四 明くる日の午前十一時ごろ、藥研堀の家の臺所で母のお牧が洗濯物を搖すいで居ると、突然春之助が表の 格子戸を明けて默ってひょっこりと上って來た。今日は中學の授業始めで二時間程で濟んでしまったから、 歸りにちょいと立寄ったのである。實は大切な書物を一册二階の押し人れへ忘れて置いたから、それを搜 めざと しかたノ ~ \ 來たのであると、母親の顏を見るなり彼はさあらぬ體で云った。眼敏い母は、例になく子供の 眼の縁に徴かな涙がにじんで居るのに心付いて、わざとそ知らぬ風をしながら、「さうだったかい。そん なら二階を搜して御覽。」と、やさしい聲で云った。 春之助は二階へ上ったきり暫く降りて來なかった。「あ、おっ母さん、今迄は私が惡うございました。私 く物思びに耽って居た。やがて漸く眠りに就いたが、溜らなく悲しい夢を見たので、二時間ばかり立った 時分に又眼をあいた。夢の中で泣いて居たものか、気が付いて見ると兩眼に涙が浴れて居る。その夢が何 3 ち、、は、 であったかしつかり覺えて居なかったが、父母戀ひしさのあまりに見た夢であることは明かであった。 「あ、、自分は今迄聖入の道を學ぶと稱しながら、何と云ふ親不孝な子であったらう。なぜあのやうに親 を馬鹿にして居たのであらう。お父さんもおっ母さんもどうぞ私を赦して下さい。そのお詫びには必ず將 來親孝行をして御恩返しをいたします。もう十年か十五年の間です。どうぞ辛抱して下さい。」彼はくら がりに手を合はせて伏し拜みつ、繰り返した。親へ孝行を盡す爲めにも、自分はえらい人間にならねばな らないと深く誓った。
「畜生め、彼奴はあの通り陰險だから癪に觸る。先があ、なら己の方でもいよ / \ 以て勘辨がならないぞ。 人の手紙を内證で開けて見たりしやがって、己が知らないと思って居るのか。」 莊之助はます / \ 憤慨して、面白半分に再び惡戯を企らんで居るらしかった。 四五日過ぎた蒸し暑い晩の、眞夜中過ぎの頃である。壷井は頭の中に消えて行く幻の跡を追ひっ、、馬の ゃうに總身へぬらイ \ した脂汗を流しながら、夜具の襟を深く被ってぐっすり熟睡に浸って居ると、突然 枕元がづしんと動いたやうであった。何の氣なしに細眼をあいた彼は、莊之助の恐ろしく大柄な赤黒い顏 蚊帳の中へ音もなく這人って來て、隣に寢て居るお玉の息を窺って居るのを見付け出した。 うす暗い電燈の明りを受けて、朦朧と壷井の頭の上に現れた顏は、あまりに距離が迫って居るせゐかさな がら壁のやうに彼の眼の前に塞がって居る。壷井は人間の容貌を、こんなに近い所でまざノ \ と眺めるの は今が始めてのやうな氣がした。几ての輪廓が恰も蟲眼鏡を掛けて見るやうに擴大されて、高々と岩の如 く聳えて居る豪壯な鼻柱や、洞穴ほどの鼻腟の中に鼻毛の生えて居る鹽梅や、くわッと見張った爛々とし た眼の球の、眼蓋の下でぎよろ / \ と動くエ合や、耳の邊まで裂けて居さうな眦の切れ目や、そんな物が 人間放れのした殺を含んで、夜陰に生きる悪鬼の如き形相を備へて居る。よくノ—注意して見ると、惡 鬼はロに水彩畫の繪筆を咬へて、小鼻の周圍に肉太の皺を刻んで、今や將に物凄い毒牙を餌食に向って伸 ばさ、つとして居る。 面 の壷井は寢返りを打つやうな風を示して、ぐたりと首を斜めに倒しながら、密にお玉の寢姿を觀察した。彼 女は何事も知らずにすや / \ と圓かな夢を結んで居る。肌觸りの凉しさうな、輕いめりんすの掻卷の襟に 429
よっぽど 「あたしよりも巳之ちゃんの方が餘程どうかしてるぢゃないか。毎日々々惡ふざけばかりして居てさ」 よっぽど 「はて失禮なことを云ひなさる。妹の分際で、此の巳之介を捕へて、餘程どうかして居るたあお前もなか みの ノ \ 口が惡いぜ。お前の眼からは何と見えるか知れねえが、此れでも巳之ちゃんは色男さ。上州屋の若旦 那の爲めならば、是非とも苦勞がして見たいと云ふ、レッキとしたのが二三人も着いて居ようてんだか ら、憚りながら結構な御身分さね。たとひ兄妹でもお前のやうなお多疆とは大いに譯が違ひやすよ。えへ ん」 と云って、巳之介は眼を圓々とむき出して、妙なしなを作りながら、三度に一度はお才の方を媚びるやう にちらりと振りかへる。 お多輻と罵られたお露の顏立ちも、兄に比べれば遙かに上出來で、十入並の器量である。別段取り立て、 褒める程の特長はないけれど、小柄で色白で、ふつくらとした下膨れの輪廓に何處となくあどけない風情 を含み、些細な事にも轉げて笑ふ眼元口元に、こばれるやうな愛嬌が湛へられる。若しも共の隣にお才が べっぴん たふさ 並んで居なかったならば、此の女も相應な別嬪に見られるだらうと、巳之介は腹の中で考へた。髻をはら ほど たきっせ しまだまげ りと解けば瀧津瀬のやうに波を打って流れ出すかと思はれる多量の髮の毛の、大型の島田髷を心持ち俯向 ひとへ き加減に、丹頂の項のやうなすっきりした頸筋を棒縞の單衣の襟元から柔かに屈ませて、母親の着物らし い眞岡木綿の小紋の浴衣を縫って居るお才の姿は、成る程小間使ひなどにして置くのは勿體ない程美しく 水際立って居る。子供の時分兄の善兵衞に伴れられて、江の島を見物に行った折、巳之介は高い高い稚兒 くら ふち が淵の斷崖に立って遙かな脚下の絶壁に碎ける怒濤の白泡を望みつ、、眼が暈むやうな、莱が遠くなるや みの うなじ あしもと 130
介は額や頬片が崩れ落ちたやうに思ったが、實は乾いた泥の塊が粉々に破れたのであった。 「あツ」と云って、彼は立ち止まって、埃の沁み込む眼と口を抑 ~ た。お才も餘塵を浴びたと見えて、 みけん つばき 「ペッ、ペッ」と二三度巳之介の眉間のあたり ~ 唾吐を吐きかけて、又すたすたと逃げ出した。 暫く過ぎて、巳之介が眼を開いた時分には、遙かに先の暗闇を、一生懸命に臀をからげて駈けて行く女の 淺黄縮緬の蹴出しが、白くちらちらと動いて居る。 「お才や 1 い」 彼は渾身の聲を搾って怒鳴り立てた。さうして、必ず彼の女を手なづけてやらうと云ふ決心を以て、猶も 懲りずに追ひかけた。 こんしん ほっぺた 228
神童 「でも此の歌が一番高尚で、意味が深いやうに思はれます。」 「さうですか。」と云って校長は苦笑ひをしてしまった。 あまり智能が發達して居る爲め、春之助は一としきり非常に生意気な、小憎らしい少年となった。けれど も高等二年の頃から、彼の擧動は漸く謹嚴になり沈重になった。それは彼が漢文學に熱中して、知らず識 ししょ′」ぎゃう らず儒教の感化を受けた結果なのである。此の早熟な少年は四書五經を讀み始めてから、詩や歌を作るの が嫌ひになって、一生懸命に東洋の哲學や倫理學に關する書籍を漁り求めた。彼は學校から歸って來ると、 ちつきょ むさくろしい二階の四疊半に蟄居したきり、夜の更ける迄机に向って動かなかった。老子を讀み、莊子を くしやろん 讀み、しまひには佛教の方へ手を伸ばして倶舍論や起信論や大智度論など、云ふ物にまで眼を通した。そ の時分の事である。彼は目黑の眞一一一〔宗の寺に遠縁にあたる和尚が居た事を想ひ着いて、共處 ~ 佛書を借り に行った。 しゃう・ほふげんざう はうぢゃう 「方丈さん、あなたの所に正法眼藏と云ふ本がありますか。あるなら何卒貸して下さい。」 と、春之助は突然云った。 ぎようし 和尚は眼を圓くして不思議さうに少年の顏を凝視しながら、「お前にそれが解るのかい。」と云った。 「え、解ります。」 「そんなら私の前で此れを讀んで御覽。此の本の標題は何と讀むのだ。」 かう云って、和尚は机の傍にあった一册の薄っぺらな和本を示した。その表紙には「三教指歸」と書いて あった。 どうぞ 279
かう云って、富藏は割り膝をしたま、肩を聳やかして、考へに沈んで居る善兵衞の額のあたりをぐっと睨 めるやうに視詰めた。 「お母さん、ちょいと巳之介を呼んで下さい」と、善兵衞は共れには答へず、母親の方を向いて苦り切っ て云った。 ちやせんまげ たかふ 剩が昻ったのか、白髪交りの茶筌髷をぶる / \ と戦かせて、眞靑な顏をした隱居のお鶴が再び奥二階へ上 って來た時、巳之介はまだ大の字に臥そべって何か知ら思案に耽って居た。「善兵衞がお前に用があると 云って居る。直ぐに下まで降りて來なさい」と、此れだけ云ふのがやっとの事で、お鶴は煮えくり返るや うな胸の中を傳へる程の餘裕もなかった。 「お才の奴め、まだ泣き澁って居ると見える。大方兄貴は己を彼奴と對決させる積りなんだらう。それに 付けてもお才はどんな顏をして居ることか、同席すれば互に眼と眼で知らせ合って、ロで云はれぬ心持ち わざと萎れたやうに見せかけて、腹では内々喜びながら をそれとなく語り合ふ事が出來るだらう」 部屋の障子を開けた巳之介は、共處に控へて居る富藏の姿と、善兵衞の前に突きつけられた書き附けの紙 めのたま 面を見るや否や、窪んだ眼球をぐりぐりと光らせて、俄かに怖ぢ気を催ほしたやうに立ち竦んでしまった が、紫色に變った唇には眼もあてられない驚愕と狼狽の情が入り交って顫へて居た。 之「巳之介、お前は此の證文に覺えがあるか。あるなら正直にあると云ふがい、」 才若し聞かれたら何と云ひ譯したものかと、答辯の道を考へて居る暇もなく、かう云って詰りか、った善兵 衞の言葉は、靜かであるが殺氣立って居る。 わなゝ 195
「ちょいと芳川さん、何かお奢んなさいよ。そんな事を仰っしやってたゞぢや濟みませんですよ。」 と、ぼんと芳川の背中を叩いて眼を剥いて見せる。擲られた芳川は、「あいっツ」と大仰な叫びを上げて、 暫く女中とふざけ散らして居る。壷井は一體何の爲めにこんな處へ連れて來られたのか分らなかった。 「どうしたい壷井君、大そう沈んで居るぢゃないか。斯う云ふ内へ來て大人しくして居ると損だぜ君。」 女中が退ってしまってから、やっと芳川は壺井の方を振り返って、頻に酒をす、めながら語り始めた。 : そのうちに金彌をお目にかけるから、少し醉拂って元莱を出さうよ。まあその女が來れば分るカ 非常な美人と云ふのぢゃないけれど、何となく男を惹きつけるやうな、妙な魔力のある顏立ちをして居る んだ。眼蓋の脹ればったい、、 とろんとした、夢を見て居るやうな眼つきに一種の特長があって、綺麗と云 ふよりも味はひのある面立をして居るんだね。それに鼻の形が馬鹿によく整って居て、僕は希臘式と稱し て居るくらゐなんだが、實際希臘の彫刻を眺めるやうな感じがするのさ。あの女の器量を君がなんと批評 するか、僕はそいつが是非聽きたいね。 それからもう一つ聽きたいことがあるんだよ。僕はその女 にたしかに惚れて居るんだが、女の方が僕に對してどんな感情を抱いて居るか、どうも僕にははっきり分 らないんだ。そりや今迄に肉體の關係もあったし、多少は惚れて居るやうな態度を見ては居るけれども、 きやっ それが彼奴の手管だか眞實だかさつばり見當がっかないんだよ。一つ彼奴の様子を見た上で、君の意見を 述べて貰ひたいね。」 面 の「僕のやうな無經驗な人間に、そんな事を聞いたって參考になりやしないぢゃないか。藝者の心理状態な 5 んぞは僕より君の方が遙に通人の譯だらう。」
少くとも好男子となる可き要素を備へて居たのであらう。天は春之助に優秀な頭腦を惠んだば 違びない。、 そもそ かりでなく、正しく端正な目鼻立ちをも頒ち與へた譯であるのに、共れ等の「要素」は抑もいつの間に彼 の容貌から消え失せて行ったのであらう。 せめては要素の幾部分なりとも、何處か知らに共の痕跡を殘して居さうなものであると思ひ返して、春之 助は更に熱心に自分の顏を檢査して見る事があった。成る程仔細に吟味すると、氣のせゐか知らぬが彼の 鼻つきは母親の共れに似て居たゞけあって、そんなに不恰好な形ではない。肉づきも尋常で高さも普通で、 顏中の造作のうちでは一番完全に近い代物である。眼つきも可なりばっちりして居て、母親のやうに冴え ては居ないが、何となく愛嬌のある悧巧さうな輝きを持って居る。ロもとにしたところで齒ならびこそ惡 いけれど唇を閉ちてさへ居れば缺點は少しもない。却って一種の人を惹きつける特長があるやうにまで思 はれる。かうして見ると、眼でも鼻でも唇でも、一つ一つの形状は滿更醜くもないのである。たしかに美 貌の要素だけは備はって居るらしい。たゞ、それ等の要素が伸び伸びと發達すべき少年時代に、過度の勉 強と貧乏な境遇とが不自然な迫害を加へて、芽を吹き出さうとする生長の力を中途で阻んでしまった爲め、 ふうさう 風霜に打たれた花の莟のやうに、無慘にも彼の輪廓は畸形的に押し歪められてしまったのである。春之助 は今でも自分の顏の中に、外界の壓迫から來た打撃の痕を歴々と認める事が出來るやうに思った。元來な せむし らばもっと威勢よく、鷹揚に伸びて行く筈のものが、妙にいぢけてせせこましく固まって、恰も髏の背 中の如く縮んでしまったらしい哀れさが、目鼻立ちのあらゆる部分に現れて居る。眼は ( ッキリと開きな 5 ひが がら何となく陰鬱な、世を拗ねたやうな僻んだ色を湛 ~ 、鼻は高く秀いでながら變に貧相な、見すばらし しろもの かた
金の收ってある土蔵は、店に一つ、隱居所に一つある。本來ならば兄貴の金をちょろまかして、仰天させ てやりたいのだが、店の方は人目も繁く戸締りも嚴重で、容易に忍び込む隙間がない。共の上盜難が發見 された際に、嫌疑の眼が忽ち巳之介に集まるのは當然である。散々世話になった母親の貯金を盜み取るの をとこつけ は不本意ながら、隱居所の土蔵ならば萬事に好都合である。風呂番の外に男気はなし、持ち出し損ねて見 付かったところが、頬冠りで面體を包み、見ず知らずの強盜の風を裝って、出刀庖丁でも突き付けたら、 ちゞみ上って了ふだらう。 ・ : 巳之介は度胸を据ゑて今日か明日かと機會の來るのを待って居た。 ぼん 三月二十日の眞夜中過ぎの刻限である。今戸の隱居所で平生から便所の近い母親が、ふと眼を覺まして雪 洞を片手に廊下の闇を歩いて行くと、二た間ばかり隔った、勝手口に近い方角で微かにみしみしと人の足 音が聞えて居る。不思議に感じて耳を澄ましながら、共の方角に忍び寄ると、頭巾を被った一人の曲者が 湯殿の前にうろうろして居るのを見付け出した。いきなりうしろから、 「泥坊 ! 」 と聲をかけると、曲者はあわて、風呂場へ逃げ込む拍子に、流しの板の間へすってんころりと辷って轉ん で、四つ這ひになった。雪洞の明りに照らし出された様子では、背中に小さい包みを背負って臀端折りを した、蚊の脛のやうに兩脚の痩せた男で、轉んだはずみにした、か膝頭を打ったらしく、血がたらたらと 流れて居る。丁度お鶴の方へ褌が見えるくらゐに臀を向けて、臀の先へ右手に掴んだ出刀庖丁を突き出し けたゝま きっさき て居る。庖丁の鋒が眼に映ると、お鶴はぎよっとして、更に消魂しい整をあげて、 「泥坊々々」と連呼した。家中の者が「それツ」と云って飛び起きたらしい物音に、曲者は、す早く立ち ぼり ふんどし めんてい づきん 218
鬼の面 異ロ同音に發せられた。「 ( ガキが戻って來ないから、通知はたしかに屆いた筈だのに、出席とも缺席と も知らせて來ない。」と幹事の一人が報告した。 「壷井君は近頃先生のお宅へ參りますか。」 と、芳川は澤田老人の席 ~ 進みで、、杯を貰ひながら何氣なく尋ねて見た。 「いや、さつばり來なくなったが、君は何か、壷井に用があるのかね。」 老人は少し気がかりな眼つきをして、芳川の顏を判じるやうに眺めて云った。酒癖の惡い芳川は老人の 「眼つき」に促されて、醉ひに紛らしつ、正月の出來事を洗ひ晒ひ話してしまった。すると彼の外にも二 三人、壷井の爲めにこんな目に會ったと不平を云ふ者が出て來た。 「君たちに迄そんな迷惑をかけて居たか。あの男を買ひ被ってあんなにしたのは私が一生の失策だった。 あの男は非几な天賦を持って居ながら、才が德に勝ち過ぎたので墮落してしまったのだ。一つは私の導き 方が惡かったのだ。」 老入が斯う云って萎れ返ると、みんな恨みの睛れたやうな風を裝って、彼の墮落を気の毒がり殘念がった。 581