思ふ - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第8巻
305件見つかりました。

1. 谷崎潤一郎全集 第8巻

三好えゝ、あなたに隱してさう云ふ事をして居たと云ふのは、僕が重々惡いんです、僕は幾重にも罪を 謝します、 山田君、ほんたうに濟まない事をしました、申譯がありません。 山田申譯のない事あ仰っしやる迄もありませんよ、だが何かね、さう云って詑ったゞけで、それであな たは濟むと思って居るのかね。 女い、え、此れだけで濟むとは思って居ません、しかし兎に角僕が惡かったのですから、その惡かっ た事に對して詑らなけりゃならないと思ひます。 山田そんな事あ當り前だ、濟まないと思ったらどうしてくれるんだ、己あそれを聞いてるんだ。 三好僕は自分の惡かった點は認めて居ます、けれどもそれがどうしたら濟むか、あなたに對して犯した 罪がどうしたら拭へるかと云はれると、實際それは拭ひやうがない、 一生あなたにその罪を負はなけり ゃならないと、云ふ風に感じるんです。僕は恐らく、あなたが考へて居られるよりも一脣深く、自分の 罪を意識して居ると思ひます。僕の惡かったのは單に此の一週間だけの事ぢゃなく、抑もの始めから、 あなたと、澄子さんと、僕の三人が、知り合ふやうになった時から、惡かったんです。 ( 涙ぐんで、 聲を曇らせながら ) あなたにいろイ \ 御迷惑を掛けたのも、澄子さんを今度のやうな窮境に立たせたのも、 みんな僕が惡いんです。僕はあなたに罪があるのは勿論ですが、澄子さんに對しても罪があります。山 田君、どうか此の事を聞いて下さい、僕が斯うしてお伺ひしたのは、あなたにお詑びをするばかりでな く、お詑びをした上に聞いて戴きたい事があったんです、 山川あなたのやうな聖入は違ったもんだね、自分獨りが悪いと云ゃあ、それで濟むと思ふのかね。

2. 谷崎潤一郎全集 第8巻

思はれるのが苦しい、 澄子 い、え、あなたをさうだと思ひません、それよりかあなたは、私があなたを欺したと思っておいで ではないでせうか ? 三好そんな事があるもんですか、 悲しい事ですが僕は未だに、あなたの心持がよく分るんです、 僕はあなたを憎みたいけれど憎めないんです。 澄子私もあなたに憎んで下さいと云ひたいんですけれど、でもあなたは憎んでは下さいませんでせう 三好さん、お願ひですからどうか憎まないで下さいまし、私を哀れだと思って下さいまし、 いつまでもいつまでも、 三好分りました、もうそんな事は云はないで下さい 澄子私は今日まで山田の妻ではなかったのです。今日からほんたうに山田の妻になってやらなけりゃな りません、どうか惡く思はないで、 山田の賴みを聽いてやって下さい、山田は獨りばっちなので す、誰も今まで山田の事を思ってやる人はなかったんです、あなたの事は思って居る者がありましたけ れども、 牧子澄子や、お前もう一度考へ直しておくれでないか、お前の爲めと云ふのが惡ければ、私の爲めだと そ 思って。 す澄子お母様、どうかお赦しなすって下さいまし、誰の爲めよりも山田の爲めを考へてやりたうございま 愛 すから。

3. 谷崎潤一郎全集 第8巻

それが本嘗ちゃないかと思びますがれ。 小夜子私だってさうは思ひますけれど、 若し知らしたらあの人はどうなるでせう ? それを知っ たら、瓜子さんの事は思ひ切って、 私を 私を愛してくれるでせうか ? 河合さうならなけりゃなりません、さうなるのが當り前です、あなたばかりか可愛い子供まであるんで すもの。 一年の後に死が迫って居る事は不仕合はせには違ひないが、その不仕合はせが黒田君を ほんたうの人間に、ほんたうの藝術家に、鍛へ上げてくれると思へばせめてもの慰めぢゃありませんか。 きっと黒田君はあなたの所へ歸って來ますよ、心からあなたの前に跪いて罪を謝しますよ、 ・ : 奥さ ん、あなたは長い間苦勞をなすった、しかしその苦勞が報いられない筈はありません、 小夜子 ( 激しく泣きながら ) でもさうなったら、それが又悲しくはないでせうか、 : 私、ふだんはいく ・・そ ら嫌はれて居ても、せめて孰方かが死ぬ時には優しい言葉をかけて貰へるだらうかと思って、 ればかりを樂しみにして、待って待って居たんですけれど、 ・ : 黒田が急に力を落してそんな優しい いっそ云はない 人にでもなられたら、それが又どんなに悲しいか知れないと思ふものですから、 で居ようかとも思ったりして、 河合そりや黒田君は、きっと力を落すでせう、もともと莱の弱い人なんだから、涙脆い男になって、恐 らく生れ變ったやうになるかも知れない、 それを見るのが悲しいと仰っしやるのは、あなたのお 心持ちとしては無理もありませんが、だからと云って、云はずに居ればあなたは永久に、黑田君の愛を その一年の間に、あなたは出 取り返す望みはないんですよ、あと一年の月日しかないのですよ、 308

4. 谷崎潤一郎全集 第8巻

ゃうなものですから、要するに仕方がないの一言で盡きてしまふのですが、仕方がないと思へば思ふほど 餘計やるせない氣がしました。怒ったって仕方がない、恨んだって仕方がない、あなた方の察しの惡いの を咎めたって仕方がない、何をしたって結局たかが知れて居る、と、私は又思ひました。私は決して、鼓 を鳴らしてあなた方を攻めようと云ふ勇氣も出ないし、醉興もありませんでした。けれどもその爲めに一 層苦しく、じっとして居ると息が詰まりさうな氣がしました。 : そこで、私が先生を殺しましたのは、さう云ふ重苦しい氣持が募り募った結果だったと、さう云 ふより外はありません。私は何も最初から入を殺さうと思った譯ぢゃないのですが、 どうせ人を殺 したってたかが知れてるとも思ひましたが、 しかし先生を殺すことは、何かする事のうちでは一番 しばえがある事のやうに感じたんです。なぜかと云ふと、先生はあなた方のうちでも一番幸疆な圓滿な方 で、あなた方の幸輻は先生の存在を中心として居るので、先生が居なくなったらあなた方も少しは不幸に なられるだらう。さうしたら今までの幸輻が偶然だと云ふ事をお吾りになるだらう。 それを悟って 戴いたって勿論大した意義はありさうにも思へませんが、しかし決して惡い事ぢゃない、悟らないよりは い、事だ、少くともあなた方に正しい人生の觀かたを教へる事だ。それに私としては、今までの不公平が 多少取り除かれる譯で、まあいくらかは運命の片手落ちを矯正する事が出來る、と、そんな風に思ったん 動です。尤も世の中にはあなた方ばかりでなく、もっと好運な人たちも澤山あるでせうし、何も先生に狙ひ 罪 る を付けなくってもよささうなもんですが、しかし先生は最も私の手近な所にいらっしゃいました。私は無 精な人間ですから、そんなに遠い所へなんか動いて行く気はありませんでした。まあ云って見れば、私の ロ一 っゞみ 121

5. 谷崎潤一郎全集 第8巻

こゝろや で力を惜しまない積りです。それがせめてもの僕の心遣りなんです。 牧子それほど迄に思って下さるのが、分らないなんて、何と云ふ情ない人間なんでせう。 い、え、そんな事はありません、僕の此の心持は、澄子さんだってきっと分って居て下さる筈です。 三好 僕はさうだと信じて居ります。 いっ迄あの男 牧子あなたのそのお心持が、萬分の一でも分って居るなら、なぜあ、して居るのでせう。 に喰っ着いて居るのでせう。どうせ刑事が來るくらゐだからロクな事ではないでせうが、あの男はいっ か一度は監獄へ打ち込まれるやうな人間ですよ。私はいっそ、さうなってくれた方が却って都合が好い いくらあれがに脆くっても、そんな事でもあれば思ひ切りよく別れられる とさへ思って居るのです。 でせうからね。 書生下手より「何卒此方へ」と云ひっ、刑事をつれて來る。三人挨拶すべく立ち上る。 こんにち 刑事 ( 牧子に向ひ極めて慇懃に ) や、今日はどうも突然お伺ひいたしまして、飛んだお妨げをいたします。あ の、何でございますか、失禮でございますが、奥様でいらっしゃいますか。 とうも大變お待たせしまして。 牧子 ( 高官の夫人らしい品位を保ちつ、 ) はい、。 刑事いえ、私こそ御無理をお願ひ申しまして、お會ひ下さいまして有り難う存じます。 そ れ牧子 ( 圭之助を指し ) 此れは忰の圭之助でございます。 初めてお目に懸ります。 す刑事はあ、左様で、 牧子それからあの、こ、においでの方は、圭之助のお友達で、帝大の理科の助教授をしていらっしやる、

6. 谷崎潤一郎全集 第8巻

て云ふんださうだが、か、り合ひにでもなるんぢゃないかね。 圭之助か、り合ひに ? そんな事があるもんですか、私たちは山田と何の關係もないんです ! 牧子だってさうは行くまいと思ふ。山田とは關係がなくっても、あの子が居るんだから、 ) も、つ 圭之助お母さん、どうか僕の前で、殊に三好君の居る前であの子など、仰っしやらないで下さい あれは我が子とは思はないって、いっかも御自分で仰っしやったぢゃありませんか。實は今も三好君と その話をしてゐたんですが、僕だってあれを妹とは思っちゃ居ません。あんな奴は人間ちゃありません。 すみこ 三好まあ君、そんな事を云はんでもい、、さう云ってくれちゃ僕が困る。僕は君が澄子さんの惡口を云 ふのを聞いたって、決して好い心持ちゃないんだから。 牧子 ( 涙ぐみながら ) ほんたうに、、 つも此れで困ってしまふんですよ。そりや圭之助の云ふのが尤もには 違ひないんですけれど、私の身になるとやつばりさうも行かなくって、 あれだって大分此の頃は 後悔して居るやうですから、今にきっと眼が覺めます、兎に角山田と切れてくれさへすればい、んだか ら。 圭之助切れるものならもう疾つくに切れてい、筈です、眼が覺める時機は今迄何度もあったんです。 牧子お前だって、三好さんに義理を立てる積りなら、さう云ふ風に頭からあれを憎んでしまはないで、 もう少しあれの爲めを思ってやったら、 圭之助僕は、お母さん、僕は決してあれを憎んで居るんぢゃないんですよ、あれの爲めを思へばこそ、

7. 谷崎潤一郎全集 第8巻

ら、控へて居たのです、どうか惡く思はないで、 、え 澄子 御返事を戴かうと思って書いたんぢゃないんですもの、 あんな手紙を度び / ( 、差し上げたり何かして申譯がございません。でも私は、ほんたうに、苦しかったものですから、 三好ですがあなたは、僕の苦しいのが分って居て下すったでせうか ? 子はい、それは、 三好分って居て下すったんですね ? 澄子 ( うなづいて ) 御返事は戴きませんでしたけれど、母からも御様子は聞いて居りましたし、よく分っ て居りました。 : 分って居ればこそ、斯うして厚かましくお目に懸れるのでございます。 三好そのお言葉を僕はうれしく思ひます。此の前お目に懸ったのは、確かもう一年も前だったと思ひま すが、僕の心持はあの時と少しも變って居ないのですから。さうしてあなたは、 山田君とお別れ になるのださうですね ? 證子は、、 今度わたくし、別れる決心をいたしましたの。 三好しかし、山田君がそれを承知するでせうか。 そ 澄子するもしないもないと存じます。もう今度こそ私は、何と云っても山田の所 ~ は歸りません。その す積りで出て參ったのでございます。 愛 三好なぜお別れになるのですか ?

8. 谷崎潤一郎全集 第8巻

勝手だから 僕はあの時、ほんたうにあなたを莱の毒だと思ひました、不仕合はぜな人だと思びました。 三好 どうかして澄子さんの優しい志を遂げさせて上げて、あなたを少しでも幸疆にさせて上げたいと思ひま した。其の結果自分がどんなに苦しまうとも、あなたを負かしてしまふよりは樂しい事だ、自分は苦し みの中にも一縷の光明を認めて、慰められる道があると思ひました。僕は、ちゃうどあなたが自分を惡 人だと思ったやうに、自分を善入だと思ひ込んで、何か非常に犧牲的な事でもしたやうに感じました。 僕が自分をエゴイストだと云ったのは此處の事なんです、なぜかと云ふと、その實僕のした事は犧牲で しゃう も何でもなく、たゞその方が自分に愉快だったから、 自分の性に合って居たからに過ぎないので すから。僕はあなたの爲めや澄子さんの爲めだと思ひながら、ほんたうは自分の爲めにして居たのです から。さうしてもっと惡い事には、それは決してあなたの爲めにも澄子さんの爲めにもならないのでし こ。僕が一時の気持に任せてエゴイズムを徹した結果はどうなったかと云へば、僕も苦しむし、澄子さ んも苦しむし、そしてあなたは、却って二入から欺かれた、 さうなったのは几べて僕の罪なので す、僕が眞劍に、あなた方の爲めや自分の爲めを思はなかったからなのです、若し此のま、に放って置 けば、僕等三人はますイ \ 救はれなくなり、ます / ( 、墮落するばかりなんです。 山田若し此のま、に放って置けば ? ぢや、放って置いちゃ惡いとでも云ふのかね ? 三好山田君、どうかあなた、考へて見てくれませんか、僕はあなたに詑った上にもお願ひがあるのです、 澄子さんをーーー・澄子さんを僕に返してはくれませんか。 とほ 104 ・

9. 谷崎潤一郎全集 第8巻

彌生口惜しいと思ひ出したら、私だってどんなに口惜しいか知れやしない。そりゃあの時は私もセシル さんも惡かったけれど、始めツからの事を云ゃあ、あの二人の方が私たちより惡いんぢゃないか。だの に警察ちや私とセシルさんを罪にしといて、あの二人を放って置くなんて、そんな馬鹿な話があるもん ぢゃない。 アレキシフ彌生さん、あなた、どうぞその話止めて下さい ・ ( 初子に ) 奧さん、私ほんたうに困り ます、此の人いつも此れを云びます。 初子ほんたうよ彌ッちゃん、もう共の話は止しておくれ。 彌生私、考へるとフレデリッキの奴が憎くッて曾くッて、顏を見たら打ん毆ってやらうと思っ、た事もあ るんだけれど、でももう此の頃ぢやそんな事は思っちゃ居ないわ。あんな人間を相手にするだけ損だと 思って、憎いなんて事は忘れるやうにして居るの。 初子さうだとも、ほんたうにそれがい、んだよ。セシルだってそれは分って居るんだから、そのうちに はきっと気持が直ってくれるよ。たゞね、あの人たちが少しは遠慮してくれるとい、のに、あ、やって 此れ見よがしに此の近所を出歩くもんだから、それで時々思ひ出すんだよ。私いっそ、セシルを連れて アメリカへでも行ってしまひたいと思ったんだけれど、二人ともこんな風をしてまさかさうも出來ない もんだから、 夜 牧彌生なあに、此方で逃げ出さなくったって今に向うで逃げ出すわよ。近いうちにあの二人は上海へ行く 本 んだって。 一口 403

10. 谷崎潤一郎全集 第8巻

分たちはさうでなければならないやうに考へていらっしやるのを、反感を以て見ないでは居られませんで した。なぜなら、私に云はせればあなた方が幸疆でなければならない譯はなく、私が不幸でなければなら ない譯もないのですから。あなた方は、正しく生きよう、信仰に生きようと云ふ旺盛な意志と熱とを持 って生れていらしった。けれどもそれはあなた方の努力の結果でもなければ、さう云ふ風に生れた事に、 何等の必然もありはしないでせう。あなた方はさう云ふ人間にお生れになった、しかしさうでなくてもよ かったのだ、私のやうな人間に生れたって仕方がなかったのだ、さうでなければならない事は何もないの どな と、私は思ふのです。ですからあなた方の幸は全く偶然の賜物であるのに、先生を始め、誰 方もそれを反省なさる様子がない。それでい、のだ、さうあるべきだと思っていらっしやる。私はあなた 方の幸疆を奪ひ取らうとは思ひませんし、又取らうとしたって、生れ變って來ない限りは取れるものでは ありませんけれども、たゞあなた方が、あなた方御自身で標榜なさる通りに、何處までも人生を正しく觀 察し、眞理と正義とに依って生きようとなさるなら、一應御自分たちの偶然の好運をお認めになってもよ からうと思ふんです。そして私のやうな不運な入間に對して、ちょっと一と言ぐらゐ御挨拶があって然る べきです。『どうも己達はお前に比べると大分割がい、やうだが、これも運だから仕方がない、濟まない けれどもあきらめてくれろ』と、さう仰っしやってから、多少私に遠慮しながら、そっと御自分たちの幸 疆をお樂しみになるのが禮儀ではないでせうか。それがほんたうの正しい道ではないでせうか。ほんのち よっとした事ですけれども、その御挨拶がなかったのが非常に私には淋しうございました。そりや、あな た方に私の不運を知って戴いたって仕方がないのだし、又知らせようと思ったって、知らせる方法もない ミ ) 0 120