肉 かりである。上を見ても下を見ても、何處を見ても、悉くグランドレンの小ひさな顏がある。そしてびつ しよりと水に濡れてゐるのが、さながら汗でも掻いてゐるやうに生々しい 「どうだね君、もう少し何とか工夫して水の感じが出るやうにしようぢゃないか。」 「水の感じは出てゐないが、しかしプリンスを誘惑する氣持はよく出てゐる。」 「さうだよ、人魚の表は此れでいいのだ、要するにセットと光線を何とかしなけりや、 それは人魚が、遂にプリンスの手招きに應じて尾を掉りながら彼の方へ近づいて行く場面だった。人魚と プリンスとは次第に寄り添って、首と首と、胴と胴と、腕と腕とが重なるやうにびったりと二つの體をつ ける。が、二人の間には一枚のガラスの壁があって、それほど近く寄りながらも互に肌を觸れることが出 來ない。ガラスを隔てて顏と顏とは向ひ合ひ、唇と唇とは激しく吸ひ合ふ。けれど互の唇は冷めたい壁を 吸ふばかりである。人魚の唇は貝分柱のやうに吸び着き、プリンスの唇からは熱い吐息が洩らされて、徒 らにガラスの面を曇らす。すると人魚は一脣悲しげに兩手でその曇りを掻き消さうとし、いくら消しても 消えないので、又別のところへ泳いで行って體をつける。プリンスがその後を追って行って唇を着ける。 再びそこのガラスが曇る。人魚はいよいよ焦りながら幾度となく曇りを避けては、右や、左や、上や、下 や、いろいろな方面に姿を現す。 「ここで人魚の吐く息が美しい泡になるのだが、ほんたうの水を使はないとどうもその泡が巧く行かな 「いや、僕は此れでいいと思ふよ。これでもう少し光線の方を工夫すれば巧く行かない筈はないんだ。」 105
「ほんとにひどいのよ、私はあれ性だもんだから。」 彼女は羞かしげに慌ててその手を引っ込めながら笑った。 「君、どうもいかんよ、此れぢや矢っ張り水中の感じが出てゐないよ。」 柴山は今試みに現像したフィルムの一と片を取り出して、暗室の中をぼんやり照らしてゐる一點の燈火の 前にかざした。赤い電球に透かされた、まだ乾かないフィルムの端からはぼたぼたと水が流れて柴山の手 を濡らしてゐる。その拇指と人差指の間に持たれた、細長い鋼鐵のやうにきらきら光るデエラチンの膜の 面には、寸にも足らぬ小ひさな畫面が幾つも幾つも繋がって、その一つ一つにグランドレンの顏が覗いて ゐる。恰も無數の彼女の姿を編んで作った鎖のやうに。 「ああ、これはキッスのところだね。」 部屋の中には吉之助と柴山と二入しか居なかった夜の十二時近くのことで、それでなくても蒸し暑い晩 だのに、密閉された狹い室内は一入息が詰まるやうで、而もし 1 んと死んだやうに靜かだった。開放され た水道の栓から絶えずタンクへ注がれる水の音が、僅かにチョロチョロと聞えてゐるばかり。 それが吉之助には、五月の宵の花園に咽び泣く噴泉のやうに感ぜられた、斯う云ふ生暖かい晩に、鎖され た暗室の奥に籠って、そんなにも細かい、數知れぬ泡のやうな物の中にあるグランドレンの姿の連續を視 つめることが、彼には一つの不思議だった。赤い灯影の明るみに浮かんでゐるものはただそのフィルムば ひとしほ 104
肉 に生れた時から定まってゐた運命だったので、自分はたゞその與 ~ られた卷き物を長の歳月ぐるぐると卷 き返してゐたに止まる。 、。明日になると亡しいから、 「ではあなた、此れを預かって置いて下さ ふと、さう云ふ聲に呼び覺まされでもしたやうに吉之助は振り返った。机の上に帳簿をひろげて何か書き 込んでゐた民子は、三百圓の小切手を認めて、それを夫の手に渡した。 「ちゃ、受け取って置くけれど、今の話は分っただらうね ? 」 「今の話ッて ? 」 妻は子供のやうに可愛らしく首を傾げて、淋しい顏をちょっとニコニコして見せた。 「己の氣持ちさ。」 「ええ、分ってるわよ、もうそんな事は云はないで頂戴。」 吉之助の心は遙かな幻の世界から急に現實の世界に戻った。彼の視線は小切手を持ってゐる妻の手の上に 日頃の勞役の爲めであらう、節くれだって、厚い皮の出來たところどころに眞黒な筋が這 落ちた。 あの夜會の晩に見た、マニキュ 1 アを施した白珊瑚のやうな 人った、見るからに傷ましさうな手、 手と比べたら何と云ふ相違であらう。だが民子だって昔はもっと優しいつやつやしい手をしてゐた。此の 此れも夫を助けてくれる心盡しの現れではないか ? 手がこんなに醜くなったのは誰の爲めか ? 「まあお前の手は 吉之助はさう云って、氣の毒さうにそのざらざらした掌を自分の兩手の間に挾んオ 103
けだ。グランドレンに對するとき、己の心はフィルムと全く同一になる。そして彼女の精御と肉體のうち から、ただ、水遠な美しさを持っ淸い貴い姿だけを拔き取って、己の中のキャメラに寫す。己の瞳に映るも のは實際のグランドレンではなく、彼女の姿から作り出された幻のグランドレンだ。正直に云ふが、己は その幻を崇拜することもあるだらう、その前に跪いて讃嘆の聲を放っこともあるだらう。けれどもそれは 決して實際のグランドレンに對してではない。 吉之助の室想の眼は、さう云ふ言葉の間にも始終ハッキリとその幻のグランドレンを視つめてゐた。長い 間太陽に瞳を向けてゐたものは、眼を潰っても矢張り虚室に太陽の幻影を見る。それは暗闇に虹のやうな 明るい點を殘しつつ、いっ迄も痕を消さないで、眠った後もいろいろな夢の種を作るであらう。吉之助に 取って、グランドレンの存在は恰も太陽の輝やきと同じだった。彼の頭の中にあるその幻は、晝夜の分ち なく彼にさまざまの夢を見させる。さうしてそれが幼い頃の果敢ない追憶と一緖になって、彼の心を遠い 世界へ引き上げて行く。子供の時分、店先にあったマリアの聖像、水に浮かんだ靑白いオフェリアの死顏 ・ : 中學時代にさ迷って歩いた支那大陸の山や湖や城壁や宮殿や、そこに展開されてゐた珍らしい風俗 や、そんなものが悉くグランドレンの姿を取り卷いて、幾種類とも數の知れない長い長いフィルムになっ て、吉之助の室想の壁に映る。或はそれは子供の時から今日になるまで三十年來つづいてゐた唯一本のフ イルムであると云ふやうな気もする。自分が七つ八つの折に聖母マリアの像を見たのが、抑もそのフィル ムの始まりだった。そしてだんだん卷き物をひろげて行って、最後の卷き物の奥深くに祕められてゐたグ さうなることは自分が此の世 ランドレンが、今や映寫機の光明に照されて此處に姿を現して來た、 102
肉 「あたし腹なんか立ててやしません、あなたの氣持ちはよく分ってゐるんです。」 民子は固く唇を嚼んだ。が、同時にばらばらと頬を傳はって來るものを堰きあへなかった。何が悲しいの か自分でも分らなかったが、それほど自分を信じてゐる夫に、いろいろ辯解をさせたりするのが辛いのだ った。 「そんなに云って下さらなくってもいいんです、仕事の爲めを思って云っただけなんですから。」 「さうだ、何事も仕事の爲だ、さう思って気持ちの惡いことがあっても出來るだけ我慢をしておくれ。あ あ云ふ人間が相手だから、此れから後もきっと度々不愉快な場合があるかも知れない。そりや己だってお 前の役が並一通りでないのは知ってゐる。お前が完全に己の心を理解してゐなけりや、とても此の事業は 成功しないッて、だから始めにさう云ったのだよ。 勿論人間を問題にしたら腹の立っことは幾らも ある。けれども己は藝術と云ふ立ち場から彼等を見るのだ。己に云はせれば惡い人間にも美しさがある。 たとへばグランドレンにしても、若し善良な女だったら、あの顏だちにあれだけの妖艶さはないに違ひな あのひねくれた、乙に取り澄ましてゐるところや、妙にしらじらしく空ッ惚けた態度なんぞが、陰險 だと云へば陰險だけれど、それがなかったらあの女の美はなくなってしまふ。自分では大きに悧巧がって、 あれで相手を煙に卷いてゐる気なんだらうが、さう云ふ邪気のある性格も、彼女にあっては、その容貌に 己は几てをさう云ふ風に考へるのだ。彼女を評價する場 一種の魅力を添へてゐる裝飾に過ぎない。 合には容貌が主で性格が從だ。フィルムは彼女の形を寫し取るばかりで、その心の美醜は間はない。若し 問ふとすれば、それがどれだけ形を通して表現され、どれだけ形その物の美を引き立たせるかと云ふ點だ 、 0 101
「あの人だって、わたしたちがあんなに大事にして上げてゐるのが分りさうなものですのに。」 民子の眼にはあんまりだと云ふ涙が光った。自分の夫は掛け引きなどに拙い方の人間である。夫を見込ん で足元につけ入るやうな惡辣なことをされたかと思ふと、人の好い吉之助が気の毒でならない一方にはグ ランドレンのやり方が憎らしかった。勿論中途で止されてしまへば今迄の努力は減茶減茶になってしまふ。 どんなにしても出て貰はねばならない人には極まってゐるが、あの人の身になって見ても、 いくら器量が いいからとは云へ全くの素人から拔擢されて、立派な作品の女主人公にして貰へば、結局自分の爲めでは ないか。それが何よりの報酬ではないか。民子に云はせれば今度の映畫は夫を始め几べての人々が、此の 撮影所全體が、グランドレン一人の美貌を飾り立てる爲め、それを世間へ紹介する爲めに働いてゐるのも 同然ではないか。「お金なんか一文もいりません」 民子だったら、きっと感激してさう云ふに違ひ 「そりやお前の云ふ通りだよ、しかもああいふ人間に限って心がけのい、ゝ者は少いのだ と、夫は取りなすやうに云った 「あの女が内々己を北く見てゐるのは、己だってよく知ってゐるんだ。けれど己には己で又考へがあるん 、と思ふよ。あの女の心の中がどんなだらうとお前も己もそん だから、甘く見るなら見さして置いたらい なところまで見る必要はないちゃないか。己たちはただあの女の肉體を買ってゐるんだ。彼女の値打ちは あの顏つきと姿にあるんだ。お前はあれを生きた人間だと思はないで、やつばり浮世繪のやうなものだと 思ったら お前に腹を立てられたら己は仕事が出來ないんだから。」 それ 100
肉 云ふ事は出來ないからね。」 「だけど、あの上品な、蟲も殺さないやうなお嬢さんがそんな掛け引きをするでせうか あひのこ 「そりやしないとも限らないさ、混血兒には擦れッ枯らしが多いッて云ふから。」 若しも自分がグランドレンだったとしたら、どうしてそんな事が云 ~ るだらうか ? 撮影所の會計が困難 な事は誰の眼にも分ってゐる。吉之助にしろ柴山にしろ、その他の俳優たちにしろ、集まって來た者はみ んな將來に希望を置いて、現在のところは出來るだけ我慢をする氣で安い月給で働いてゐる。ほんとに感 心な人たちばかりだと、民子はいつもさう思って、せめてその勞をねぎらふ積りで、苦しい中でも食事の 時には出來るだけ旨い物を喰はせるやうに骨を折ってゐた。それだのにグランドレン一人は、一向 ( タに 気を兼ねないで常に我儘を通してゐる。「わたし、日本料理きらひです、喰べられません」と、さう云ふ ので、彼女にだけは特別に近所の洋食を取ってやったり、忙しい中をわざわざ珈琲を人れてやったり、そ の外いろいろ細かい事にも気を配って、全然待遇を異にしてやってゐる。それも彼女が日本人でないから 治まってゐるやうなものゝ、さうでなかったらきっと外の俳優たちが默ってゐる筈はないのである。民子 として、折角一同が緊張してゐる撮 の最も心配するのはその點だった。グランドレンを優遇するのはい、 影所の内部が、彼女の爲めに不和を釀したり、熱心を缺くやうになってはならない。仕事の途中で給金の 映畫の事業に何よりも打撃であるところのさう云ふ不德を許すとしたら、それが前 居直りをやる。 例になりはしないか。一度許せば今後も度々云ひ出さないとは限らないし、他の俳優も眞似をしない者で もない。
かも知れない。何しろ相手が日本人でないんだから始末に困るよ。」 「でも手ぬかりは兩方にあるんですから、二百圓ぐらゐで我慢しては貰へないでせうか。 此方も今 のところではほんの小ひさな資本なんだし、苦しい場合なんだから、それを察して私たちを救ってくれる と云ふ気持ちで。 「それが向うも困ってゐると云ふんだよ。 此れは當人の話ちゃない、相澤から聞いたことなんだけ れど、あの女の家は昔は可なりにしてたんだが、今ぢや遺産もなくなしちまって、暮らしの方が苦しいん ださうだ。だから三百圓くれって云ふのもきっと母親の指し金でせうッて、相澤は云ふんだがね。グラン ドレンを百圓や二百圓で使はれては困ります、あれは大事な娘ですッて、そんな事を云ひかねないお婆さ んで、貧乏しても未だに娘に立派ななりをさせて置きたいんださうだから。」 「では三百圓で承知なすったの ? 」 「うん。」 と云って、吉之助はますます困惑の色を浮かべた。 「三百圓くれなければママが出てはいけないと云ってゐる、と、當人もさう云ふんだ。而も毎月前拂ひに マスト・ イン・アドヴンス , ペイ・ミ 1 ・ してくれろ、 と、突然さっき僕のところへやっ て來てそんなことを云ひ出したんだよ。グランドレンの意志ではないッて、相澤は云ってゐるけれど、あ の女だってどうせ一通りの娘ぢゃないことは分ってるんだ。事に依ったら彼奴と相澤と母親とが、三人ぐ るになってゐるのかも知れない。寫眞を寫しかけて置いて中途で居直りされたんちゃ、此方も強ひて否と
肉 「帳面を見せませうか。」 「いや見ないでもいい、大几の事を聞かしてくれれば。」 「今のところぢやまだそんなでもないけれど、此の勢ひだと大分超過するらしいのね。」 「實はグランドレンの給金のことなんだが、今日當人から話があってね、 と、夫は頭を掻きながら云ひ難さうに切り出した。 「いくら欲しいって云ふんですの ? 」 「それが少うし高過ぎるんだよ、三百圓くれろと云ふんだ。」 「さうね、そりゃあの人は外の人とは違ふんだから、 が、民子はちょっと意外な気がして、不快な感じを色に出さずにはゐられなかった。それでは最初の話と は大變違ふ。自分の家は別段生活に追はれてはゐないし、何も女優を職業にするのでないから、給料の點 。と、グランドレンの最初の條件はそんな事だった。就いてはどうせ十分な報 は相嘗と思ふところでい 酬は出せないのだし、僅かばかりの金をやるのも却て何だから、或は品物でお禮をしようかと、此の間も 夫と二人でその相談をしたくらゐである。 「今になってそんな事を云ひ出すなんて、思ひ掛ない話なんでね。」 と、吉之助は氣まづい様子で、云ひ譯するやうな口調で云った。 「こんな事なら、始めにハッキリきめて置いたらよかったんだが、有耶無耶にしといたのが手ぬかりだっ 三百圓と云ふ金は此方に云はせると高過ぎるけれど、西洋流に考へたらそこらが相當だと思ふ こ 0
分に浸った。 「あれならきっと巧く出來る。」 と、夫は力を籠めて云った。 「グランドレンを見附けたことは何と云っても成功だったよ、ちっとは金が懸ってもあの女を引き立たせ るやうにしてやりたい。 さうすれば映畫全體がよくなるんだ。第一囘の作品だから多少は珠算盤を度外視 しても奮發しなけりや。 さう云はれればそれも尤もだと思はれるので、彼女もついつい夫の言葉に釣り込まれる。最初の豫定は今 度の映畫に五千圓と云ふ見積だったが、知らず識らず嵩んで行って、グランドレン一人の衣裳にももう千 圓を越してしまった。まだ此れ以上幾らかかるか分らないのに、セットの費用、生フィルムの消費額、電 気の料金、俳優その他所員の手當てを加算したら、一萬圓近くになりはしよ、ゝ。 オカそして民子が預かって ゐる現金と云っては二萬圓に過ぎないのだった。繪を一本作ったら、それを賣った金で次ぎのを拵へる、 さう云ふ風にやって行けば二萬圓で十分な筈だと夫も思ひ、彼女もそれで切り盛りをして行く積りではゐ るものの、しかし何かの用意の爲めに多少は手許へ殘して置きたかった。第一囘の作品から儲けを見越す のは難事でもあり、所謂「珠算盤を度外視しても」と云ふ意気で、犧牲を覺悟でやるのだとすれば、尚更 ここにあるだけの金を全部一度に注ぎ込んでしまふのは冒險だった。 「おい、もうどのくらゐ金が出たね。」 と、夫は或晩、さすがにそれが気になったらしく妻に尋ねた。