「なぜ、僕の敵でないんだ ? 」 「なぜと云って、君は此の土地で生れた人だし、地位もあれば信用もある。僕のやうな風來坊の文士とは 世間的に見て非常に違ふ。殊に照千代との間柄も僕よりは古いんだし、醫者としていろいろ面倒を見てや ったと云ふ關係もあるんだから、競爭すればきっと負けるに違ひないと思ったんだ。負けることを恐れる なんて男らしくもない ! さう云はれればさうだけれど、僕は負けると云ふ事實よりもそれから生ずる君 と僕との心持ちを考へたんだよ。孰方が負けたって友情には差支へないと云ふやうなものの、決してお互 ひに好い氣持ちはしないからね、何かこだはりが出來るに違ひないからね。」 「少くとも當分の間、笑って附き合ふと云ふ譯には行かないだらう。しかしそれは當分の間だよ、その競 そかく 爭が正しいものである限り、君と僕とが永久に疎隔する筈はないと思ふよ。」 だが當分の間にしても、君より外に友達のない僕は淋しい。だ 「さうだ、そりや當分の間だらう。 から僕は君が照千代を貰はうと云ふ意志があるなら、自分は絶對に競爭を避けて、自分の戀は默って自分 いっか一度はさう云ふ時がやって來 の胸の中へ葬ってしまはうと、さう考へてゐたんだよ。そして内々、 るのを豫感してゐたんだ。今日にしたって『僕は照千代を戀ひしてゐない』と云ひ切ってしまへばよかっ たんだが、君に向ってうそをつくのが苦しかったもんだから、 みちばた の添田はほっと溜息をして、路端のべンチに腰をかけたが、どんな顏つきをしてゐたかは、もう日が暮れか とかって邊が暗くなってゐたので、穗積には分らなかった。しかしその言葉の底には添田と云ふ人間の、 當時の文壇で悪魔派の驍將と目されてゐた人間の、今更ながら思ひの外な気の弱いところや、人の好 あたり どっち 221
「やあ、人らっしゃい。」 と輕く答 ~ た。それほど彼女は、落ち着いて、まるで當然の事のやうに濟ましてやって來たのである。 「どうしたんです ? 何か事件でも出來たんですか ? 」 「ええ、添田が此れで十日ばかり内へ歸って來ないんですの。あなたに聞いたら居所が分りやしないかと 思って、それで伺ったんですけれど。 「僕の所にも何の便りもありませんが、もう箱根ぢゃあないんでせうね ? 」 「箱根からはあの明くる日歸って來て、二三日してからふいと出たきりなんですの。」 「ぢや、僕の手紙は見たのかしら ? 」 あたしの前で讀んで見せたわ。」 「見たわ、 「何とか云ってゐたでせうか ? 」 「まあどうするか當分打っちゃっといてやれ。來ないと云っても又來るやうにさせて見せるって、變な顏 をして笑ってゐたわ。」 それで僕よりかあなたの方が、來るやうにさせられ 「ふん、そりや添田君の云びさうなこッたな。 ちゃったんですか。」 來ては惡いと思ったんだけれど。」 「させられちゃったわ、 さう云ったとき、初めて彼女の頬の上に極まりの惡さうな赧みがさした。 「きっと添田はあの人と一緖に、何處か東京に居るんだらうと思ひますけれど、 あか ゐどころ ねえ、何處でせ 334
肉 「帳面を見せませうか。」 「いや見ないでもいい、大几の事を聞かしてくれれば。」 「今のところぢやまだそんなでもないけれど、此の勢ひだと大分超過するらしいのね。」 「實はグランドレンの給金のことなんだが、今日當人から話があってね、 と、夫は頭を掻きながら云ひ難さうに切り出した。 「いくら欲しいって云ふんですの ? 」 「それが少うし高過ぎるんだよ、三百圓くれろと云ふんだ。」 「さうね、そりゃあの人は外の人とは違ふんだから、 が、民子はちょっと意外な気がして、不快な感じを色に出さずにはゐられなかった。それでは最初の話と は大變違ふ。自分の家は別段生活に追はれてはゐないし、何も女優を職業にするのでないから、給料の點 。と、グランドレンの最初の條件はそんな事だった。就いてはどうせ十分な報 は相嘗と思ふところでい 酬は出せないのだし、僅かばかりの金をやるのも却て何だから、或は品物でお禮をしようかと、此の間も 夫と二人でその相談をしたくらゐである。 「今になってそんな事を云ひ出すなんて、思ひ掛ない話なんでね。」 と、吉之助は氣まづい様子で、云ひ譯するやうな口調で云った。 「こんな事なら、始めにハッキリきめて置いたらよかったんだが、有耶無耶にしといたのが手ぬかりだっ 三百圓と云ふ金は此方に云はせると高過ぎるけれど、西洋流に考へたらそこらが相當だと思ふ こ 0
肉 「さあ、歸ったらいい。」 ししえ、まだ歸りません、 少し、お願ひがあるんです。」 「何だ ? 」 「僕は自分も惡かったんだから、制裁を受けても仕方がありません。 けれど、處分されるのは僕一人なんでせうか ? 」 「そんな事は答辯の限りぢゃなからう、貴樣は相當の制裁を受けたらいいのだ。」 「はあ。」 と云ったが、例の薄気味の惡い上眼で相手の腹を捜るやうにジロジロと見ながら、何と思ったか哀訴する ゃうな調子になって、 「けれどもあの・ : 制裁ッて仰しやるのはどう云ふ制裁なんでせうか ? 若しかしたら撮影所を解雇さ れるんぢゃないでせうか ? それだけ聞かして頂きたいと思ふんですけれど : 「所長の意見を聞いて見なけりや分らんが、己は少くとも貴樣のやうな人間を一日も置いとくことは出來 ん。誰が何と云ったって斷然貴様を解雇してやる。そしてフィルムの辨償が出來なけりや、それ相當の手 績きを取ってやる、どうせ貴様は度び度び警察の厄介になってゐるんだらうから : 「若しさうなると、グランドレンも一緖に解雇されるんでせうか ? あの女だって僕と同罪なんですが : そして柴山がいささか返辭にひるんだ樣子を窺って、ふいと相澤は意気地のない、泣き出しさうな聲で云 だけど、念の爲めに伺ひます 145
かも知れない。何しろ相手が日本人でないんだから始末に困るよ。」 「でも手ぬかりは兩方にあるんですから、二百圓ぐらゐで我慢しては貰へないでせうか。 此方も今 のところではほんの小ひさな資本なんだし、苦しい場合なんだから、それを察して私たちを救ってくれる と云ふ気持ちで。 「それが向うも困ってゐると云ふんだよ。 此れは當人の話ちゃない、相澤から聞いたことなんだけ れど、あの女の家は昔は可なりにしてたんだが、今ぢや遺産もなくなしちまって、暮らしの方が苦しいん ださうだ。だから三百圓くれって云ふのもきっと母親の指し金でせうッて、相澤は云ふんだがね。グラン ドレンを百圓や二百圓で使はれては困ります、あれは大事な娘ですッて、そんな事を云ひかねないお婆さ んで、貧乏しても未だに娘に立派ななりをさせて置きたいんださうだから。」 「では三百圓で承知なすったの ? 」 「うん。」 と云って、吉之助はますます困惑の色を浮かべた。 「三百圓くれなければママが出てはいけないと云ってゐる、と、當人もさう云ふんだ。而も毎月前拂ひに マスト・ イン・アドヴンス , ペイ・ミ 1 ・ してくれろ、 と、突然さっき僕のところへやっ て來てそんなことを云ひ出したんだよ。グランドレンの意志ではないッて、相澤は云ってゐるけれど、あ の女だってどうせ一通りの娘ぢゃないことは分ってるんだ。事に依ったら彼奴と相澤と母親とが、三人ぐ るになってゐるのかも知れない。寫眞を寫しかけて置いて中途で居直りされたんちゃ、此方も強ひて否と
殘して置くならいいが、請求次第に前後の考へもなく、ずるずる金を出すと云ふやり方なので、預けたも のは右から左へ直ぐ飛んでしまふ。 「だから彼奴は馬鹿なんだよ、」 と、添田は云った。 「もう五六年も一つ所に世帶を持ってゐるんだから、二た月や三月勘定が溜ったって、そんなことは當り 前なんだ。いっ何時どう云ふ不意の人用があるか分らないし、僕にしたって時々小遣ひが足りなくなるこ とがあるんだから、幾らか殘して置くやうにしろって、何度さう云っても分らないんだ。一體月々の會計 がどのくらゐかかるのか、帳面をつけてハッキリ調べて見ろと云っても、それも彼奴には出來ないんオ てんで數理の觀念がゼロなんだが、どうも敎育のない女は仕方がないね。 「いや、教育と云ふよりもやつばりそれは性質だらうよ、君は原稿料の前借りをして、平気で約東に背、 たりするけれど、僕なんぞにはどうしてもあの藝當は出來ないからね。借金を斷るのが巧いやうな女は、 そりや或る時は便利なこともあるだらうが、僕にはどうも恐ろしい気がする。さう云ふ弱い正直さが、君 の細君のいい所なんだがなあ。」 「だって君、せめて臺所の遣り繰りぐらゐが出來なかったら、あの女の取りえはないちゃないか、それぢ のや何であんな者を女房に持ってゐるんだか、 さう考へるから一と入腹が立って來るんだ。」 と穗積はそれには答へないで、わざと別なことを尋ねた。 「で、兎に角その五十圓を卷き上げて來たんだね ? 」 なんどき 301
することが出來たらばよし、それが旨く行かなかったら、當然君の所へ行く。僕もその時は文句を云はな さう云ふことに大體話がきまったんだ。ねえ、朝子、それに違ひないだらうね ? 」 穗積は朝子が「え、」とロのうちで云って、徴かではあるが、たしかにうなづいて見せたのを認めない譯 ーー行かなかった。重苦しい沈默がそのあとにつゞいた 「つまり何だよ、朝子は君の心の妻だよ、當人もさう思ひ、君もさう思ふなら思ってくれて差支へはない んだが と、暫く立ってから、おづ / \ した口調で慰めるやうに添田が云った。 「君の心の妻であるものを僕がいっ迄も預かって置くと云ふ法はないから、朝子の心が此の後どうしても 變らなければ、 僕の『心の妻』になることが出來ないやうなら、君の所へ行かなけりゃならない。 どうぞ それも決して長いこと待てと云ふのぢゃないんだ。一二年の間にきっと孰方かにきめる積りだから何卒そ れまで、 「いや、待てと云ふなら僕はいっ迄でも待ってゐるよ、たとへ一生の間でも。」 と、穗積が云った。 「朝子さん、僕はあなたをお言葉通り心の妻と思ってゐませう。ほんたうなら僕は今直ぐあなたを讓り受 のけてもい、のだ、それが一番正しい道なのだ。けれどもあなたが待ってくれろと仰っしやる以上、矢張り とあなたの心持ちに從ふより外ないと思ひます。今となっては全く僕には堪 ~ 難いことだけれど、あなたが 9 若し、心から添田君を愛するやうになれるのだったら、それでも僕は差支へありません。きっと喜ぶに違 どっち
肉 から、大いに働かうッて氣になるんです。僕は泥棒もしましたけれど、俳優としては隨分熱心にやった積 りです。『うまく出來た』ッて、所長さんに褒められたことも度び度びあるんです。僕は幸ひグランドレ ンの相手役に選ばれたんで、それに感激して、夢中になって努力しました。横着なことを云ふやうです力 僕みたいな怠け者はさう云ふ風にして使ってでもくれなけりや、とても眞面目な仕事なんか出來ないんで 理窟のない所に妙な理窟をつけて行く此の少年の云びぐさは、人を馬鹿にしてゐるのかそれとも本気で云 ってゐるのか、柴山にはとんと見當がっかない。 一體相澤には不斷から柴山が苦手だった。誰を捉まへて も如才なく愛嬌を振りまき、ロの先でゴマカシてしまふのを得意としてゐる彼ではあったが、柴山の前だ と一向その手を用ゐてもきゝ目がないので、いつも堅苦しく謹直を装ってゐた。が、それを見拔いてゐる 柴山の方でも、気を許したことはなかったのである。 「ずるい奴だが、しかし演ることは中々うまいね。」 さう云って吉之助が褒める場合でも、柴山は苦い顏をして、 「あれは本當に巧いのぢゃないさ、あれは器用と云ふのだよ。世の中にはああ云ふ人間が時々あって、物 眞似なんかやらせると何でもちょっと器用にやるから、俳優にしたら嘸い、だらうと思はれるけれど、さ てやらせて見ると不熱心で、艮氣、 本がなくって、結局何も出來やしないんだ。」 どうも吉之助には惡い と、ニべもなく否定して、ただの一度も「うまい」などとは云はなかった。 ( もカ相澤にしろ、グランドレンにしろ、容貌の美しい少年や少女を 癖がある。タイプを重んずるのよ、、。、、 147
「讀んだわ、あたし、」 「讀んだら、どんな莱がしましたね ? 大分問題になってゐるやうだが、 「さう ? ぢや、あれは傑作なの ? 」 「いや、さう云ふ意味で問題になってゐるんぢゃないんだ、無論相當のカ作には違ひないけれど。 それは「夜路」と云ふ標題の、添田としては可なり得意で書いたらしい、百ペ 1 ジに餘る惡主義的作品 だった。その物語の筋と云ふのは、こ、に一人のと呼ばれる戯曲家があって、彼が關係してゐるところ の、某劇場の女優の子と想思の仲になってゐる。が、一方には r-æ子と云ふ妻があり、その間に出來た まだ頑是ない女の兒がある。子は夫が、家庭を捨て & その戀人と同棲するやうになってしまっても、夫 に對して犧牲的な愛を捧げ、ぢっと大人しくその虐待に堪へてゐる貞淑な婦人だった。は夫と云ふより も暴君であり、子は妻と云ふよりも奴隷であった。それゆゑ << は子が居ても子との戀を樂しむのに 何んの差支へもない譯だったが、 ちょっと考へるとさう思はれるが、事實は矢張り子の存在が邪 魔であった。第一には子の「貞淑」が気に喰はなかった。なぜなら彼女があまり善良過ぎることは、 それだけ彼に精神的の苦痛を及ぼし、良心の苛責を與へる。いくら子を愛さうとしても、 r-k 子を見ると 氣が弱くなり、妙に哀れつほくなったりして、完全な戀が妨げられる。彼は享樂主義者であるから、その 色慾に徹底的に溺れなければ滿足出來ない。で、當然の結果として、彼はどうしても子と云ふものを、 あと 自分の眼の前から、いや、自分の心の中から、痕かたもなく追ひ出してしまはねばならないと思ふ。 354
て來て、身の縮むやうな莱怯れを抱かせる。自分は遂にそれに對抗する力もなく、次第に滅ぼされて行く そして彼女は、もう此の頃ではその繪を見るのが恐ろしいので、その後度々試寫の のぢゃないか ? 機會があったにも拘らず、成るべくそれを外すやうにしてゐたのである。 「柴山は、自分の意見を用ゐてくれなけりや別々の道を歩むより外仕方がないと云ってゐる。しかしそれ いくら傑れた作品だ には經濟上の理由もあるのだ。あの繪が賣れないと次の作品に取か、る資金がない って、賣れないやうな物を作っちゃ何にもならないと云ってゐるんだ。若し此の場合金の融通が附きさへ すれば、柴山だって考へ直すかも知れないし、斯うなった以上己は意地にも績けて行きたいと思ふんだけ れど、 「でも、仕事をつづけて行くのにはもうどのくらゐ用るんでせう ? 」 今度はもう少し寫實的なものを作って見る。己はあの繪を失敗だ 「二三千圓もあったらいいのだ。 とは思ってゐないが、最初にああ云ふ夢幻的な物を擇んだのは政策として拙かったのだ。世間の奴等は室 想的な話の筋だと、善いものやら惡いものやらまるで見當が付かなくなる。それに反して實際の生活から 材料を取れば一番彼等に早分りがするのだ。だから今度は、道德問題とか社會問題とか云ふやうなものを 取り入れて、成るべく安い經費で以て五六卷の繪を作らうと思ふ。」 だが、それにしても果して夫の云ふやうに二三千圓で濟むだらうか ? 夫の説明だと、今度の映畫は前と 違って相當に經驗を積んでゐるから、一と月もあったら全部を撮り終へる事が出來よう。つまりその金は その一と月間を維持する爲めに、直接人用な現金の額であって、後に伸ばせる支拂ひはそこに含まれてゐ 156