穗積がこんな手紙を出したのはその明くる日の夕方だった。今更添田に會ったところで別に語るべき何事 もない気がしたけれど、あまりにあっけなさ過ぎた昨日の朝の別れを思へば、その人の夫を通じてでも、 もう一度名殘を惜しみたかった。添田の前で男らしく彼が己の敗北を認め、絶交を宜言する場合に、添田 がどんな顏つきをするか、それを見たいと云ふ好奇心もあった。「添田君」と、彼は云ってやるつもりだ あきんど った、 「長々君には御厄介になったね。君はお客の足もとにつけ込む綠日商人のやうに、散々僕を 愚弄の種にした。僕も施しを受ける爲めには北んじて君の侮辱を蒙り、乞食のやうに憐れみを乞うた。君 くら何でも我ながら愛憎が盡きたから、もう今日かぎり乞食の眞似は止 も惡いが僕は一脣卑しかった。い めにする。君も嘸かしせいせいするだらう。」 もしさう云ったら添田は恐らく寂寞を感じはしない だらうか ? 意地の惡い人間は、その意地惡さを發揮する相手がゐないと淋しいに違ひない。穗積が彼か ら離れてしまへば、添田はもはや今迄のやうに朝子をいぢめる張合ひがなく、責め道具を奪はれた獄吏の ゃうに、手持ち不沙汰になるであらう。 一週間過ぎて行った。 しかし添田は、どう云ふ譯かその後訪ねて來なかった。穗積に取って空しい日々が、 事によったら添田は此のま、絶交してしまふつもりだらうか ? 既に朝子がきつばり別れを告げた以上、 自分は穗積に會ふ迄もないと、考へてゞもゐるのだらうか ? 愚弄の種がなくなればそんな人間に用はな ぎやくて 人を苦しめ泣かせるためには何 いから、寧ろ此方から逆手を喰はして放ったらかして置いてやる。 あまじゃく 處迄も執念深く、皮肉に皮肉にと出たがる添田は、此の場になってもまだ天の邪鬼をするのだらうか ? 「乞食の眞似は止めたと云ったが、さて止めて見た気持ちはどうだね ? 矢張りときどき侮辱されても朝 332
添田と穗積とが親しい友達になったのは、もう五六年前、穗積がまだ故鄕の長野で親の跡を受け繼いで町 醫をやって居る時分だった。 その頃、添田は長野へ遊びに來て重い流行感冒にかかって、二た月ばかり宿屋の二階に臥せってゐたが、 その時彼を診察したのが穗積だった。醫者が本業ではあるが、學生時代から醫者の本よりは獨逸文學を勉 強すると云ふ風で、親が許せば文科へ行きたかったくらゐな穗積は、當時の文壇に折々現はれる添田の名 前をよく知ってゐた。それに二人とも赤門の出で、年配もほば同じだった。添田が二つ年上の二十八で、 穗積は學校を卒へてからまだほんの一二年にしかならなかった。そんな譯で、外に話相手のない田舍の町 のことではあり、若い同士は直ぐ気が合ってしまったのである。添田は一體その頃文壇に流行してゐたデ カダン派の大將で、惡匱派だとさへ云はれてゐたのだが、附き合って見ると何事に對しても同情の深い 物の分った、そして非常に愼ましやかな、極く品のいい靑年だった。少くとも最初穗積にはさう思へた。 「これがあの惡魔派の添田か」と、彼は意外に感じたくらゐだったのである。だんだん近しくなるにつれ て、添田は彼に對してこそ遠慮しないやうになったものの、面と向ってはロクにロも利けないやうな人の がした。全く彼は長い間、「明日」を持たずに暮らして來たのだ。 「さうだ、顏を見ると云ふことだけでも自分はいくらか幸になれる。」 そんな事を思ひながら、彼は龍岡町の宿の方へ歩いて行った。 212
かまち 根の落っこちた圓髷をがくがくさせながら、そっと鼻紙で涙を拭い 框に兩膝を衝いてしやがんで、 てゐるのである。それは添田が自分の來るのを豫期してゐて、わざとさう云ふ「場面」を演じて見せたの ではないだらうか ? 眞っ先に穗積の胸を打ったものはその邪推だった。穗積は、自分と云ふものが おもちゃ 添田の玩具にされてゐる、ただそれだけならいいのだが、自分に見せてくれるためにいつも所謂「活劇」 しもと の相手にされて、殘酷な笞の下に叩きのめされるいとしい人の上を思ふと、誰よりも自分自身を批難しな いでは居られなかった。自分が此處へ來なければいいのだ。自分が居るから添田は一層惡魔的になり、 層朝子を虐げるのだ。彼女に不幸を齎らしてゐるのは自分ではないか。添田は自分を打ちのめすつもりで、 朝子を打ってゐるのかも知れない、が、その實、朝子を打ってゐるのは添田でなくて自分なのだ、自分が 彼女を苦しめてゐるのだ。 「添田君、朝子さんを打つなら僕を打ってくれ給へ、その鞭を受ける者は此處に居るんだ。」 穗積の心持ちはそれであった。彼はさう云って添田の前に身をひれ伏してもいいやうに思った。 「いやだわあなたは、活劇だなんてそんな大袈裟な、 何でもないのよ、穗積さん。」 ふち 朝子はしかし、まだ眼の縁を紅くしながらさう云ってニコニコ笑ってゐる。そしてしくしく鼻をすすり上 げながらも、抽き出しを箪笥に收めたり、花瓶を立て直したり、平莱な顏で散らかったものを始末してゐ る。その素振から推し測るのに穗積が代りに打たれようと云へば、恐らく彼女は餘計なお世話だと云ふで さう云はれるに違 あらう。夫婦のことは夫婦の間でけりをつける、他人の出る幕ちゃありません。 ひないであらう。穗積は急に、自分の眼の前が晦く低く沈んで行くやうな心地がした。此の、各々別な心 むち 298
武田にさう云ふ意志がないと云ふことを仄めかす積りだから、君の方は君の方で一つ當人に中ってみたら いぢゃないか。その相談には僕も出來るだけ加勢するから。」 「君、ほんたうにさうしてくれるかね ? 大丈夫かね ? 」と、添田は二三度念を押したが、彼はその時も 「大丈夫だ」と云ってしまった。「有り難う、僕は心から君に感謝する。」と、添田の云ふ聲が涙ぐんで聞 よる えた。いつの間にかとつぶり暗くなった夜の公園のべンチに並びながら、二入は暫くセンチメンタルな気 分に浸ってゐたのだった。 いよいよ動きが取れなくなってしまってから、穗積は一脣照千代を想ひ優った。添田の爲 運惡くも、 めにいろいろ心配してやってゐる最中に、その一念が絶え間なく胸の奧で生長しつつあるのを感じた。 「朝ちゃん、どうだね、添田はあんなに君のことを思ってゐるんだが、あの男のところへ行く気はない ? 穗積は殆んど自分の聲を疑ひながら、彼女に向って二度も三度もその呪ふべき言葉を云はねばならなかっ た。そして三度目にそれを云ったのは、彼と添田の二人の名前で、照千代を自分の家の晩飯の席へ呼んだ ころあひ 折だった。添田がわざと座敷を外した頃合を見て切り出したのだが、照千代はいつものやうに顏を赧くし てうっ向いてしまふばかりだった。 の「あたしのやうな人間をそれほどに思って下さいますなら、 し J 暫く立ってから、黴かにさう云った彼女の言葉は穗積の胸にむごく響いた。 「ああ、それちゃ君は承知してくれると云ふんだね ? 」 ヾゝ、 はづ まさ あた あか 223
ぬす 穗積の遺書は、全部を引用する迄もない。それは自殺する一と月も前から、をりをり妻の眼を偸んではポ ケット型の小さな手帳へ鉛筆で認めたものであったが、ところどころに下のやうな感想が書き入れてあっ 、 ) 0 私に取って何よりの打撃は、添田君が死に先だって自分の罪を後悔したことだ。勿論私はああ云ふ場合 が有り得ることを前からちゃんと覺悟してゐた。どうせ人間は死ぬ時が來れば後悔する。だが死に際に もし此の男が死なずに濟めば又私 後悔したって、それで生前の一切の罪が帳消しになるものではない。 たちを苦しめるだらう。私はさう思って、添田君が何と云はうとそれを聞き流すつもりでゐた。そして あの時はわりに平気で聞き流した。が、だんだん時を經るに從ひ、やつばり私は聞き流すことが出來な くなった。私はあの時、自分も添田君の前にひれ伏し、「君を殺したのは僕なんだよ、許してくれ給へ」 と云ふべきだった。私は死んで行く人にうそをついた、そしてその死を嘲ったのだ。 お前は僕を前から愛してゐたと云ふ。そして今では添田君の死を悲しむ心はなくなったと云ふ。道ちゃ んよりも私を愛してくれると云ふ。それらの言葉で私は慰められないばかりか、一層自分の罪に戰く。 私はお前が、昔の淸い朝子にならずに、次第に私と同じゃうな惡魔になって來るやうな気がする。添田 君の妻でゐた時の方が、まだしも今より貞淑だった、純眞だったと思はれてならない。お前がいっ迄も : かうなったのは實 いっ迄も、添田君のことを忘れずにゐてくれた方が、私は却って慰められる。 をのゝ 406
それからまる一年の間と云ふもの、穗積は長野の家にくすぶってちっと身動きもならないやうな氣持ちで ゐた。「ちょいちょい訪ねて來てくれ」とは云はれたけれども、それを添田がよろこばないのは分り切っ てゐたし、自分としてもそんな状態にある「心の妻」を見せられるのは辛かった。 恐らく添田もそ れを見越して、心にもないあんな気休めを云ったのであらう、と、さう穗積には猜せられた。彼はをり 朝子から來る手紙に依って、添田が此の頃、大へん彼女にやさしくなって夜遊びなどをしなくなった と、彼女 と云ふ事實を知っただけだった。「けれども何だかまだ心から信じる譯には行きません。」 は書いた、「前とちがっていろ / ( 、親切にしてくれるだけ、うれしいやうに思ひますけれど、でもどうか びありません。僕は此の戀に完全に勝っか、完全に負けるか、孰方かにきまれば安心するのです。その時 が來るまでは何年でも待って居ますよ。」 「それからね、此れも朝子の希望なんだが、 と、添田はほっと胸を撫でおろした様子で云った、 「出來ることなら、君は此れからもちょいちょいやって來てくれ給へな。朝子もときる \ 君の顏を見た方 がい、と云ってゐるし、又君としても僕の態度を監視する必要があるだらうから、 穗積は何とも口に出しては云はなかったが、添田と自分との戀の戦ひは此れで終ったのではない、此れが 始まりで場合に依ったら一生っゞくのだと思った。一生っゞいても何處までも爭はうと心に誓った。 どっち 270
惡人の仲間へ引き擦り落す。自分が到底善人の仲間へ這人れないとあきらめた男は、反對に、 も自分の仲間へ善入を誘惑することに依って、せめては救ひやうのない孤獨を慰めるであらう。 「貴様たちは友を欺き、夫を欺いた。己なんかよりずっと上手の惡黨ちゃないか。善人だなんて云ったっ て皆あてにはなりやしないんだ。態を見やがれ ! 」 さう云ってせ、ら笑ふことが出來れば、それが添田の本懷であるかも知れない。が、添田の腹には又その 裏があって、さう云ふ風な危險な地位に二人を据ゑて、自分で自分の嫉妬心を焚きつけるやうにして見て、 それでも朝子が可愛くなるかならないかを試さうとして居るのぢゃないか。 「なあに、ちっとぐらゐ気を揉ましてくれたって構やしないよ、そのくらゐな事があった方が却って僕の 浮気が止むかも知れないんだよ。」 現に添田のさう云った言葉は滿更の冗談ではないかも知れない。「二人が姦通しやしないか」と云 さうなればお誂へ向きなので、心配の種を作るために ふ心配がもとで、それが次第に愛に變る。 穗積と云ふものを利用してゐる ? 隨分横着な考へではあるが、添田のことだからそのくらゐな手段は取 つう / \ しく度胸をきめて居 りかねない。そして、實際一度ぐらゐは姦通されたってい、と云ふ覺悟で、。 るのぢゃないか。姦通されて見て、始めて自分の朝子に對する愛情がハッキリと意識され、ばよし、さう なっても矢張り何等の愛も嫉妬も感じないやうなら、そのま、穗積にくれてやっても差支へはない。 : それとも或ひは、添田の行爲をさう云ふ風に意味有りげに解釋するのは、穗積の感ぐりに過ぎないので あって、添田自身はたゞぐうたらに、「なるやうになれ」と云ふ了見で成り行きに任せてゐるのでもあら ざま おれ ため うはて たゞ一人で 242
五 穗積にはそれが幾通りにも考へられた。彼の心持ちを解剖して見ると、 添田の腹が分るのを待っ ? 「自分は惡人である」と云ふ意識から、所謂内心の孤獨に攻められて、何とかして朝子の温かい懷ろに抱 かれたいと望んでゐることも事實であらう。が、それは非常にばんやりした気持ちと云ふくらゐな程度で あって、いくら朝子を愛さうとしても結局愛するやうになれないのを自分でも知ってゐるのちゃないか。 そして内々飽きが來てゐて、アハよくば離綠したいのであるが、思ひ切ってさうすることはいくら惡人で いや、添田の言葉を借りて云へば悪人であるだけに、尚さびしい。それは單に一人の妻と別れる おぼっか ことを意味するのみならず、惡人たる彼が、いよ / \ 最後の覺東ない望みをすらも捨て、しまって、善人 との交りを絶っことになる。 そこまでは穗積にも大几そ想像がっかないでもない。添田にさう云ふ 心持ちのあることを信ずればこそ、穗積はあんなに馬鹿にされながらも、自分自身を憐れむ前に相手の立 場を憐れんでやった。朝子を自分に取り戻す方が寧ろ正當であるとは知りながら、戀愛よりも友情を重ん じてやった。けれども假りにそこまでは彼の推察通りだとして、それから先の添田の心理はどう働いてゐ るのだらうか ? 自發的には離縁をする勇気がないから、彼女の昔の戀人を故意に接近させて置いて、何 のかそのうちに間違ひでも起ってくれ、ばい、がと、期待してゐるのちゃないか。成る程さうなればそれが と最も添田に取って苦痛の少い離綠の機會であるに違ひない。なぜなら添田は、その時妻を追ひ出しても自 分ひとりが惡人だと云ふヒガミを感じないで濟む。少くとも姦通と云ふ罪名は、二人の善人を自分と同じ 241
「グレエトヘンがゐないとどうも淋しいね。」 と、添田が云った。 「でも君が來てくれたんでよっぽど助かるよ。まあもう少しゐてくれ給へ。」 穗積は非常な淋しがりやだったので、添田が歸ると云ひ出した時それを恨んだくらゐだった。「又秋にで もなったら來よう、 」と、列車の窓で添田は彼に別れを告げたが、その時も去年と違って、プラッ トフォ 1 ムに照千代のゐないのが二人ながら飽き足りなかった。穗積は一人で停車場から歸る途々も、自 どっち 分だけが取り殘されてしまったやうな気がしてならなかった。「照千代でも添田でも いい、孰方か一人ゐ てくれたら」と、さう思った。そして照千代にはもう嘗分は いや事に依ると一生會へないのだと思 ふと、せめて添田が懷かしかった。 しかし穗積はその年のうちに、添田よりは照千代の方と先に會ふ機會があったのである。十月の末に、照 千代を引かせてから半年たっかたたないうちに、呉服屋の主人は腸チブスを煩って死んだ。その葬式に行 った穗積は、白無垢の衣裳を着て眼を泣き張らした照千代の姿を、施主の席の後の方に見出したのである。 彼女のその場のいぢらしい様子は、しつかり者の涙一つこぼさない本妻の態度と對照されて、大 ~ ん人眼 を惹いたものだった。 百ケ日が濟んでから後、彼女は再び姉の所に戻って來たので、もう一度以前の照千代となって出るであら ふくろ うと期待されたが、姉の家の直き裏にある路次の奧の長屋を借りて、お母や弟と一緖に引っ込んだきり、 もう世間 ~ は顏出しをしないと云ふ風だった。木村の家を出される時に貰ったものが幾らかあって、それ うしろ 216
私はもう一度添田君を憎む。あの世で添田君に會ふことが出來たら、私は恨みを云はずには措かない。 408