八 科さう云ふ連中に對しては己は何處までもづう / \ しくなる。「此れでもか、此れでもか」と云はんばかり に疊みかけて惡事を働く。己のやうに意志の薄弱な人間に、彼等のやうな寬大な、なまじっか理解に富ん を欺く代りに、自らも欺かれ易い人間である。惡人の性質に、おめでたい所がなかったとしたら、彼等の 悪は成功する譯がない。 「彼奴はおめでたいから善人だ」 と云ふ、世間の常識判斷は、惡人の心理を解せざること夥しいものである。世間の常識は善人の常識であ って、惡人の常識ではないのである。 さて、上に述べた二種類の友だち以外に、一人で此の二種類を兼ねて居る友達がある。己が忌まはしい学 德漢であることを知りつ、、己の爲めに一再ならず迷惑を蒙りつ、、猶且己を見放さないで、誠心誠意を 以て己と交際しようとする。たとへば彼の村上のやうな男である。彼等はつまり己の人格を疎んじながら、 己の天才に未練を繋いで居るのである。 「君は不德義だ、耻知らずだ」 かう云って、ぶつ / \ 不平を鳴らしながら、彼等は辛抱強く己に喰ッ着いて來る。己の惡癖につくる、罔 れ果てながら己の創作に接すると、「あツ」と驚嘆の聲を擧げて、そのま、己の罪惡をも不都合をも忘れ てしまふ。 あき 253
なりとする特徴を具へて居た爲めに、長い間惡人の部類へ入れられずに濟んで來た。己は馬鹿ではなかっ たがしかし確かに或る點に於いて、怒りつほくもあり、臆病でもあり、神經質でもあり、好人物でもあっ た。お蔭で己は悪事を働く度毎に「君は人がい、んだけれど : ・ : 」と、彼等に云はれた。それを結句い 、事にして、己は益よ增長したものだった。 折角世間が善人にして置いてくれるものをたって惡人になりたくはないが、何と云っても己は惡人に相違 ないのだ。一體好人物であるが故に、臆病であるが故に、或は又怒りつぼいが故に、彼は善人であると云 ふ理窟は何處にあるのか。善人と惡入との間に劃然たる區別はないと云ふ事は勿論或る程度まで眞理には 己は善人惡人の區別を、世間の人が考へて居るほど、曖味なも 違ひない。問題は共の程度にあるのだが、 のだとは思はない。見方によっては、兩者の間に可なり「劃然たる」區別があるのだ。 己に云はせると、善人惡入の區別は、どうしても「誠意」若しくは「愛情」の有無に歸さなければならな こんな事を云ったら、中にはきっと反對する奴があるだらう。「世の中に誠意のない人間は居ない。 どんな惡人でも、心の底の何處か知らに、必ず一片の誠意が潜んで居る筈だ」と云ふだらう。ところがそ れは飛んでもない間違ひなのだ。「少くとも、微塵の誠意も愛情もない入間が一人たけはたしかに居る。 それは己だ」と云ってやりたい。 「しかしお前は、他入の不幸を見て涙を流したことがあるだらう。それはお前に愛情があり、誠意がある 者 科證據ではないか」 こんな詰間をする奴があったら、よっほどおめでたい人間だ。涙なんて云ふものは、田舍芝居の寺小屋を 247
前科者 の彼等の感情は決して僞りではなく、心からさう思ひ込んで居るのである。 己も惡人の御多分に洩れず、相手次第でいろノ—に気分の變る男である。善人と話をして居ると、己はい つでも自分が善人になった気で居る。さうして相手の一言一句に賛成し、同感する。しまひには共の善人 の云はうとする事や、考へて居る事が、エまずして自然と此方の胸中にも浮かび出るやうになる。たま / 、先方の腹の中を、此方からびたりと旨く云ひあて、、相手の賛同を得たりすると、己はいよ / ( 、、圖に 乘って、自分を善人だと信じてしまふ。だから一度でも己と會話をした人は、大概己が好きになるらし 惡人が人を欺くのは、欺く事に興味があるのではなく、寧ろ人に好かれたいと云ふ希望から、相手の気分 に順應する結果であらうと思ふ。惡人は人を欺く事よりも、人に好かれる事が愉快な爲めに、心にもない 謔をつくのである。 「そんな矛盾した理窟はない。人に好かれることを望むならば、なぜ悪事を働くのだ」 かう云ふ疑間に對しては、 「惡入であればこそ人に好かれたいと思ふのだ」 と、答へるより仕方がない。恐らく此の気持は、己のやうな悪人に生れて來なければ、ほんたうに理解す る事は出來ないだらう。 悪人は善惡種々の気分に對して鏡敏なる感受性を具へてゐるけれども、共の氣分たるや、極めて上ッ面な 9 もので、決して彼等の魂の奥までは浸潤しない。彼等の魂の奥の方には、「自分は忌まはしい悪人である」
金と銀 惠みながら、共れを友靑の結果だとは認めず、自分も彼を恩に着ようとはして居ない。。 とうして此のやう な苦しい關係に、二人は立たされてしまったのだらう。同じ藝術の道に志して居ながら、二人はたヾ金の 貸し借りの問題でのみ接觸し、 いがみ合って居る。自分も大川も、藝術上の問題に就いて、此れ程激しく 此れ程興奮して物を云ひ合ったことはない。金の事がなかったら、二人はとうに絶交して居たに極まって 居る。 自分は共れでもい、として、大川を共處まで引き擦り込んだのは、みんな自分の罪ではない か。自分が金の間題を斷念しさへすればい、のちゃないか。自分はこんな嫌な気持ちを味はって迄も、や つばり金が欲しいのかしら ? 自分はなぜ、此處にある札の東を突返さうとしないのだらう。 「でも何でも、己は此の金を借りるより外仕様がないな。どうせ己は、此の世の中では背德漢に生れつい たのだ。生きて居る間は散々惡い行びをして、其の代り立派な藝術を後世へ遺しさへすればい、のだ。そ れが己の運命なのだから已むを得ない。」 さう思ひながら、靑野はホッと溜息を洩らして、恐る恐る札の東へ手をかけて、机の上からこそこそと膝 の上へ持って行った。 「僕が君に正直にしろと云ふのは、何も善人になれと云ふ意味ではない。惡人なら惡入でい、から、腹の 中を包まずに打ち明けてくれろと云ふ事なんだ。僕も今迄は嫉妬を隱して親切を裝って居た、それをきれ いに告白した以上、君の方でも、一體どう云ふ積りで僕に附き合って居るのだか、態度を明瞭にして貰ひ たい。君と僕との腐れ縁は、此の後とてもいっ迄續くか分らないのだから、金の間題が起る度毎に、かう 云ふ不愉快な思ひをするのではやり切れない。だから今後は、惡入なら惡人、善人なら善人でお互ひにも 357
弟 れる。 きさい 「ねえ、ばあや、麿は大丈夫后の宮になれるかねえ。」 「大丈夫でございますとも。」 と云って、乳人は大きく頷きながら、賴もしさうな返辭をする。 全く乳人の云ふ通り、父は伯父よりも數等勝れた人物のやうであった。「東三條の中將は、早い出世をさ れたものだ。此の様子では、兄君より先に大臣になられるだらう。」と云ふやうな評判さへも、ちらほら ゝ、父と伯父とは互ひに反目して居るらしく、堀河の伯父の邸 と世上に洩れ傳はる。その爲めでもあらうカ / ゆきゝ と、東三條の父の邸とは、目と鼻の間にありながら、つひぞ往來をしたことがない。例の乳人がロにする おやのためにはかならずかうけいのまことをつくしあにをうやまふことちゝのごとくおとうとをあいすることこのごとく ・ : 」と云ふ文句 御遺誡の中にも、「爲 / 親必竭二孝敬之誠一恭レ兄如レ父。愛 / 弟如 / 子。 があるのに、伯父と父とはなぜ斯うだらうと、姫は折々限めしかった 「お父樣と伯父様との御仲が惡いのは、元方卿の惡靈の所業だと、誰やらが呟いて居たけれど、そんな事 があるものか知ら。」 かう云って姫が不審がれば、乳人は顏を眞靑にして、 「惡靈など、、めっさうな事を仰っしゃいます。二度と再び、そのやうな言葉を仰っしやってはなりませ と、聲をひそめて、たしなめるやうな口調で云った。 「御兄弟の仲が惡いのは、伯父上様のせゐでございます。兄が弟に負けるのは、兄に働きがないからでご まろ しわざ 183
見る事が出來ないで、絶えず察想を以て彩色する。故に彼等の見る世界は善人の見る世界よりも、遙かに 刺戟に富み、誘惑に富んだ、美しい幻影の世界である。さうして、その刺戟と誘惑とが、殆ど彼等を脅迫 2 せんばかりに度を強めて來た時に、彼等は全く抵抗力を失って犯罪を敢てするやうになる。彼等に取って、 室想は事實よりも價値がありカがある。彼等は自ら作った幻影に導かれて惡を營み、而もその惡の爲めに 苦しんでゐる。彼等は往々室想によって未來をも現在と信じ、現在をも過去と信じたりする。だから彼等 には、はっきりした時間の觀念と云ふものはない。彼等の頭の中にはたゞ「永遠の惡」が宿って居るので ある。 普通の常識で云へば、惡人の方が善人よりも物質的だとされて居る。悪人自身も、さう云ふ風に考へて居 る場合が多い。ところが事實は反對である。彼等の眼から見れば、物質の世界は空想の世界の反映であっ て、後者の方が餘計實在的なのである。不幸にして、彼等の持って居る魂は悪の魂であるが、その魂の働 きのみが、彼等の爲めに眞實なのである。 一五 さて、己はに説得されて、今まで己を脅かして居た者が、單なる幻影に過ぎなかった事を悟った以上、 もはや金を借りる必要はなくなった譯である。己は宜しく自ら進んで借金の申し込みを撤囘すべきである。 それだのにをかしな事には己はやつばりあきらめる莱にならない。 「困って居ようが居まいが、何でも彼でも金が欲しいのだから兎に角貸してくれ給へ」
後で聞いて見ると、七人展覽會の會期が終った時、は箱根の別莊へ行って居たのださうである。さうし て、不斷から己を憎んで居た男爵家の家令が、わざと気を利かせた體裁で、意地惡くも會場へ繪を取り に行ったのだと云ふ。己を共の筋へ訴へたのも、大方あの家令に相違ない。己は此れでも惡人ではないの だらうか。やつばり「人のいゝ、おめでたい」人間だらうか。今ではもう、己は後悔する勇氣もない。 に對してのみならず、己は世間一般の人に對して、ほんたうの告白をして置かう。 「己はたしかに悪入だ。微塵も誠意のない人間だ。それ故どうか其の積りで、己を出來るだけ卑しみ、疎 んじ、遠ざけてくれ。ゅめ / \ 己に近づいたり、奪敬したりしてくれるな。たヾ其の代り、己の藝術だけ は本物だと思ってくれ。己のやうな破廉耻漢の心にも、あのやうな素睛らしい美しい創造力があることを 認めてくれ。藝術の生命が永遠であるならば、それを生み出す己の魂を、眞實の己だと思ってくれ。己が 惡人で居るのは、己の肉體が此の世に生きて居るほんの僅かな間だけなのだから」 280
かう云ふ風にして、己は此れ迄何十遍となく、を欺いては再び噫面もなく借りに行き、例の如く議論を 鬪はし、例の如く期限を誓ひ、例の如くスッポかす事を繰り返した。と云ふ好人物の友人がある事は、 薄志弱行な己をして、際限もなく背信を重ねさせる因だった。己はどうかすると、「このま、金を借り倒 して、絶交されてしまったら、どんなに氣が輕くなるだらう」とさへ思ふのであった。 とぢゃないんだからね」 「あ、分った、實際僕が惡かった。僕だって初めから欺すつもりではないんだけれど、つい / \ さう云 ふ風になってしまふんだ。それは君も知って居てくれるだらうが、何にしても僕が惡いんだから。 「惡い善いなぞと云ひたくない。兎に角返してくれさへすれば、僕の氣持は濟むのだからね」 「あ、大丈夫だよ。今度こそきっと返すよ」 「君が大丈夫だと云っても、例に依って初めから欺す気ではないだらうが、少しも信用出來ないから、成 るべく早く金を返して、ほんたうに信用させてくれ給へ。それちゃ期限は今月一杯として置かう」 「い、とも、今月一杯なら正に大丈夫だ。廿日頃になれば、二百圓ばかり這人るのだから」 金が借りられるとなると、己は俄に大きな事を云ふ。しかも、こんなにまで確からしく威張って置きなが ら、とう / ( 、返さずにしまふのである。 268
「 : ・ : : : 君は約東を履行しに來たのではあるまい。僕を焦らしに來たのだらう。僕をちょっとでも苦しめ て、僕の悶えるのを見に來たのだらう。散々僕を弄んで、揚句の果てに捨て、しまはうと云ふ気なのだ。 惡魔、惡魘、君は恐ろしい惡だ。」 かう云はれても由太郎はまるで聞えない振りをして、 「それぢや此れで失敬します。いづれ又 : と云ひながら、ぐるりと向き直ってドオアの把手を廻しかける。 「君、後生だ、 濱村は蒼惶として立ち上ると、少年の肩を捕へて、再び此方へ向き直らせ、その足下に跪いて訴へるやう な調子で云った。 「後生だから僕の賴みを聽いてくれ給へ。もう一分でも二分でもい、から、此處に居てくれ給へ。僕は今 日、恐らく君に會へまいと思って、實はたった今、君に宛た手紙を書きかけた所なのだ。こんな手紙でも 書いて居なければ、僕はとても苦しくって、ぢっとして居られなかったのだ。僕の話を聽くのが嫌なら、 せめて此の手紙だけでも讀んでくれ給へ。」 濱村は先の紙片を兩手で擴げたま、、捧げるやうにして相手の鼻先へ突き附けたが、由太郎は手にだにふ 聖れず、上から覗き込んで、簡單に拾ひ讀みをするだけであった。 人「 : : お話と云ふのは此の手紙に書いてあるやうな事ですか。」 女 讀んでしまふと、由太郎は片手を出口のハンドルにかけて、嘲るが如きロ吻で云った。 さっき あて
であった。あの嘗時、繪の具の費用にまで窮して居た己は、一擧にして三百圓と云ふ大金が手に人ったの みならず、美術批評家として定評のある男爵に認められた事によって、世間一般からも認められる事が出 「君ぐらゐの技倆があれば、西洋なら立派に喰って行かれるのだが、日本ではまだ油繪が流行らないから 仕方がない」 男爵は折々かう云って、己の貧乏に同情を寄せてくれたけれど、しかし兎に角、女房を貰って一家を構へ、 粗末ながらアトリエを建て、、どうやらかうやら暮して行けるやうになったのは、全く男爵のお蔭であ る。そればかりか、男爵は機會のある毎に諸種の美術雜誌で己の藝術を賞揚し、己の前途を祝疆してくれ 己は男爵と交際する初めに當って、特に自分の惡癖を警戒して已まなかった。男爵の邸を訪ねて珍しい泰 西の名畫の複製を見せられたり、美術上の意見を聞かされたりする度毎に、年に似合はぬ男爵の該博なる 學識と、典雅なる人品とに多大の敬意を拂はずには居られなかった。 「かう云ふ立派な人と萬一絶交しなければならなくなったら、己はどんなに悲しいだらう。己の頭の奥に、 科此の人の夢にも想像することの出來ない、忌まはしい惡い魂が宿って居ると云ふことは、何と云ふ情ない 事實だらう。己は生涯、少くとも此の人に對してだけは、惡い魂を見せてはならぬ。何とかして、淸く美 こ 0 こ 0 255