添田 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第9巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第9巻

禪と人との間 うか ? 「まあ出來るだけ二人を困らして見物してやれ、先はどうなるか分りやしない。」と云ったやうな、 燒け糞半分の興味が手傳って、どうと云ふ腹や目的があるのでもなく、行きあたりバッタリにその所謂 「惡魔主義」を實行してゐるのぢゃないか ? ・ 朝子が停車場まで送らうと云ったのを、強ひて斷って飯田町から長野行きの汽車に乘り込んだ穗積は、東 京での一週間の出來事を囘想し、添田と云ふ不思議な人物を今改めて發見したやうに、いろノ \ 臆測を廻 らして見たが、要するにいくら考へても彼には添田が分らないのだった。たゞ分ってゐることは、汽車が だん / \ 鄕里の方へ進むにつれて、自分の心が反對に東京の方へ惹き戻されて行くことだった。往きには 彼は、自分が幸疆にしてやった友人夫婦を見舞ふつもりで國を出て來た。が、歸りの彼は、再び新たなる 戀の重荷を背負はされて、而も次第にその戀人の住む所から遠ざかりつ、あるのである。何と云ふ運命の いたつらだらう ! と、彼は思った。つい此の間まで自分は既に朝子と云ふものをあきらめてゐた、それ よみがヘ が彼女を見た一刹那に昔の戀が甦って來たばかりでなく、今や彼女と別れた後では一倍強く胸に迫って來 るのである。自分は嘗てこんなにも切なく、やるせなく、ひし / \ と命を削り取られるやうな戀ひしさを 經驗したことがあるだらうか ? もとから朝子を愛してはゐたが、しかしこんなに激しい情熱を燃やした ことは絶えてなかった。若し此の思ひがもう一年早く來たなら、決して添田に義理立てはしなかったらう 穗積は殆んど夜汽車の中で一睡もせずその事ばかりを考へつゞけた。 戀ひしい朝子 ! さう思ふと同時に、憎むべき添田 ! と云ふ言葉が自然と彼の唇に浮かんだ。飜弄して いちづ 一途に「憎い ! 」と云ふ心持ちが先に立った。 ゐるのか、利用してゐるのか、その腹の中は分らないが、 あと 243

2. 谷崎潤一郎全集 第9巻

田は、依然として惡匱派の驍將として讃へられてゐるばかりでなく、矢張り素行が治まらないで、女の事 や金錢上の事などで攻撃されたり、冷やかされたり、その惡魔ぶりを喝采されたりしてゐるのだった。彼 は穗積とのいきさつなどは忘れてしまって、有頂天になり、得意になってゐるものとしか見えなかった。 さう云へばふッつり朝子から便が來なくなったのにも、そこに何かしら理由がなければならないやうに推 し測られた。 一年の後、穗積は何の知らせもせずにひょっくり東京へやって來た。學生時代に懇意であった今の龍岡町 の下宿に落ち着いて、その人の處へは直ぐにも會ひに行かうと云ふ心もなく、五六日ほどぶらイ \ 送って ゐるうちに、或る日赤門前の通りでばったり添田に行きあたった。 「やあ」 と云ったが、添田はぎよっとしたらしく、それを隱さうとして強ひて愛想よく笑った。 「いっ此方へ出て來たんだい ? 」 「五六日前に」 「へえ、 なぜ知らせて來なかったんだい ? 是非やって來たまへよ、ちょっと前に知らせてくれゝ ばいつでも待ってゐる、朝子も君に會ひたがってゐるんだから、 「あ、、そのうち一遍訪ねようと思ってたんだが 穗積はロのうちで曖味に云った。暫く見なかった間に、添田はでつぶりと色白に太って、實業家の若旦那 のやうな、しゃれた和服の着流しで、素人のやうに作ってはゐるけれど藝者か女優かと思はれる若い女を こっち たより 274

3. 谷崎潤一郎全集 第9巻

「僕は朝子さんの戀人としてやって來たのだよ。」 穗積の言葉は力強く、簡單であった。 「僕は朝子さんを迎ひに來た、取り返しに來たのた。いろイ \ 考へて見た結果、最も正しいと信ずる道を 執りに來たのだ。」 それは恰も死の宜告のやうな權威で添田の心を壓迫したに違ひなかった。がんと頭を擲られた人のやうに、 彼は暫く、その眞っ青な顏色のま、ふるヘてゐた。豫期してはゐたが、 恐らくこんな嚴格な態度で穗積が 自分の眼の前へ立つであらうとは、思ってゐなかったのであらう。あの人の好い、優柔不斷な穗積にもこ りんこ 添田は忌まノ \ しさうに下唇を咄んオ んな凛乎とした度胸があるのか ? あと 「けれども君、朝子は既に君をあきらめると云ってるんだよ、君に會ひたいと云ふ意味は、後に思ひが殘 らないやうにと云ふだけのつもりなんだよ。 添田はそれを出來るだけ皮肉に、而も出來るだけ相手を怒らせないやうに穩やかに云った。哀願と嘲弄と が彼の眼の中でごっちゃになってゐた。 「それは或ひはさうかも知れない。が、僕はもう君の言葉を信用することが出來ないんだ。僕自身の眼で 朝子さんを見ない間は、僕も決してあきらめることは出來ないんだ。」 「ぢや、見たらあきらめると云ふのかね ? あきらめることを誓ってくれるのかね ? 」 ミ ) 0 264

4. 谷崎潤一郎全集 第9巻

が幸になる時期が來るまでは、 「い、や、そりゃあいけないー そりゃあ卑怯だ ! 」 と、添田は喚くやうに云った。 「卑怯と云って惡ければ無責任だ。君は今何と云ったい ? 自分が朝子に惚れてゐながら、つまらない所 で道德家振って僕に讓ったのが惡かった、朝子の不幸の原因は自分にある、 僕もあやまるが君 「僕ばかりにあるとは云はない、その一半は君にもあるのだ。ねえ、さうぢゃないか、 もあやまる。お互ひに過去の過ちは仕方がないとして、此れから先の朝子さんの幸疆を謀るのは、先づ第 一に夫たる君の責任ぢゃないだらうか ? そりや僕だって何とかして朝子さんの爲めに盡して上げたい、 けれども今の僕の地位はそれを許さないのだから、たゞ間接に君に賴むより仕方がないのだ。君もあの時 つぐな 僕を欺したと云ふ以上は、その償ひをしてくれる義務がありやしないかね。」 君だって矢張りしなけりゃならない、 「義務は兩方にあると思ふよ、僕も償ひをしなけりゃならないが、 「どう云ふ風にして ? ・ みは 穗積は添田の心持ちを探りかねて眼をった、と、添田は醉のさめか、った靑白い顏を相變らずニャニヤ のさせながら、 人 「だから、時々出入りをしてくれて、間接でなく直接に朝子を慰めてやってくれ給へ。かう云ふと何だか 1 皮肉に聞えるけれど、決してそんな積りちゃないんだ。眞面目で君に賴んでるのだ。ねえ穗積君、僕は君 わめ

5. 谷崎潤一郎全集 第9巻

神と人との間 自然のやうに思へた。彼女の方でもただ何となく二人が好きだと云ふだけの事で、添田にも穗積にも別に 甲乙はないらしかった。 明くる年の正月、添田は穗積と照千代に停車場で別れて、一度東京へ歸ったが春になると又やって來た。 しかしその時はもう照千代は長野にはゐなかったのである。「急に引かされることになってね、京都の方 へ行ってしまったよ」と穗積はあっけなささうに云った。 「京都へ ? ひどく遠方へ行ったぢゃないか ? 」 「うん、旦那と云ふのが始終上方 ~ 商用のある人でね、月の半分は京大阪へ行ってるもんだから、それで あっち 彼方へ妾宅を置いたんだらう。」 旦那は長野の木村と云ふ呉服屋の主人で、もう四十近い男だと云ふ話だった。細君と云ふのが大變物分り のした人で、子供が一人もない所から、夫婦して照千代を妹のやうに可愛がって、引かせる時もその細君 の差し金だった。 「それぢゃあの時分からその男と關係があったのかしら ? 」 「いいや、さうぢゃないらしいよ。男の方は前からそんな気があったんだけれど、照千代の方ぢや奥さん に濟まないと云って、いつも逃げてゐたんだよ。それが今度仲へ這人って口を利く者があったりして、引 かされる事になったと見えるね。」 添田は一週間ばかり穗積の家に遊んで行ったが、二人とも何だか物足りなくて、話が愉快にはずまなかっ 215

6. 谷崎潤一郎全集 第9巻

「そんなに人らっしやりたけりや、行ってらしッたらいゝでせう。添田さんと喧嘩したって構はないから、 無理にでも何でも彼の娘を引っ張って來たらいいわ。わたしも賛成だって云って頂戴。」 そっち 「若し行き違ひにやって來たら、僕が歸って來る迄はきっと誰にも渡さないやうに其方 ~ 預かってくれる だらうね ? 何だかそれも心配なんだよ。」 「大丈夫、きっと私が預かっとくから安心して行ってらッしゃい。」 こんな咄嗟の際ではあるが、穗積は蔦代が、彼に對して既に親身の姉のやうな云ひ振りをするのが、此の 上もなく嬉しかった。 さう決心がついてしまふと、今度は逆に電報の來るのが恐ろしかった。 何でも彼でも東京へ行かう、 あと 朝子が添田に取ッまッて、いろ / \ 泣き言やら意見やらを聞かされて、家出の心が挫けた後では、駈け つけたところで何にもならない。「もうあなたには永久にお目に懸りません、縁がないものとあきらめて さう云って、びたりと玄關の障子を締め切って、情なく彼を追ひ返してしまふやうな、そ 下さい」 んな ( メになりはしないか ? それを思ふと一刻も猶豫はならなかった。奸智に長けた添田のことだから ねいべん どんな佞辯を弄さないとも限らないし、さうなって來れば気の弱い彼女は、結局夫の意志に屈從してしま ふだらう。が、電報が來ない間はまだ確かだ。或は今頃は激しく云ひ爭ってゐる最中かも知れない。彼女 穗積 の心の變らないうちが好い機會だ。それを逸すれば二度と再びさう云ふ時は來ないであらう。 は直ぐとその晩の汽車で東京へ引き返した。 、たった獨りで夜汽車に搖られながら長い道中を旅した經驗のある人は、そんな場 運命。。・ーー、。、・、・若い時分に しんみ つれ 254

7. 谷崎潤一郎全集 第9巻

て、僕は君等を監督する地位にあるのぢゃないんだし、さう云ふ地位に置かれることは、今日のやうな ( メになるのが恐ろしいから此の後絶對に避けたいと思ふ。正直に云ふが、僕は朝子さんがあんな風にして ゐる間は、自分で自分を信じることが出來ないんだよ。君がほんたうに朝子さんを安心させるまで、僕は 君の家へ出人りをすることが出來なくなるんだ。」 「なあに、そんな事はないさ。 いくらでも出人りをしたらいいさ。」 と、添田は平気な顏をして投げ出すやうに云った。 「君が僕にあやまったから、僕も君にあやまらなけりゃならない事がある。僕はね、ほんたうの事を云ふ よ、しよばなし あいっナし あの、君と三 とね、君と彼奴の内證話を立ち聽きしたのは今日が初めてぢゃないんだよ、あの晩、 人で君の家で飯を喰べた晩、 あの時の話も實は廊下で聞いてたんだよ。朝子がどうして泣いたのか その譯だって分ってたんだよ。僕はあの時、云ひやうのない淋しい気がした。あの話を聞いた以上は君に 朝子を讓るのが當然だとは思ったんだが、その淋しさを考へるととてもさう云ふ決心がっかなかったんオ 僕はほんたうに卑怯な男だよ、濟まない濟まないと思ひながら君を欺してしまったんだよ。」 四 の添田はどう云ふ動機から、その時になって急にそんなことを白状したのか ? 果して彼は心の底から自分 人 穗積は添田がそれを云ふとき、醉と昻奮とで赤く血走った眼のうちに涙が 9 の罪を悔いてゐたのか ? 光ってゐるのを見た。

8. 谷崎潤一郎全集 第9巻

さういって添田は又ニャニヤした。 「自分は品性の卑しい人間で、あ、云ふ純潔な女に對しては物を云ふ資格がないものとあきらめてゐるん だよ。だから君と朝子とが心を協せて、僕を善良になるやうに導いてくれる。それが出來れば君は朝子の 感謝を受けるばかりでなく、 一人の哀れな友達を救へると思ってくれ給へ。君が朝子の戀人として、同時 に僕の友人として、してくれる道は此れ一つだ。君は失戀したかも知れないが、その失戀がさうして始め て意義のあるものになるんぢゃないか。」 穗積には添田と云ふものがます / 、不可解になるばかりだった。眞面目かと思ふと次ぎの瞬間には直ぐ不 眞面目になる。底には底があるやうな莱がする。本氣で相手になってゐると、妙な所で背負ひ投げを喰は されて馬鹿にされてゐるやうでもあり、さうかと云って、一から十まで出鱈目であって、少しの眞情も籠 ってゐないとも考へられない。その腹の中を悪く取れば隨分恐ろしい想像も浮かぶが、しかし正面から同 情して聞けば、彼の云ふところにも尤もな理窟がないではない。たとへ半分はうそだとしても、少くとも 彼が苦しんでゐるのは事實だ、そしてたった一人の友人の人格を信じ、それを賴りにしてゐるのも事實 / あたま さう頭から彼を恐れて、捨て、しまふのはよくないことだ。 さう云ふ考へに穗積が落ちて行ったのは、矢張り彼の胸の中に朝子と云ふものがあるからだった。そのま のゝそこで添田と喧嘩してしまへば、或は一生、朝子と會ふ時は來ないであらう。而もさうなってからの彼 女が、日に增し不幸の淵に沈んで行くことは明かだった。そんな莱がかりが穗積の態度を曖味にしたこと よ爭へない。それは決して道ならぬ戀のためではなく、彼女の將來を案じるため、自分の失策の責任を果 ミ」 0 237

9. 谷崎潤一郎全集 第9巻

昨夜は大變失禮した、失禮ついでと云っては濟まないが、少し面倒な用を賴まれて貰ひたいんだ。他で もないが此の手紙が着次第、朝子に云ひつけて金を百圓拵へるやうにさせてくれないか。その金が來な いと歸ることが出來ないんだから大至急でないと困る。もし遲れれば百圓では足りなくなるって、さう こんな事 云ってくれ給へ。さうしてその金を君が受け取って、君から僕に電報爲替で送って貰ひたい。 わづら でわざわざ君を煩はす迄もないのだけれど、實は朝子に僕の居所を知らせたくないんだ。百圓ぐらゐた しかにどうかなる筈だから、僕が直接云ふよりも君の手を經て云った方が却ってうまく行くと思ふ。萬 事は君に一任するから宜しく賴む。君にしたってそんなに嫌な役廻りでもないだらうから。呵々。 爲替は明後日の午までには是非屆くやうにしてくれ給へ。 そして、「そんなに嫌な役廻りでもないだらうから」と云ふとこへ圈點が打ってあるのである。それは急 用の手紙には違ひないが、 自分に對する嘲弄の意味も交ってゐるものと、穗積は取った。添田は何も朝子 に居所を隱す必要はないのである。二日や三日亭主の行くへが分らなくなるのは、彼女にして見れば普通 らで一本きこしめしてゐる。」さう書いてある横のところに、「うそよ穗積さん、負け惜しみを云ってゐる のよ。私ばかりか添田も風邪を引いちゃったの。そりやさうでせう、タキシ 1 ドを着て箱根三界へ來るな 3 . ハックショ ハックショ」と、幹子が書いてゐるのである。が、手紙の方は添田の手蹟で、 ゐどころ ひる かぜ ゐどころ ほか

10. 谷崎潤一郎全集 第9巻

の部屋で、彼女の手を執って脈を數へ、その胸板を輕くたたいて内臓のひびきを聽いた。「あたし、こん なに弱くなってほんたうに長生きが出來るでせうか ? 」蒲柳の質であった彼女は、よくさう云って彼に尋 ねた : ゃうやう彼女が一本になりたての時分、さう、まだあの頃は十六か七だったでもあらうか、 ともしび 何かの會合の座敷の餘興に「京の四季」を踊って見せたのは。 ・ : 彼女にもああ云ふ華やかな灯のかげ に、舞扇をかざした宵があったのである。さうしてそれにほのかな戀を寄せてゐた靑年の醫學士が彼であ った。その取り返すよしもない遙かな過去の月日から、今日までの間の悉くの出來事が、一つの長い連鎖 となって際限もなく想ひ出される。 「どうしたの、穗積さん、まだそのお酒が飮みきれないの。」 さう云ひながらテ 1 ブルの方へ戻って來たのは幹子だった。そのうしろには添田が恰も從者のやうに附き 添ってゐた。そして急いで彼女の爲めに椅子の位置を直してやったり、羽織をかけてやったりしてゐる。 それよりも少し扇いで頂戴よ、さんざ踊ったもんだからかっかし 「あ、羽織は共方へやっといて、 ちゃって汗が出て來たわ。」 額のつま 彼女が帶の間から扇子を出すと、添田はそれを受け取ってせっせと扇いでやるのである。 った、むっちりとした圓顏の、眼の大きい、唇のうすい、低い獅子ッ鼻の女で、「照千代」の若いころと は比較にならぬ器量のやうに思へるけれど、恐らく彼女のコケットリーと、西洋人臭い表とが、添田の 氣に入ってゐるのでもあらう。穗積は嘗て此の女に何の興味も感じたことはなかったにも拘はらず、ただ その非常に柔かさうな、白くて太いぶよぶよした指の恰好を覺えてゐた。それを見ると彼は何だか子供の そっち まるがほ ほりう あふ 308