「先生、此の歌は僕にも覺えがあります。此れはたしか釋契冲の歌ですね。」 「よく知って居る。えらい ! 」 と云って教師は舌を捲いた。その驚きが終らぬうちに、春之助は白墨を取って同じ黒板へすら / \ と書き 下した。「牧笛聲中春日斜。青山一半入紅霞。借問兒童歸何處。笑指梅花溪上家。」 ついで それからこんな話もある。ある時校長が彼の教場で修身の講話を試みた序に、天神様の例を引いて、菅公 くわいしゃ の作った名高い和歌を二つ三つ書き記して説明した。それは大概入口に膾炙した極めて平易な意味のもの で、「此の度は幣も取りあへず」とか、「東風吹かばにほひおこせよ」とか云ふのであった。 「あなた方は此の歌のうちでどれが一番好きですか。」 と、共の時校長に質問されて、一般の生徒は誰も滿足な答をなし得なかった。最後に質間の矢は春之助に 向けられた。 「菅公の歌で僕が好いと思ふのは、その中にありません。」 と、彼は答へた。 「それなら外にどう云ふのがあります。」 校長は興味の眼を以て反問した。 「僕が一番好きなのは : した。「 : : 山わかれ飛びゆく雲のかへりくる影見る時ぞなほ賴まる、。」 「どうして共れが好きなのですか。」 ぬさ ・ : 」と云ひながら、彼は半ば夢見るやうな調子で天井を仰ぎつ、朗らかに吟咏 こち しやくけいちゅう 278
ふないくさ 女房の一隆家さま、どうぞ共の折の勇ましい船軍の有様を、妾どもにもお話しなされて下さりませ。 隆家いやノ \ 無風流な戦ひの話など、今更お許たちに聞かせたうもござらぬわい。それよりは此の頃の 都の春の物語こそ、先づ某が聞きたうござる。七年が間筑紫潟の潮風に打たれて、某はとんと田舍者に なり中した。みやびの道をも忘れ果て、、今は早や、歌よむ術だに覺東なう存じ申す。 女房の二噂に聞くさへ恐ろしい夷の船の押し寄せる、筑紫と云ふのはどのやうなところでござります。 びな 見回も旧と同じゃ、つに、 三月の室にはやつばり花が開くのでござんせう。 へんど 隆家海邊と云へば須磨明石より西をば知らぬ都の人に、邊土の春のうら悲しさはなか / \ 思びやられぬ ものゝけ それがし こと、さすが剛情の某も、つくる \ 都が戀しう覺えて、物怪なんどの憑いたやうに急いで上洛いたした が、もう暖い南の國では、某の旅立っ頃に花の盛りは過ぎ中した。 女房の一長い旅路にお顏の色も日に燒けて、御窶れなされた御様子に見えまする。さうして途中の陸路 つらゆき にも海路にも、さしたる難儀はござんせなんだか。貫之の日記に見えるやうな、海賊ばらは居りませな んだか みだうこんりふ 隆家などてさやうな障りがござらう。此の度び都に御堂建立の趣が、津々浦々の果までも聞え渡って、 ちしくわんぶつ ぶえき つかさらげぢ 地子官物はおそなはるとも御堂の夫役を怠るなかれと、國々の司等の下知に從ひ、毎日のやうに材木土 あなた 石を京へ運ぶ船や車が、遠きは四國九州の彼方より、海にも陸にも引きも切らず。海賊なぞの隙をうか ゞふ折とてもござらぬわい 道長いかさまさうであらうも知れぬ。都の加茂川も、材木を組んでは流す筏の爲めに、水の流が堰かる うみぢ やよひ それがし くがち
島田に結った娘らしい彼女の姿が、舊劇に出て來る八百屋お七のやうに、潔く美はしく感ぜられたのも事 實である。少くとも貧書生の彼に取っては、自分の手の屆かない領域に居る藍子よりも、己れと同じ階級 に住む娘の方が遙に愛らしく見えたに違ひない。殊に彼女の性質は、容貌よりも更に美はしく貴かった。 悧巧の癖に聊かも生意気でなく、柔順の癖に陰鬱でなく、愛嬌のある癖にお世辭を云はず、殆ど此れと云 ふ缺點のない小間使ひであった。ちょいとからかふと直ぐに頬つ。へたを眞赤にするのが、いたく夫人の気 に入って彼女は忽ち寵愛を一身に集めたやうな趣があった。半月も立たぬ間に、帶だの半襟だのを買って 貰へる殊遇にありついた。お玉は其れが癪にさはって、腹立ち紛れに不貞寢をしたり、奉公人に劒突くを 喰はせたり、夫人の私行を大びらに罵ったりした。果ては罪のない娘を相手に、無理な喧嘩を吹きかけて 泣かせるやうな事があった。 娘はお玉からどんな迫害を加へられても、決して夫人には訴へなかった。いつも臺所の女中部屋の隅に打 ち俯して、房々とした髱の毛をわな、かせながら、肩を搖す振ってそっと涙をしやくり上げて居た。 「あたしが居てはとても穩かに治まる筈はありませんから、奧様の思召しは有り難いけれど、いっそお暇 を頂いて、お邸を出てしまはうかと思びます。」 と、壷井が慰める度毎に娘は愚痴をこばして居た。 夫人もうすイ \ お玉の我が儘を知って居るのに、それを正面から制する譯には行かなかった。 「お玉に知れると面倒だから、默って居なければ困りますよ。」 こんな気兼ねをしながらも、夫人は辭退する娘を捕へて、頻りにいろ / \ の品物を與へた。 たぼ 504
「うんさうさ」と、相手が自分の推察通り眼を圓くして驚いたので、漸う機嫌を取り直して、「何もそん なにびつくりするには及ばないさ。廓へ行かなくなったからって、女遊びをまる切り止めると云ふんぢや あないんだよ。私は私で何處かへ集を變へる積りだから、お前はやつばり喜瀬川のところへ行くがいゝや 「ですが若旦那、共處に御如才もござんすまいが、今迄通りお互に遊びの事あ内々に願ひますぜ。こいっ が大旦那に知れた日にゃあ、私は首になりますからね」 こ′」と 「あは、、、 。その心配には及ばない。私にしたって兄貴へ知れたら、叱言を喰ふにきまって居るから、 ひとつあなむじな 云はゞお前と同穴の貉だね。大した事も出來ないが、 困った時にあ今迄通り、ちったあお前にも融通して やるさ」 がうぎ つる 「成る程成る程、そいつは豪儀に有り難うございます。正直のところ若日一那と別々になったって、金の蔓 にさへ離れなけりや、それで私は安心ですよ」 かほ 卯三郎は狡猾な事を無邪気な笑ひに紛らして云った。自分の容貌ぐらゐ美しくって愛嬌があれば、どんな 我儘な理窟を捏ねても、相手に憎まれる筈がないと、堅く己惚れて居るのらしい。實際又、彼の己惚れは 今迄立派に成功して來たのである。 「い、ともい、とも、お金の事は私がちゃんと引き請けた」 たくら 巳之介はたった今しがた思ひ付いた意地の惡い企みを直ぐに忘れて、ぐっと反り身になって云ったが、 かしつくる、考へて見れば、甚だ馬鹿々々しいやうにも感ぜられる。 116
玄一が質問に行き詰まると、彼は散々ロ汚く叱り飛ばした揚句に、必ずかう云って姉娘を顧みる。 「え、私知ってるわ。その字は尋常科の讀本にだって澤山あるわ。」 姉娘は問ひに應じて直ぐに答へる。 「そら御覽なさい、姉さんはあの通り覺えて居ますよ。」 「覺えて居るのは當り前だわ。私でなくったって、尋常科を卒業した人ならこんな字ぐらゐ誰だって知っ て、よ。知らないのは玄ちゃんだけだわ。」 「さうですとも、 私の叱言なんか玄一さんには答へがないんだから、ちっと鈴子さんから仰っしゃ って下さらなきゃあ困ります。ねえ玄一さん、あなた姉さんにあ、云はれたら、少しは口惜しいと思ひま せんかね。」 あくたい 二人はこんな調子で面白さうに惡體を云ひ募り、やがて玄一がしくしくと忍び音に泣出したりすれば、 「おやおや、とう / \ 泣き出したのね。ちょいと玄ちゃん、何が悲しくって泣いてるのよ ! 」 「鈴子さん、構はずに放って置いた方がよござんすよ。泣くなら勝手に泣かしてお置きなさい。そんな意 氣地なしだからいっ迄立っても學問が出來ないんだ。」 かう罵り合って、彼等は迭る迭る玄一の顰め面を覗き込んだ。不斷から表情の鈍い、起きて居るのか眠っ て居るのか分らないやうな玄一の顏が奇態に歪んで、鼻の穴と唇の周圍が醜い恰好に膨れ上り、兩眼から ぼたほたと涙を流す様子を眺めると、春之助は何となく一種の快感に唆られるのを覺えた。「天才はあら ゆる人間の心理を理解する。古への暴君と云はれた人々は、恐らく斯う云ふ種類の快感を強烈に要求する カー しかつら くや 336
せて云った。彼女のそれだけの些細なしぐさが、壷井には恐ろしく嫉ましいものに思はれた。 へん、人を馬鹿にしてやがる。」 「己の醉っ拂ふのが珍らしいって ? おくびまじ と、芳川は依然としてテェブルに額づいたま、噫交りに呟き始めた。 「人を馬鹿にしてやがる ! 己は此の頃酒を飮めばいつでもこんなに醉っ拂ふんだぞ。なぜ己がこんなに 大酒を呑んで惡醉ひをするか、金彌貴様は知らないのか。己をこんなにさせたのは、みんな貴様が惡いん だ。貴様の罪なんだ。」 だってあたしは、ちっともあなたにお酒なんかす、めた覺え 「さう、そりやどうも濟みませんね。 はありやしないわ。」 つの間にか出して居た手を引込めて、うすら寒さうに肩をふるはせて居る。 金彌は空々しい挨拶をして、い 「それが貴樣は悪いと云ふんだ。己は何も無理に貴様に惚れてくれろと云ってる譯ぢゃあないんだから、 そんなに空っ惚けるには及ばないぢゃないか。貴様が己を嫌って居る事は己だってよく知って居るんだ。 知って居ながら己は貴樣をあきらめる事が出來ないで、せめて斯うやって酒でも飮んで慰めて居るんだ。 : ねえおい、さ、つだらう。今云 だから貴様の罪だと云ふのに、ちっとも不思議はないちゃあないか。 った事がお前に分ってくれさへすりゃあ、己はそれだけで滿足するんだぜ。お前の器量に迷はされて、こ れ程までに墮落した男があると云ふ事を、お前が知ってくれさへすりゃあ己はほんたうに嬉しいんだぜ。 己はもう、共れ以上の事をお前に望んで居ゃあしないのだ。」 芳川はさめん \ と泣き崩れて、長い間しやくり上げて居た。 572
氏は山岡將軍のやうな頑冥固陋一點張りの武士道鼓吹者ではない。以前は外國小説の飜譯などを試みて、 文壇にも相當の貢獻をした人物であるが滿々たる野心と辛辣な性格とが次第に彼を政界に惹きつけて、今 では都下の新聞記者中有數な政論家となって居る。金を溜める事と、篤學な點に於いては、精力絶倫であ って、兎に角一種の快傑たるを失はぬと云ふ評判も立って居る。それだけ壷井には、猶更油斷がならない ゃうに感ぜられた。 「大いに吹き立て、書いてある」と云ふ老人の言葉に依ると、定めし大袈裟に自分の事を褒めちぎった推 薦状が認めてあるのだらう。冷血にして聰明なる拜島氏は、其れに接して果して何と感ずるであらうか。 かりにも「怪傑」と呼ばれる程の男であるから、澤田氏に比べれば一段と鑒識も高く、眼孔も鏡いに違ひ ない。恐らく彼は、自分に引っか、って欺されるやうな迂濶な人物ではなささうである。 一層壷井は手紙の文句を知らずに居る方が、恐毛がっかないでい、とも思ったけれど、しかしやつばり讀 まずには濟ませなかった。散々躊躇した揚句彼は封筒から中味を引き出して、さもイ \ 気味が惡さうにと ころみ、、を拾ひ讀みした。 ・ : 印ち壷井耕作と申す者、幸ひに奪堂の御眼識を以て、一顧の價 値ありと御思召し下され候はゞ、然る可く御採用相願度 : ・ : : : 」と云ふやうな文句が先づ眼に這人った。 それから壷井の境遇、經歴を簡單に舒述した一節があって、共の後の方に、「聊か奇矯の言を弄するに似 たれども、若し小生の見る所にして誤りなくんば、右靑年は方今稀なる俊材かと愚考罷在候」とか、「そ 面 のの才気の煥發せる、博覽強記なる、まことに驚くに堪へたるものあり、未だ高等學校在學中には候へども、 新聞記者として如何なる方面を擔任さするも、その職に堪ふる資格十分なりと存ぜられ中候。」とか、あ おぢけ 543
にしても見まほしい水際立った美少年がある。天は春之助に斯くまで秀れた腦髓を惠みながら、どうして こんな情ない容貌を賦與したのであらう。 春之助は、母のお牧が嫁人り時代には町内一の小町娘と讃へられた、評判の美人であったと云ふ話を嘗て 人傳に聞いた覺えがある。現在でも彼の女の目鼻立ちは何處やら品のよい所があって、娘時代の俤を留め て居る。父の欽三郎にしても、貧にやつれて居るとは云へ、若い頃には十人並の男前であった事を想像す ぶをとこ いぶか るに難くはない。彼は此の兩親の間に生れた息子でありながら、どうしてこんな醜男であらうと谺らずに は居られなかった。ふと、春之助は幼い時分に、 「春ちゃんや、お前さんの鼻ッつきはお母さんにそっくりだから、今にい、男におなりだらうよ。」 かう云って、自分を膝の上へ抱き上げながら頭を撫で、くれた親戚の叔母の言葉を想ひ起した。何でも共 れはまだ小學校へ這人らない以前の漸く物心のついた五つか六つ頃のことであったらう。「今にい、男に なる」と云ふ占ひが、それ程將來の運命に至大な影響を及ばさうとは知るよしもなく、彼は好い加減に聞 き流してしまったもの、、 今日になって考へ合はせれば、叔母の豫言のあまりに甚しく外れてしまったの が恨めしくも口惜しかった。遠い過去の追憶を辿って見ると、彼の美貌を豫言したのは強ち叔母ばかりで はないやうである。やつばり共の頃、母の所へ出人りする馴染の女髪結が、「お宅の坊っちゃんのやうな お綺麗な子供衆は、どちら様へ伺っても全くありゃあいたしませんよ。ほんとにまあ、眼つきから鼻つき がお母さんにそっくりで、まるで人形のやうでいらっしやる。」と、ロを極めて褒めた、へたことを、彼 は黴かな夢の如くに覺えて居る。さうして見るとあの時分には、彼もたしかに美しい容貌を特って居たに ひとづて あなが おもかげ 354
「きっとお前、ゆうべのうちに誰かにいたづらされたんだよ。それにしたって、そんな眞似をされたらば 眼が覺めさうなもんだのにねえ。」 藍子がしらる \ しくこんな事を云ふと、お玉は極りが悪くなって、 わたくし 「私、まるつきり知らなかったんでございますよ。おほ、、、、」と云って、照れ隱しに笑ったりした。 いたが最後明くる日の朝まで死んだも同然で、それこそ何をさ れたって分りやしないんでございますから。」 「だけどいたづらをするにも大概程があるちゃないの。そりやきっと兄さんに違ひないわ。」 「さうでございますかねえ。」 そらとぼ お玉はわざと室偬けて云った。 「さうさお前、兄さんに極まって居るわ。默って居ると癖になるから、後で怒っておやんなさいよ。」 藍子は盛んに焚き付けて置いて、二階の部屋へ上って來てから、莊之助と顏を見合はせて又一としきりを かしがった。 「へつ、お多め、態を見ろ。」莊之助は。へろりと舌を出して快哉を叫んだ。「後で何とか云ゃあがったら 眼の飛び出る程張り飛ばしてやる。あんな奴は共のくらゐな目に會はせて置く方が却って後來の爲めにな るぜ。」 兄は斯う云って、密かに機會を待ち構へて居たけれど、どう云ふ譯かお玉は終日彼に對して機嫌よく、気 味の惡い程愛嬌を振り蒔いて居た。 : ほんたうに私と來た日には、寢付 428
とも極めて上手で、 いつの間にやら相手の感情を巧に操って誤魘化してしまふ。小面憎い程剛情を張るか と思へば、直ぐその後で痒い所へ手のとゞくやうな気轉を利かす鮮かさに、ほと / \ 感心させられて夫人 は今日まで釣り込まれて來た。其の上お玉が居なくなったら、後暗い自分の行動が早速不便を感ずる事に 心付くと、一旦の怒に任せて容易に彼の女を解雇する譯に行かなかった。 苦手のお玉を除いてしまへば、此の駿河臺の津村の邸の中に、夫人の恐れる人間は一人も居ないのである。 他人の身の上を我が儘だと云ふ彼の女自身が、どのくらゐ我が儘な生活をして居る事であらう。「奥様ぐ まんざら らゐお仕合はせな方はございませんよ。」と、折々お玉が羨ましがるのは、滿更のお世辭ではない。再來 年で四十になる年恰好とは思はれぬほど、夫人は常に若々しく花やかで、丸髷の大きさから衣裳持物の派 、、しゃあが 手な好みと云ひ、何となく阿娜めいたなまめかしい辯舌と云ひ、知らない人は誰しも彼の女をそれ者上り の女であらうと推定する。知って居る者は商賣人でもあんな眞似は出來なからうと、彼の女の言行に驚き もすれば批難もする。 けんぎち 夫人が津村家へ嫁いだのは二十一歳の冬であった。彼の女の方は初婚であるが、夫たるべき堅吉は其の時 既に二度目であって、亡くなった先妻の子の、今の莊之助が居たのである。何故夫人の實家では、評判の 資産家でありながら頗る不釣合な條件を忍んで、大切な總領娘を微々たる一法學士の許へ片附けたのであ らう。彼の女の父が、堅吉の人物と手腕に惚れ込んだ結果であると云ふやうな、一般の噂の蔭に、外にも 何か深い仔細がなければならぬと、嘗時世間の人表は云ひ合った。すると夫人は結婚してから程なく姙娠 やっき あゐこ して、八月ばかりで月足らずの子供を生んだ。その娘が令嬢の藍子なのである。世間の人々は再び顏を見 ねん しゃうのすけ さらい 378