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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第9巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 ながしめ と云って、まだこっこっと働いてゐる柴山の後姿を流眄に見ながら、彼は現像室の扉を排して戸外へ出た。 さう、さっきから三時間ばかりも暗い室内に籠ってゐた彼は、全くそこに戸外と云ふものがあ 戸外 ることを忘れてゐた。彼の世界は赤い電燈の灯影のうちに浮かんでゐる、小ひさな無數のグランドレンの 顏ばかりだったのが、そこには非常に冴え冴えとした靑白い夜の光が地にクッキリと印してゐた。 「いい月夜だな。」 と、さう思ったのは、しかし彼の間違ひだった。それはスタディオのガラス張りの天井に燃えてゐる、ア ーク燈の明りだったのである。 そのア 1 ク燈は、たった一つだけ、廣告の爲めに夜間を徹して燈されてゐるのだったが、靜かな夜を音も なくまたたいてゐる燈火は、月の光よりも美しい種々な幻想を呼び起すので、彼は暫くドーアの前に立ち 止まったま、天井の炎を視つめてゐた。毎晩吉之助は、寢る前に一度スタディオの中を一と廻りして、火 の用心を見て歩いたり、翌日の用意に飾ってある舞臺裝置を眺めながら、いろいろ仕事の計畫をしたりす るのが習慣になってゐる。たまたま察想に惹き入れられると、夜中の二時や三時ごろまでも、入気のない いつもなら ガランとした撮影所の中に、獨りぼっ然と椅子に凭れて起きてゐることも珍らしくない。で、 ば彼は腰に提げてゐる鍵を取って、撮影所の扉へ手をかける筈であったが、生憎今夜の彼の頭には妻の姿 さう云 が一つの引っ懸りになってゐた。「お前は朝が早いのだから好い加減にして休んだらいい」 っても、妻はいつでも夫が歸って來る迄はおちおち寢つかないらしく、寢床の中へ這人ってもうとうとし ながら心待ちにしてゐる。妻の小ひさな冴え返った眼が、夜具の蔭でばちばちと淋しい眼瞬きをつづけて 111

2. 谷崎潤一郎全集 第9巻

「さうだとも、君の奥さんはグッド・ワイフだよ。 僕のやうな獨り者はどうでも、 には早く歸って奥さんを慰めてやり給へ。餘計なお世話のやうだけれど。」 「有り難う、ちゃ、お説に從って一と足先に失敬するかね。」 「どうか御遠慮なく。」 さう云って柴山はからからと笑ったが、それが吉之助には妙に心を壓せられるやうで、不愉快に響い 自分は勿論妻を愛してゐる、だのに柴山は「もっと妻君を大事にしてやれ、いたはってやれ」と云ってゐ るやうに彼には思へた。柴山の親切はよく分ってゐる、だが、自分は嘗て民子を疎略にしたことはない。 仕事の上では彼女を激しく追ひ使ふから、他人の眼には或は無慈悲に見えることもあらうけれど、それも 此れも自分と妻との間には完全な了解があるのだ。妻は決して自分に對して不平や嫉妬を抱いてはゐない。 自分がどんなに仕事に夢中になって居ようとも、心の底では妻を賴りにしてゐる事實は、誰よりもよく彼 女自身が知ってゐるのだ。彼女はそれで意を安んじ、充分に慰められてゐるのぢゃないか。 ・・に、も拘 らず、吉之助は今更柴山にさう云はれると、民子と云ふものが矢っ張り哀れに感ぜられて來るのだった。 成程彼女は夫を恨んではゐないだらう、だからと云ってその境遇が必ずしも幸輻であるとは云へない。不 幸にゐて自分の不幸を知らず、却てそれに滿足してゐる入間なら、一脣不仕合せであるかも知れない。 その言葉は、何と云ふ理窟なしに吉之助の胸に強くこたへて、 一瞬間、彼をうら悲しい淋しい気分に誘って行った。 「お休み。」 「たまには奧さんを慰めてやり給へ」 ℃が、君はたま 110

3. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 れで以て滿足なんだ。報酬なんか喰ってさへ行けりや幾らでもいい。」 料で働いてゐた。グランドレンが三百圓を請求したと聞いたときも、 「君の方さへ差し支へなけりや出してやり給へ。僕は入の月給なんかどうだっていいよ。」 と、たださう云っただけだった。 だが、その晩の柴山はいつになく沈んだ様子で、何か考へごとをしてゐるやうだった。 「小野田君 と、彼が漸く機嫌を直して快活な聲を出したのは暫く立ってからだった。そして兩手をタンクの中へつけ ながら、後向きになって云った。 「僕はもう少し殘ってるから、君こそ好い加減にしたらどうだい。 奥さんが可哀さうぢゃないか。 ね、ほんたうにさうし給へよ、奥さんの爲めに。」 「なぜ ? 」 「なぜって君、僕等は好きでやってゐるからいいやうなものの、ほんとに奥さんは気の毒だよ。朝から晩 までちっとも休む暇はなし、何から何まで一人でやってゐるんだから大抵な事ぢゃありやしない。普通の 女にやとてもあの眞似は出來やしないよ。」 「そりやさうだがね、 吉之助は何で柴山が突然そんな事を云ひ出したのか分らなかったが、しかしその言葉の中にやさしい、眞 情の流露を感じた。何となく自分が遠廻しに責められてゐる氣持ちがして、胸を打たれた。 そして彼は月々二百圓の給 109

4. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 が這入って來るとすっかり調子が壞されてしまふ。君はあんまり水と云ふことに囚はれ過ぎてゐやしない 君の云ふやうに此のシャボン玉がぎらぎ 「ちゃ、シャボン玉でもう一遍取り直しをして見るかね。 ら光って寫ってくれれば申し分はないのだが、 ほんたうの水を使ったら第 「さうだよ、だからそれは光線の加減できっと効果が出せると思ふよ。 一費用も大變だし、泡だけは巧く行くにしたって、グランドレンの表靑なんぞがとても斯う自由には行く まいと思ふ。」 どんな顏つきをしてゐるのか暗いのでよく分らなかったが、二三分の間、柴山は默って ( イボーに漬けて あるフィルムの枠をいぢくってゐた。 吉之助に比べると、藝術家と云ふよりは技術家と云ふ肌合の彼はよく吉之助と意見の衝突を來すのだった が、そんな時には不愉快さうに默ってしまふのが常だった。 い、加減にしてあとは明日のことにし給へ。」 「柴山君、もう十二時だぜ、 と、吉之助は宥めるやうに云った。 「うん、此のハイボ 1 が拔ける迄だ。」 さう云ふ聲は、まだ機嫌が直らないのか、それとも仕事に凝ってゐるのか、半ばロの内で重々しく聞えた。 亞米利加仕込みの柴山は、働くときにはウンと働き、遊ぶときはウンと遊ぶと云ふ主義で、やり始めたら 何時間でも容易に止めない。殊に此の頃の働きぶりは凄じかった。映畫に就いて眞の黒人と云はれる者は くろうと 107

5. 谷崎潤一郎全集 第9巻

吉之助の考へでは、ほんたうの水を使はないで而も十分に水中の感じを現すところに面白味があるのだっ た。あの有名なアンネット・ケラ 1 マンの映畫を始め、ほんたうの水を冩したものなら既に今迄にも澤山 ある。それをするにはケラ 1 マンのやうな水泳の達入でなければならず、又實際にさうしたところで、矢 張り思ふやうな水の趣が出るものではない。水を使へば水の感じが出せると思ふのは、俗人の考へに過ぎ ない。水の世界とは云ふものの、吉之助の註文するのは寫實的の意味に於いてではなく、畢竟彼の幻想を 滿足させるやうな、一個の美しい謎の世界である。そこにあるところの几べての物がなまめかしくゆらゆ それはほんたうの海の底とは全 らと輝き、繻子のやうにつやつやとして波に搖られてゐる心持ち、 く違ったものであらうとも差支はないのである。彼は最初からその計畫で、絹や天鵞絨で岩だの貝だのを 作り、魚には人間を使ひ、後の帷にはブラック・ベルべットを垂れ、扇風器と入工光線とで波のゆらぎや 光りの波絞を現さうと云ふつもりだった。そして人魚の吐く息が虹のやうな色をした五彩の泡になるとこ ろは、シャボン玉を使ふことにしたのだった。 「僕の云ふのは、全部を水にしろと云ふのちゃないんだよ。此の泡を吹くところだけは矢っ張り水の中へ 、と思ふね。」 入れて息をさした方がい 「そりやさうすれば實際の泡は寫るかも知れない。けれどほんたうの水の場面がたとへ一つでも交って來 ると、それが非常に外の場面と不調和になりはしないだらうか。此の寫眞の狙ひどころは、或る不自然な、 技巧を凝らした美しさにある。活動寫眞は山の中でも海の底でも、どんな自然の景色でも勝手に背景に使 へると云ふ、その裏を行って、僕は几べてを人工でやって行きたいのだ。だからその中へ人工でないもの 106

6. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 かりである。上を見ても下を見ても、何處を見ても、悉くグランドレンの小ひさな顏がある。そしてびつ しよりと水に濡れてゐるのが、さながら汗でも掻いてゐるやうに生々しい 「どうだね君、もう少し何とか工夫して水の感じが出るやうにしようぢゃないか。」 「水の感じは出てゐないが、しかしプリンスを誘惑する氣持はよく出てゐる。」 「さうだよ、人魚の表は此れでいいのだ、要するにセットと光線を何とかしなけりや、 それは人魚が、遂にプリンスの手招きに應じて尾を掉りながら彼の方へ近づいて行く場面だった。人魚と プリンスとは次第に寄り添って、首と首と、胴と胴と、腕と腕とが重なるやうにびったりと二つの體をつ ける。が、二人の間には一枚のガラスの壁があって、それほど近く寄りながらも互に肌を觸れることが出 來ない。ガラスを隔てて顏と顏とは向ひ合ひ、唇と唇とは激しく吸ひ合ふ。けれど互の唇は冷めたい壁を 吸ふばかりである。人魚の唇は貝分柱のやうに吸び着き、プリンスの唇からは熱い吐息が洩らされて、徒 らにガラスの面を曇らす。すると人魚は一脣悲しげに兩手でその曇りを掻き消さうとし、いくら消しても 消えないので、又別のところへ泳いで行って體をつける。プリンスがその後を追って行って唇を着ける。 再びそこのガラスが曇る。人魚はいよいよ焦りながら幾度となく曇りを避けては、右や、左や、上や、下 や、いろいろな方面に姿を現す。 「ここで人魚の吐く息が美しい泡になるのだが、ほんたうの水を使はないとどうもその泡が巧く行かな 「いや、僕は此れでいいと思ふよ。これでもう少し光線の方を工夫すれば巧く行かない筈はないんだ。」 105

7. 谷崎潤一郎全集 第9巻

「ほんとにひどいのよ、私はあれ性だもんだから。」 彼女は羞かしげに慌ててその手を引っ込めながら笑った。 「君、どうもいかんよ、此れぢや矢っ張り水中の感じが出てゐないよ。」 柴山は今試みに現像したフィルムの一と片を取り出して、暗室の中をぼんやり照らしてゐる一點の燈火の 前にかざした。赤い電球に透かされた、まだ乾かないフィルムの端からはぼたぼたと水が流れて柴山の手 を濡らしてゐる。その拇指と人差指の間に持たれた、細長い鋼鐵のやうにきらきら光るデエラチンの膜の 面には、寸にも足らぬ小ひさな畫面が幾つも幾つも繋がって、その一つ一つにグランドレンの顏が覗いて ゐる。恰も無數の彼女の姿を編んで作った鎖のやうに。 「ああ、これはキッスのところだね。」 部屋の中には吉之助と柴山と二入しか居なかった夜の十二時近くのことで、それでなくても蒸し暑い晩 だのに、密閉された狹い室内は一入息が詰まるやうで、而もし 1 んと死んだやうに靜かだった。開放され た水道の栓から絶えずタンクへ注がれる水の音が、僅かにチョロチョロと聞えてゐるばかり。 それが吉之助には、五月の宵の花園に咽び泣く噴泉のやうに感ぜられた、斯う云ふ生暖かい晩に、鎖され た暗室の奥に籠って、そんなにも細かい、數知れぬ泡のやうな物の中にあるグランドレンの姿の連續を視 つめることが、彼には一つの不思議だった。赤い灯影の明るみに浮かんでゐるものはただそのフィルムば ひとしほ 104

8. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 に生れた時から定まってゐた運命だったので、自分はたゞその與 ~ られた卷き物を長の歳月ぐるぐると卷 き返してゐたに止まる。 、。明日になると亡しいから、 「ではあなた、此れを預かって置いて下さ ふと、さう云ふ聲に呼び覺まされでもしたやうに吉之助は振り返った。机の上に帳簿をひろげて何か書き 込んでゐた民子は、三百圓の小切手を認めて、それを夫の手に渡した。 「ちゃ、受け取って置くけれど、今の話は分っただらうね ? 」 「今の話ッて ? 」 妻は子供のやうに可愛らしく首を傾げて、淋しい顏をちょっとニコニコして見せた。 「己の氣持ちさ。」 「ええ、分ってるわよ、もうそんな事は云はないで頂戴。」 吉之助の心は遙かな幻の世界から急に現實の世界に戻った。彼の視線は小切手を持ってゐる妻の手の上に 日頃の勞役の爲めであらう、節くれだって、厚い皮の出來たところどころに眞黒な筋が這 落ちた。 あの夜會の晩に見た、マニキュ 1 アを施した白珊瑚のやうな 人った、見るからに傷ましさうな手、 手と比べたら何と云ふ相違であらう。だが民子だって昔はもっと優しいつやつやしい手をしてゐた。此の 此れも夫を助けてくれる心盡しの現れではないか ? 手がこんなに醜くなったのは誰の爲めか ? 「まあお前の手は 吉之助はさう云って、氣の毒さうにそのざらざらした掌を自分の兩手の間に挾んオ 103

9. 谷崎潤一郎全集 第9巻

けだ。グランドレンに對するとき、己の心はフィルムと全く同一になる。そして彼女の精御と肉體のうち から、ただ、水遠な美しさを持っ淸い貴い姿だけを拔き取って、己の中のキャメラに寫す。己の瞳に映るも のは實際のグランドレンではなく、彼女の姿から作り出された幻のグランドレンだ。正直に云ふが、己は その幻を崇拜することもあるだらう、その前に跪いて讃嘆の聲を放っこともあるだらう。けれどもそれは 決して實際のグランドレンに對してではない。 吉之助の室想の眼は、さう云ふ言葉の間にも始終ハッキリとその幻のグランドレンを視つめてゐた。長い 間太陽に瞳を向けてゐたものは、眼を潰っても矢張り虚室に太陽の幻影を見る。それは暗闇に虹のやうな 明るい點を殘しつつ、いっ迄も痕を消さないで、眠った後もいろいろな夢の種を作るであらう。吉之助に 取って、グランドレンの存在は恰も太陽の輝やきと同じだった。彼の頭の中にあるその幻は、晝夜の分ち なく彼にさまざまの夢を見させる。さうしてそれが幼い頃の果敢ない追憶と一緖になって、彼の心を遠い 世界へ引き上げて行く。子供の時分、店先にあったマリアの聖像、水に浮かんだ靑白いオフェリアの死顏 ・ : 中學時代にさ迷って歩いた支那大陸の山や湖や城壁や宮殿や、そこに展開されてゐた珍らしい風俗 や、そんなものが悉くグランドレンの姿を取り卷いて、幾種類とも數の知れない長い長いフィルムになっ て、吉之助の室想の壁に映る。或はそれは子供の時から今日になるまで三十年來つづいてゐた唯一本のフ イルムであると云ふやうな気もする。自分が七つ八つの折に聖母マリアの像を見たのが、抑もそのフィル ムの始まりだった。そしてだんだん卷き物をひろげて行って、最後の卷き物の奥深くに祕められてゐたグ さうなることは自分が此の世 ランドレンが、今や映寫機の光明に照されて此處に姿を現して來た、 102

10. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 「あたし腹なんか立ててやしません、あなたの氣持ちはよく分ってゐるんです。」 民子は固く唇を嚼んだ。が、同時にばらばらと頬を傳はって來るものを堰きあへなかった。何が悲しいの か自分でも分らなかったが、それほど自分を信じてゐる夫に、いろいろ辯解をさせたりするのが辛いのだ った。 「そんなに云って下さらなくってもいいんです、仕事の爲めを思って云っただけなんですから。」 「さうだ、何事も仕事の爲だ、さう思って気持ちの惡いことがあっても出來るだけ我慢をしておくれ。あ あ云ふ人間が相手だから、此れから後もきっと度々不愉快な場合があるかも知れない。そりや己だってお 前の役が並一通りでないのは知ってゐる。お前が完全に己の心を理解してゐなけりや、とても此の事業は 成功しないッて、だから始めにさう云ったのだよ。 勿論人間を問題にしたら腹の立っことは幾らも ある。けれども己は藝術と云ふ立ち場から彼等を見るのだ。己に云はせれば惡い人間にも美しさがある。 たとへばグランドレンにしても、若し善良な女だったら、あの顏だちにあれだけの妖艶さはないに違ひな あのひねくれた、乙に取り澄ましてゐるところや、妙にしらじらしく空ッ惚けた態度なんぞが、陰險 だと云へば陰險だけれど、それがなかったらあの女の美はなくなってしまふ。自分では大きに悧巧がって、 あれで相手を煙に卷いてゐる気なんだらうが、さう云ふ邪気のある性格も、彼女にあっては、その容貌に 己は几てをさう云ふ風に考へるのだ。彼女を評價する場 一種の魅力を添へてゐる裝飾に過ぎない。 合には容貌が主で性格が從だ。フィルムは彼女の形を寫し取るばかりで、その心の美醜は間はない。若し 問ふとすれば、それがどれだけ形を通して表現され、どれだけ形その物の美を引き立たせるかと云ふ點だ 、 0 101