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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第6巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第6巻

美食倶樂部 「此の臭をあなたは知りませんか。これはオビアムです。」 支那人は平気でさう云って気味惡く笑った。部屋の一隅に置かれた靑いシェエドのスタンドから、朦朧と さして來る鈍い電燈の明りが、顏の半面に薄暗い影を作ってゐるせゐか、その支那人の人相はまるで別人 のやうに變ってゐる。今迄人の好ささうな無邪気な光を帶びてゐた眼の色までが、亡國人らしい頽廢と懶 惰との表情に滿ち滿ちてゐるかの如く感ぜられる。 「あ、さうですか、阿片を吸ふ部屋ですか。」 「さうです、日本入で此の部屋へ這入ったのは恐らくあなたが始めてゞせう。此の家に使ってゐる日本人 の奉公人でさへこ、にこんな部屋があることは知らないのです。 支那人はもうすっかり気を許して安心してしまったらしい。彼はやがて長椅子に腰を下ろして、それが習 さながら阿片の夢の中の囈言のや 慣になってゐると云ふ風にだらしなく寢崩れながら、低い、ものうい うな口吻で語り出した。 こ、ゝにト , さな 「あ、、大分阿片の臭がする。きっと今迄誰かゞ阿片を吸ってゐたのでせう。御覽なさい。 穴があります。こ、から覗くと宴會の模様が殘らず分ります。此の部屋に這入って來たものは、こ、から あの様子を眺め、うとうと、阿片の眠りに浸るのです。」 作者は、伯爵がその晩その阿片喫煙室の穴から見たところの隣室の宴會の模様を、蠍に精しく述べなけ 175

2. 谷崎潤一郎全集 第6巻

と云って、 「はあい」 姉はさう云って、 「芳ちゃん、それぢや又あとでね。」 と愛想よく云ひながらいそいそと立って、兄と一緖に二階の居間へ上って行って、長い間其處に二人きり で睦じく話し合って居ると云ふ風だった。兄は暇さへあればいつでも影のやうに姉の身に添って居て、ち よいとでもお互に離れたくはないやうな樣子だったので、隨分仲のい、夫婦だと云ふことは芳雄の子供心 にも眼にあまるやうにさへ感じられる折があって、先の奧さまの時分にはどんなに仲が好くっても此れほ どではなかったのにと、女中たちまでがさう云って蔭口をきくくらゐだった。 芳雄は、それほど姉を可愛がって居る兄の心の内では、自分のやうな疑り深い弟のあることをどんなにか 邪魔にしても居るだらうと云ふ風に気を廻して居て、姉があんまり自分をちやほやしてくれることを兄に 對して濟まないやうに感じて居たが、兄はそれを別段不愴快には思って居ないで、此の頃はだん / \ 芳雄 とも親しくすることを望んで居ると云ふ様子で、それを芳雄に分って貰ひたいやうに素振りに出して見せ るのだった。夕方から夫婦が散歩に出かけようとする折などに、姉が、 「芳ちゃん、あなたも一緖に來なくって ? 」 と、そんなことを云ったりすると、 「芳雄、お前一緖に來たらどうだね、お前が來れば淺草へ行って活動寫眞を見てもい、、カ 亡ん 先の姉は「喜多子」と呼び捨てにされて居たのに、 せん さん附けにして彼女を呼んだ。 446

3. 谷崎潤一郎全集 第6巻

たった三分の間に、その鏡の間に幾人の男女が居るかを中て、見よと云はれるのである。温夫婦は座興の ためにを弄ぶのであるが、白痴のにはなかなか三分の間に其處に居る人數をたしかめることは出來な 5 かった。白痴でなくても或はむづかしいかも知れない、 上も下も、右も左も、四方八方が鏡であっ ) て居たのであるから。 て、無數の人影が際限もなく啅 おまけに、男が何人、女が何人と、明確に 答へるのであったから。 は答へることが出來ないで、よ眼がくらんで卒倒したことがあった。さうし て答へが間違ふと、彼はいろいろさまざまの刑罰に、直ぐ共の場で、其の鏡の間で處せられた。殘酷を主 とした刑罰、滑稽を主とした刑罰、 こ、に精しく描寫するに忍びないやうな種々雜多な刑罰があっ た。そ ? 、 ) 温夫婦の座興の一つであったことは云ふまでもない。 は或る夜、刑罰の苦しさに堪へかねて別莊を忍び出て、杭州から上海まで鐵道の線路を傳はって逃げた。 逃げる途中、松江の鐵橋の上で、何を見違へたか追手に追ひ詰められたものと早合點をして河へ飛び込ん だが、幸ひにして上海行きの蒸汽船に助けられ、首尾よく目的を達したのである。彼が領事館へ訴へ出た のは、その船に乘り合はせた日本人某の勸めに基いたのだと云ふ。 斯くて此の事件は珍しい裁判を引き起し、温夫婦の祕密は世間へ知れ渡るやうになった。

4. 谷崎潤一郎全集 第6巻

みは 白い眼玉をきよとんと雌って、白木の臺の上に濟まし込んで載っかって居るのでした。そのヘうきんな、 無邪氣な恰好が、春江さんにはをかしくて溜りませんでした。 「まあ、何と云ふ面白い鯛でせう。桃子さんはお人形さんだの押繪細工だのがお好きだから、此の鯛をさ し上げたらきっとお喜びになるだらうよ。」 春江さんが斯う云ふと、玉やも直ぐに賛成して、 「ほんたうに此の鯛はよく出來て居りますこと。體中が眞赤で、おなかがふつくらと膨らんで居て、見た ところからお目出度いお魚のやうでございますね。やはりお祝び物には此れがよろしうございますよ。」 と、云ひました。 春江さんは早速それを買ふことに極めて、鯛を麹町のお邸へ屆けるやうに店員に命じました。さうして内 へ歸って來ると、急いでお母様のお部屋へ行って、 「お母様お母様、わたくしはね、いい物を見附けて參りましたのよ。」 かう云って、さもさも手柄を誇るやうに、ちりめんの鯛の話をして聞かせますと、 「それはまあよかったね。お母様も早くその鯛を見たいものだね。」 かう仰しやって、お母様は機嫌よくお笑ひになりました。 白 緋ぢりめんの鯛は、明くる日銀座の商店から、立派な木の箱へ人れられて綿に包まれて屆きました。お母 太 の様は無論のこと、お父樣もお兄様も、多勢の召使ひの人々までも、みんな鯛の周りへ集って、口々に春江 魚 さんの思ひ附きのよかった事を褒めた、へました。春江さんは褒められたのでいよいよ嬉しく、鼻を高く しらき

5. 谷崎潤一郎全集 第6巻

とぎばなし と、普通のお伽噺なら斯う書くのが嘗り前ですが、どっこいさうは行 むかし / ( 、、まづある所に、 きません。此のお話はむかし / \ の古くさい話とはちがひます。大正の聖代にもこんなをかしな、馬鹿げ た話があらうかと、皆さんが眼を圓くなさるやうな、つい近ごろの出來事なのです。 そこで、つい近ごろのこと、春江さんと云ふ大變可愛い無邪気なお嬢様が、麹町の或るお邸に住んで居ま した。春江さんは今年十七で女學校を卒業したのですが、お嫁に行くには少し早い年頃ですから、毎日々 々、ピアノの練習や、生花のお稽古や、ロ 1 ン・テニスや、語學のお浚ひや、自分の好きな遊藝だの學間 だのにたづさはって、やさしいお父様やお母様のお傍に樂しい月日を送って居ました。すると或る日のこ とでした、學校に居た時分から春江さんとは大の仲よしであったお友達の桃子さんが、春江さんのお邸へ ふらりと尋ねて來ました。さうして、一緖につれ立って廣いお庭の泉水のほとりを歩いて居ると、 「ねえ春江さん、わたくしはね、今度いよいよ結婚することになりましたの。」 と、不意に桃子さんがさう云って、きまりが悪さうに、しかし又なんとなく嬉しさうに俯向いてしまひま した。その時泉水に飼ってある鵞鳥が、急に頓興な整を出してガアガアと啼いたものですから、大人しい 白桃子さんは一脣きまりが惡さうに、顏を眞赤にしてますます低くうなだれました。 李 「まあ、にんたうに ? それはまあおめでたうございます。さうしたらあたし、何をお祝ひいたしませう の 魚 いけばな さら

6. 谷崎潤一郎全集 第6巻

七人目の子を生んでから、急に體が弱くなって時々枕に就いて居た貝島の妻が、いよ / —肺結核と云ふ診 斷を受けたのは、ちゃうどその年の夏であった。市へ引き移ってから生活が樂になったと思ったのは、 わづら 最初の一二年の間で、末の赤兒は始終煩ってばかり居るし、細君の乳は出なくなるし、老母は持病の喘息 が募って來て年を取る毎に莱短かになるし、それでなくても暮らし向きが少しづ、苦しくなって居た所 ~ 、 妻の肺病で一家は更に悲慘な状態に陷って行った。貝島は毎月三十日が近くなると、一週間も前から気を 使って塞ぎ込むやうになった。貧乏な中にも皆達者で機嫌よく暮らして居た東京時代の事を想ふと、あの 時の方がまだ今よりはいくらか增しであったやうにも考へられる。今では子供の數も殖えて居る上に、い ろ / 、の物價が高くなったので、病人の藥代を除いても、月々の支拂ひは東京時代とちっとも變らなくな って居る。それに、若い頃なら此れから追び / 、、月給が上ると云ふ望みもあったけれど、今日となっては 前途に少しの光明もあるのではない。 「さう云へば東京を出る時に、あなた方がへお引越しになるのは方角が惡い。家の中に病人が絶えない ゃうな事になりますッて、占ひ者がさう云ったぢゃないか。だから私が何處か外にしようッて云ったのに、 お前が迷信だとか何とか笑ふもんだから、御覽な、きっとかう云ふ事になるんちゃないか」 子供たちは、再び嬉しさのあまりどっと笑った。しかし沼倉は貝島と眼を見合はせてニャリとしたゞけで あった。

7. 谷崎潤一郎全集 第6巻

た如く置かれて居るのである。ふと見ると、一艘の輕舸が、杭州城の淸波門のほとりにある楊柳の影から、 一直線に雷峰塔の下を目がけて漕いで行く。水の面があまり穩やかに船があまり小さいので、疊の上を一 匹の蟻が這って行くやうにも見える。直ぐ眼の前の亭子灣からも一艘の扁舟が仙樂園の岬の方 ~ 漕ぎ出し た様子である。その船にはたった一人の船頭が中央に腰をかけて、手と足とで二梃の櫓を動かしながら進 つの間にやら日は全く沈んでしまった。さうして、西の山の端の後の空は、暗くなる んで行くらしい。、 よりは寧ろ明るく、次第々々に紅の色に燃え上って、遂には湖の半面が赤いインキを流したやうに染まっ て行った。 例の美人の姉妹たちは見物に出かけたきりまだ歸って來ないのだらう。今朝彼女たちが占領して居たズラ ンダのテェブルには、荒い辨慶縞の羅紗の上衣をどてらのやうにだぶ / \ に着込んで居る太った西洋人の ねん 女が、獨りぼっ然と頬杖をついてゐる。何の気なしに私が共の前を通りか、ると、 「あなたは東京から來ましたか。」 と、突然日本語で話しかけた。 「いや、東京からではない、北京から來たんです。あなたは東京に居たことがあるのですか。」 「え、、東京にも、大阪にも、コオビ ( 可戸 ) にも居ました。そして日本語を少し覺えました。」 月きっと上海あたりから張りに來た淫賣だらうと思ったので、 の 湖「どうです、あなた一人なら私と散歩に出かけませんか。」 西 かう云って誘ひをかけると、 くれなゐ けいか 345

8. 谷崎潤一郎全集 第6巻

いません。」 かう云って、緋ぢりめんの鯛がムキになって云ひ張りますので、桃子さんは、 「もう分ったからようござんすよ。お前がほんたうの李太白に違ひありません。佐藤と云ふ人はきっと謔 つきなんでせう。」 と云って、頻りに慰めてやりました。 それでもまだ、緋ぢりめんの鯛は不滿足らしい顏つきをして、 「いや、あの男は自分が謔つきなのでなく、きっと錦絲魚に欺されたのでございます。なぜかと申します もつの間にか眞紅 と、李太白の私は、採石の磯から揚子江に沈んで、南の方の海へ流されて行くうちに、、 な鯛になりましたが、一體あの邊の川や海の中には、自分が李太白だと云って謔をついて居る魚が、何百 匹となく游いで居るのでございます。眞黒な鯉だの、銀色の鱸だの、そんな連中はまだいゝとして、章魚 くらげ だの海月だのまでが、我こそ李太白だと云って威張って居る樣子を見ると、實際をかしくって溜りません。 若奥樣の前でございますが、李太白ともあらうものが、まさか有り來たりの鯉や鱸や錦絲魚なぞになる譯 がございません。私が李太白だと云ふ證據には、未だこんな赤い顏をして醉っ拂って居るのでも、多分お わかりになるだらうと田 5 ひます。」 白かう云って、それでなくてもいやに曲って居る口元を、一脣歪めて、ひどく自慢らしい眼つきをしまし 太 李 さて、桃子さんは、緋ぢりめんの鯛が正しく李太白だと分ったものですから、とうとう解くのを止めてし こ 0 すゞき ほど まっか

9. 谷崎潤一郎全集 第6巻

らゐな微温であるから、洗ふ爲めよりは遊ぶ爲めの湯だと云っても差支へはあるまい 「でも此のお湯は不思議なのよ。石鹸を使はないでも體がきれいになるんだから。 出たり這入った 4 りして居るうちに垢が取れてしまふんだわ。」 さう云って、子は e から少し離れた隅のところに兩膝を揃へてしやがんで居るのが、湯を透かして靑白 く玲瓏と見えて居る。湯殿は粗末な板圍ひで出來て居るのだが、 近頃普請をしたばかりなのであらう、削 どこ まあたら りたての眞新しい羽目板へ朗らかな秋の日が彼處からともなく反射して居て、あたりは眼が覺めるやうに 明るい。淡々しく立ち昇る湯気の中に湯の香と木の香とが一つに融け合って、ほのばのと匂って居るのが よみがヘ 感ぜられる。何だか斯う、長らくだらけて居た體が一時に生き生きと蘇生って、あらゆる官能が漫剌とし て來るやうである。 「おい君、ちょいとさうして居たまへ。さうしたところのポォズが馬鹿にい、ね。 ねえ、繪になっ て居るぢゃありませんか。」 子が湯の中から半身を現はして腰かけながら、兩肘を張って髪の毛をいぢくって居ると、 e がさう云っ て私の方を顧みる。 「兄さん、一つ『人魚の嘆き』をやって見ませうか。」 と云って、 cn 子はしなしなとした長い手足をひねって水島君の挿繪にある人魚のやうな形をする。かうし て居ると、我々三人はほんたうに人魚になってしまふかも知れない。人魚にはならないまでも、少くとも あざらし さっき 海豹にでもなったやうな気持ちがする。 e は先から頻りにいろいろの泳ぎの型をやって見せて居る。子 しゃぼん

10. 谷崎潤一郎全集 第6巻

と、さう云ふと、兄はロでは笑びながらぎよっとしたやうに瞳を光らせて、斯う、暗い夜の中に居る芳雄 の姿をずうッと奥深く見究めるやうにして立って居た。 : あの注射が何でをかしいことがあるんだね、注射をしたのはあの時が始めてだった譯ではなし、 あれは貧血の病人を直すのに普通のお醫者は誰でもさうすることなんだからちっとも不思議ではないんだ さっき よ。成る程あのあとで直きに死んだには違ひないけれど、それは先も云った通り急性の腸加答兒を起した んで何も注射をしたからと云ふ譯ぢゃない。 「い、え、姉さんは腸加答兒ではないんです。あれはあの注射をした藥の中に這入って居た砒素の中毒だ ったんです。」 いっかはさう云はう / ( \ と思って居たことをとうノ ( \ 云ってやった、と云ふやうな小気味のいゝ気持と、 兄がそれを聞かされた場合に何か尋常では濟まないことが持ち上りはしないかと云ふ豫感とで、芳雄は眼 の前がごぢやごぢやと見えなくなって來るやうな混亂した心になりながら共れを投げ出すやうに云った。 「砒素の中毒 ? 」 と云って兄はもう共の時に気絶しさうなエ合になって、 そりゃあの中には砒素が這入って居たには違ひない。だけど 「お前はそんなことを誰から聞いた。 も砒素と云ふものは貧血の藥なんだから、それを使ったって別に怪しいことはないんだよ。」 「でも、人を殺さうと思って砒素をわざと澤山使へば殺すことも出來ると云ふ話を僕は藥局の書生に聞い たことがあるんです。そしてそれで死ぬ人は、ちゃうど姉さんのやうに下痢を起して眞白な牛乳のやうな よみ 462