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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第6巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第6巻

「それは仕方がありません。先のやうな別嬪はさう澤山はゐないです。あれは一流の藝者ですからなかな か威張って居ます。此處のは二流ですが、そのかはり泊るのに譯はないです。この頃は不景気で困って居 ますから、きっと安く負けるでせう。」 案内者の旨を含んで、女も頻りに私を誘惑しようとする。が、さうされればされる程、私は愈よ氣が乘ら なかった。彼女の名前は陳秀鄕といって、年は十九になるのだといふ。顏の輪廓はそんなに嫌ではないけ れど、衣裳がひどく垢じみてゐて、皮膚のざら / \ と荒れてゐるのが何よりも莱に食はなかった。この女 の、肌ざはりの惡さうな、色つやのない指の先を眺めてゐると、先の女の瑠璃のやうに研かれた綺麗な皮 膚の匂ひが、ますます忘れがたないものに思はれて來るばかりであった。 「どうですか旦那、泊って行ったらいいでせう。十二弗に負けるといってゐます。」 「いや、止めにしよう。私にはどうも氣に入らないから、 : それよりか今夜は宿屋へ歸って寢るとし よ、つ 0 」 「さうですか、宿屋へ歸りますか。 案内者は不機嫌な私の顏色を見て取って、當惑したらしい口調で云った。 「では歸り道にもう一軒寄って見ませう。さうして共處が駄目だったら、宿屋へ歸ってもいいです。」 夜「歸り道なら寄っても℃ 、いけれど、しかし大概似たものだらう。何處へ行ったって、先のやうな別嬪は居 の 淮る譯がない。」 秦 「あは、、、旦那はあの女に惚れてゐるんですね。それなら一つあの女に負けないやうな別嬪を捜して上 るり さっき 267

2. 谷崎潤一郎全集 第6巻

々その時から芳雄と云ふ者のあることが氣にか、るやうになって居て、あの先の姉の亡くなった晩に芳雄 が妙な顏をしたのでそれからほんたうに彼を疎んずるやうになったのではないだらうかと、さう云ふ風に 4 芳雄には推量されるのだった。芳雄はしかし、兄と今の姉とが二人ぎりで人に見られては惡いやうにして 居るところを、その後一年も立ってからも小石川の植物園で見たことがあって、兄は其の頃ひどく陰鬱な むつつりした人間になって居たのを、ちゃうど先の姉が病気で寢て居た時分だったのでその心配の爲めだ らうと云ふやうに多くの人は思って居たが、芳雄には其の時から兄を陰險な人だと思ふ心持が湧いたのだ それを祿次郎に尋ねられた折の眞靑に った。さうして間もなく先の姉のあの突然なしい死に方、 姉の病気は兄がいつでも診察をして居て、死ぬ前の日に注射をしたのも兄だった なった兄の表情、 : さう云ふやうに一つ / 、、三四年前からの出來事を想ひ浮べて細かく根掘り葉掘 と云ふやうなこと、 りして行くにつれて、芳雄の頭に根ざして居た疑ひが或る纒まったものになって恐ろしい形に見えて來る のを、兄もうすノ \ 感づいて居て共れを默って置く事が出來なくなって居るのではないか知らん ? 兄は、自分の過去の罪が芳雄の心に或る證據を殘して居て、それが芳雄の大きくなるのと共に育って來る 自分が瑞枝と一緖になって先の妻をうまく欺して居たことや、芳雄を のを薄気味惡く感じて居る。 除いた兄弟たちの眼までも巧みに晦まして先の妻を愛して居たと云ふ風に見せかけて居たことや、 それ等の事情が現在の芳雄の智慧で次第に見透かされるやうになって來て居るのを、兄の方でも今では明 かに知って居るに違ひない。けれども兄の犯した罪がたヾそれだけに過ぎないのならば、芳雄は兄からこ んなにまで餘所々々しく疎んぜられはしなかったらうと云ふやうに考へられる。いっぞや姉が亡くなって

3. 谷崎潤一郎全集 第6巻

: 己はお前がなぜ己を疑って居るのかと云ふ譯も知って居る。先の姉さんが死んだ時に、あの晩に 己はお前に顏を見られて眞靑になったことがあった。さうしてお前はあの時から己を疑るやうになったの だ。ねえさうだらう、さうに違ひない。 さう云はれて芳雄は兄の顏色を窺ふと、背の高い兄は上の方から芳雄の姿を見おろしてにや / \ と笑って 居るのだった。 「お前は己があの時あんな眞青な顏をしたので、己が姉さんを殺したのぢゃないかと云ふ風に思ったのだ らう。だけれど己は姉さんを殺した爲めに眞靑な顏をしたのぢゃない。己が眞靑になったのは、お前がき っと己を疑って居るだらうと思って共れが恐かったからなんだ。己は成る程お前に疑られるだけのことは せん して居る。己はあの時分先の姉さんが死んでくれゝばい、と思って居た。だからお前が疑るのは無理もな いのだが、お前に疑られて居ると思ふと己は薄気味が悪くなってそれで眞青な顏をしたのだ。」 さう兄がぶつぶっとロの中で獨り語のやうに云ふ。 カ冫 「兄さん、どうか堪忍して下さい。僕が兄さんを疑ったのは惡うございました。先の姉さんは殺されたの にしろさうでなかったのにしろもう死んでしまったんですから、僕は今更そんなことを穿鑿しようとは思 れひません。僕は兄さんを罪入にさせたって何も愉快なことはありません。ですからどうか兄さんも安心し のて下さい。」 を「お前はそれがよくないんだよ。お前は兄さんに安心をしろと云ひながら、心の内ではまだ兄さんを疑っ ロ一 て居る。兄さんは決して先の姉さんを殺した譯ちゃないんだから、それを信じてくれなけりやいけない。 453

4. 谷崎潤一郎全集 第6巻

て居ると、やつばり先の姉の祟りと云ふやうなことが思ひ出され、そればかりでなくまた別のいろ / 、、、な 恐ろしい想像が頭に湧いて來るのだった。自分がこんなにちょい / \ 病莱に罹ったりするのは、兄がいっ でも診察をして藥を飮ましてくれるからではあるまいかと云ふやうなこと、先の姉をさうしたのと同じ方 法で兄は芳雄をもさうしようとして居るのではあるまいかと云ふやうなこと、それはいっから芳雄の胸に そんな考が起ったのだったかは分らないが、その疑びは亡くなった姉の祟りだと思ふことよりも遙かに事 實らしく芳雄の神經を脅やかさずには措かなかった。先の姉もやつばり斯う云ふやうなエ合に半年も一年 も前からじりじりと煩らって行って、貧血を直す爲めだと云って兄が時々注射をしてくれるのを其の通り にされて居ると或る日俄に容體が變って死んだのだった。芳雄はまだ注射をされたことはなく、病気も姉 のとは違って居るやうだけれども、兄がいっ藥の中へさう云ふ仕掛けをしなかったものでもない。兄さん あば ではいやだから外のお醫者に見せてくれろなど、云へば共れはもう兄に向って共の罪を發くのも同じこと だし、そんなにしてまだ此の上も兄から疎まれるやうになるのも恐ろしかったし、もしかうして居て死ぬ よ / \ 死な、けれ ゃうなことがあるならそれも運命だと云ふ風に芳雄はあきらめても見るのだったが、い ばならない時が來たやうだったら自分は兄さんの爲めを思って何も云はずに大人しく死んで上げるのです れと云ふ意味を、一と言兄の耳へ人れたいと云ふやうにも考へるのだった。 の ・ : 或る日芳雄はこんな夢を見た。 年 彌生町の先の家のうしろのところが高い崖になって居て、其處を降りられる様に出來て居る、細い急な坂 ロ一 路の足場の惡いでこほこな石だらけな段々を降りて行くと、東京の町の中とは思はれないやうに草がぼう 457

5. 谷崎潤一郎全集 第6巻

「しかしお前はこんなところに獨りで立って居てどうしようと云ふのかね。何かそれには譯があるのだら う。え ? その譯を兄さんに云ってお聞かせ。」 「別に譯なんて云ふほどのことはないんですから、どうかそれを聞かないで下さい。兄さんにそんなこと を云はれると僕は悲しくなるんです。」 さう云った芳雄の心は、兄さんの罪は僕にはよく分って居る、だがそれを兄さんの前で云はせられるのは 辛いから赦してくれろと云ふのだった。 「お前がその譯を云ふのがいやなら兄さんが云って見よう。 と、兄が云った。 : 兄さんは今迄お前にその譯を聞くのが恐かった。だけど斯うしていつまでも / \ 共の譯を聞かず に放って置くと、己とお前との仲がだん / \ 気まづくなって兄弟の間に妙な隔たりが出來るやうになる。 お前が今日ひとりで それではお互によくないと思ふから今夜兄さんの方から共の話をして見よう。 こんなところへやって來たのは、此處へ來れば先の姉さんに會へると思ったからぢゃないのかね。」 僕は恐くなって來ましたから。」 「兄さん、 どうかもう止して下さ、 「い、や何も恐がるには及ばない。恐いことがあると思ふのはそれはお前が間違って居るんだよ。お前は 先の姉さんが幽靈になってまだ此の世に迷って居ると考へて居るやうだけれど、先の姉さんは此の世に思 ひが殘る様な死に方をしたんぢゃないんだから、決してそんなことがある筈はありやしない。兄さんはそ れをお前によく話して置きたいと思って居る。」 460

6. 谷崎潤一郎全集 第6巻

で、成るべくならば叱らずに濟ませよう、そのうちには默るだらう、と、出來るだけ貝島は知らない風を 裝って居ると、反對に話聲はだんノ無遠慮に高まって來て、遂には沼倉のロを動かす様子までが、彼の 眼に付くやうになった。 「誰だ先からべちゃ / 、としゃべって居るのは ? 誰だ ? 」 と、とう / 、 \ 彼は我慢がし切れなくなって、かう云ひながら籐の鞭でびしッと机の板を叩いた。 「沼倉 ! お前だらう先からしゃべって居たのは ? え ? お前だらう ? 」 「いゝえ、僕ではありません。 沼倉は臆する色もなく立ち上って、かう答へながらずっと自分の周圍を見廻した後、 「先から話をして居たのは此の人です」 と、いきなり自分の左隣に腰かけて居る野田と云ふ少年を指さした。 「い、や、先生はお前のしゃべって居る所をちゃんと見て居たのです。お前は野田と話をして居たのでは ない。お前の右に居る鶴崎と二人でしゃべって居たのだ。なぜさう云ふ謔をつくのですか」 貝島は例になくムカムカと腹を立て、顏色を變へた。なぜかと云ふのに、沼倉が自分の罪をなすりつけよ うとした野田と云ふ少年は、平生から温厚な品行の正しい生徒なのである。野田は沼倉に指さゝれた瞬間、 まばた 國はっと驚いたやうな眼瞬きをして、隣れみを乞ふが如くに相手の眼の色を恐る / 、窺って居たが、やがて 何事をか決心したやうに、眞靑な顏をして立ち上ると、 「先生沼倉さんではありません。僕が話をして居たのです」 さっき さつぎ

7. 谷崎潤一郎全集 第6巻

隅に、十六七になる一人の娘が、荒寺の本堂に安置された木彫の佛像のやうになって、寒さうに頤をわな なかせながら、怪しい異國の紳士の闖人を訝るが如く目を光らせて居たのである。その目は支那式に圓く 飛び出ては居ないけれども、且華やかではないけれども、底の知れない哀愁に充ちた潤ひを帶びて、横に 長く切れて居た。頑固な意地の惡さうな太い眉を顰めて、ロクロクロも利かずに立って居る彼女の容貌は、 先の美女に比べてもそれ程見劣りはしなかった。皮膚は茶褐色に黒ずんで居るが、肌目は飽くまでも滑か で、黑繻子の服に包まれた四肢の骨組は鯉のやうにしなやかなのである。日本の美人にあるやうな細面の、 而も小造りな暗い顏立は、先の女の嬌態に及ばないとしても、あの女をルビ 1 だとすれば、この女は黒曜 ホワイエ 石に似た憂鬱があった。年は十七で、名前を花月樓と呼んで、楊州の生れであるといふことを、彼女は重 い唇から澁々と答へた。 「成程この女は別嬪だ。だが恐ろしく機嫌が惡いね。まるで怒って居るやうぢゃないか。」 「なあに怒って居るのではないのです。素人の娘だからんで居るのです。泊ると云 ~ ばきっと承知しま すよ。」 其の時女は顰めた眉根を更に一脣險しくして、ロの先を尖らせながら、案内者をまへて何かぶつぶっと 不平を鳴らし始めた。潤んだ目からは、今にも涙が落ちさうであった。 夜「この様子ではとても承知しさうもないぢゃないか。歸ってくれろと云って居るんだらう。」 淮しかし、私のこの推量は全然間違って屠た。案内者の説明に依ると、娘は是非今夜泊ってくれるやうに哀 願して居るのださうである。 きめ 269

8. 谷崎潤一郎全集 第6巻

に先の姉を欺したのだと云ふ風に考へて來ると、いつもは自分を我が子のやうにいたはってくれる情愛の 深い彼女の眼つき、雪のやうに白くほっそりしたしなやかな襟つき、先の姉よりはずっと優れて美しい器 量の顏だちが、兄に比べても幾脣倍か物凄い惡魔のやうに共處に現れて來るのだった。 「姉さん、僕はもう此の頃では親切にして下さる姉さんまで疑ふやうになりました。姉さんはあの事を御 存じなのではないでせうか ? さうして兄さんに賴まれて僕の様子を探るために傍に着いていらっしやる のではないでせうか ? 」 若しそんなことをむきつけに云って尋ねでもしたら、愛嬌のある姉の面持が見る間に鬼のやうに恐らしく 變って來るのではないだらうかと、芳雄はそれをたゞ気味が惡いとばかり思ふのではなく、お伽噺を讀ん でゞも居るやうな物好きな心持で空想したりすることもあった。 毎日々々高い熱がっゞいてじっとして寢て居ながら直きにうっとりと遠い所へ持って行かれさうな気分に なるやうなことがよくあって、ひょっとするともう死ぬのではないだらうかと思って居たのに、 三月の初 旬ごろから漸う芳雄は學校へ出られるやうになったのだった。あんまり長く休んで居たから成績がい、筈 はなかったけれど、四月には兎に角及第することが出來てそれから暫くの間は珍しくっゞけて學校へ通っ て居たのに、その年の五月に先の姉の三囘忌があって一週間ばかり立った或る日に、夕方から急にまた熱 が出て來て、血を澤山喀いたことがあった。い 、鹽梅に四五日すると熱が七度臺に下って少しづ、直って は來るやうだったが、兄が學校を休んで成るべく靜かにして寢て居なければいけないと云ふので、さうし 456

9. 谷崎潤一郎全集 第6巻

は共の美味に鈞り込まれつ . ゝ思はず五本の指の先を悉く噛み潰しては嚥み下す。ところが、噛み潰され た指の先は少しも指の形を損じないのみか、依然としてぬら / ( \ した汁を出しながら、齒だの舌だのヘ白 ・ : ちゃ 菜の纎維を絡み着かせる。み潰しても噛み潰しても跡から跡からと指の頭に白菜が生じる。 うど魔術師の手の中から長い長い萬國旗が繋がって出るやうなエ合にである。 かうしてが腹一杯に白菜の美味を貪り喰ったと思ふ頃、植物性の纎維から出來て居た手の先は、再び正 眞正銘の人間の肉を以て成り立った指に變ってしまふ。さうして、それ等の五本の指は、ロの中に殘って 居る喰ひ餘りの糟をきれいに掃除して、薄荷のやうなヒリヒリした爽かな刺戟物を齒の間へ撒き散らした 後、すつぼりとロの外へ脱け出てしまふ。 此れが第一夜の宴會の最終の料理である。以上二つの實例に依って、獻立の中に示された共の他の料理も、 いかに怪奇な性質の物であるかは大略想像することが出來るであらう。此の白菜の料理が濟んでから、暗 くなって居た會場には以前のやうに明るい電燈が燈される。が、共處にはあの不可解な手の持主である可 き女の影は跡形もない。 「此れで今夜の美食會は終ったのであります。 かう云って、共時伯爵は、驚愕に充ちた會員達の表情を視詰めながら、簡單に散會の挨拶を述べる。 「私は先刻、今夜の美食は普通の料理ではなくて料理の魔法であると云った。しかしに斷って置きたい のは、私は何も故らに奇を好んでこんな魔法を用ゐるのではないと云ふ事です、私は決して、眞の美食を 作り出すことが出來ない爲めに、魔法を以て諸君を煙に卷かうとするのではないのです。私の意見を以て ことさ 186

10. 谷崎潤一郎全集 第6巻

知って居ましたから、さう云ふ時を窺っていっか一度は水の底へ這人って見ようと、そんなことばかり始 終思ひ詰めて居るうちに、とう / 、或る日堪らなくなって這入って行ったのでございます。ところがまあ ど、つでございませ、つ ! 石ではないかと思って居た底の板は一枚の硝子で出來て居て、其の硝子の下には 地下室があって、女王さまが寢臺の上にすや / \ と眠って居らっしやるのですもの。それでも眠って居ら っしやったので大丈夫だとは思ひましたけれども、若し見附かったら大變なので、急いで浮き上ってしま ひました。 しかし私はやつばり女王さまに見附かって居たのでございます。晩になってから、女王さまは私の所へお いでになって、 さっき 「お前は先、池の底へ這入っただらうね。」 と、さう仰っしやって、穴の明く程しみん、、と私の顏をお眺めになりました。 「あ、さうだ、やつばりお前だったに違ひない。お前は先、たしかにあの池の底へ降りて來たのだ。私は 彼處で何も知らずに眠っては居たけれど、お前の姿は私の夢にあり / ( 、と映って見えたのだから、お前が 今更それを隱しても、私にはちゃんと分って居る。」 「女王さま、どうぞお赦しなすって下さいまし。私はとう / 、お言葉に背いてしまったのでございま 私はもう逃れることは出來ないと思びましたから、覺悟をきめて詫りますと、女王は却ってお喜びになっ た御様子で、こんなことを仰っしやるのでした。 522