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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第4巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第4巻

事はむづかしい。だから私が思ふのに、彼の女の藝はラマヤナの詩にほんたうの命を吹き込んだばかりで なく、彼の女自身の魂をも、淨く樂しい詩の世界へ、導き人れる力を持って居たのだらう。」 僧侶には老人の言葉が理解されなかった。人間の魂はたゞ禪に依って救はれる。人間が聖者になるには、 悟りの道を經典に學び、解脱の法を信仰に求めるより外、便のあるべき筈はない。それだのにその老人は、 藝のカで神に近づき、詩の功德で聖者になった尼の生涯を説くのである。 「 : : ・ : : 大方お前さんは、詩と云ふもの、有り難さを、まだ十分に知って居ないのだらう。」 老人はかう云って、圖星をさした。 「外國に生れて、印度の國の言語の香を味はふ事の出來ぬ者には、佛陀の慈悲の大いさが分っても、詩の 文句の深さが測れよう筈はない。ちゃうど此の國の肥沃な山野が、無限の寶石と果物とを産するやうに、 アシュプュジャげつ 此の國の言語の數は、類濕縛庚闍月の綠林の枝葉よりも茂く、室羅伐拏月の人梅の雨量よりも豊かなのだ。 ゃうらく さうして、共れ等の言語が含蓄して居る音韻には、新鮮な北橘の實から滴るやうな液汁と、精巧な瓔珞の 珠から放たれるやうな光澤とが、有り餘るほど溢れ漂って居る。われ / \ の國の言葉が、どうしてこんな おほがみプラアマ に美しいかと云ふと、其れは入間が勝手に拵へたものではなく、宇宙の大訷梵天が天人に授けて、天人か ら更に人間に傳へられた物だからだ。しかしまだ天人が其れを人間に傳へる前は今よりもっと美しい、も っと貴い神の言語であったのが、人類の言葉となってから、次第に卑しく鈍くなったと云はれて居る。た 弉ゞ人間の中の詩人ばかりが、不純なわれ / \ の言葉のうちから神の言語を選り分けて、詩と云ふものを作 玄 ってくれる。 詩の有り難さは共處にあるのだ。詩は人間の言葉の中で、一番神に近いものなのだ。 げだっ かをり えだは シュラ ナげつ したゝ くだもの 349

2. 谷崎潤一郎全集 第4巻

少女の一 ( 懊れったさうに肩を振りながら ) よう先生 ! それとも先生はテニスがお嫌ひなんですか。 老人わしかい ? わしはな、文久生れの老人で、テニスなど、云ふ西洋の遊びは、好きにも嫌ひにもや った事がないから、お附合びが出來ないのだよ。わしは斯うやって日にあたりながら、皆さんの遊戯を 見物して居るのが一番面白い 少女の一だって、外の先生たちは誰方だってテニスをなさるんですもの。お出來にならなければ敎へて 上げますから、兎に角彼方へいらっしゃいましな。 老入いやいや、わしのやうに耄碌すると、何も彼も覺えが惡くなってな。それに體は利かなくなるし、 眼は遠くなるし、此のやうに年を取っては人間もおしまひだよ。まあまああなた方のやうな若い時代が 人生の花だ。わし見たいな老入を相手にせずと、子供はやつばり子供同士で遊んだ方がっきづきしいだ ら、つ 少女の一先生、つきづきしいッて、何のことですか。 老人っきづきしいと云ふのは、昔の言葉で似つかはしいと云ふ事だ。枕の草紙などによくある言葉だが、 三年級の讀本には出て居なかったかな。 少女の一そんな言葉はまだ敎へて戴きませんわ。私は三年生ちやございませんもの。 老人はてな、あなたは三年生ちゃなかったかな 少女の一え、、二年生ですわ。 老入さうだったかね。わしは此の通り耄碌して居るからなう。 あっち まうろく どなた 262

3. 谷崎潤一郎全集 第4巻

り過ぎて行く "passing whim" が、あなやと思ふ隙もなくひょいと口から出てしまって、立派な獨り語 になる事がある。幸ひにして彼がそんな眞似をする時は、周圍に誰も居ない場合が多かったけれど、萬一 人に聞かれたならば隨分耻かしい事だの物凄い事だのをうつかり口走る折があった。さうして其れ等の耻 うは ' こと かしい言葉や物凄い言葉は、いつも大概種類が極まって居て、殆んど狂人の譫語としか思はれない突飛な しげ 文句ばかりであった。彼が最近に一番繁く口走るのは、先づ下に記す三通りの文句である。 「楠木正成を討ち、源義經を平げ・ と云ふのが一つ。 「お濱ちゃん、お濱ちゃん、お濱ちゃん。」 と、女の名前を三度呼ぶのが一つ。 「村井を殺し、原田を殺し : と云ふのが一つ。几そ此の三つが、どう云ふ譯か最も頻々と彼の獨り語に上るのであって、此の中のどれ か一つを、一日の内に云はないことはないくらゐである。いづれも短い文句であるが、此れ等の言葉を此 處に記した文字通りにしゃべってしまってから、章三郎は始めてはっと我に復る。たとへば第一の文句で、 : 」と云ふところまで來なければ、彼は自分の獨り語に氣が付かない。其處ま : ・」へ來ると必ず驚いて口を噤む。第二の文句でも、「お濱ちゃ 悲では夢中でロ走って、「 : ・・・・・ : 平げ : ・ : 」を云ひ終るや否や、竦 端ん」の名をきっと三度だけ繰り返す。第三の文句なら「 : : : : ・原田を殺し : ね」と 然として身ぶるひをする。調子は常に中音で早ロで、普通の入の寢言の通りである。 ・ : 源義經を平げ・ とっぴ しよう 383

4. 谷崎潤一郎全集 第4巻

くちうごめ ぜんどう 蝓の蠢くやうな緩やかな蠕動を起した。 「かあちゃん、 : あたい糞こがしたいんだけれど、此のま、しても、ゝゝ 「あ、い、ともい、とも、その儘おしよ。」 母は我が子の最後の我が儘を、快く聽き人れてやった。 暫くの間、病人はハッキリ意識を囘復して、左右の人々にぼつりぼつりと言葉をかけた。 「あ、あ、あたいはほんとに詰まらないな。十五や十六で死んでしまふなんて、 : だけど私は ~ 古しく も何ともない。死ぬなんてこんなに樂な事なのか知ら : 一座は哲人の教へを聽かされて居るやうに、堅唾を呑んで耳を澄ました。その言葉こそ、今肉體から離れ て行かうとする靈魂の、斷末匱の聲であった。それが終ると、次第に病人は息を引き取った。 「なんだなあ、病人と云ふ者はよく死ぬ時にシャックリをするけれど、此の子はちっともしなかったなあ。 芝居なんぞでもシャックリをして見せるもんだが・ 父は不審さうに臨終の様子を眺めて云った。死んだ體はまだ徴かに動いて居た。もくもくと肩の筋肉を強 ちよく 直させて、唇の間から、葉牡丹のやうに色の褪めた舌を垂らした。 み不意に、母親がだらしのない、大きな整でわいわいと泣きかけたが、父親に激しくたしなめられて袂を口 悲に咬へながら、屍骸の傍に打ち俯してしまった。 者 端 異 かたづ も力も」 あたい 451

5. 谷崎潤一郎全集 第4巻

病人は、黴かな、カのない聲で皮肉を云って、や、ともすると痰のからまる咽喉の奥をぜいぜいと鳴らし すく 長い間、章三郎は怯えたやうに立ち竦んで、殆んど何等の表情もない、透き徹るやうな病人の瞳の中を睨 んで居たが、此の間から我慢して居た憎惡の情が共の時一度に爆發した。 「あまっちよめ、生意気な事を云ゃあがるな ! 」 と、それでも彼は気味惡さうに二の足を蹈みつ、、低い調子でひそびそと云った。 「なんだ手前は ? 足腰も立たない病人の癖に、口先ばかりッペコペと勝手な事を拔かしゃあがる。可哀 さうだから默って居てやりゃあ、い、気になって何處まで增長しやがるんだ。手前の指圖なんぞ受ける必 要はないんだから、大人しくして引込んで居ろ。どうせ手前のやうな病人はな、 あと かう云ひかけた章三郎は、次ぎに云はうとする言葉の、餘りな慘酷さに自ら愕然として、後の語句を曖味 に濁らせた。 : 他人の世話を燒くよりも、自分が世話を燒かれないやうに用心さ ~ して居りゃあ、それで手前の 役目は濟むんだ。馬鹿 ! 」 み病人は再び何とも云はなかった。蒸し暑い、森閑とした夜更けの室内に、依然として表情のない彼女の瞳 悲は、いっ迄もいっ迄も氷の如く冷やかに章三郎を視詰めて居た。 端「兄さんの云はうとして躊躇した言葉の意味は、私にもよく分って居ます。どうせ私は、もう直き死んで 異 しまふんです。」 おび みづか とほ 445

6. 谷崎潤一郎全集 第4巻

分らないと云ふ強迫觀念が、悪夢のやうに彼を惱まして居る折柄であった。 「僕なんぞも、あんまり度び度び見舞ひに行ったんで、感染してるかも知れないと思ふよ。あの鹽梅ちゃ 鈴木はとても助からない。先づ死ぬだらう。」 「そんな事を云ふもんちゃない。若し云ひ中てると気味が惡い。 章三郎は妙に昻奮して、急いで Z の言葉を打ち消した。 「あの鈴木が、此の間まで我れ我れ同様に達者であった靑年の鈴木が、もう直き此の世から居なくならう として居る。」 さう考へると、不斷は無意味に發音して居た「死」と云ふ名詞が、俄かに千鈞の重みを以て、暗く物凄く かぶ 心の上に蓋さって來るやうであった。「先づ死ぬだらう。」と、何の氣なしにロ走った Z の言葉が一種異様 かげ な響きを含んで、「死」其の物のやうな黒い陰を章三郎の胸に投げた。 はそれきり五圓の催促を云ひ出さなかった。二人とも共れを覺えて居ながら、ロへ出さずに濟まして居 るのが、何となく章三郎には滑稽で、間が惡かった。 「いっ迄立ってもお前が債務を果たさないから、鈴木がとうとう死ぬ事になった。此れでお前の不信用も 自然と消滅する譯だ。なんとお前は仕合はせぢゃないか。」 意地の惡い運命の神が、斯う云って自分を揶揄して居るやうに彼は感じた。 「友達の金ぐらゐ借倒したって、どうにかうまく解決がつくだらう。」 と、章三郎がたかを括って居た通り、 いかにもうまく解決がついてしまったのである。彼の爲めには餘り 420

7. 谷崎潤一郎全集 第4巻

鶯姫 少女の一ですが先生は、話の中に時々昔の言葉をお使ひなさるんですね。 老人うん、大方人間が舊弊だから言葉まで古代になるんだらう。あは、、、、。 少女の一それちゃあたし、彼方へ行って誰か外の人を誘って來ますわ。 さうなさい。 老人あ、さうなさい、 少女の一、ばたばたと下手へ走り去る。 老人は又暫く運動場を眺めて居たが、やがてチョッキのポッケットから取り出した鐵縁の老眼鏡をかけて、上着の内 隱しに入れてあった小型の書物を膝の上に開きながら、靜かに讀書に耽り始める。しかし、一ペ工ヂばかり讀んで居 るうちにだんだん夢に襲はれて來たらしく、二三度こくりこくり居睡りをしたかと思ふと、いつの間にやらだらし なく首を項垂れて、ほんたうに寢込んでしまふ。 その時まで、側面の櫻の木蔭に繩飛びをして居た四人の生徒等は、次第にゴランダの前の方 ~ 飛んで來る。中で一番 年なのは、鈴木道子と云ふ四年級の生徒で、十六七歳の、お轉婆らしい少女である。その次は十五六歳の木村常子 と中川文子。最年少者は二年生の壬生野春子。四人のうち三人は和服を着、春子だけが純白の淸々しい洋裝をして居 うりざねがほ る。中高の瓜實顏の、際立って眉目の秀麗な十四五歳の少女で、背丈のスラリとした、優雅な體つきの何處か知らに、 名門の姫君らしい品位がある。 鈴木道子 ( ふと大伴老人の寢姿に心付き、繩飛びの手を休めて三人に目くばせする ) ちょいと、しつ、しつ ! 皆さん お靜かになさい。大伴先生が又此れを ( 居睡りの眞似をする ) なすっていらっしやるわよ。 三人、遊戯を止めてそっと石段の下に歩み寄る。 も、心持さうに、すやすやと眠っていらっしやるの 木村常子あら、ほんたうよ。まあ何も知らないで、 ね。 あっち およ 263

8. 谷崎潤一郎全集 第4巻

でなさるのでござんする。早う御機嫌の直るやうに、此れへお這入りなさりませいなあ。 梅野、靱負の手を執って、蚊帳の方へ導かうとする。 負 ( 梅野の手を振り切る ) いや / \ 、今宵はそれどころではござるまいに、かねて手筈を定めて置いた大 事を前に控 ~ ながら、お部屋樣にも梅野どのにも、なぜそのやうな氣樂を云うておいでなさるのちゃ。 梅野その一大事があればこそ、お部屋様には猶更お越しを待ち憧れて、御案じなされてゞござんする。 あひ いざな : それ、あの約束の時刻には、まだ一時あまりも間がござんする。 ( 再び手を執って、誘はうとする ) 靱負 ( 梅野の手を拂ひ除けて蚊帳の外に長まり、お銀の方の枕許 ~ わざとらしく慇懃に兩手をつく ) お部屋様にはまだお眼 しもざまをなご 覺めになりませぬかな。はしたない痴話喧嘩は下様の女子のすることでござります。昔の誰かならば知 ふてね : そのやうなお心がけ らぬこと、卑しい藝者娼妓のやうに不貞寢をなさるとは何事でござります。 で、殿のお家を傾ける、一大事は遂げられますまい。 ( お銀の方、此の言葉にびつくりして、蓐の上に起き直る ) さ て / 、、賴みがひのないお方ぢゃ。 ・ : 劍の刀を渡るやうな、危い戀路の樂みがあれ お銀の方靱負どの、またそのやうな嫌味ばっかり。 ばこそ、そなたの惡事に加擔をするのでござんせうに、どうせ妾は素性の卑しい女ゅゑ、藝者上りが惡 ければ、嫌はうと捨てようと殺さうと、そなたの自由になさりませ。お家を乘っ取る謀が、そなた一人 代のカで成就するものなら、妾を殺して下さりませ。 ( 蚊帳の外に出て、靱負の前に立て膝して据わりながら、銀の長 時 怖煙管で煙草を吸ふ ) もし靱負様、今更あまりな言葉でござんすぞえ。 、今のはほんの戯れでござります。誰がお前様 靱負 ( ます / \ 慇懃に頭を下げて、低い整で輕く笑ふ ) あは、、ゝ

9. 谷崎潤一郎全集 第4巻

商人から、あなたの嚀を聞かなかったら、もう少うしで私は大事な商品を、持ち腐れにする所でした。其 の商人の話に依ると、私の人魚を買ひ得る人は、南京の貴公子より外にはない。其の人は今、歡樂の爲め なげう に巨萬の富と若い爺とを抛たうとして、抛つに足る歡樂のないのを恨んで居る。共の人はもう、地上の美 味と美色とに飽きて、現實を離れた、奇しく怪しい幻の美を求めて居る。共の人こそは必ず人魚を買ふで あらうと、彼は私に教へたのです。」 異人は相手が、自分の品物を買ふか買はぬかと云ふ事に就いて、少しも危惧を感じて居ないやうでした。 彼は貴公子の心を見拔いて居るやうな、確信のある言葉を以て語ったのです。而もさう云ふ彼の態度は、 相手に何等の反感を與 ~ なかったのみならず、寧ろ止み難い焦憬の念をさ ~ 起させました。貴公子は、彼 の説明を聽かされて居るうちに、此の男から必ず人魚を購ふべく、命令されて居るやうな気になりました。 自分が此の男から人魚を買ふのは、豫定の運命であるかのやうに覺えました。 「共の商人の云った事は眞實だ。私はお前が、媽港の人から聞いた通りの人間だ。お前が私を捜したやう に、私もお前を捜して居た。お前が私を信ずるやうに、私もお前を信じて居る。私はお前の賣り物を一應 さっき 檢分する迄もなく、お前が先云うた代價で、今直ぐ人魚を買ひ取って上げる。」 貴公子の此の言葉は、彼自身ですら ( ッキリと意識しない内に、胸の底から込み上げて來て、思はず彼の き 唇に上ったのです。さうして見る間に、約東通りの金剛石と紅寶石と孔雀と象牙とが、或は五庫の匱の中 魚から、或は苑囿の檻の中から、庭前 ~ 持ち運ばれて、石階の下に堆く積まれました。異人は今更、貴公子 の富の力に驚いたやうな素振もなく、靜かに共れ等の寶物の數を調べた後、車上の轎の布簾を鞨げて、共 ひっ 199

10. 谷崎潤一郎全集 第4巻

ふ。われと中學にて同窓の—醫學士なりしなり。 0 氏が診察所を借りて泣き叫ぶ赤兄の局部を見たる後、 此の手術は尋常の病院にてはむづかし。幸ひ毎朝大學の法醫學敎室に通ひっ、あれば、明日の午前十時ご ろ、大學の外來に來らるべし。彼處にて切開せんと、ねんごろなる言葉にいとゞ心強く覺えて今更舊友の 有難さを悟りぬ。 か、るうちにも母上のこと気にか、りて、取り敢へず蠣殻町へ電話にて問ひ合はす。今朝は著しく病勢衰 へ、張れもひき、熱も七度内外に減退したる故、まづ當方は大丈夫なり。それよりも鮎子の腫物こそ安か らねと、父上自ら電話口にて述べ給ふ。げにうれしきことを聞く日かな。病勢衰へたりとの一言に、われ わだか はさながら蘇生の心地して、きのふより胸に蟠まりし憂の雲の、一時に睛れ睛れと拭はれたらんが如し。 熱の減退したるは何よりのこと、熱だにひかば彼の病はやがて治癒すべしと、くろうとの O 氏に慰められ て、いよノ \ 喜び極まりなく、地にぬかづきて訷佛に感謝の祈疇を捧げばやとさへ思ふ。つね日ごろ、不 孝者にて通りし我の、月に一度も親の家など顧みることなかりしに、母が病氣を知りたる日よりかばかり 心を勞せんとは、自らも思ひ設けぬほどなり。 妻と鮎子とを 0 氏方より家に歸して、我はひとり蠣殼町に行く。病室に人ればあかるき縁側の方を向きて 横さまに臥したる母の顏、まづわが注意を惹く。けふは頭に氷嚢もなく、例の忌まはしき塗り藥も剥げて、 全く舊態に復したりとは云ひ難けれど、目元にも口元にも昔ながらの母が面ざし現れたるぞ賴もしき。折 から見舞びに來給ひたる岩田屋の伯母御を枕邊に見上げて、何くれと語り給ふさまきのふまで死なんと狂 ひ叫びし人のやうに思はれず。「妾は辛き目に遇ひつるぞや。」悲しかりし此の言葉は既に過去の夢となり 464