に、私はあきらめても居た。但し平田は柔道三段の強の者で、「グヅグヅすれば打ん毆るぞ」と云ふやう 、腕ッ節を誇示する風があったので、此方が大入しく出るのは卑怯ちゃないかとも考へられたが、 私は幸ひにもそんな下らない意 ーさうして事實、内々はその腕ッ節を恐れて居たにも違ひないが、 地ッ張りや名譽心にかけては極く淡泊な方であった。「相手がいかに自分を輕蔑しようと、自分で自分を かう腹をきめて居た私は、平田の い、のだ、少しも相手を限むことはない。」 信じて居ればそれで 傲慢な態度に報ゆるに、常に冷靜な寬大な態度を以てした。「平田が僕を理解してくれないのは已むを得 ないが、僕の方では平田の美點を認めて居るよ。」と、場合に依っては第三者に云ひもしたし、又實際さ う思っても居たのだった。私は自分を卑法だと感ずることなしに、心の底から平田を褒めることの出來る 自分自身を、高潔なる人格者だとさへ己惚れて居た。 「下り藤の紋附 ? 」 さう云って、平田がさっき私の方をチラと見た時の、その何とも云へないイヤな眼つきが、その晩はしか し奇妙にも私の神經を刺したのである。一體あの眼つきは何を意味するのだらうか ? 平田は私の絞附が 下り藤である事を知りつ、、あんな眼つきをしたのだらうか ? それともさう取るのは私の僻みに過ぎな だが、若し平田が少しでも私を疑ぐって居るとすれば、私は此の際どうしたらい、か いだら、つか ? ・ 知 , らん ? 「すると僕にも嫌疑が懸るぜ、僕の絞も下り藤だから。」 さう云って私は虚心坦懷に笑ってしまふべきであらうか ? けれどもさう云った場合に、 こ、に居る三入 ひが 329
平田はちょっとひるんだやうだったが、直ぐ思ひ返して猛然として、績けざまに私の頬桁を毆った。私は 痛いと同時に好い心持でもあった。此の間中の重荷をホッと一度に取り落したやうな気がした。 「さう毆ったって仕様がないさ、僕は見すノ ( \ 君の罠に懸ってやったんだ。あんまり君が威張るもんだか ら、『何糞 ! 彼奴の物だって盜めない事があるもんか』と思ったのがしくじりの原なんだ。だがまあ分 ったから此れでい、や。あとはお互に笑ひながら話をしようよ。」 さう云って、私は仲好く平田の手を取らうとしたけれど、彼は遮二無二胸倉をんで私を部屋へ引き摺っ て行った。私の眼に、平田と云ふ人間が下らなく見えたのは此の時だけだった。 「おい君逹、僕はぬすッとをまへて來たぜ、僕は不明の罪を謝する必要はないんだ。」 平田は傲然と部屋へ這人って、そこに戻って來て居た二人の友人の前に、私を激しく突き倒して云った。 部屋の戸口には騷ぎを聞き付けた寮生たちが、刻々に寄って來てかたまって居た。 「平田君の云ふ通りだよ、ぬすッとは僕だったんだよ。」 いつもの通り馴れ / 、しく云った積りではあったが、 私は床から起き上って二人に云った。極く普通に、 矢張顏が眞青になって居るらしかった。 「君たちは僕を憎いと思ふかね。それとも僕に對して耻かしいと思ふかね。」 と、私は二人に向って言葉をつゞけた。 君たちは善良な人たちだが、しかし不明の罪はどうしても君たちにあるんだよ。僕は此の間から 幾度も幾度も正直な事を云ったちゃないか。『僕は君等の考へて居るやうな値打ちのある入間ぢゃない。 340
「委員の一人から聞いたんだが、まあ餘りしゃべらないでくれ給へ。」 「しかし君、君が知ってるとすると、泥坊だって共の位の事はもう気が附いて居るかも知れんぜ。」 さう云って、平田は苦々しい顏をした。 こ、で一寸斷って置くが、此の平田と云ふ男と私とは以前はそれ程でもなかったのに、或る時或る事から 感情を害して、近頃ではお互に面白くない気持で附き合って居たのである。尤もお互にとは云っても、私 の方からさうしたのではなく、平田の方でヒドク私を嫌ひ出したので、「鈴木は君等の考へて居るやうな ソンナ立派な人間ちゃない、僕は或る事に依って彼奴の腹の底を見透かしたんだ。」と、平田が或る時私 をこッびどく罵ったと云ふ事を、私は嘗て友人の一人から聞いた。「僕は彼奴には愛憎を盡かした。可哀 さうだから附き合ってはやるけれど、決して心から打ち解けてはやらない」と、さうも云ったと云ふ事で あった。が、彼は蔭口をきくばかりで、一度も私の面前でそれを云ひ出したことはなかった。たゞ恐ろし く私を忌み、侮蔑をさへもして居るらしい事は、彼の様子のうちにありありと見えて居た。相手がさう云 ふ風な態度で居る時に、私の性質としては進んで説明を求めようとする気にはなれなかった。「己に惡い 所があるなら忠告するのが當り前だ、忠告するだけの親切さへもないものなら、或は又忠告するだけの價 値さへもないと思って居るなら、己の方でも彼奴を友人とは思ふまい。」さう考へた時、私は多少の寂寞 を感じはしたもの、、別段その爲めに深く心を惱ましはしなかった。平田は體格の頑丈な、所謂「向陵健 兒」の模範とでも云ふべき男性的な男、私は痩せッぼちの色の靑白い神經質の男、二人の性格には根本的 に融和し難いものがあるのだし、全く違った二つの世界に住んで居る人間なのだから仕方がないと云ふ風 328
それからもう何年か立った。私は其の後何遍となく暗い所へ人れられもしたし、今では本職のぬすッと仲 間へ落ちてしまったが、あの時分のことは忘れられない。殊に忘れられないのは平田である。私は未だに 惡事を働く度にあの男の顏を想ひ出す。「どうだ、己の睨んだことに間違ひはなからう。」さう云って、あ の男が今でも威張って居るやうな気がする。兎に角あの男はシッカリした、見所のある奴だった。しかし 世の中と云ふものは不思議なもので、「社會へ出てからが案じられる」と云った私の豫言は綺麗に外れて、 お坊っちゃんの樋口は親父の威光もあらうけれどトントン拍子に出世をして、洋行もするし學位も授かる 中村と樋口とは、默って、呆れ返ったやうに眼をばちくりやらせて居るばかりだった。 「あ、、君等は僕を圖々しい奴だと思ってるんだね。やつばり君等には僕の氣持が分らないんだね。それ も人種の違ひだから仕様がないかな。」 さう云って、私は悲痛な感情を笑ひに紛らしながら、尚一言附け加へた。 「僕はしかし、未だに君等に友情を持って居るから忠告するんだが、此れからもないことぢゃないし、よ く気を付け給へ。ぬすッとを友達にしたのは何と云っても君たちの不明なんだ。そんな事では社會へ出て からが案じられるよ。學校の成績は君たちの方が上かも知れないが、入間は平田君の方が出來て居るんだ。 平田君はごまかされない、此の人は確かにえらい ! 」 平田は私に指さ、れると變な顏をして横を向いた。その時ばかりは此の剛複な男も妙に極まりが惡さうで あった。 342
平田君こそ確かな人物だ。あの人が不明の罪を謝するやうな事は決してない』ッて、あれほど云ったのが 分らなかったかね。『君等が平田君と和解する時はあっても、僕が和解する時は永久にない』とも云ったん だ。僕は『平田君の偉いことは誰よりも僕が知って居る』とまで云ったんだ。ねえ君、さうだらう、僕は 決して一言半句もウソをつきはしなかったゞらう。ウソはつかないがなぜハッキリと本當の事を云はなか ったんだと、君たちは云ふかも知れない。やつばり君等を欺して居たんだと思ふかも知れない。しかし君、 そこはぬすッとたる僕の身になって考へてもくれ給へ。僕は悲しい事ではあるがどうしてもぬすッとだけ は止められないんだ。けれども君等を欺すのは厭だったから、本當の事を出來るだけ廻りくどく云ったん だ。僕がぬすッとを止めない以上あれより正直にはなれないんだから、それを悟ってくれなかったのは君 等が惡いんだよ。こんな事を云ふと 、いかにもヒネクレた厭味を云ってるやうだけれども、そんな積りは 少しもないんだから、何卒眞面目に聞いてくれ給へ。それほど正直を欲するならなぜぬすッとを止めない のかと、君等は云ふだらう。だが共の質間は僕が答へる責任はないんだよ。僕がぬすッととして生れて來 たのは事實なんだよ。だから僕は共の事實が許す範圍で、出來るだけの誠意を以て君等と附き合はうと努 めたんだ。それより外に僕の執るべき方法はないんだから仕方がないさ。それでも僕は君等に濟まないと 思ったからこそ、『平田君を追ひ出すくらゐなら、僕を追ひ出してくれ給へ』ッて云ったぢゃないか。あ れはごまかしでも何でもない、本當に君等の爲めを思ったからなんだ。君等の物を盜んだ事も本當だけれ ど、君等に友情を持って居る事も本當なんだよ。ぬすッとにもそのくらゐな心づかひはあると云ふ事を、 僕は君等の友情に訴へて聽いて貰ひたいんだがね。」 341
突き合はす事が屡あった。私はそれが辛かったので、自分も圖書館へ行くか散歩に出かけるかして、夜 は成るべく部屋に居ないやうにして居た。すると或る晩のことだったが、九時半頃に散歩から戻って來て、 自習室の戸を明けると、いつも共處に獨りで頑張って居る筈の平田も見えないし、外の二人もまだ歸って と思って、二階へ行って見たが矢張誰も居ない。私は再び自 來ないらしかった。「寢室か知ら ? 」 習室へ引き返して平田の机の傍に行った。さうして、靜かにその抽出しを明けて、二三日前に彼の國もと から屆いた書留郵便の封筒を捜し出した。封筒の中には拾圓の小爲替が三枚這人って居たのである。私は ふところ 悠々とその内の一枚を拔き取って懷に收め、抽出しを元の通りに直し、それから、極めて平然と廊下に出 て行った。廊下から庭へ降りて、テニス・コ 1 トを横ぎって、いつも盗んだ物を埋めて置く草のばうばう と生えた薄暗い窪地の方へ行かうとすると、 「ぬすッと ! 」 と叫んで、いきなり後から飛び着いて、イヤと云ふほど私の横ッ面を張り倒した者があった。それが平田 だった。 「さあ出せ、貴様が今懷に人れた物を出して見せろ ! 」 「おい、おい、そんな大きな聲を出すなよ。」 と、私は落ち着いて、笑ひながら云った。 「己は貴様の爲替を盜んだに違ひないよ。返せと云ふなら返してやるし、來いと云ふなら何處へでも行く さ。それで話が分ってゐるからい、ぢゃないか。 339
もや れのことで、グラウンドの四方には淡い靄がか、って、それが海のやうにひろみ \ と見えた。向うの路を、 たまに二三入の學生が打ち連れて、チラリと私の方を見ては通って行った。 「もうあの人たちも知って居るのだ、みんなが己を爪彈きして居るのだ。」 さう思ふと、云ひやうのない淋しさがひしひしと私の胸を襲った。 その晩、寮を出る筈であった平田は、何か別に考へた事でもあるのか、出るやうな様子もなかった。さう して私とは勿論、樋口や中村とも一言も口を利かないで、默りこくって居た。事態が斯うなって來ては、 私が寮を出るのが當然だとは思ったけれども、二入の友入の好意に背くのも心苦しいし、それに私として やま は、今の場合に出て行くことは疚しい所があるやうにも取られるし、ます / ( \ 疑はれるばかりなので、さ うする譯にも行かなかった。出るにしてももう少し機會を待たなけりゃならない、 と、私はさう思って居 「そんなに気にしない方がい、よ、そのうちに犯人がまりさへすりや、自然と解決がつくんだもの。」 二人の友人は始終私にさう云ってくれて居た。が、それから一週間程過ぎても、犯人はまらないのみか、 依然として盗難が頻發するのだった。遂には私の部屋でも樋口と中村とが財布の金と二三册の洋書を盜ま れた。 「とう / \ 二人共やられたかな、あとの二人は大丈夫盜まれッこあるまいと思ふが、 その時、平田が妙な顏つきでニャニヤしながら、こんな厭味を云ったのを私は覺えて居る。 樋口と中村とは、夜になると圖書館へ勉強に行くのが例であったから、平田と私とは自然二人きりで顏を 、一 0 つまはじ 338
だが、その羽織が下り藤の絞附だったと云ふ事だけが分ってゐる。」 「下り藤の紋附 ? それだけの手掛りちや仕様がないね。」 さう云ったのは平田だった。気のせゐか知らぬが、平田はチラリと私の顏色を窺ったやうに思へた。さう して又、私も共の時思はずイヤな顏をしたやうな気がする。なぜかと云ふのに、私の家の絞は下り藤であ って、而も共の紋附の羽織を、その晩は着ては居なかったけれども、折々出して着て歩くことがあったか らである。 「寮生だとすると容易にまりッこはないよ。自分たちの仲間にそんな奴が居ると思ふのは不愉快だし、 誰しも油斷して居るからなあ。」 私はほんの一瞬間のイヤな気持を自分でも耻かしく感じたので、サツ。ハリと打ち消すやうにしながらさう 云ったのであった。 「だが、 二三日うちにきっとまるに違ひない事があるんだ。 と、樋口は言葉尻に力を入れて、眼を光らせて、しやがれ聲になって云った。 これは秘密なんだが、 一番盜難の頻發するのは風呂場の脱衣場だと云ふので、二三日前から、委 員がそっと張り番をして居るんだよ。何でも天井裏へ忍び込んで、小さな穴から様子を窺ってゐるんださ うだ。」 「へえ、そんな事を誰から聞いたい ? 」 此の間を發したのは中村だった。 327
平田だな、 さう思ふと私はぞっとした。平田の眼が執拗に私を睨んで居る心地がした。 「君はその人と、何か僕の事に就いて話し合ったかね ? 」 「そりや話し合ったけれども、 ・ : しかし、君、察してくれ給へ、僕は君の友人であると同時にその人 の友入でもあるんだから、その爲めに非常に辛いんだよ。實を云ふと、僕と樋口とは昨夜その人と意見の らず話してくれ給へな、共の方がいっそ氣持が好いんだから。」 私がさう云ふと、中村はさも云ひにくさうにして語った。 「何でも方々から委員の所へ投書が來たり、告げ口をしに來たりする奴があるんださうだよ。それに、あ の晩樋口が餘計なおしゃべりをしてから風呂場に盜難がなくなったと云ふのが、嫌疑の原にもなってるん ださうだ。」 「しかし風呂場の話を聞いたのは僕ばかりぢゃない。」 此の言葉は、それを口に出しはしなかった けれども、直ぐと私の胸に浮かんだ。さうして私を一層淋しく情なくさせた。 「だが、樋口がおしゃべりをした事を、どうして委員たちは知ったゞらう ? あの晩彼處に居たのは僕等 四入だけだ、四入以外に知って居る者はない譯だとすると、 さうして樋口と君とは僕を信じてくれ るんだとすると、 「まあ、それ以上は君の推測に任せるより仕方がない。」さう云って中村は哀訴するやうな眼つきをした。 「僕はその人を知って居る。その人は君を誤解して居るんだ。しかし僕の口からその人の事は云ひたくな 、もと 335
と、今度は平田と云ふ男が云った。平田はさう云って、もう一人の中村と云ふ男を顧みて、「ねえ、君」 と云った。 「うん、事實らしいよ、何でも泥坊は外の者ちゃなくて、寮生に違ひないと云ふ話だがね。」 「なぜ。」 と私が云った。 「なぜッて、委しい事は知らないけれども、 」と、中村は聲をひそめて憚るやうな口調で、「餘り 盜難が頻々と起るので、寮以外の者の仕業ぢゃあるまいと云ふのさ。」 「いや、そればかりちゃないんだ。」 と、樋口が云った。 「たしかに寮生に違ひない事を見屆けた者があるんだ。 つい此の間、眞ッ晝間だったさうだが、北 寮七番に居る男が一寸用事があって寢室へ這入らうとすると、中からいきなりド 1 アを明けて、その男を 不意にビシャリと毆り付けてバタバタと廊下へ逃げ出した奴があるんださうだ。毆られた男は直ぐ追っか けたが、梯子段を降りると見失ってしまった。あとで寢室へ這入って見ると、行李だの本箱だのが散らか してあったと云ふから、共奴が泥坊に違ひないんだよ。」 「で、その男は泥坊の顏を見たんだらうか ? 」 「いや、出し拔けに張り飛ばされたんで顏は見なかったさうだけれども、服裝や何かの様子ではたしかに 寮生に違ひないと云ふんだ。何でも廊下を逃げて行く時に、羽織を頭からスッポリ被って駈け出したさう 326