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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第9巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第9巻

神と人との間 に意外だ、こんな事になる筈ではなかった。それもお前が惡いのではない、みんな私が、 前を墮落させたのだ。 お前にあの罪を自白すれば、或はお前は私を赦してくれるだらう。さうすれば私は自殺しないでも濟む 此の上お かも知れない。けれどもそれは、私が世間を欺くばかりか、お前に迄も欺かせるのは、 到底私には出來ないことだ。それに私は、世間が何處迄も私たち夫婦に同 前を墮落させるのは、 しほ 情を寄せ、亡くなった人を悪く云ふのが一と入悲しい。私たちは、いや少くとも私だけは、添田君より 憎まれなければならないものだ。私は憎んで貰ひたいのだ。 お前は此の頃、私の様子が變なことにうすうす気がっき始めたやうだ。私はお前に間はれることが恐ろ こら そしてお前の愛情に一生懸命縋ったのだが、 しい。お前の前では出來るだけ堪へて來たのだが、 しかしもう駄目だ。恐ろしい問ひが發せられる前に、私は處決しなければならない。 矛盾のやうだが、結局私は添田君が恨めしいのだ。添田君さへゐなければよかった。そして初めからお 前と私が夫婦であればよかったのだ。一入の悪が三人に及ばす。添田君一入が惡かったために、お前も 惡くなり、私も惡くなったのぢゃないか。そして最初の悪人が死んでしまった後までも、なほ私たちは その惡のために惱まされる。お前と私は割りに合はない。 すが : 私がお 407

2. 谷崎潤一郎全集 第9巻

光子ええ、 もいわ、恨まれるかも知れないけれど、 濱村なあに、構あもんですか、どうせ怒ってゐるでせうけれど、怒らした方がいいんですよ、僕は今日 中に此處の宿屋へ逃げて來ますよ、 光子 ( 鏡臺の前で、白粉の。 ( ッフを持ちながら藤沼を手招きする ) あなた、ちょいと此處へ人らッしゃいよ、 藤沼うん、 光子 ( 。 ( ッフで斑點の上をたたいてやりながら ) まあ、ほんたうに仕様がないわ、かうでもしてごまかして置か なけりゃあ、 藤沼どうだい、い / 、、りかよ / 、、なり - さ、つ力し 山口 ( 皮肉な口調で ) 生れつき色が白いんだから、一面に白く塗っちゃったら却って分らなくなるかも知れ んな、 光子 ( 。 ( ッフを置いて ) さあ、 いわ、皆さんに見てお貰ひなさい、 山口どれどれ、見せ給へ、 藤沼 も力此、れで ? ・ 藤沼向き直る、前より一段とをかしな顏になってゐる。 野田、濱村、山口あツははは、 藤沼どれ、ちょっと鏡を見せろよ、 光子の前にすわり、顏をつき出す。 538

3. 谷崎潤一郎全集 第9巻

ぬす 穗積の遺書は、全部を引用する迄もない。それは自殺する一と月も前から、をりをり妻の眼を偸んではポ ケット型の小さな手帳へ鉛筆で認めたものであったが、ところどころに下のやうな感想が書き入れてあっ 、 ) 0 私に取って何よりの打撃は、添田君が死に先だって自分の罪を後悔したことだ。勿論私はああ云ふ場合 が有り得ることを前からちゃんと覺悟してゐた。どうせ人間は死ぬ時が來れば後悔する。だが死に際に もし此の男が死なずに濟めば又私 後悔したって、それで生前の一切の罪が帳消しになるものではない。 たちを苦しめるだらう。私はさう思って、添田君が何と云はうとそれを聞き流すつもりでゐた。そして あの時はわりに平気で聞き流した。が、だんだん時を經るに從ひ、やつばり私は聞き流すことが出來な くなった。私はあの時、自分も添田君の前にひれ伏し、「君を殺したのは僕なんだよ、許してくれ給へ」 と云ふべきだった。私は死んで行く人にうそをついた、そしてその死を嘲ったのだ。 お前は僕を前から愛してゐたと云ふ。そして今では添田君の死を悲しむ心はなくなったと云ふ。道ちゃ んよりも私を愛してくれると云ふ。それらの言葉で私は慰められないばかりか、一層自分の罪に戰く。 私はお前が、昔の淸い朝子にならずに、次第に私と同じゃうな惡魔になって來るやうな気がする。添田 君の妻でゐた時の方が、まだしも今より貞淑だった、純眞だったと思はれてならない。お前がいっ迄も : かうなったのは實 いっ迄も、添田君のことを忘れずにゐてくれた方が、私は却って慰められる。 をのゝ 406

4. 谷崎潤一郎全集 第9巻

その明りの下で、道具方が宮殿の一部かと思はれる柱や壁に彩色を施してゐる。キャメラマンが何か俳優 に指圖をしてゐる。グランドレンは衣裳部屋の前に連れて來られると、ちょっと入口に立ち止まって、活 気に充ちたそれらの光景を不思議さうに見渡したが、やがてどうしたのかその眼はずっと向うの方の、山 の上にある一つの十字架に注がれた。 「さあ、どうぞ此方へお這人り。」 油で汚れた手を拭きながら、吉之助は部屋の中から聲をかけた。が、グランドレンはまだ默ってゐた。そ して恰もその聲が全く聞えないかのやうに、靑室の方へ一心に視線を向けてゐた。 「さあ、どうぞ。」 と、民子が彼女の後ろから促すやうに云った。吉之助の方からは、うら、かな春の外光を脊中に浴びた二 人の女の、打ち重なってゐる容貌が見られた。前にゐるグランドレンは夢みるやうな顏を擡げて、 大方、墓場の彼方の、教會の塔の上に浮かんだ、白い雲でも眺めてゐるのだらう。殆ど放心したやうな表 は舞踏會の晩と變りはなく、夜の明りで見た時よりは一と入魅力に充ちてゐるのを彼は感じた。民子の 顏はグランドレンの膨らんだ頬の蔭から覗いてゐた。前の女を薔薇だとすれば此れは水仙のやうに淸しい。 彼女のと、比較されると一脣小ひさく思はれる瞳は、ちゃうど自分の鼻先にあるグランドレンの襟足から 肩のあたりへ、その豊艶な肉づきを羨むやうに向けられてゐたが、「まあ何と云ふつやつやとした體でせ う ! 」と、讃美の眼つきをそのまま夫の方へ轉じた。 「あの、どうかなさいましたの ? 穢うございますけれど、何卒そちらへお這入りなすって。」 しほ

5. 谷崎潤一郎全集 第9巻

った爲めに又しても支那臭い宮殿の場面が多くなって、プリンセスだのプリンスだのと、殆ど前と同じ入 として、、 くら通俗的だと云っても、折角前篇だけで纒まってゐる物語 1 物が出ることだった。それもい の効果を、全く臺なしにしてしまふ。要するに吉之助はグランドレンに綺麗な衣裳を着せたいのだ、そし 柴山には蔭で男を突ッついて居る ていつでも可愛いプリンセスにして置きたくッて堪らないのだ。 女の様子が、憎らしく想像された。 が、もう吉之助は少しも柴山の意見などには頓着しなかった。自分が所長だから自分の信ずる通りにする。 撮影技師はたヾ與へられたシーンを寫してくれ、ばい、のだ。そんな素振りを言外に示して、「かうして くれ給へ、ああしてくれ給へ」と、命令的に指圖を與へてどしどし自分の計畫をすすめて行った。吉之助 が気にするのはグランドレンの顏色だけだった。彼女は相變らず猫を被って、上べは大人しく見せてゐる けれど、腹の底では柴山を馬鹿にし切っててんで鼻先であしらってゐた。少し氣に入らない事でもあると、 「私あの、所長さんに聞いて見ます。」 さう云ってふいと横を向くのが常だった。 八月の末の或る日の午後だった。寫眞は既に半ば撮り終へて、スタディオの中ではグランドレンのプリン セスが宮殿の生活を寫してゐた。舞臺は王女が、日本の空を戀ひ慕ひつつ朝なタなを悲しく暮らす翠帳の 中である。突きあたりには眼の醒めるやうに絢爛な鳳凰の衝立が飾られて、きらびやかな錦繍の服を纒っ たふ た彼女の體は、その衝立の前にある榻の上に、物憂げな手足を伸ばして力なげに横はってゐた。彼女はそ こで、頭の上に垂れ下った籠の中の鸚鵡を相手に、己の淋しさを喞つのである。睛れ渡った眞夏の日光が

6. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 衣裳部屋とは云ふものの粗末な板圍ひの、土足のままで出人りをする室内には垢じみたタオルが捨ててあ ったり、ところどころに鳥の糞のやうに顏料がなすりつけてあったり、俳優の衣類がだらしなくつくねて あったり、そして設備と云っては、棚の上に剥げッちょろの手鏡が二つ三つ置いてあるだけなので、此気 位の高さうな少女は、今更そこに這人るのを躊躇してゐるのではないかと、民子は思った。 「ああ、あなたはあの雲を眺めてゐるんでせう。」 と、グランドレンは言った。そして嚴かに胸の前で十字を切った。 「わたし、あの墓を見てゐました。あれ、あの一番此方側にある眞っ白な十字架、 。ハさんが眠ってゐます。」 「まあ、彼處にあなたのお父様が ? 」 「ええ、さう。」 「そしていつお亡くなりになりましたの ? 」 「三年、四年、五年、」 と、グランドレンは眼を伏せて指を折りながら、 「もう六年前 「失禮ですが」 と、吉之助が口を挾んオ ミ ) 0 あすこに私の。ハ

7. 谷崎潤一郎全集 第9巻

「困ったなあ此いつあどうも ! 正直のところ、僕は全く何處へも遊びに行かないんです ! 」 「うそ、うそ ! 」 「いや、ほんとほんとー ほんとに僕はさうなんです ! そりや僕だってずっと前には遊んだこともあり ますけれど、あれから後はまだ一遍もないんです。」 「おい、ほんたうかい ? 」 と、添田が又一つ、がんと怒鳴った。 ごん 「ほんたうだよ君、 但し一言斷って置くが、何もあの人に義理立てをしてゐる譯ちゃないんだ。向 うが此方に義理立てをしてくれない以上、此方にしたって遠慮することはないんだから、一つ大いに遊ん でやれ、そのくらゐな勇氣がなくっちゃ駄目だと、さう思ふことさへあるんだけれど、どうもあれからと 云ふものは、引っ込み思案になっちまって、 「へ 1 え、ちゃ五年間まるツきり女を知らずですか ? 」 さう云って << 記者が眼を圓くした。 「ええ、知らずです。」 やで、人みしりが強くって、知らない女の前なんかちゃあ口がきけないたちなんだから、誰かが無理に引 おくくふ っ張ってでも行ってくれるといいんだけれど、此の四五年來生憎さう云ふ友達もないんで、ついつい億劫 こっち 366

8. 谷崎潤一郎全集 第9巻

愛染これは妾が貰って置くのぢゃ。おぬしは盜人を止めたと云ふに、何で寶に眼をくれるのぢゃ。 太郎この寺ぢゅうにある寶はみんなそなたに進ぜようほどに、あの觀世音を返してくりやれ。 亡 き上人の囘向のため、妻の菩提をとむらふために、あのお姿を肌身につけて此れから御山 ~ 參るのぢゃ。 愛染ほう、よい、いがけちゃ。 ( ふところから黄金佛をとり出し、太郎の前 ~ からりと投げつける ) さ、欲しくばくれ てやるほどに、早う此處を出てお行きやれ。 臆病者に用はないぞえ。あは、、ゝ。 愛染、高笑ひしつ、足音荒く上手 ~ 這入る。太郎は黄金佛を取り上げ、恭しく眼の前に据ゑる。 愛染の聲あは、、何と云ふ臆病者ぢゃ。あは、、、。 もとゞり 太郎、刀を拔いて髻を切る。愛染の笑ひ聲がまだ聞えてゐる。 ( 幕 ) 488

9. 谷崎潤一郎全集 第9巻

第二十場屋内縁側 二匹の兎、 0 、、菜っ葉やおからをたべて居るところ。 第二十一場屋内茶の間 ミツは辨當箱を風呂敷に包んでゐる。祖母は柱時計を見る。 柱時計の針九時一一十分前を示すもの挿入 祖母時計を見、線側の方を見、「愛子や、もう幼稚園へ行くのですよ」と云ふ。ミッ辨嘗箱を包み終り、 左から右縁側へ行く。 第二十二場屋内縁側 ミッ辨嘗箱を持って來て愛子に渡す。母親「さあ、もう兎ちゃんの御膳はすみましたよ、早く幼稚園へい らっしゃい」と云ふ。愛子「行って參ります」と母にお辭儀をし、玄關の方へ行く。 第二十三場屋外門前 愛子、格子戸を明け、獨りで出て行く。絞暗。 0 0 0 ( タイトル ) 溶明暗 愛子さんのお祖母様やお母様は、お節句が近づいたので、お雛樣の支度をして居らっしゃいま す。 0 0 うさ 414

10. 谷崎潤一郎全集 第9巻

心にはなれなかったに拘らず、そのときばかりは玄關へ出て來た朝子を見ると、云ひやうのない惡感を覺 えた。それはいつもの優しくなっかしい彼女ではなく、獸のやうに醜くさせられ、顏と體とがぶざまに歪 憎みとも、妬みとも、愍れみとも分 んだ一人の淺ましい「姙婦」だった。穗積は殆んど生理的に、 らない厭な気持が胸一杯に込み上げて來るのを感じた。 「まあ、 どうぞお上り下さいまし」 そして、苦しさうに息を喘いで、重い物をおろすやうにほっと据わりながら挨拶をした様子には、靑白い 眦の吊り上った、トゲトゲしく痩せ衰 ~ た顏の中には、久しぶりで會ったと云ふ喜びの色は認められない で、ただ不釣合な大きな荷物に苛まれて、ひだるく、ものうく、ぐったりくたびれてゐるやうな所がある しかし穗積は寧ろ彼女を ばかりだった。彼女をこんなに淺ましくさせた添田の憎さは云ふまでもないが、 彼は恐らく、凄 恨みたかった。よく臨月の腹を抱へて羞かしくもなく自分の前へ出られたものだ、 一年前の じい眼で彼女を睨んだに違ひなかった。彼女が若し少しでも彼の悶えを察してくれたら、 そっと奥の間へ引き籠って、今のこの姿を穗積の前へ曝す あの時の気持ちを想ひ出してくれたら、 まいとするのが本當であらう。それが女の嗜みであらう。が、今の彼女はそんな気がねをする神經さ ~ も 失ってゐるやうだった。「姙娠」と云ふものが斯うまで彼女の肉を虐げ、心を打ち碎いてしまはうとはー さう考 ~ たとき、添田に對する彼の怒りは再び新たに燃え上った。それは單なる嫉妬ではなく、彼の貴い 「女性」の幻影を斯くも無殘に破壞し去った暴逆に向っての呪咀であった。もうあの淸い、気高い朝子は こ、にあるのは畸形にされた肉塊ばかりだ。あの寶石をこんなに疎ましい怪しい物に變 此の世にゐない、 めじり あへ 276