寫眞 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第9巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第9巻

究すれば今の日本の映畫よりはずっとい、物が出來るに違ひない。要するに活動寫眞は何よりも寫眞が大 切なんだからね。日本は濕氣が多いからとか、外國から來る生フィルムが途中で變質するからとか、いろ んな理窟をいふ者があるけれど、己は斷じてそんな譯はないと思ふ。矢張り柴山の云ふ通り日本の撮影技 師の中には、ほんたうに寫眞の分る藝術家が居ないせゐだと思ふ。己は己のカで以て、或程度までそれを 證據立てて見たいんだよ。」 「一體、己の考 ~ でいふと、」と、吉之助は更につづけた。「活動寫眞といふものはたと ~ どんなに短い場 面でも藝術的に撮ってさ ~ あれば、そこに必ず一つの神祕が感ぜられる筈だと思ふ。僕がお前を寫すとす る、それは長い芝居でなくても、お前が庭を歩いてゐるところでもい さうしてそれをスクリー ンの上 へ映寫するとする。 ただそれだけを考 ~ て見ても己には何だか不思議な莱がする。普通の寫眞だと 物の影だと思 ~ るけれど、活動寫眞の中の人間はなぜか己には影のやうな莱がしないのだ。却てこ、に生 きてゐるお前の方が影であって、映畫の中に動いてゐるのがお前の本體ぢゃないだらうか ? と、そんな 風に思 ~ てならない。大袈裟にいふと、全體宇宙といふものが、此の世の中の几べての現象が、みんなフ イルムのやうなもので、刹那々々に變化はして行くが、過去は何處かにき收められて殘ってゐるんちゃ ないだらうか ? だから此處にゐる己たちは直きに跡方もなく消えてしまふ影に過ぎないが、本物の方は ちゃんと宇宙のフィルムの中に生きてゐるんぢゃないだらうか ? 己たちの見る夢たとか空想だとかいふ ものも、つまりそれらの過去のフィルムが頭の中 ~ 光を投げるので、決して單なる幻ではないのだ。矢張 り先の世とか、子供の時分とかに、一度何處かで見たことのある物の本爛が影を見せるのだ。己には先か

2. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 らさう云ふ考へがあったんだけれど、活動寫眞を見てゐると一脣そんな感じがする。映畫といふものは 頭の中で見る代りに、スクリ 1 ンの丘 ~ 映して見る夢なんだ。そしてその夢の方が實は本物の世界なん 「ああ、さう云へば私も何だかそんな莱がする。」 と、民子も眞顏になって云った。 「あたし、若しも亞米利加へ行ってチャプリンだとかビクフォ 1 ドだとかって、ああ云ふ役者に會ったと したらきっと變な莱がすると思ふわ。この人たちがあの寫眞の中にゐた人間かしら ? さう考へたら可笑 しいと思ふわ。」 「そりゃあきっと變な莱がするに違ひないさ。己には映畫その物も面白いけれど、映畫と實際の人間との 關係に興味があるんだよ。チャプリンだのビクフォ 1 ドだのって人間は、實際に會ったら慾張りな奴だっ たり、狡猾な奴だったり、寫眞で見るよりずっとずっとうす汚い顏つきだったりするかも知れない。そし ところが己にい てあの連中は、ただ金をまうけるためにうその芝居をしてゐる積りでゐるかも知れない。 要するに彼等のほんたうのい はせるとさうでないんだ。彼等の機智や、頓才や、無邪気や、美貌や いところは却て寫眞の方にあるんだ。實際の彼等は金を儲けて年を取って、皺だらけな爺さんや、婆さん つでも己たちは彼等を夢に見ることが出 になって死んでしまふ。だがフィルムの中の彼等は死なない、い 來る。彼等自身が若し生きてゐて、それらの映畫を見ることが出來たとしたら、果してどんな気がするだ らうか ? もう老いぼれてしまってゐるその時の彼等は、若い美しいフィルムの中の彼等の影だと云ふや

3. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 ほとり , にただよふ畫舫の影を見送 來る駱駝に乘ったカラバンの一隊を眺めたとき、南京の秦淮の滸に彳んで、 ったとき、彼は不思議にも、ずっと前から自分がしばしば夢で見てゐた國へ來たやうな心地がした。夕方 などに、知らぬ都の繁華な四つ辻に立ち暮らして、行き交ふ人の耳馴れない言葉を聞いてゐたり、橋の袂 にうづくまって運河の水を見てゐたりすると、彼は譯もなく涙が流れた。この涙の裏には何かしら悠久な 彼はさう思っ ものを慕ってやまない感情がある、自分が詩人だったらばそれを歌に唄っただらう、 た。さうして此のま、此の國に放浪して、一生日本へ歸らないで終ったら、と、そんな空想に浸ることも 稀ではなかった。休暇が濟んで再び學校の教室へ戻って來ても、それらの記憶が更に美しい幻を呼び起し て、彼の心を遠い境へ誘って行った。彼の耳には講義の聲が聞えないで、異國の言葉と音樂が聞えた。 吉之助が一としきり寫眞道樂に凝ったのは、その旅行癖が原因だった。最初はただ、旅の記憶に便ずるた めにカメラを擔いで行ったのであるが、次第に彼はその技術に深人りをして、機械やレンズを吟味するや うになり、精巧な印畫を作ることを覺えた。彼の名前や作品は、その方面の展覽會や雜誌に現れて、一と かどの藝術寫眞家として認められるやうになった。 人は何かしら、たと ~ 自分が藝術家でないまでも、他人の藝術を味はふばかりでは滿足 藝術寫眞、 しないで、己のものを創作したい慾望がある。それを最も手近に充し得るものは寫眞ではないか。徳川時 代の武士や町人が俳諧といふ簡單な詩形で自分達を詩人にすることが出來たやうに、今の世の人々はキャ メラによって彼等自身を藝術家にする。勿論彼等にいはせたら寫眞も一個の獨立した藝術だといふだらう。 昔の武士や町人の中にも立派な詩入がゐたやうに、彼等の中にも稀には眞の藝術家がゐないことはなから しんわい

4. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉塊 と、或日彼女が書齋 ~ 這人ると、夫はめづらしくも新しい寫眞器をいちくりながら、極まりの惡さうな顏 つきで云った。 「まあ、何の玩具 ? 」 民子は夫が彼女に一言の斷わりもなくそんな買ひ物をしたに就て、ちょっと狼狽してゐるらしいのが、子 供のやうで可笑しかった。 / ド・キャメ 「これかい これは活動寫眞の玩具さ。佛蘭西のゴーモン會社で賣出した機械なんだが、ハ、 ラで、オ 1 トマティックにフィルムが廻轉するやうに出來てゐて、極く輕便に寫せるんだよ。まあアマチ あとでお前を寫して上げるよ。」 ュウアの使ふもんだね。 さう云ひながら、夫は照れ隱しに機械の彼方此方をカチャカチャと動かしてゐた。玩具とは云ふが立派な 寫眞器で、夫が頻に言譯をする様子から見ても、決して安い代物ではないらしかった。 「ほんとに私を寫して下さる ? だけど、巧く寫るでせうか ? 」 「寫らない奴があるもんか、お前と秋子を一つ試驗に撮って見ようよ。」 何か芝居をして見ませうか ? 」 「え、、撮って頂戴。 「芝居を寫すといふ譯に行かんよ、ほんたうに玩具なんだからね。」 と、夫は民子の機嫌のい、のを看て取って、安心したやうに云った。 「これは一つのマガジンに十八呎しか這人らないんだよ、だからほんの實寫物を寫すだけなんだ。こんな これでも熱心に研 物をいぢくったって仕様がないやうなもんだけれど、でも己はさう思ってゐる。

5. 谷崎潤一郎全集 第9巻

い發明品が輪入されると早速自分で試して見て、人にも敎へるといふ風だったことを吉之助は記憶してゐ こ 0 「貴下に向って突然こんな書信を差し上げる失禮をお許し下さい。僕は、或はお聞き及びかも知れません が、千九百十七年の夏、活動寫眞を研究する目的を以て當地ロスアンジェルスへ參りました。」 といふやうな書き出しから始まって、その手紙はその男の熱、いな話し振りを想見させるやうな口調で、極 めて力強く活動冩眞の事業の有望なことや、自分が目下從事してゐる撮影技師の仕事の愉快さを説き立て た末に、勝手ながら日本のキネマ界の近況を吉之助から知らして貰ひたいといふのだった。「僕の希望は 結局日本にあるのです。日本に歸って有力な資本家を見つけて、新しい映畫と云ふものを作って見たいの です。僕は横濱を立っ時にある商會の人たちと喧嘩して出て來たので、日本の事情を知りたいと思っても 誰に手紙を出してい、か分りません。それで失禮ながら、貴下のアドレスを知って居りましたし、貴下な らばきっとさう云ふ方面に多大の趣味と理解とを持って居られる事と信じて、敢て突然をも顧みずお願ひ する次第であります。御多忙の事とは存じますが、若し御返事が頂ければこの上もなく幸甚に存じます。」 と、手紙はそこで終ってゐた。 柴山の考 ~ では、吉之助は今も尚寫眞道樂に凝ってゐる者、そして一日ぶらノ \ して、閑つぶしに骨董な どをいぢくってゐる気樂な人間、だからこのくらゐな事を賴んでやっても差支なからうと、そんな風に思 ってゐるらしかった。吉之助は直ぐに返事を出して、「自分はこの頃寫眞の方をとんと捨ててしまったし、 まして活動寫眞などは全然門外漢であるから、さしあたり貴兄を滿足させるやうな報告を書く資格はない。

6. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 らと日があたって、し 1 んとした、のどかな、いかにも正月らしい気分のする部屋の中には、ヾ キン、と、鋏の音が気持ちよく響いて、剪られた爪が、此れも敷き換へたばかりの靑疊の上へカサカサと 落ちて行った。 「お父さん、お手紙がこんなにどっさり、 と、その時秋子がさういひながら、机の上に積んであった年賀状の東をとって、それを父親の膝にのせ 妙な事だが、 その日の朝の情景として、未だにこんな事柄が吉之助の頭に殘ってゐる。彼は膝の上にある 年賀从の東の中から、まだ眼を通さなかった五六通を撰り出して、差し出し人の名前を檢べてゐるうちに、 中に一通、亞米利加から來た手紙があるのを見つけ出した。差し出し人は S. Shibay 「 ama, ゞ弓 . G. w. Morrison NO. 312 West Street, LOS Ange1s と、さう書いてあった。「エス・シバヤマ ? はてな、 誰だったか知らん ? 」彼にはちょっとさういふ名前の記憶がなかったが、手紙は大きな封筒の中に這人っ てゐて、大分目かたの有りさうなもので、明かに年賀状ではないのだった。 が、封を切って讀んで行くうちに、直ぐその柴山といふ男の顏が思ひ出された。矢張り横濱の人間で、吉 之助とは中學時代の同窓で、その後山下町のフィルムを輸人する外國人の商館に動めてゐた男、 に深い交際があったといふのではなかったけれども、一時吉之助が寫眞に凝った時分に、その男も寫眞道 樂だったのでお互によく知ってゐた。その商會では寫眞機の直輸人もやってゐたところから、吉之助は始 終その店へ出人りして柴山と顏を見合はしたのであった。大へん熱心な、親切な男で、寫眞に關する新し

7. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 業なので、眞面目に理解してくれるものは一人もなかった。「よし ! そんなら己は獨立でやって見せる」 彼はさう云って、身の廻りにある有らゆる物を犧牲に供する覺悟で立った。有力な二人の伯父とも喧嘩を して、小野田商店の暖簾を始め、そこの家作も地所も商品も、みんな人手に渡してしまった。讀書好きの 彼が暇に任せて買ひ集めた、平生何よりも大切にしてゐた藏書までも賣り拂って、書棚の中には新しく取 り寄せた活動寫眞の參考書ばかりが堆かった。さうして彼は一日それらの書籍を相手に考へ込んだり、製 圖を引いてゐたりする。夜になって、夫婦が寢間へ這人ってからも話は事業のことばかりである。 馬鹿だの、變人だの、空想家だのと、親類の誰彼が物笑ひの種にするにつけても、民子はどうかして夫の いっとはなしに夫と共に事業 夢を現實にしてやりたかった。分らないながらも彼女は夫を愛するが故に そのものをも樂しむ心になってゐた。 「なあに、お前にだって決して分らないことはないよ。活動寫眞と云ふものは一番誰にでも分り易い藝術 なのだ。それが映畫の値打ちなのだ。」 と、夫は云った。そして一赭に伊勢崎町の常設館へ見物に行く折など、彼女はいろいろの説明をきいた。 夫は夢中でそれを語 監督のこと、撮影術のこと、染色のこと、調色のこと、カッティングのこと、 った。何とかして映畫の眞價を妻にも了解させたいといふ心持ちが、彼の態度に溢れてゐた。 「これを御覽、かういふものが今に此處へ立つんだよ。」 さう云って、彼は或時一枚の圖面を民子に示した。圖面の中には撮影所、現像場、映寫室、化粧室 夫らのものから出來上ってゐるスタディオの設計が作られてゐた。

8. 谷崎潤一郎全集 第9巻

「かうして彼處へ歩いて行く感じは活動寫眞を見る時に似てるぢゃないか。 と、吉之助は例になく昻奮したやうにしゃべり績けた。 ハノラマへ行くと必ず 「君はどうだか知れないが、僕は子供の時分、。ハノラマを見るのが好きだったよ。 最初に眞っ暗な道を歩かされる。あの、暗い中からほうッと明るい繪の世界へ出る心持ちがよかったんだ が、活動寫眞のい、ところもつまりあれだね。周りが眞っ暗で、向うの方に一點の光りが見える。そして その光りの中をいろいろな人影が謎のやうに默って動作をつづける。それがわれわれに紳祕な感じを與へ : さういふ意味で僕は水族館も好きだった、 るんだね。ちょっと水族館の窓を覗いてでもゐるやうな。 眞暗な廊下に四角なガラス窓が列んでゐて、ガラスの向側に明るい水の世界がある。共世界の中をいろん な魚がぎらぎら鱗を光らしながら泳いでゐる。ときどき魚がガラスへびったり首をつけて、何かわれわれ 「ⅱしかけたさうに口をばくばくやらせてゐるので、此方でも首を押ッつけて見ると、魚の眼玉はまるで 方角違ひの方を睨みながらガラスの壁をただコッコッと衝ッ突いてゐる、まるでわれわれ人間とは無關係 あれを見ると僕はいつでも幻想を起して、自分も一遍窓の向う側 な種族の者だと云ふやうな風に。 の世界へ行って見たいと云ふやうな気になったよ。實はこんな話をするのは、その水族館の幻想を映畫に 作って見ようかと思ってるんだが、 「ふん、そりや面白いかも知れないな、それちゃいよいよ人魚が出て來る譯なんだね。」 「ああ、水族館の窓の向うに美しい女を人れる、だから人魚を捜しに行くといってゐるのさ。」 ハンドの音樂に打ち消された。いっ が、さう云ひかけたとき、吉之助の聲は俄に耳を衝いて來るジャズ・

9. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 吉之助は自分に向ってそれをいった。自分はつまり繪が畫けないから、こんなごまかしの手段で以 て、外形丈が繪に似た物を拵 ~ てゐる。が、これは藝術でも何でもないのだ。普通の寫眞よりなほ惡いま やかし物なのだ。自分は自分を欺いてゐるのだ。さう思ふとそれがいかにも卑法のやうに感ぜられた。 矢張り自分は何事にせよ創作をする柄ではない、鑑賞家の地位でんずるより外はない。 吉之助は またそんな風なあきらめを抱いた。「藝術寫眞家」 さう云はれることが何よりも嫌ひになり、さう いふ人々の間に伍して作品を發表したりするのが、気障でたまらなくなった。寫眞の展覽會と云へば、み んな團栗の脊競べだ。獨創力のない俗人どもの似而非藝術を列べるところだ。自分はそんな連中よりは幾 らか自分を知ってゐる積りだ さういふ誇と淋しさとを持った吉之助が、結局自らを慰める道は書畫 骨董の愛玩といふ一事だった。もうその時分、父と母とは今の本宅の方へ引移って隱居住まひをしてゐた ので、彼は高等商業を出ると間もなく、店の仕事を預かって行く身の上だった。忙しい商賣ではないとい っても、再び學生時代のやうに支那や朝鮮へ飛んで行くことは出來なかった。で、吉之助は暇に任せて種 々なコレクションを試みてはその日その日を紛らしてゐた。最初に彼はギャマンの器物の蒐集をやった。 一しきりは浮世繪に凝った。さすがに商賣柄で、さういふ物を集める便宜は多かったので、彼の書齋はそ れらのガラスの切りこの器や、歌麿や春信の版畫で以て一杯になってゐることがあった。店へやって來る 西洋人たちがしば / \ それを見たがったり、 いくらで讓ってくれなどといった。 「まるで若隱居のやうだ。」 店員どもは彼のことをさういってゐた。なぜなら彼の道樂はさういふ 方面へばかり走って、若い時代に誰でも一度は經驗する筈の、酒や女には決して向はなかったのであるか

10. 谷崎潤一郎全集 第9巻

吉之助の考へでは、ほんたうの水を使はないで而も十分に水中の感じを現すところに面白味があるのだっ た。あの有名なアンネット・ケラ 1 マンの映畫を始め、ほんたうの水を冩したものなら既に今迄にも澤山 ある。それをするにはケラ 1 マンのやうな水泳の達入でなければならず、又實際にさうしたところで、矢 張り思ふやうな水の趣が出るものではない。水を使へば水の感じが出せると思ふのは、俗人の考へに過ぎ ない。水の世界とは云ふものの、吉之助の註文するのは寫實的の意味に於いてではなく、畢竟彼の幻想を 滿足させるやうな、一個の美しい謎の世界である。そこにあるところの几べての物がなまめかしくゆらゆ それはほんたうの海の底とは全 らと輝き、繻子のやうにつやつやとして波に搖られてゐる心持ち、 く違ったものであらうとも差支はないのである。彼は最初からその計畫で、絹や天鵞絨で岩だの貝だのを 作り、魚には人間を使ひ、後の帷にはブラック・ベルべットを垂れ、扇風器と入工光線とで波のゆらぎや 光りの波絞を現さうと云ふつもりだった。そして人魚の吐く息が虹のやうな色をした五彩の泡になるとこ ろは、シャボン玉を使ふことにしたのだった。 「僕の云ふのは、全部を水にしろと云ふのちゃないんだよ。此の泡を吹くところだけは矢っ張り水の中へ 、と思ふね。」 入れて息をさした方がい 「そりやさうすれば實際の泡は寫るかも知れない。けれどほんたうの水の場面がたとへ一つでも交って來 ると、それが非常に外の場面と不調和になりはしないだらうか。此の寫眞の狙ひどころは、或る不自然な、 技巧を凝らした美しさにある。活動寫眞は山の中でも海の底でも、どんな自然の景色でも勝手に背景に使 へると云ふ、その裏を行って、僕は几べてを人工でやって行きたいのだ。だからその中へ人工でないもの 106