初子、臺所へ行ってサンドヰッチや菓子や果物などを二三度に運んで來る。それからそれをテーブルの上に並べ、蠅 を追ひのけながら新聞紙を被せ、ほっとした形でエプロンを脱いで籐椅子に腰かける。と、そこに新聞が置いてある ので何気なくそれを取り上げ、讀むともなく讀んで居る。間。 暫くして、アレキシフが不意に庭先へこっそり歩いて來る。 アレキシフ今日は、奥さん、 まあ、私どなたかと思ひましたわ。 初子今日は、 アレキシフ ( 帽子を脱いでハンケチで汗を拭く ) 大變暑いですね、 まあお掛けなさいまし。 初子ほんたうに今日は特別ですわ、 アレキシフ有りがとございます、 ( ゴランダに腰かける ) 奥さん、あなた顏色がよくないです。 た、體が悪いですか ? 初子え、、少し : アレキシフお、、私大へんお気の毒です。あなた二三日前、此れでした。 ( 卒倒の身振りをして見せる ) あな た此れ、 倒れました。 初子まあ、よく御存知ね、 アレキシフウェイ、私あのう : : : : ・ 彌生さんに聞きました。私大へん心配でした。そして私、今日お見 舞ひに來ました。 初子有りがたうございます、別に大した事ちゃありませんでしたの。そんな事は私始終あるんですから、 あな 386
ない事をいたしました。誰に赦して貰はないでも私はたヾ、あなたに赦して戴きたいのでございます。 あなたにお詑びする爲めに、斯うして逃げて參ったのでございます。でももうあなたは、それを取り返 しの附かない事だと仰っしやるのでございませうか ? 三好僕は、取り返しの附かない事なんぞ何一つないと思って居ます。あなたは山田君を一時にもせよ愛 していらしった、僕を愛していらしったかも知れませんが、しかしあの時は山田君を愛していらしった、 さうして山田君の方へ行かれたのに、何の誤りがあるでせう。僕はあなたとの約束を楯に取って、あな たを責めようと云ふ氣はないのです。あなたが僕に背かれたのが悪いと云ふなら、僕も潔く讓ったのが 惡かったのです、まして僕は、潔く讓ったと云ひながら其の實決して潔くはなかったんですから。 : 僕はあなたに別れてから、始めてほんたうに、自分がどんなにあなたを愛して居たかと云ふ事が分っ たのです。あなたの事を思はずには片時も生きて行けないことを知ったのです。 : その心持は恐ら くあなたも同じだったではないでせうか ? 僕もあなたも、離れて見てから始めて強くお互の愛を感じ たのです。あなたが山田君のやうな人の所へ行かれなかったら、僕も此れ程あなたを思ひ、あなたの爲 めに苦しみはしなかったでせう、あなたと云ふ者が僕の眼に此れ程貴く美しく見えはしなかったでせう。 あなたはさぞかし、山田君の所で苦勞をなすったでせうが、それは二人が愛する爲めに、必要の事ぢや そ なかったでせうか ? 山田君は僕の爲めにあなたをなくてならない人にしてくれました、あなたと僕と すを出來るだけ愛させてくれました、僕もあなたも何一つ取り返しの附かない事なんかして居ないんです。 愛 あなたが斯うして僕の所へ來て下さるのが運命だったと考へれば、几べてが幸輻に順當に運ばれて居た
は、あなたは知って居て下さるでせう。あなただって御承知でせうが澄子は始終あなたに感謝してゐる んですよ、僕等が一緖になれたのはみんなあなたのお蔭だって、 いつもさう云って居るんですよ、あな たは僕等を少しもお恨みにならないばかりか、いつも澄子の幸を祈って下さるんださうですね、僕は あなたの御好意を感謝します、あなたの同に訴 ~ てお願ひします、どうか澄子に會はして下さい、僕 をこんな目に遭はせて、澄子は決して幸ではないんですから ! 三好 ( 非常に云ひにくさうに ) 山田君、僕は澄子さんの幸疆の爲めに、君に會はせる事は出來ないんです、 山田何ですって ! 三好僕は君に、君の同情者だと思はれたくないんです。そりや或る時期には同して居たかも知れない、 しかし今となっては 君に恨まれても仕方のない位置にあるんです。澄子さんが君の物ではなくな った今となっては、 山田 ( わざと大仰に ) あゝ、あなたまでがそんな事を云ふんですか、そりゃあ非道い そりゃあ殘酷だー あなたはそんな入ちゃなかったん / 三好山田君、僕は改めて君にお斷りしなけりゃならない、 澄子さんは僕の妻です、今日から僕の 妻になってくれたのです。 山田、心から愕いたらしく、急に眞靑な顏色になって默然と三好を凝視する。 三好君は失禮ながら、それに就いて決して故障を云ふべき筋はないやうに思ふ。僕に云はせれば、澄子
捨て、居たかも知れませんけれど、惡い人だと思ふ傍から、その惡いのが可哀さうでならなくなって、 知らず識らず斯うなってしまひましたの。今ではもう、その惡いのを憎むことさ ~ 出來ないのでござい ます。 三好そりや、あなたがさう仰っしやるのは、 世間の人は兎も角も、僕には尤もだと思はれてなり ません。僕は、 悲しい事ですが、 今でもやつばり、あなたの気持を理解することが出來る のです。僕は山田君に欺されました、欺された上にも負かされました、そしてあなたには背かれました、 けれどもやつばり、あなたが山田君を悪人だから可哀さうだと仰っしやって、僕を捨て、山田君の所 ~ 行かれた心持を、少しも憎む気にはなれないのです。そこがあなたの好い所だ、あなたの美しい所や貴 い所がそこにあるのだと、今では僕はさう云ふ風に思はれてなりません。山田君にしたって、何もあな たの同情を買はうとか僕を負かさうとか云ふ積りで、殊更悪人になって居るのちゃないんだし、あ、云 ふ生れつきなんだと思へば、そりやほんたうに可哀さうです。あなたがあの人を見捨て、、自分ひとり 善入になる譯に行かないと仰っしやるのは、そりやほんたうに無理もありません。あなたのやうな性質 としては、さうなるのが當り前だと云はなけりゃなりません。山田君も可哀さうだし、あなたも可哀さ うだし、そして僕だって可哀さうだ、誰一人可哀さうでない者はないんオ 僕は全くさう思ひま すよ。僕はせめてあなた方を恨むことが出來ればい、んですけれど、それが出來ないのが不運なんです。 捨てられても背かれても、それがみんな尤もだと思はれるし、誰を恨むあてもないのが、 いやそ れどころか、猶更その人の優しさを忘れる事が出來ないのカ 、 ) 0
山田誰 ? どなたです ? 三好の整御免下さい、僕はあの、三好ですが、 山田はあ ? 澄子、 ( ッとして山田と顏を見合はせる。山田手拭と石鹸を提げたま、ツカッカと出て行き、玄關の障子を開ける。 山田ゃあ、三好君ですか、どうも暫く、 突然伺って失禮だとは思ったんですが、實は是非あなたにお目に懸りた 三好御無沙汰しました、 い事があって、お邪魘に出たんですけれど、 山田僕に ? 僕に用事だと仰っしやるんですか ? 三好え、、是非あなたにお話したい事があるんです、それで實は、朝のうちならお宅においでかと思っ て伺ったんです。 ま、ちょっと待って下さい、大 ぢや、兎も角上って戴きます力 山田はあ、さうですか 變散らかって居ますから、 山田びたりと障子を締め切り、六疊の間へ戻って來て又共處の襖を締める。それ迄の間、澄子はひどく不安な様子で 閾際に息を凝らしつ、、二人の話を聞いて居る。 山田 ( ジロリと澄子を睨み、低聲に囁く ) おい、お前二階へ行って居ろ。 澄子あなた、お願ひですから、 絶望と悲痛に充ちた眼で山田を見上げ、その前に跪いて着物の裾に縋る。
分たちはさうでなければならないやうに考へていらっしやるのを、反感を以て見ないでは居られませんで した。なぜなら、私に云はせればあなた方が幸疆でなければならない譯はなく、私が不幸でなければなら ない譯もないのですから。あなた方は、正しく生きよう、信仰に生きようと云ふ旺盛な意志と熱とを持 って生れていらしった。けれどもそれはあなた方の努力の結果でもなければ、さう云ふ風に生れた事に、 何等の必然もありはしないでせう。あなた方はさう云ふ人間にお生れになった、しかしさうでなくてもよ かったのだ、私のやうな人間に生れたって仕方がなかったのだ、さうでなければならない事は何もないの どな と、私は思ふのです。ですからあなた方の幸は全く偶然の賜物であるのに、先生を始め、誰 方もそれを反省なさる様子がない。それでい、のだ、さうあるべきだと思っていらっしやる。私はあなた 方の幸疆を奪ひ取らうとは思ひませんし、又取らうとしたって、生れ變って來ない限りは取れるものでは ありませんけれども、たゞあなた方が、あなた方御自身で標榜なさる通りに、何處までも人生を正しく觀 察し、眞理と正義とに依って生きようとなさるなら、一應御自分たちの偶然の好運をお認めになってもよ からうと思ふんです。そして私のやうな不運な入間に對して、ちょっと一と言ぐらゐ御挨拶があって然る べきです。『どうも己達はお前に比べると大分割がい、やうだが、これも運だから仕方がない、濟まない けれどもあきらめてくれろ』と、さう仰っしやってから、多少私に遠慮しながら、そっと御自分たちの幸 疆をお樂しみになるのが禮儀ではないでせうか。それがほんたうの正しい道ではないでせうか。ほんのち よっとした事ですけれども、その御挨拶がなかったのが非常に私には淋しうございました。そりや、あな た方に私の不運を知って戴いたって仕方がないのだし、又知らせようと思ったって、知らせる方法もない ミ ) 0 120
三好えゝ、あなたに隱してさう云ふ事をして居たと云ふのは、僕が重々惡いんです、僕は幾重にも罪を 謝します、 山田君、ほんたうに濟まない事をしました、申譯がありません。 山田申譯のない事あ仰っしやる迄もありませんよ、だが何かね、さう云って詑ったゞけで、それであな たは濟むと思って居るのかね。 女い、え、此れだけで濟むとは思って居ません、しかし兎に角僕が惡かったのですから、その惡かっ た事に對して詑らなけりゃならないと思ひます。 山田そんな事あ當り前だ、濟まないと思ったらどうしてくれるんだ、己あそれを聞いてるんだ。 三好僕は自分の惡かった點は認めて居ます、けれどもそれがどうしたら濟むか、あなたに對して犯した 罪がどうしたら拭へるかと云はれると、實際それは拭ひやうがない、 一生あなたにその罪を負はなけり ゃならないと、云ふ風に感じるんです。僕は恐らく、あなたが考へて居られるよりも一脣深く、自分の 罪を意識して居ると思ひます。僕の惡かったのは單に此の一週間だけの事ぢゃなく、抑もの始めから、 あなたと、澄子さんと、僕の三人が、知り合ふやうになった時から、惡かったんです。 ( 涙ぐんで、 聲を曇らせながら ) あなたにいろイ \ 御迷惑を掛けたのも、澄子さんを今度のやうな窮境に立たせたのも、 みんな僕が惡いんです。僕はあなたに罪があるのは勿論ですが、澄子さんに對しても罪があります。山 田君、どうか此の事を聞いて下さい、僕が斯うしてお伺ひしたのは、あなたにお詑びをするばかりでな く、お詑びをした上に聞いて戴きたい事があったんです、 山川あなたのやうな聖入は違ったもんだね、自分獨りが悪いと云ゃあ、それで濟むと思ふのかね。
ちい、え、ちがひます、あなたのことです。わたしあなたに、ヒ 止の字を縫って上げました、わたしあな たが好きでしたから。 角太郎きっとさうかも知れないって、僕はさう云ったんだけれど、そんなことがあるもんか、だからお 前は気違ひだって、みんなが僕を馬鹿にしました。僕はみんなに笑はれたり、からかはれたりしたんで す。 狐おゝ、みんながあなたをからかひました ? 角太郎え、、さうですよ、今でも僕を狐憑きだって、みんなさう云ってゐるんですよ。 村の奴等 はね、ロ 1 ザさんがこのお湯へ來ることをだあれも知らないもんたから、夜遲くなってからこんな所へ 來る者はない、そりゃあきっと人間ちゃあない、狐だ / ( \ って云ふんですよ。 狐おほ、、、 ( 甲高く笑ふ ) 私のことを狐だと云ひますか ? 角太郎え、、さうなんです、ロ 1 ザさんがあんまり色が白いもんだから、あんな綺麗な人間がゐる譯は ない、あれは狐だって云ふんです。 狐おほ、、、をかしいですね、わたし狐ではありません。わたしロ 1 ザ、ね、あなたよく知ってゐます ね。 湯角太郎え、、知ってますとも。 僕はあなたがあの別莊へいらしった時から、きっと體が惡いので 狐此の温泉へ這入りにおいでになったんだと、さう思ってゐたんですもの。 ねえ、ローザさん、あ なた、もうすっかりお直りになったんですか ? 495
愛すればこそ 三好あなたは僕が、もう一と月ほど前から、時々澄子さんとカフェェで會って居た事を御承知でせう、 それは多分澄子さんがあなたに打ち明けられた筈です、僕はそれに就いても、非常にあなたに濟まない と思って居るんですが、しかし濟まない事はそれだけちゃないんです、僕と澄子さんとは、もう今日で はそれ以上の濟まない事をして居るんです。 あなたと會って居たゞけぢゃないと云ふんですか ? 山田ちゃ、何ですか、澄子はあなたと、 三好澄子さんも僕も、あなたに對して取り返しの附かない罪を犯してしまったのです。 で、そりやいつの事なんです ? 山田ふん、 僕等は毎晩或る所で會って居たので 三好その事があったのは一週間ばかり前でした、それから、 す。 山田ちょっと、ちょっと斷って置きますが、僕等と云ふのは止して下さい、僕等なんて云ふ言葉をあな たは使ふ權利はないんオ 三好あ、さうですか、お気に觸ったら赦して下さい 山田一體そりゃあ、孰方が先に持ち掛けたんです ? 三好僕は、自分を庇ふ積りもなし、澄子さんを庇ふ積りもありませんが、孰方が先と云ふやうな事は云 へないと思ふんです。僕も澄子さんも初めは決してそんな気ではありませんでした。尤もあの晩は二人 今になって考へると、全く時のは とも少し酒を飮んで居たので、それが惡かったのですけれど、 ずみだったと、云ふより外はないやうな莱がするんです。勿論僕は斯う云ったからとて、多少なりとも 、 ) 0
を愛したからです、一層あなたの美點を認め、あなたを理解して居たからです。そして僕の共の氣持が、 あなたにはよく分ってゐました、外の者にこそ分らないでも、あなただけは分って居て卞さいました。 僕はさうする方が眞にあなたを愛する道だと思ったからこそ、あの時山田君に誕りました。けれど、 子さん、 僕とあなたが、斯うなってまで猶お互にその心持を感じ合はねばならないと云ふのは、 あんまり苦しい事ぢゃないでせうか。僕は苦しいからどうかしてくれと云ふのぢゃありません、たヾ苦 あなたは しいのを訴 ~ て居るだけなんですが、何卒僕の云ふ事を愚痴だと思って聞いて下さい 今でも僕を理解していらっしやる、恐らく前よりも一脣よく理解して下さるんだと、僕はさう信じて居 ます。僕は自分の気持に照らして、それを疑ふことは出來ないんです、僕だって、斯うして別れてしま ってから、猶更あなたの心持を感じることが出來るんですから。 僕の苦しみはそこにあるんです よ、僕はそれだから悲しいんですよ、僕は、あなたに忠實である爲めには、 あなたに對する自分の愛を 立證するには、ます / \ 遠くあなたに離れて行かなけりゃならない。あなたと僕の心持がピッタリ一致 すればするほど、僕はあなたを山田君に讓って、そこに苦しんで居られる優しいあなたと云ふものを、 遠くから眺めて居なけりゃならない。離れて居ると云ふ事が少しもお五を忘れさせる元にはならないで、 却ってそれが二人の心をだんど、近く惹き寄せてしまふ。あなたも僕もそれを ( ッキリ感じて居るんで す、 ねえ、澄子さん、あなたはさうでないと仰っしやるでせうか ? 澄子數馬さん、私あなたに、何も彼も隱す事は出來ないのでございます、うそをつく事は出來ないので ございます、けれどそれを云ひましては、山田に濟まないと存じますから、