小遣ひに十兩ばかり、惠んでやってくれませんか。お持ち合はせがないと云ふなら、私あ此 處にお待ち中して居りますが」 卯三郎は内懷で兩掌を重ねて、物を頂く眞似をした。何かの時に金を惠んでくれろと云ふのが此の男の癖 になって居て、巳之介は幾度共の手を喰はされて居るか判らない。 之「生憎急ぎの用があるから、待って居たって手間が取れるぜ。いづれ後からお前の宿へ使に持たして屆け 才てやらう」 糞を喰へと思ひながら、巳之介は一時逃れの返辭を殘して大股にすた / \ と歩き出した。 りゃうて 183
「そのやうに恨み給ふなお才どの、お前たちが出て行ってから、私あ兄きに捕って、うんと汕を搾られた。 あくび やれやれ今日はよく / \ の惡日だわい」 「おやおやそれぢゃあ旦那から何かお叱言がございましたか。さう云はれ、ばどうやら私も旦那の様子力 此の二三日少し變だと気に咎めちゃあ居りましたのさ」 「何だか兄きのロ裏ぢゃあ、うす / \ 様子を悟ったらしい鹽梅式で、巳之介ばかりが悪かあない、外にも 不都合な人間が居るから、いづれ共のうち始末を附けると、斯う云ふのさ。飛んだ人騒がせちゃあない 「えつ」とお才はくつきりした眉根の線をふるはせて、見る見るうちに凉しい瞳を曇らせながら、 「そりや本嘗でございますか。さうして日一那はお露様と卯三どんの事も、御承知なのでございませうか」 「さあ其處までは判らないが、孰方にしてもお前は逃れぬ所だなう。やつばり私が云った通り、全體お前 は内へ女中に住み込まないで、外で媾曳きした方が双方都合がよかったのさ」 此れは巳之介が、咄嗟の間に頭へ浮べた魂膽なのである。何處か自分の懇意の茶屋へ譯を話してお才を女 中に使って貰ひ、旁よ監督を依頼したなら、卯三郎との密々の往復は杜絶えるだらうと、彼は私かに考へ 之「まあどうしたらようござんせう。若し旦那からお暇が出たら、私や今更何處 ~ も行かれやあ致しません 才よ」 かう云った時、女の眼からはばらりと涙が落ちたらしい。膝をついた、擦り寄って、彳んで居る男の着 こ 0 わっし 175
さうに出掛けて行った。 遠い室には、もうぼんぼんと花火を打ち上げる響が聞えた。大風の後のやうに入気のなくなった奥座敷に ひっくり反って、天井を視詰めたま、獨りで巳之介が悅に入って居ると、 こんち 「へ、若旦那、今日はまことにお樂しみで・ かう云って、こっそりと這人って來たのは卯三郎である。己れの容貌を十分に自信して居るせゐでもあら へんふく 、平生はいなせな事が大好きであまり邊幅を飾らぬ人間が、今日は不思議にきちんと服裝を整へて、す しきゐぎは はったん らりとした白上布の着流しに黄縞の八端の帶を結んで鴫居際に彳んだ男振りは、何と云っても濡事師だけ の見だてはあると感心させられる。 「何だい卯三どん、お前は今日は出掛けないのかい」 「なあに此れから參りますよ。ちょいとあなたにお目に懸って行かうと思って、一と足後へ殘ったまでさ。 決してお邪魔は致しませんから、御安心なさいまし」 「ふざけなさんな」と、巳之介は臥ころびながらさも慵げに笑って見せる。 「なか / \ 若旦那も隅へ置けなくなりましたね。何しろ仲の町時分と違って、相手が頗る尤物だから私も つくる、、羨しうございますよ。ちったあ此方もあやかりたいもんでさあ」 之「お前なんざあこんな話はのべっちゃないか。此の頃だって、何か又新色でもあるんだらう」 才「ところが更にござんせんや。あるくらゐなら、かう云ふ晩にゃあ早速姿を晦ますんだが、しよう事なし ・ : しかし若旦那、 川開きなんか見に行ったって、根っから有り難くもござんせんぜ。 に旦那のお供で、 かへ こっち ものう しんいろ びとけ みなり うふつ ぬれごとし わっち 143
「うんさうさ」と、相手が自分の推察通り眼を圓くして驚いたので、漸う機嫌を取り直して、「何もそん なにびつくりするには及ばないさ。廓へ行かなくなったからって、女遊びをまる切り止めると云ふんぢや あないんだよ。私は私で何處かへ集を變へる積りだから、お前はやつばり喜瀬川のところへ行くがいゝや 「ですが若旦那、共處に御如才もござんすまいが、今迄通りお互に遊びの事あ内々に願ひますぜ。こいっ が大旦那に知れた日にゃあ、私は首になりますからね」 こ′」と 「あは、、、 。その心配には及ばない。私にしたって兄貴へ知れたら、叱言を喰ふにきまって居るから、 ひとつあなむじな 云はゞお前と同穴の貉だね。大した事も出來ないが、 困った時にあ今迄通り、ちったあお前にも融通して やるさ」 がうぎ つる 「成る程成る程、そいつは豪儀に有り難うございます。正直のところ若日一那と別々になったって、金の蔓 にさへ離れなけりや、それで私は安心ですよ」 かほ 卯三郎は狡猾な事を無邪気な笑ひに紛らして云った。自分の容貌ぐらゐ美しくって愛嬌があれば、どんな 我儘な理窟を捏ねても、相手に憎まれる筈がないと、堅く己惚れて居るのらしい。實際又、彼の己惚れは 今迄立派に成功して來たのである。 「い、ともい、とも、お金の事は私がちゃんと引き請けた」 たくら 巳之介はたった今しがた思ひ付いた意地の惡い企みを直ぐに忘れて、ぐっと反り身になって云ったが、 かしつくる、考へて見れば、甚だ馬鹿々々しいやうにも感ぜられる。 116
卯三郎が韋駄天走りに五六間駈け出した頃、お才もおくれて立ち上ったが、その時巳之介はのっそりと身 を起した。 「おい、おい、私だよ、巳之介だよ。ちょいと話があるんだから待ってくれてもい、ぢゃあないか」 お才は振り返って彳んだま、、さもさも薄氣味が惡さうにジッと此方を睨み付けた。 「おい、おい、そんなに恐がらなくっても大丈夫だよ。私は幽靈ちゃあないんだよ。だがひどい目に會は せたもんだね。此の通り、着物も何も減茶苦茶でげす。あ、苦しかった。 くん、くん、と、彼は大のやうに鼻を鳴らして、泥の硬張った顏の筋肉をもぐもぐやらせながら、「 : : 實際罪な話でげす。此れが私だからい、けれど、外の人間なら怒っちまふぜ。どうも姿が化物のやうに なったんだから、私も一つ人間離れがした積りで、お前にお願ひ中しやすが、何もそんなに卯三公ばかり 可愛がらないでもい、ちゃあないか。金の事なら又いくらでも相談に乘って上げるから、此方の縁も切ら ずに置いたらどんなもんだらう。それ程無理な注文ちゃあないんだから、聞いてくれても惡かあなから 巳之介はにたにた笑って女の傍へ迫って行ったが、あはや片手を伸ばして相手の背中を抱き寄せようとす る途端に、お才は不意に「あれェ」と云って逃げ出した。 介 之「おいおい待ちなよ。あわてるなよ。何もそんなに嫌はないでもい、ってばなあ」 才一本の畦道を二人は夢中でどんどん走り始めた。程なく巳之介はうしろから追ひ着いて、帶の結び目 ~ 手 お を掛けると、お才は共れを振り拂って、男の顏を矢庭に激しく引掻いた。がりがりと云ふ音がして、巳之 227
それこそほんとに又心配が持ち上るぢゃあございませんか。ねえ若日一那、あなたは私よりも、きっとお露 さんの方が可愛いんでございませう」 「馬鹿を云ひねえ、なんばお露が可哀さうでも、妹と色女たあ別物だ。お前と彼奴と取りかへッこで溜る もんか」 せつば詰まって巳之介は豪儀に云って除けたものの、さながら人殺しの相談でも受けたやうに青くなった のをお才は直ぐに見て取って、 「もし若旦那、口先よりか腹を据ゑて、よく考へておくんなさいまし。もうかうなったら打ち明け話を致 しますが、實は私がこんな相談を持ち出したのも、いろノ ( 、譯がございますのさ」と半分膝を乘り出して、 いかにも赤心を吐露するやうに云ひ足した。「正直な事を申しますと、卯三どんはお暇が出てから、今迄 にもうるさく私の所へ來て、毎度嫌らしい事ばかり聞かせるのでございます。お露様と會へなくなったや け糞に、急に此方を欺さうとでも思ったのか、若旦那の事は及ばぬ戀とあきらめて、どうぞ私に靡いてく すか れと、それはそれは威嚇したり賺したり執拗く附いて廻るぢやございませんか。それを嚴しく撥ね付ける と、そんなら是非ともお露様と會はせるやうに工夫しろ、それも承知が出來ぬと云ゃあ、若旦那の疵を洗 ひ立て、、お宅を勘當されるやうにして見せる。その上で自分がお露様を玉に使って、上州屋の身代を乘 っ取ってやらうから、後悔するなと、まあかうなのでございます」 おどし さも氣味惡げに説き立てるお才の口調に釣り込まれて、巳之介はいよ / 、、、靑くなった。卯三郎は威嚇の積 りで、「勘されるやうにして見せる」と毒づいたのかも知れないが、彼に取っては威嚇以上の凄文句で しつくど いろをんな すごもんく 210
たくらみ と見られるだけに、腹の中にはどんな企を持って居るやら、油斷のならぬ代物である。共の證據には、ト 間使びの身でありながら、娘のお露と卯三郎の仲を取り持ち、淫らな行爲を勸めて居たのでも大概解る。 次第に依ったら、内の財産を目的に思慮の足りない弟妹たちを墮落させようと計ってやった仕事かも知れ ぬ。「若旦那に惚れて了った」の、「別れるのが辛い」のとは眞赤な僞で、嫁にならうとする程の太い料簡 はないにしてからが、恐らく慾に引かされて、巳之介を蕩し込んだに極まって居る。それを此方が眞に受 けて同情したり、不都合を默許して今後一日でも家へ置いたら、あ、云ふ奴故再び奸策を廻らさぬとは限 らない。たゞ猶豫なく追ひ拂ふのが最良の手段であると、彼は云ひ張った。 オカ善兵衞は固く それでも隱居は半信半疑で、「まさかにお才がそんな女ちゃありますまい」と辯解しこ。ゝ、 執って動かなかった。母親にして見れば、お才を惡黨にすればするだけ、巳之介の愚かさが顯著になって、 引いては自分の眼の利かなかったのを、批難されるのが辛いのである。 「どうもわたしには、それ程深い腹があって始まった事とは思はれない。お互に若い同士の出來心から、 つい不始末にもなったのだらう」 と、兎角に善意の解釋を試みる。それでお才が善人ならば猶更のこと、萬一惡人であったなら、後の祟り が恐ろしいから、此の際放逐すると同時に、若干の手切れ金を授けた方が大人しからうと、母親は提議し 介 之こ。しかし善兵衞はそれにも不賛成で 才「金は惜しくもありませんが、別段彼奴にくれてやる名目がないぢやございませんか」 お と反對した。表面は飽く迄も「家風に合はぬ」と云ふロ實で、穩かに暇を出すのである。巳之介との情事 189
まへ 物の上ん前へ上半身を ~ 暃れかけ、兩手を伸ばして巳之介の角帶にぶら下りながら、「此の泣き顏を見てく れろ」と云はぬばかりに、訴ふるが如くじっと相手を視上げた表情の美しさ。眞白な額や頬の色つやが今 カー 宵は少し靑味を帶びて、唇ばかりが鮮かに紅い。もと / \ 此の器量に惚れたとは云へ、散々見馴れた容貌 であるのに、眺めれば眺める程輪廓の立派さが一と際精細に冴え返って今更巳之介は驚き惑ふくらゐであ 「ねえ若旦那、私ゃあなたと片時も別れて居るのは嫌でございます。どうぞ私を助けると思って、此方へ いっ迄も御奉公が出來ますやうに、お賴みなすって下さいまし。日一那がお許しなさらなけりゃあ、御隱居 様にお縋り申して、何とか取りなして戴くやうに、お願ひなすって下さいましな。若しも此方を出されて しまやあ、もう兩國へは歸れません。 ふくろ 「成る程お母に賴んで見たら、大きにうまく行くかも知れねえ」 巳之介はしようことなしにかう云った。 「ねえ後生だからさうなすって下さいまし。私ばかりか卯三どんもお暇が出さうな様子だったら、一緒に 賴んでお上げなさいまし」 ら、何だか可笑しいもんだなあ」 「だが卯三郎は店の者で、お母たあ縁故がないか きもいり 成る可くならば隱居の肝煎が成功しない事を望んで居るが、萬一お才が家へ居殘るやうになったら、卯三 郎の方を放逐してしまひたい。 さうして置けば大丈夫と、巳之介は二つの謀計を胸に描いた。 「だって卯三どんが居なくなったら、お露樣がお可哀さうではございませんか。それぢゃあんまり不人情 176
「鍵屋」と叫んで居る男女の影が悠長に映って居た。 よっぱど 「もし若旦那、表向きの相談と云ったところで、いつの事やら餘程先の話でせうが、せめてそれ迄お互に 人目を忍んで會へるやうな、うまい工夫はござんすまいか。奉公するのは少しも嫌ぢゃあございませんカ 一日お顏を拜みながら、ろくろく口の利けないのが何より辛うございますよ」 お才は急に聲を低めて、調子に一段と力を籠めながら、「ねえあなた、實を云ふと御隱居様さへいらっし やらなければ、まことに都合がようござんすが、何とか工夫はっきますまいか」 「何ば邪魔でも、あのお母をどうする譯にも行くまいがな」 不思議な事を云ひ出した相手の料簡をりかねて、巳之介はじっとお才の顏色を視詰めたが、女は何處ま でも眞劍である。 「どうする譯にも行かないって、共處があなたの智慧でございますよ。御隱居樣と大日一那と仲の惡いのを 幸ひに、何處か近所へ隱居所を拵へて、別居なさるやうにお勸めなすって御覽なさいな。あなたのロで御 隱居様を説き落したら、譯無しぢゃあございませんか」 「さう云ふ計略があらうたあ、私も全く気が付かなかった。いかさまお前は軍師だなう」巳之介はほんと : だが考へて見るがい、ぜ。さうなる日には内 膝頭を叩いて、先の卯三郎の褒め言葉を應用した。「 : ー牙者が居なくなって、萬事に都合はい、けれど、お前もお母の附き添ひで、一緖に隱居所へ引取られ 才ゃあしまいかの」 「順當に行きゃあさうなる所でございますが、共處もあなたの口先で、何とか私が居殘るやうに取り計ら 153