期待して居た。全く賞金ぐらゐは出してもい、から、何か伯爵が素睛らしい割烹の方法を案出して、沈滞 しきった一同の味覺を幽玄黴妙な恍惚の境へ導いてくれる事を、心の底から祈らずには居られなかった。 「料理の音樂、料理のオーケストラ。」 とろ 伯爵の頭には始終此の言葉が往來して居た。それを味はふことに依って、肉體が蕩け、魂が天へ昇り得る ゃうな料理 それを聞くと人間が踊り狂ひ舞ひ狂って、狂び死に死んでしまふ音樂にも似た、 喰へば喰ふほど溜らない美味が滾々と舌にもつれ着いて遂には胃袋が破裂してしまふまで喰はずに居られ ないやうな料理、それを何とかして作り出すことが出來れば、自分は立派な藝術家になれるのだがと伯爵 は思った。それでなくてさへ空想力の強い伯爵の頭の中には、いろイ、の料理に關する荒唐無稽な空想が しきりなしに浮んでは消えた。寢ても覺めても伯爵は食物の夢ばかりを見た。 : 氣が着いて見ると暗 い中から白い煙が旨さうにぼか / \ と立って居る。恐ろしい好い香がする。餅を焦したやうな香だの、 なまあぶら にらにんにくたまねぎ を燒くやうな香だの、豚の生脂の香だの、薤蒜玉葱の香だの、牛鍋のやうな香だの、強い香や芳しい香 や井い香がゴッチャになって煙の中から立ち昇って來るらしい。ぢっと暗闇を見詰めると煙の内で五つ六 つの物體が宙に吊り下って居る。一つは豚の白味だかこんにやくだか分らないが兎に角白くて柔かい塊が ぶる / \ と顫へて動いて居る。動く度毎にこってりとした蜜のやうな汁がぼたり、ほたりと地面に落ちる。 部落ちたところを見ると茶色に堆く盛り上って飴のやうにこってりと光って居る。 : その左には伯爵が 無未だ嘗て見たことのないやうな、素睛らしく大きな蛤らしい貝がある。 ~ 、るじに にほび にほひ 147
をあてた所からぼっぽっと煙が立って髪の毛が焦げさうになる。結局 e は面目を潰して彼女から散々怒鳴 り飛ばされて居る。 そんな事の爲めに暇を缺いてしまって、漸く午過ぎの二時頃からぶらりと三人で散歩に出かける。今日は 實は須卷の湯瀧へあたりに行く積りだったのに、此の間の水で橋が破れたので此處二三日は行くことが出 來ないと云ふ。成る程川は水量が減ったけれどもまだ相嘗に濁って居るらしい。私たちはきやっきやっと 笑ひこけては無駄口を叩きながら、古町のはづれにある寶の湯の方へ歩いて行った。兩側の家並が盡きる かはら ひとへ と、路は可愛らしい山と山との間を流れる箒川の磧に添うて居て、セルの單衣では少し肌寒いくらゐに秋 風が立って居た。磧にうぢゃうぢやと密生して居るぐみの木がざわざわと音を立てながら風に搖す振られ て、白い葉の裏をところどころ銀色に光らせて居る。向うに見える山を越えて會津へ通って居るのだと云 さら ふ街道は、雨の爲めにきれいに地面を洗はれたせゐか、晒しの帶をひろげたやうに白ちやけて眞直ぐに私 たちの行く手に伸びて居る。それは活動寫眞で見る西洋の郊外などにあるやうな美しい田舍路だった。 子は時々、蛇を恐れながらも叢の中 ~ 這入って行って紅いぐみの實を見附けて來たり、溪川を渡りたがっ て e に手を曳いてくれなど、云った。 「駄目々々、こんなに水が殖えて居ちゃとても君なんかに渡れやしない。」 e は道ばたの小石を拾って、しゅツ、しゅッと室を切らせて深さうな所 ~ 投げ込みながら、 「ね、彼處を見給へ、あの岩の間で水が渦を卷いてるぢゃないか。彼處はたしかに腰ぐらゐまで深さがあ るぜ。」 あすこ くさむら ひる しら 494
みは 白い眼玉をきよとんと雌って、白木の臺の上に濟まし込んで載っかって居るのでした。そのヘうきんな、 無邪氣な恰好が、春江さんにはをかしくて溜りませんでした。 「まあ、何と云ふ面白い鯛でせう。桃子さんはお人形さんだの押繪細工だのがお好きだから、此の鯛をさ し上げたらきっとお喜びになるだらうよ。」 春江さんが斯う云ふと、玉やも直ぐに賛成して、 「ほんたうに此の鯛はよく出來て居りますこと。體中が眞赤で、おなかがふつくらと膨らんで居て、見た ところからお目出度いお魚のやうでございますね。やはりお祝び物には此れがよろしうございますよ。」 と、云ひました。 春江さんは早速それを買ふことに極めて、鯛を麹町のお邸へ屆けるやうに店員に命じました。さうして内 へ歸って來ると、急いでお母様のお部屋へ行って、 「お母様お母様、わたくしはね、いい物を見附けて參りましたのよ。」 かう云って、さもさも手柄を誇るやうに、ちりめんの鯛の話をして聞かせますと、 「それはまあよかったね。お母様も早くその鯛を見たいものだね。」 かう仰しやって、お母様は機嫌よくお笑ひになりました。 白 緋ぢりめんの鯛は、明くる日銀座の商店から、立派な木の箱へ人れられて綿に包まれて屆きました。お母 太 の様は無論のこと、お父樣もお兄様も、多勢の召使ひの人々までも、みんな鯛の周りへ集って、口々に春江 魚 さんの思ひ附きのよかった事を褒めた、へました。春江さんは褒められたのでいよいよ嬉しく、鼻を高く しらき
な氣持はしませんでした。こ、で僕は、僕の異常な性癖の一端を白状しなければなりませんが、どう云ふ 譯か僕は生來ぬらノ \ した物質に觸られることが大好きなのです。 たとへばあの蒟ですね、僕は子供の時分から馬鹿に蒟蒻が好きでしたが、それは必ずしも味がうまいか らではありませんでした。僕は蒟蒻を口へ入れないでも、たゞ手で觸って見るだけでも、或は單にあのブ ところてん ルブルと顫へるエ合を眺めるだけでも、それが一つの快感だったのです。それから心太、水飴、チュ 1 ブ なめくち それ等は總べて、喰ひ物であらうが何 人りの煉齒磨、蛇、水銀、蛞蝓、とろ、、肥えた女の肉體、 であらうが、皆一様に僕の快感を挑發せずには措かなかったものです。僕が繪が好きになったのも、恐ら くはさう云ふ物質に對する愛着の念が、次第に昻じて來た結果だらうと思ひます。僕の畫いた靜物を見れ ばお分りになるだらうと思ひますが、何でも溝泥のやうにどろどろした物體や、飴のやうにぬらぬらした 物體を畫く事だけが非常に上手で、その爲めに友達からヌラヌラ派と云ふ名稱をさへ貰って居るくらゐな んです。で、ヌラヌラした物體に對する僕の觸覺は特別に發達して居て、里芋のヌラヌラ、水洟のヌラヌ ラ、腐ったバナナのヌラヌラ、さう云ふ物には、眼を潰って觸って見たゞけでも、直ぐに共れを中てる事 が出來ました。ですからその晩も、その薄穢ないヌラヌラした湯に漬かって、ヌラヌラした湯船の底に足 を觸れて居ることが、寧ろ一種の快感を覺えさせたのです。そのうちにだん / \ 自分の體までが妙にぬら 件 / \ して來て、僕の近所に漬かって居る人たちの肌までも、みんな此の湯のやうにぬらノ \ と光って居る 事 湯らしく思はれ、何だかちょいと觸って見たいやうな気になりました。すると、さう思ったとたんに、僕の 柳 足の裏は何か知らぬが生海苔のやうにこってりとした、鰻のやうにによろによろした、一脣濃いヌラヌラ こんにやく なまのり さは 129
女の方で深間に這入るだけの餘裕がなかったのかも知れません。 はうき 「あの入のやうにあゝ箒木ぢゃあいっ迄經っても道樂は止みッこない。女を拵へるなら拵へるでい、から、 いっそ 一層一人に極めてしまって妾でも持ったら、却て身が堅まるだらうに。」 と、親類の誰彼がよくさう云ったくらゐでした。 ところが最後の富美子だけは特別で、隱居が彼女を知ったのは、一昨年の夏頃が始まりださうですが、彼 女に對する熱度は其の後一向冷却する様子がなく、月を重ねるま、に段々と惚れ方が激しくなって行くば はんぎよく かりでした。さうして、その年の十一月に彼女が半玉から一本になった時には、自分が一切引き受けて支 じまへ 度をしてやり、自前になるだけの金までも出してやりましたが、やがて共れだけでは我慢し切れなくなっ て、たうとう彼女を妾ともっかず女房ともっかず村松町の家へ引擦り込むことになったのです。しかし、 隱居が此れ程の熱心にも拘らず、例に依って女の方では決して隱居を好いて居たのではなかったのです。 何しろ年が四十以上も違ふのですから、馬鹿か気狂ひでない限りは其れは無論當り前の話で、富美子が大 人しく云 . ふ事を聞いて引かされたのは、隱居の老先の短かいのを見越して財産を目あてに乘り込んだのに 違ひありません。 僕が始めて、村松町の家に不思議な女が居ると云ふ事を發見したのは、ちゃうど去年の正月、年始かた み、 \ 隱居の御機嫌を伺ひに行った折でした。質屋の店の裏側にある住居の方の格子戸から案内を乞うて、 いつものやうに奥まった離れ座敷の隱居の部屋に通されると、 「やあ、字之さん、 ( 僕の名前は字之吉と云ひました。それを隱居はいつの頃からか略して宇之さん宇之 ふかま 362
る事を感じ出す。ほんのりと井いやうな、又芳ばしい鹽気をも含んで居るやうな味が、唾吐の中からびと りでにじと / \ と泌み出しつ、あるのである。唾吐がこんな味を持って居る筈はない。 さうかと云って、 勿論女の手の味でもあらう筈はない。 : はしきりに舌を動かして共の味を舐めす、って見る。舐め ても舐めても、盡きざる味が何處からか泌み出して來る。遂にはロ中の唾吐を悉く嚥み込んでしまっても、 やつばり舌の上に怪しい液體が、何物からか搾り出されるやうにして滴々と湧いて出る。此處に至って、 << はどうしても共れが女の指の股から生じつ、あるのだと云ふ事實を、認めざるを得ないのである。彼の ロの中には、その手より外に別段外部から這入って來たものは一つもない。 さうして共の手は、五本の指 を揃 ~ て、先からちっと彼の舌の上に載って居る。それ等の指に附着して居るぬら / \ した流動物は、今 迄たしかに << の唾吐であるらしく思はれたのに、指自身からも唾吐のやうな粘っこい汁が、脂汗の湧き出 るやうに漸々に滲み出て居るのであった。 「それにしても此のぬら / ( \ した物質は何だらう。 此の汁の味は決して自分に經驗のない味ではな 。自分は何かで此のやうな味を味はった覺えがある。」 は猶も舌の先でべろ / \ と指を舐め盡しながら考 ~ て見る。と、何だか其れが支那料理の ( ムの匂に似 て居ることを想ひ浮べる。正直を云ふと、彼は疾うから想ひ浮べて居たのかも知れないのだが、あまり取 り合はせが意外なので、ハッキリ共れとは心付かずに居たのであった。 「さうだ、明かにハムの味がする。而も支那料理の火腿の味がするのだ。」 此の判斷をたしかめる爲に、は一層味覺訷經を舌端に集めて、ます / \ 指の周りを執拗に撫で、見たり 184
天鵞絨の夢 うに彼女の容貌を打ち仰いでは、たゞ力ない溜息を洩らすより外はなかったのです。 しかし、人間の心と心とが觸れ合ふ時には、必ずしも言葉を以てしないでも、自から通ずる道があるもの だと云ふことを、私はだんだんと悟るやうになりました。幸か不幸か私は日を經るに從って、少女の眼っ きや、その唇の動かし方や、手だの足だの襟頸だのに現はれる嬌態のうちに、彼女もまた私に對して同じ 思ひにれて居るのを認めることが出來たのです。ああ、その時の私の歡びと恐れとはどれほどでしたら う ! その歡びは説明するまでもないとして、私は何を恐れたのでせうか ? それは二人の此の戀カ 阿片の夢に浸って居る女王の心に感付かれはしないかと云ふことでした。女王は安らけく睡って居るやう さ、つ思ふと には見えるけれども、その眼には必ず此の部屋の物の形が幻になって映って居るに違ひない。 われわれ二人は今にどのやうな刑罰を受ける事かと案じられました。私は勿論共れをんじて身に引受け る覺悟でしたが、あの少女にまでそんな苦しみを負はすことは、考へて見ても堪へ難いやうに感ぜられま した。少女はしかしそんな心配があらうなど、は少しも心着いて居ない様子で、女王の寢顏を見定めなが ら、いつも大膽なしなを作ってにつこりと媚びるやうな薄笑ひを私の方へ贈るのです。私もまた共の時が さしまね 來れば心配も何も打ち忘れて、兩手を高くさしかざしつ、彼女の影を麾きます。彼女が私へ愛情を示す動 作は日增しに明かに無遠慮になり、或る時はもどかしさを訴へるが如く悲しみに滿ちた眉根を寄せて鰻の ゃうに身をうねらせ、或る時はせめてもの心やりに頻りと口を動かしては聞えぬ言葉を面白さうに話しか け、また私から共の返辭を聞き取らうとするかのやうに、長い項を横さまに伏せて耳朶をガラスの板へ寄 せたりするのでした。 ヾゝ、 517
しはちっとも悪かありません。あたしは可哀さうな女です。あなたはきっと、私を逐び出して襟子さんを 内 ~ 入れようとなすっていらっしやるんでせう。さうしたらあたしはどうしませう。あたしには親もなし 2 ・ : ねえ、後生だから、ちょい 兄弟もなし、あなたの内を逐ひ出されたら外に行く處はないんですよ。 とでい、から此方へ顏を見せて下さい。ねえあなたツてば ! あなた、あなた、あなた、あなた、 かう云ふ間にも涙は後から後からと流れ出た。が、彼女はもう其の涙を呑み込む事すら敢へてしないで、 流れ放題に打ち捨てたま、、夫の枕元 ~ 顏を擦り寄せつゝ一つ事を繰り返し / \ 訴 ~ るのであった。佐々 木は尚も眼を潰って知らぬ振りをして居たが、さうすればするほど彼女はいよ / \ 襟頸 ~ しがみ着いて來 て、頸飾りの鈴のやうに耳の側で騒々しく泣き咽んだ。どうかすると、犬が主人の足の先にじゃれ廻るが 、彼女は唇の端で夫の耳朶をばくり / \ と咬んで見たり擽って見たりしながら、殆ど自制力を失った かのやうに際限もなくしゃべり績ける。その言葉は亂雜でふしだらで紙屑籠からこぼれ出る襤褸のやうに とろ 醜く拙くはあったけれども、それが涙に濡れ光り熱せられて、異様に粘っこい力を持った聲音の中に蕩け 込みつ、、沸騰する酒のやうに降りか、って來るのを、佐々木は心に聞くまいとしても聞かずに居る事は 出來なかった。彼の耳朶に降りか、って來るのは言葉ばかりでなく、涙も共れと量を爭ってさめる、、と注 こめかみ がれるのであった。始めのうちは雨が瓦を叩くやうにばら / \ と粒を落して居たものが、しまひには蟀谷 のあたりへびっしよりと水の如く纒はって、やがて彼の頬の上にまで幾筋もの縷を曳き始めた。それは佐 々木が嘗て經驗したことのない程、灼けるやうに熱い涙であった。涙自身が蛇の如くのたうち廻る生物で み、、たぼ
と云ふ料理である。第一夜の獻立に於いては、料理の内容は兎に角、名前だけは純然たる支那料理であっ たのに、高麗女肉と云ふのは支那料理にも決してあり得ない珍らしい名前である。尤も、單に高麗肉と云 ふのならば支那料理にもない事はない。高麗とは支那料理の天ぶらを意味するので、豚の天ぶらのことを 普通高麗と稱して居る。然るに高麗女肉と云へば、支那料理風の解釋に從ふと、女肉の天ぶらでなければ ならない。獻立の中から此の料理の名を見附け出した會員たちの好奇心が、どれ程盛んに煽られるかは推 量するに難からぬ所であらう。 さてその料理は皿に盛ってあるのでもなく、碗に湛へられてあるのでもない。其れは一枚の素敵に大きな、 ぼっぽっと湯気の立ち昇るタオルに包まれて、三人のボーイに恭しく擔がれながら、食卓の中央へ運び込 まれる。タオルの中には支那風の仙女の裝ひをした一人の美姫が、華やかに笑ひながら横はって居るので ある。彼女の全身に纒はって居る訷々しい羅綾の衣は、一見すると精巧な白地の緞子かと思はれるけれど、 實は共れが悉く天ぶらのころもから出來上って居る。さうして此の料理の場合には、會員たちはたゞ女肉 の外に附いて居る衣だけを味はふのである。 以上の記述は、伯爵の奇怪なる美食法に關して、僅かに共片鱗を窺ったゞけのものに過ぎない。片鱗に 依って共の全般を推し測るには餘り多くの變化に富んだ料理ではあるけれども、而も伯爵の創造の方が無 盡藏である限り、作者が如何に宴會の囘數を追うて詳細な記述を試みるとしても、要するに共の全般を知 188
の編み物をして居る。して居ると云ふよりは、ピカビカと銀色に光る二本の長い針を弄びながら、編み物 をいぢくって居ると云った方が適當かも知れない。笑はうとして笑はずに居るやうな、妙な媚と愛嬌とが 目元と口元に漂うて居る。以前の令孃は折々肘をくの字なりに突っ張って、上衣の下から紫の絹の ( ンケ チを摘まみ出して、それを鼻先へ持って行ったり兩手で顏の前へ幕を張ったり、何と云ふ事もなく伊達に おもちゃ 玩具にして居るらしい。 或は ( ンケチに滲み込ませてある香水の匂ひでも嗅いで居るのだらう。彼女の薄 てのひら い掌はその紫の絹のハンケチと輕さを爭ふやうに柔かくひら / ( 、して居る。 ズンガリー らうかん 松江の鐵橋にさしか、った時、首を出して見ると水は琅のやうに青く / \ 澄んで透き徹って居た。中國 へ來てからこんな綺麗な川の水に遇ったのは今日が始めてゞある。濁って居るので有名な黄河は云はずも がな、白河にしても揚子江にしても中國の川と云ふ川は皆溝泥のやうに汚い。南方の蘇州の運河はそれほ ど汚くはないけれど、とても此の松江の水とは比較にならない。い っぞや汽車で朝鮮を通った時、あの近 邊の川の水は悉く淸洌だと思ったが、此れなら朝鮮の日こヒ。 ) ー上へても劣りはしなからう。兎に角中國も南と 北とでは川の水からして既に斯くの如く違って居るのである。蘇州の水は南京の水よりも淸らかに、杭州 の水は更に蘇州の水よりも淸らかに、南へ / \ と行くに從って支那はだん / \ 美しくなるのではあるまい か。現に窓外に連なって居る豐饒な田園の趣にしても、直隷河南あたりの蕭殺たる原野の風物とは雲泥の 相違である。絶え間なく打ち績く綠の桑畑や、桃の林や、楊柳の並樹や、その間を點綴する水溜りには數 十羽の鶩が群がって泳いで居るかと思ふと、忽ちにして夥しい薄の穗が日にきら / \ と輝いて居る丘陵が ある。丘陵の蔭から高い塔が聳えて來たり、町の城壁の古びた煉瓦塀が蜿蜒とうねって現はれたりする。 あひる どぶどろ すゝき てんてい 336