けやうがないと云ふのさ。それぢや一體その女は此の後どうなりませうかって云ふとね、『さあ、』と云っ て暫く首を傾げて居たが、『普通の人間ならば自殺をする所なんだが、もと / \ さう云ふ臆病な、馬鹿に い。私が思ふのには、結局、命が惜しさにそ 氣の弱い御婦人なのだから、・よもやそれだけの勇気はあるま の猿の云ふなり次第になってしまふでせう。いや、きっとさうなります。』って云ふのだ。私はそれでも まさかと思って居たんだが、恐ろしいもので、とう / \ お染はそれから間もなく、占者の云った通りにな ってしまった。 かう云って、お爺さんが其の髯のやうに長い / \ 話を句切った時には、梅千代も、照次も、雛龍も、化石 したやうに固くなって、眞青な顏をしながら、齒の根も合はずに聞いて居ました。 「さうしてお爺さん、それからお染さんは全體どうなったって云ふんでせう ? 」 餘程立ってから、梅千代が聲をふるはせて、恐る / \ かう云ひました。 「どうなったって、それから猿につれられて遠い野州の山奥の方へ行ってしまったのさ。何でもお花見の 事件があってから半月ばかり過ぎて、或る日お染は急に居なくなってしまったんだ。いっ迄立っても歸ら かきお 話ないから變だと思って、鏡臺の抽き出しを調べて見ると、内藤さんと私とに宛てた遺書のやうなものがあ つってな、自分の不仕合はせを重ね / \ 歎いた揚句、かうまで深く見込まれた以上は、とても逃れる道はな いと觀念して、猿と一赭に山奥へ行くからどうぞ可哀さうな人間たと思ってくれろ。同じ浮世に生きて居 る以上は、御縁があったら又お目にか、れるかも知れないけれど、先づ其れ迄は死んだ者だとあきらめて、 今日を命日に線香の一本も手向けて下さいと書いてあるのさ。私は内藤さんと一絡に、本所の太平町の木 547
たかと思ふと、今度は淺ましい四つ足に見込まれて、もう生きた空もないのでございます。』 と云って、涙をさめる、、と流して、わしの膝の上に面を伏せて身を顫はせて居る。 『四つ足に見込まれたなんて、今時そんな馬鹿げた事があるものぢゃない。そんな噂がひょっとして土地 の評判にでもなったりしたら、それこそお前、飛んでもない事になるちゃないか。お前は不斷から紳經質 で、下らない事を気に病むからいけないのだ。成る程猿が此の船の中に居たのは、不思議には違ひないけ れど、何も始めからお前を附け狙って居たのかどうか分りやしない。ほんたうに取り越し苦勞も好い加減 にするがい、ぜ。』 かう云って私が宥め賺しても、お染は頻りに頭を振って、 、え、さう云って下さるのは有り難うございますが、あたしはどうしても猿に見込まれて居るのに違 ひないんです。あなた方があの猿を御覽になったのは今日が始めてかも知れませんが、あたしはもう此の っ : ねえ兄さん、あなたはいっぞや、 頃は毎日々々、あの猿に取り児かれて攻めさいなまれて居ます。 あたしが夜中に猿に苦しめられて呻って居たのを御覽になった事がありはしませんか。』 さう云はれて私は内心にぎくりとしながら、猶も默ってお染の顏を視詰めて居た。するとお染は、『兄さ んだから打ち明けた話をしますが、どうぞ誰にも、きっと内證に願ひますよ。』と云って、次のやうに語 り出した。 : 此の話だけは、あんまり気味が悪いので、誰にも云ふまいと思って居たのですけれど、もう斯う なれば正直に話してしまひます。それも兄さんにだけ、そうッと打ち明けて、相談をするのですから、ど 540
「どうすると云って、 : ィー一から金を借りられない場合を考へて置かなかったから、どうしてい か自分にも全く分らないが、たゞもう途方に暮れると云ふより外、仕方がないだらう。少くとも、僕は君 にこんな話を持ち出すまでに、出來るだけの手段を講じて見たのだ。八方へ駈け擦り廻って金策をしても、 遂に成功しなかったので君の處へやって來たのだ。だから君に斷られ、ば、今度は誰に賴まうと云ふあて もないのだ」 己はかう云って、話題を屁理窟から實際問題の方へ向き直させる。それをはまた屁理窟の方へ引っ張っ て行く 「君のよく / \ の場合が、僕から金を借り得ると云ふ豫想とは、何等の關係もなく發展したのだとすれば、 君は當然、僕に斷られた時を考へなければならないぢゃないか」 「さう云はれ、ばさうかも知れないが、僕は御承知の通り、金の事に就いては行きあたりばったりの人間 だから、先の先まで考へるやうな事をしないのだ。斷られた場合にどうするかと云ふ質間を受けて見ると、 成る程己はどうする気だったらうと考へる。しかし考へたところで別段方法もないのだから、まあその時 に打つかって見なければ分らないのだ」 「さうだらう、君はいつでも、その行きあたりばったり主義で通して來たのだらう。つまり、よく / 、の 場合で、事態が行き詰まってしまっても、その場になれば自然と解決の道が開けて、思ったよりは何事も なく君は其處を乘っ切って來たのだらう。今度にしても、打つかって見なければ分らないと云ふのは、手 段が盡きたと云ふ事ではなく、何とかして凌げない事もないと云ふ意味になるだらう。だから君のやうな 260
「そりや、どうもかうもありやしない。 つまり此れ迄の關係をすっかり自白して、不孝の罪を詑びた上に、 中譯がないから家出をする。どうぞ此の後、自分のやうな人間は、我が子と思はないでくれ、雪子はもう 此の世に居ない者とあきらめて、死なうと生きようと勝手にさせてくれ。 : と云ふやうな風に書けば い、さ。さうすりやきっと僕たちが心中する氣で飛び出したと思って、大騷ぎをするにきまって居る。」 由太郎は得意の鼻を蠢かして、非常な名案を授けるやうな句調で云った。 だから成る可く、心中するに違ひないと思はせるやうに書くんですね。そこがむづかしい所です 「だってそんな、初めつから親を欺す氣で家出するなんて、そんな眞似は出來はしない。」 雪子は男の破廉恥な言葉を、心の底から唾棄するが如く、眉をひそめて腹立たしげに云った。 「家出をするくらゐなら、私は二度と再び歸っちゃ來ない。 來られる筈がないぢゃないの ? 」 「歸って來ないでどうすると云ふんです。僕等のカで、獨立して新世帶を持って、暮らして行けるとでも 思って居るのかね。それともほんたうに死ぬ積りかね。」 「えつ、内へ歸るくらゐなら、あたし一脣死んだ方がい、くらゐだわ。」 女は寧ろ破れかぶれに、かうは云ひ捨てたやうなもの、、心から死ぬほどの覺悟がついて居るのではなか った。自分も男も、犯した罪は同じであるのに、自分だけが特に忌まはしい報いの種を宿したのが、口惜 しくもあり恨めしくもあって、出來るだけ男を困らせてやらうとするのらしい 「あは、、」 108
路次をいくつも潜った。あの邊の地理に精しくない私は、園村の跡について眞暗な狹い道路を、すたすた と出たり這入ったりしたので、未だに共處がどの方角のどう云ふ地點に方って居るか、はっきりとは覺え て居ない。 「おい、もう直ぐ其處だから、足音を靜かにし給へ ! それ ! その五六軒先の家だ。」 默って急ぎ足で歩いて居た園村が、かう云って私にひそひそと耳打ちをしたのは、むさくろしい長屋の兩 側に並んで居る、溝板のある行き止まりの路次の奧であった。 「どれ、どこの家だ、どこに鱗の目印が附いて居るんだ。」 すると、私のこの質問には答へずに、園村は立ち止まってちっと腕時計を視詰めて居たが、忽ち低いかす れた聲に力を人れて、 「しまった ! 」 と云った。 「しまった ! しまった事をした ! 時間が二分過ぎちまった。もう三十八分だ。」 「まあい、から目印は何處にあるんだ。その目印を僕に教へ給へ。」 私は、彼がこんなに熱中して居る以上、せめて鱗形に似通ったやうなものが、何か知ら共邊にあるのだら うと思ったので、かう追究したのであった。 晝「目印なんぞはどうでもい、。後でゆっくり敎へてやるからぐづぐづしてないで此方へ來給へ。此方だ此 3 ヾ、」 0 どふいた あた こっち
て置いてやらう。」 あらかじ ふところ 豫め用意して置いたものか、大川は懷から二百圓の札の東を出して、スポンと机の上をハタいた。さう して大に物を投げるやうに、共れを靑野の胸先に置いた。 「さ、 い、だらう。かうすれば君に文句はないんだらう。僕は今日はいつもと違って、ひどく獅癪が起っ きようきん て居るんだから、少しは君も胸襟を開いて、正直になってくれ給へ。僕は此の金を貸すんぢゃあない。此 の金で君の正直を買ふんだ。」 「どうも、さう君のやうに腹を立てられちゃあ實際弱るなあ、僕は謔をつくまいとは思って居るんだけれ ど、知らず識らず謔をついてしまふんだよ。僕のはもう、つきが慢性になって居るんだから、此の病気 はどうしたって直りつこはない。 こんな事をしゃべって居るうちに、突然、青野の胸には自己に對する反感と憎惡とが湧いて來た。何かま づい物を喰ひ過ぎた時のやうな、重々しい、倦怠と悲痛とが半々に交ったやうな、遣る瀨のない氣分が體 わた 中に充ち亙った。考へて見ると、自分にたった一人の友人であった大川さへも、もう今日では友人でなく かて なって居る。彼はたゞ、彼自身の嫉妬を蔽はんが爲めに、敵に糧を送りつ、ある人間に過ぎない。此方に 共れだけの不都合があるとは云へ、金を惠まれる代りには、自分は常に此の男から有らん限りの侮辱と輕 蔑とを浴びせかけられる。親の口からも云はれないやうな、裁判官でも敢てしないやうな、暴慢な、無禮 な言語を自分は彼から廿んじて聞かされて居る。彼はいつの間に、自分に對してそんな權力を持つやうに なったのだらう。全體誰に許されて共の權力を行使して居るのだらう。 さうして彼は、自分に金を あへ ぞうを 356
かう云って彼はにこ / \ 笑った。 ちゃうど時計が五時を打ったが、好い鹽梅に彼は気が付かないらしく、全然話に沒頭して居る様子であっ 「 : : : ・ : 寫眞が終って場内が明かるくなったら、僕は三人の風采をつくづく見てやらうと思って居たんだ が、彼等は共れ迄待ってはくれなかった。角刈の男が紙切れを捨てると、女はわざと溜息をして、詰まら ないからもう出ようぢゃありませんかと、眞ん中の男を促して居るやうだった。女の聲はいかにも井った るく、我が儘な、だゞを捏ねて居るやうな口振だった。彼女がさう云ふと、角刈りが一緖になって、さう だな、あんまり面白くない寫眞だな、君、出ようちゃないかと、相應じたらしかった。二人に急き立てら れながら、眞ん中の男も不承不承に座を離れて三入はとう / \ 出て行ってしまった。前後の様子から察す ると、二人は初めから活動寫眞を見る気ではなく、ただ暗闇と雜沓とを利用して、秘密の通信を交す爲め に、其處へ這入って來たに過ぎないのだ。しかし彼等が居なくなったお蔭で、僕は易々と此の紙切れを拾 ふことが出來た。」 「で、その紙切れに書いてある暗號文字はどう云ふ意味になるのだか、それを聞かせて貰はうちゃない 「ポオの物語を讀めば雜作もなく分るんだが、此處に記してあるいろいろの數字だの符號だのは、みんな 英語のアルファベットの文字の代用をして居るんだ。たとへば數字の 5 はを代表し、 2 はを代表し 3 はを代表して居る。それから符號の↑はを表し * はれを表し、 ; はを表し ? はⅡを表して居る。そ こ 0 ゝ 0 452
私は始終其れを氣に懸けて居た。且私には、友情以外の好奇心もまだ幾分かは殘って居た。纓子と稱する 女と角刈の男とは、あれからどうなったであらう。不思議な彼等の内幕が、少しは園村にも分ったゞらう 待ちに待って居た園村からの書信が、それでもとう / \ 私の手元へ屆いたのは、九月の上旬であった。 「ふん、先生やつばり我慢が出來なくなったと見える。」 私は急に彼の男が可愛くなったやうな莱がして、忙しく封を切って見た。が、手紙の最初の一行が眼に這 「此れを僕の遺書 入ると同時に、私の顏は忽ち眞青になった。なぜかと云ふのに、共の一行には、 かう書いてあったからである。 だと思って讀んでくれ給へ。」 「此れを僕の遺書だと思って讀んでくれ給へ。僕は最近に、多分今夜のうちに、纓子の爲めに殺される事 さうして共れは、、ゝに を豫期して居る。彼等は恐らく例の方法で、僕の命を取らうとして居る。 逃れようとしても逃れられない運命でもあり、また僕としても、共れ程逃れたいとは思って居ない。要す るに僕が死ぬことはたしかだと思ってくれ給へ。 かう云ったら君は嘸かしびつくりするだらう。僕の殆んど方途のない物好きと醉興とを、憫笑もすれば既 考へ直してくれ給 嘆もするだらう。だがどうか僕を憎むことだけは、若しも憎んで居たとしたら、 語 へ。命を捨て、までも飛び込んで行く僕の物好きを、たゞ單純な物好きとのみ思はないでくれ給へ。僕は 書此の間、明かに君に對して無禮だった。あの時の僕の態度は君に絶交されるだけの價値は十分にあった。 正直を云ふと、僕はあの時、戀しい戀しい纓子の爲めならば、僕の最後の友入たる君を失っても、惜くは 513
あかし 耳環の外には體の何處にも裝飾を施さず、服裝なども寧ろ薄汚いくらゐ古びた垢染みた物を着込んで居る。 「ねえ、先生、靑野さんが又無心に來たのぢゃなくて ? 」 彼女はいつの間にかソオフアに行儀わるく臥ころんで、天井に煙草の輪を吹いて居た。 「そんな事はどうだってい 。今日は少し此れから出かけなけりゃならない所があるんだから、遊んで居 ないで歸ってくれ給へ。」 つつけんどん 大川は立ち止まって、突慳貪な口調で云った。 「此の女も靑野によく似て居る。靑野に天才がある ゃうに此の女にも美しい肉爛がある。さうして品性の下劣さにかけては、兩方ともい、、勝負だ。」 さう思ひながら、彼はじろじろと彼女の姿を眺めて居る。 「あたしね、歸らうと思ったんだけれど、少し先生に話があるから待って居たの。」 また金の事かい ? 」 「何だい 「さうぢゃないわよ。靑野さんのことだわよ。靑野さんが、此の間手紙をよこして、又此の頃に製作を始 めるから是ド ョもう一遍モデルになってくれろといふの。」 「それで君はどうしたんだ。」 「無論すぐに返辭を出して斷っちまったわ。」 「なぜだ、なぜ斷ったんだ。行ってやるがい、ちゃないか。」 みけん かう云った時、大川の眉間のあたりが急にどす黒くなって、瞳は物に怯えたやうな光を湛へたが、急に又 おび 364
の釵子や、蝶鳥の銀絲の繍のあるお腰のあたりが、繪のやうに美しく、きらきらと輝いて居る。 「女御さまがお休み遊ばしたやうでござります。お邪匱にならないやうに、靜かに致して居りませう。」 と、一人の女房が云った。 「いやいや、もう夜が明けるのに、却ってお風を召すといけない。お起し申すがい、だらう。」 道長が斯う云ひながらお傍へ寄って、 「お眼覺めなさりませ、お眼覺めなさりませ。」 と、二三度くり返して云った。 しかし女御は、何のお答へもなく、すやすやと快げに眠っておいでになるのである。 「夜が明けまする。お眼覺めなさりませ。」 道長はもう一遍、おん耳元へ近づいて、少しく聲を張り上げて云った。けれども依然としてお答へがない。 四人の公達が不審に思って、左右から言葉をかけ、脇息を搖っても、たゞぐったりと項垂れてのみおいで になる。 「御気分がお惡うございますか。」 かう云ひかけて、道隆が試みに女御のおん手を取って見ると、それは氷のやうに冷たくなって居た。わづ りやく か半時前までは、御機嫌の好かった院の女御は、法華經の利益の物語の間に、もう事切れておいでになっ たのである。 しな おんなぎがら たわ、に撓った牡丹の大輪をゆり起すやうに、女房たちが御遺骸を抱き參らせると、タ顏の花のやうな白 さいし てふとり ぬひ ゆす ことき うなだ 214