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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第9巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第9巻

朝子が來てから、病人はしばしば肩が痛いの、腰が痛いのと云ふやうになった。 「痛いよ、痛いよ、 ・ : 苦しくって、苦しくって仕様がないよ。 の さも哀れつほい、消え人りさうな聲を搾って云ふかと思ふと、 と「ああ、畜生 ! 己は苦しい : こんなに己が苦しんでるのに、みんな何してゐやがるんだ , そこにゐる奴等あ己を見殺しにする気なんだな ! 」 「よござんすか、びつくりしちゃあいけませんよ、驚くほど相が變ってゐるから」と、かねて彼女は云ひ 含められてはゐたものの、矢張り來て見ると胸が潰れた。悲しさ、口惜しさ、傷々しさの境を越えて身の 毛が竦った。成るほど夫は良くない人だった、いろいろ恐ろしい罪を犯した、だが世の中にはまだ惡い人 がいくらもゐるのに、夫ばかりがなぜ斯くまでに報いを受け、これほど淺ましい顏だちになって死んで行 かねばならないのか ? 自分のカで出來るものなら、せめて夫を舊の姿で死なせてやりたい。あの色白に、 堂々と肥えて、男らしかった舊の姿で。 くげん そのためになら彼女は命もいらない気がした。夫一人に苦患を與へて、自分が無事に生きてゐるのを濟ま なく思った。夫が地獄へ墮ちるものなら、自分もしつかり抱き着いて一緖に墮ちて行きたかった。彼女は 嘗て此れほど夫を愛したことはないのを感じた。ちっとも此の人は悪人ではない、自分一人が斯うして罪 を背負ってゐるのに。と、涙をこらへる彼女の瞳はその心持ちで一杯だった。 しょ 389

2. 谷崎潤一郎全集 第9巻

女中おほほほ、まあ何をしていらッしやるの、 濱村 ( 野田に ) おい、兎に角僕を出させてくれろよ、山口の奴、何を云ふか分らんから、 藤沼いや、當人を出しちゃいかん、 ( 濱村ふり切って出ようとする ) 駄目だ駄目だ、 ( 野田に ) おい、出しちゃ あいかんたらー : ち一よいとでいいカら 濱村いや、ちょいと、 いや、いかん、出れば貴様は、斷らうッて云ふ莱なんだらう、 野田 ( 濱村の肘をしつかり捉へる ) : ち - よいとでいいカら 濱村いや、ちょいと、 野田よし、そんなら己も一緖に附いて行く、 野田、濱村の肘を捉へたまま、出て行く。 女中 ( 濱村の後を見送りながら、藤沼に ) あの方が春代さんて云ふ方の何かなんですの ? 藤沼うん、まあ何かさ、どうだい、ちょいと好い男だらう、 女中ええ、なかなかお綺麗な方ですわ、 藤沼ぢゃあ、お花さんに一つ世話をしようか、 女中あらいやだ、知りませんわ、おほほほ、 女中、襖をしめて去る。 短き間。光子はさっきから、妙に默り込んで、火箸をいちくったり、指の先でチョイチョイ鐵瓶に觸ったりしてゐる。 藤沼ちゃうどいい時に電話がかかって來やがったな、春代が來なくっちゃあ面白くないんだが、 520

3. 谷崎潤一郎全集 第9巻

を、君のカで僕の方へ振り向けるやうにしてくれ給へ。君ならそれがきっと出來る、僕等夫婦を幸にす るもしないも、要するに君の心一つだ。僕は友に訴へて賴むんオ さう云っても穗積が下を向いたまゝ答へないので、添田は手を執って搖すぶりながら繰り返した。 「君、後生だ、僕の賴みをきいてくれ給へ。こんな無理な事をお願ひするのは此れが二度目だ。君はさぞ かし僕の我が儘を怒ってゐるだらう。君の戀人を奪って置いて、自分で理解させることが出來ないからっ て、君の助力を賴むと云ふのはあんまり蟲が好すぎるけれど、 「蟲がよいのは問題ちゃないよ、」 かんたか と、穗積は努めて冷靜を裝ったつもりだったが、自づと剩が昻ぶるのをどうすることも出來なかった。 「そんな事よりか、君は自分の細君に戀人のあるのを是認して、而も平氣でその戀人が、夫の浮気をして ゐる留守に家庭へ出人することを許せるのかね ? それで夫婦が一日でも成り立って行けると思ふのか ね ? 君の告白は恐らくうそちゃないだらうが、僕にはさう云ふ考へ方が分らないんだ。」 「しかし、僕はさっきも云ふ通りその戀人を信じてゐるんだ。決して間違ひがある筈はないと云ふことを 「ふざけちゃいけない、僕だって人間だよ、僕がそこから生ずる結果を保證することが出來ないとしたら、 君はそれでも安心して二人を近づけて置けるだらうか ? 少くとも心の中では細君を愛してゐる入が ? 君は細君を侮辱してるんだ。」 「侮辱してゐるんちゃない、却て尊敬してるんだと思ふが、 おの ヾ ) 0 236

4. 谷崎潤一郎全集 第9巻

ころかアッケに取られて拍手喝采してるんだから不思議ぢゃないか。それが若しも僕だったとして見給へ、 あたま ハタかれない迄も自分 ちょっとでも惡い事をしたら直ぐに頭をハタかれて八方から攻撃されるたらうよ。 で小さく竦んぢまって、とても世の中へ出るなんて云ふ勇氣はありやしないよ。君の方が處世術がうまい とか、狡猾だとか云ふんちゃない、我が儘勝手な眞似をしても世間がそれを大目に見ると云ふ、得なとこ ろが君にあるんだ。つまり超人だと云ふんだ。」 「あははは、そりやさうかも知れないね、その點に於いて君は貧乏性なんだよ。」 「だから僕はさう云ふ意味でも君が恨めしい。一方に於いて君のやうな我武者らな人間が許されて居なが ら、何の理由で僕ばかり斯う窮屈に、コセコセ気がねして生きて行かなけりゃならないのか ? さう考へ ると、世間が惡いとは思はないが、 貧乏性でない人間に一種の反感を抱かずには居られないね、反感と云 って惡ければまあ羨望と云ひ直してもいいんだが。」 「ちゃあ、その反感があの小説に出てゐる譯だね。」 「そりや少しぐらゐは出てるかも知れない。あのくらゐな事を書いたって、超入たる君は恐らくビクとも しないだらうし、それに僕等のいきさつはもう文壇にも大概知れ渡ってゐるんだしするから、そんなに隱 す必要はないだらうと思ったんだ。」 「するとお互の立ち場から、斯う云ふことは想像出來るね、 たうざんがら 添田は袂から唐棧柄の煙草入れを出して、ウエストミンスタアの煙を悠々と輪に吹きながら、未だにさっ きの得意然たる顏つきで云った。 290

5. 谷崎潤一郎全集 第9巻

を信用してゐる、君が自分を信じることが出來ないと云っても僕はやつばり信用してゐる。そりや、或は 君は未だに朝子に惚れてるだらう、だが惚れてゐたって一向差支 ~ はないんたよ。君は間違ひを仕出來す どっち ゃうな人間ではないんだから、孰方かと云ふとちょいちょい訪ねて來てくれて、たまには優しい言葉ぐら ゐかけてやってくれた方が、結局彼奴の爲めなんだよ。」 「君の云ふ意味は僕には分らない、」 と、穗積は鏡く突き返すやうに云った。 「云ふまでもなく、君が朝子さんを慰めて上げるのでなけりや、決して朝子さんの爲めにはならない。君 はつまらない興味で以て、僕をます / \ 深味へ落さうとしてるのちゃないか。」 「あ、君 、だからいけない、それが君の誤解だと云ふんだ。」 こと さう云ってから、添田は俄かにしょげ返った表情をして、「困ったな、困っちまったな」と獨り語のやう に云ひっゞけながら頭を掻いた。 「さう思ふのも無理はないんだが、 : 僕はかう見えても気の弱い人間でね、いろ / \ 君に云はなきや ならないことがあっても云ひ出し難いもんだから、結局君を欺すやうになっちまふんだよ。今夜は醉った 勢で何も彼も白状しちまふんだが、君を深み ~ 落さうなんて、何もそんな気があるんちゃない。 積君、僕は、僕は、たび / \ 云ふやうだけれど實に淋しかったんだよ。君と朝子とが夫婦になって、自分 が獨りぼっちになっちまふのを考へると、 「それは分ってゐる、けれども : しでか 232

6. 谷崎潤一郎全集 第9巻

へてしまったのは誰の仕業だ ? 添田の犯した多くの忌まはしい罪のうちで、此れほど恐ろしい、む ごたらしい罪はないと思へた。 今は道子と云ふもので、肉と肉と、血 けれど穗積はそれきり彼女をあきらめることが出來ただらうか ? と血と結び着けられた添田の妻を、彼女の夫と同様な汚れた人間として忘れ去ることが出來ただらうか ? 添田があの日彼をわざわざ誘って行ったのは彼に「あきらめ」を與へるつもりだったかも知れない。それ くらヂタバタ騒いだってもう斯うなっち は親切な意味からでなくとも、「昔の朝子はもう居ないのだ。い やおしまひだ。此の女の此のざまを見ろ。」と嘲笑ふ氣であったかも知れない。が、結果は穗積を嘲笑ふ ことには成功したが、決して「あきらめ」を與へることにはならなかった。幻滅の悲しみが彼の愛慕を挫 こが いたのはほんの一時に過ぎなかった。彼は何とかしてもう一度昔の朝子を見たいと願ふ想ひに焦れた。昔 よしゃ彼女が、水久に添田 それは必ずしも自分の所へ逃げて來るやうにと云ふのではない。 の朝子、 の物であるならばあれ、一つの女性の「美しさ」が跡かたもなく消えてしまふのを惜しむのであった。豚 に投げられた眞珠であっても、眞珠はいつまでもその輝やきを保って欲しい。なぜならそれは彼に取って は、不幸にして失戀に終るとしても、生涯忘れることの出來ない記念碑であり、明け暮れ幻に浮かんで來 こら る女神の彫像ではないか。捨てられるのは堪へるとしても、記念碑までも毀たれて、なほその上に泥土を の塗られ、貴い彫像に散々侮辱を加へられるのを見るのは辛い。過去の美しさは二度と返って來ないでもあ 照千代の昔、グレエトへ , ンの昔ほどにはな らうが、しかし彼女がその腹の兒を生んでしまったら、 らずとも、せめて一年前のやうな優雅な物腰とみめかたちとを恢復するだらう。實際、若しも彼女がいっ ものごし

7. 谷崎潤一郎全集 第9巻

幹子が忌まはしい病気になったら、側へは寄りつかないかも知れない。だがさうなれば朝子は幸疆だ。幹 いや、やつばりさうは行かないだらう、幹子を捨ててしまっても、添 子がゐなくなりさへすれば、 田はきっと第二、第三の幹子を作る。いつまでたっても朝子の所へは歸って來ない。何より彼より一番い 、の亠よ、 : 今ここに、己の眼の前に、タキシ 1 ドを着て、ウイスキ 1 のコップを持って、惡魔然たる 黴笑を洩らしつつあるところの、太った、出っ腹の、此の添田と云ふ人物が一朝忽然と地上から消えて亡 くなることだ。さうすれば朝子は勿論、己だって多分幸疆になれる。己が極めて陰險に、注意深く、誰に : さう、それは非常にやさしい事だ。此れでもう も感づかれない仕方で巧く添田を殺してしまへば、 少し卑屈になり、もう少し鐵面皮になれば譯なく實行出來る事た。 、、ねん 穗積は再びテ 1 ブルの傍に獨りぼっ然と殘されてゐた。二人はいっしか踊りに立って行ったのである。穗 もてあそ : 全體己は弱蟲には違ひないけれど、 月説の筋を考へるやうにその室想を弄んオ 積の頭は長い間、、 はす 弱いなりに妙にしつッこいところがある。強い入間はどうかした彈みでほッきりと折れる、が、己はこん こんなにひどい目に遇はされながらまだ此の通り にやくのやうにぐにやぐにやしてゐて容易に折れない。 生きてゐる。此のエ合ではもっともっとひどい所へ落ち込んでも、案外平でゐられるかも知れない。現 にかうして敵におべつかを使ってゐるのと、一と思ひに敵を殺してしまふのと、墮落の程度にどれほどの 相違があるのだ。一人の人間が此の世の中から居なくなると云ふ事實を除いては、己の心持ちに何の變化 も起らないのちゃないだらうか ? 幸ひ世間では、殊に文壇では、一般の同情が己の方へ集まってゐる。 己は正直な、気の小さい、善入として通ってゐる。添田を亡きものにしてしまっても、恐らく己を疑ふ者 で ヾ 6 ) 0 314

8. 谷崎潤一郎全集 第9巻

泣き張れてゐたやうだったが、それすら彼には隱さうとしてゐた。殊に穗積に飽き足りないのはその點だ った。彼が來る前に泣いてゐたならなぜその涙を打ち明けて見せてはくれなかったか ? さう思ふと穗積 は添田の勝ち誇った笑ひ聲が何處かで聞えるやうな気がした。「お前は馬鹿だ」と、彼は自分で自分に云 った。 「さうだ、みんな自分が馬鹿だからなんだ、恨めしいのは結局自分自身なんだ。」 けれども穗積は、さう考へて見たところで、今の自分の蹈みつつある道を改める事は出來ないのだった。 馬鹿かも知れぬが、自分はその馬鹿を善しとする。自分は自分の良心を以て最善の事に從ふまでだ。蹈み 躙られても、辱められても、自分はさうして生きて行くより外はないのだ。彼は童話の中などにある、た った一輪野原に淋しく咲いてゐる薔薇の花を想像した。自分の心臓はその薔薇の花だ。孤獨であれば孤獨 であるほど花の熏りはいよいよ高く匂はずにはゐない。たとへその薫りを彼女が認めずに終ってしまって も、それでも自分のした事は徒爾ではない。自分はそれで自分と云ふものをますます淸く貴く仕上げる事 が出來る。 穗積はふと立止まって往來を見廻した。いつのまにか本鄕の大通りへ出て、赤門前の暗い片側をこっこっ 歩いてゐたのである。大學の大時計がもう十二時近くなってゐた。室には星が研ぎすましたやうに光って、 の風がひゅうひゅうと鳴りながら、まるで冬のやうな響きを立ててゐる。 ・八あした 「明日の朝はもう一度彼女に會へるのかな。」 あす 顏を見たところで何のあてもないのではあるが、それでも「明日」と云ふ日のあるのが珍しいやうな心地 はづかし 211

9. 谷崎潤一郎全集 第9巻

神と人との間 に意外だ、こんな事になる筈ではなかった。それもお前が惡いのではない、みんな私が、 前を墮落させたのだ。 お前にあの罪を自白すれば、或はお前は私を赦してくれるだらう。さうすれば私は自殺しないでも濟む 此の上お かも知れない。けれどもそれは、私が世間を欺くばかりか、お前に迄も欺かせるのは、 到底私には出來ないことだ。それに私は、世間が何處迄も私たち夫婦に同 前を墮落させるのは、 しほ 情を寄せ、亡くなった人を悪く云ふのが一と入悲しい。私たちは、いや少くとも私だけは、添田君より 憎まれなければならないものだ。私は憎んで貰ひたいのだ。 お前は此の頃、私の様子が變なことにうすうす気がっき始めたやうだ。私はお前に間はれることが恐ろ こら そしてお前の愛情に一生懸命縋ったのだが、 しい。お前の前では出來るだけ堪へて來たのだが、 しかしもう駄目だ。恐ろしい問ひが發せられる前に、私は處決しなければならない。 矛盾のやうだが、結局私は添田君が恨めしいのだ。添田君さへゐなければよかった。そして初めからお 前と私が夫婦であればよかったのだ。一入の悪が三人に及ばす。添田君一入が惡かったために、お前も 惡くなり、私も惡くなったのぢゃないか。そして最初の悪人が死んでしまった後までも、なほ私たちは その惡のために惱まされる。お前と私は割りに合はない。 すが : 私がお 407

10. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 かりである。上を見ても下を見ても、何處を見ても、悉くグランドレンの小ひさな顏がある。そしてびつ しよりと水に濡れてゐるのが、さながら汗でも掻いてゐるやうに生々しい 「どうだね君、もう少し何とか工夫して水の感じが出るやうにしようぢゃないか。」 「水の感じは出てゐないが、しかしプリンスを誘惑する氣持はよく出てゐる。」 「さうだよ、人魚の表は此れでいいのだ、要するにセットと光線を何とかしなけりや、 それは人魚が、遂にプリンスの手招きに應じて尾を掉りながら彼の方へ近づいて行く場面だった。人魚と プリンスとは次第に寄り添って、首と首と、胴と胴と、腕と腕とが重なるやうにびったりと二つの體をつ ける。が、二人の間には一枚のガラスの壁があって、それほど近く寄りながらも互に肌を觸れることが出 來ない。ガラスを隔てて顏と顏とは向ひ合ひ、唇と唇とは激しく吸ひ合ふ。けれど互の唇は冷めたい壁を 吸ふばかりである。人魚の唇は貝分柱のやうに吸び着き、プリンスの唇からは熱い吐息が洩らされて、徒 らにガラスの面を曇らす。すると人魚は一脣悲しげに兩手でその曇りを掻き消さうとし、いくら消しても 消えないので、又別のところへ泳いで行って體をつける。プリンスがその後を追って行って唇を着ける。 再びそこのガラスが曇る。人魚はいよいよ焦りながら幾度となく曇りを避けては、右や、左や、上や、下 や、いろいろな方面に姿を現す。 「ここで人魚の吐く息が美しい泡になるのだが、ほんたうの水を使はないとどうもその泡が巧く行かな 「いや、僕は此れでいいと思ふよ。これでもう少し光線の方を工夫すれば巧く行かない筈はないんだ。」 105