相澤 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第9巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第9巻

かも知れない。何しろ相手が日本人でないんだから始末に困るよ。」 「でも手ぬかりは兩方にあるんですから、二百圓ぐらゐで我慢しては貰へないでせうか。 此方も今 のところではほんの小ひさな資本なんだし、苦しい場合なんだから、それを察して私たちを救ってくれる と云ふ気持ちで。 「それが向うも困ってゐると云ふんだよ。 此れは當人の話ちゃない、相澤から聞いたことなんだけ れど、あの女の家は昔は可なりにしてたんだが、今ぢや遺産もなくなしちまって、暮らしの方が苦しいん ださうだ。だから三百圓くれって云ふのもきっと母親の指し金でせうッて、相澤は云ふんだがね。グラン ドレンを百圓や二百圓で使はれては困ります、あれは大事な娘ですッて、そんな事を云ひかねないお婆さ んで、貧乏しても未だに娘に立派ななりをさせて置きたいんださうだから。」 「では三百圓で承知なすったの ? 」 「うん。」 と云って、吉之助はますます困惑の色を浮かべた。 「三百圓くれなければママが出てはいけないと云ってゐる、と、當人もさう云ふんだ。而も毎月前拂ひに マスト・ イン・アドヴンス , ペイ・ミ 1 ・ してくれろ、 と、突然さっき僕のところへやっ て來てそんなことを云ひ出したんだよ。グランドレンの意志ではないッて、相澤は云ってゐるけれど、あ の女だってどうせ一通りの娘ぢゃないことは分ってるんだ。事に依ったら彼奴と相澤と母親とが、三人ぐ るになってゐるのかも知れない。寫眞を寫しかけて置いて中途で居直りされたんちゃ、此方も強ひて否と

2. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 「さうかも知れない、きっと海から上って來たのよ、湯殿で着物を着換へてるんだわ。」 さう云へば吉之助は、さっき浴室の上にチェックの脊廣が脱いであったのを、チラと見て置いたのである。 「だらうと僕は思ってたんだ。」 「思ってたから、 それが一體どうしたツて云ふの ? たア公だって可哀さうだよ。」 彼女はいつも相澤のことをさう呼んでゐた。 「ねえ、たア公をもう一遍入れてやらない ? きっと悪い事はさせないから。 「僕はどうでもいいんだけれど、柴山が承知しないんだよ。」 「だってあなたが撮影所の所長ぢゃないか、柴山なんかが何と云ったって。 よ ! 燒餅やき ! 」 「困ったもんだね、さう相澤がお気に入りちゃあ、 吉之助は顏をしかめた。柴山の意見で放逐してしまったやうなものの、その後も始終相澤はづうづうしく 遊びにやって來て、スタディオの中へ紛れ込んだり、グランドレンの化粧を手傳ってやったりしてゐた。 そして吉之助の顏を見ると、びよこびよこお辭儀をして賴みもしないのに小使ひのやうに用足しをした。 「燒餅をやく譯ぢゃないが、あの男を入れると撮影所の空気が不眞面目になるからいかんと云ふのだ。」 ねえ、ちょっと此の上へ 「だって同じ事ぢゃないか、あなただってこんな眞似をしてるんだもの、 かけておくれよ、話しがあるから よう、入れておやり 169

3. 谷崎潤一郎全集 第9巻

程なく相澤が戻って來て報告したにも拘らず、支度はなかなか手間取るやうだった。一人の男は吉之助の 侖・亠 9 るままに、。、 ノラソルをひろげてグランドレンにさしかけて居た。もう一人の男は少女の持って居た團 扇を取って、後ろから扇いでやって居た。 「相澤さん。」 と、彼女が云った。 「どうぞ私にハンカチ 1 フ貸して下さい、汗が出て仕樣がない。 それから私の化粧箱を持って來 相澤は直ぐ飛んで行って化粧箱を持って來た、そして彼女が顏を直してゐる間、彼女の前に身を屈めなが ら兩手で小さな手鏡を捧げてゐた。 「來たぜ、來たぜ。」 と、その時群集の中の子供等が叫んオ 「まあ、お孃さん何と云ふ可愛らしい ! 」 と、近所の上さんらしいのが云った。 あくわん 路を開いた人だかりの間から、もう一人の了鬟になった秋子は母に連れられて來た。彼女は母の手をしつ かり握って、物に怯えたやうな瞳を、一直線に、三人の男に侍かれた王女の方へ注いでゐた。彼女がやが てその王女を扇がねばならない團扇は、母が代りに持ってやりながら。 「やあよく似合ふね、巧くやったらお父様が褒美をやるよ。」 ミ ) 0 かしづ 184

4. 谷崎潤一郎全集 第9巻

上眼でヂッと、下唇を突き出して、狙ひを附けるやうなエ合に此方を見てゐる。そのロもとには、痙攣的 な微笑がふるヘてゐるやうであった。 「貴様、何してたんだ ? 」 返辭はしないで、ちらりと相澤は眼つきで羞むやうに笑って、項を垂れた。 「ふん、貴様のした事は云はんでも分ってる ! 此の間から己は貴樣に眼をつけてたんだ、今夜始めてち ゃないだらうな。」 「ええ。」 「何處から貴樣此の部屋へ這入った ? 」 「表のドーアから這入ったんです、合鍵を拵へて持ってるんです。」 もう隱したって仕方がない、 と、度胸をきめて糞落ち着きに落ち着いたやうに、持ち前の長の音の強い、 。 ~ らべらした卷き舌で云って、額へ落ちて來る髪の毛を首で振上げるやうにしながら、再びちらりと此方 を向いてニャニヤした。 「よし ! 貴様のその手を出して見せろ ! 」 柴山は片手に電燈を持ち、片手をいきなり相澤のポッケットに入れたが、さうされながら相澤は依然とし て兩手を突っ込んだきりだった。柴山の手はポッケットの中で、何かを柔かに掴んでゐる握り拳に觸った と思ふと、直ぐその拳は自然に物がほぐれるやうに大人しく開かれて、ぐちゃぐちゃに脂ぎった掌の中か ら、フィルムの東の小さいのを二つ三つ吐き出した。兩方のポッケットからそれが六つばかりごろごろと 136

5. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 「ミセス・オノダに氣兼してゐるんだらう ? 駄目よあなたは、何でも曖味なんだから。」 「寫眞が濟んでしまはないぢや、行く暇なんかないぢゃないか。」 もえ、ある、 夜行けばい、、、私夜だけ泳ぎます、そして一晩泊ります、そしてネキスト・モー ニング早く歸ります、六時か七時に。」 「今夜は駄目かね ? 」 「今夜 ? 今夜鎌倉 ? 」 「鎌倉ちゃない、お前の家だよ、」 「ええ、 マザ 1 も輕井澤へ行ってしまってアマが一人居るツきりなの。 ちっとも構はない。 だけど、あなた其處に待っててくれる ? 私もう一遍泳いで來る。」 男の返辭を待っ迄もなく、彼女は棧橋を駈け戻って、梯子を一段降りた所でびんと双手を室に翳した。 「ほ、つツ。」 と、一と聲、水面の闇に向って怪鳥の夜啼きのやうな黄色い無気味な叫びを擧げたが、その毬のやうな豊 かな臀が橋から二三尺の高さに跳び上って、はっと思ふ間に彼女の體は、一直線に黒い海の中を行く青白 の方へ近寄って行く。 い燐の光になってゐた。直線は非常に早い速力ですいすい伸びて、ポ 1 ト : ああ、 「何してたんだ ? ・ さう云ってゐるのは相澤だった。女はやっと舷に辿り着いて、上と下とで何かコソコソ話し合ってゐるら しい。同時に外の連中も一齊に默ってしまったので、びちやりびちやり船底を舐める波のうねりと、その 163

6. 谷崎潤一郎全集 第9巻

使へば、それで面白い映畫が出來ると思ってゐる。 さう云ふ不滿を柴山は疾うから抱かせられてゐ こ 0 「今夜の事はいい機會だ、相澤を處罰すると同時に、多少吉之助と衝突しても、亂れた撮影所内の空氣を 思ひ切って改革してやらう。」 咄嗟の間にさう柴山が決心したのを、顏色でそれと察したのか相澤は一脣狼狽して、オロオロ聲で附け加 「先生、お願ひです、後生ですから僕を解雇しないで下さい もう此れッきり惡い事はいたしません、 ・ : 先生、ねえ先生 ! 僕はきっと眞面目にやります ! きっと誓ひます ! 「馬鹿 ! 歸れと云ったらなぜ歸らんのだ ! 」 「い、え歸りません ! 許すと云って下さらなけりや歸りません ! 」 突然ばたりと相澤は床に据わって、だだッ兒のやうにおいおい泣き出したかと思ふと、洋服の袖で頻に眼 の綠をこすりながら、猶もしつくどく云ふのだった。 ・ : 折角眞 : 僕あ解雇されちまやあ、もうどっこへも行くところなんかないんです。 面目になりかけたのに又墮落してしまふんです。 ・ : 僕あ此れから一生懸命に映畫をやりたい、 : ねえ、先生、どうか一人の人間を助けると思って勘忍して下さい そして立派な俳優になりたい : : ねえ、勘忍してくれたってい、ぢゃありませんか。 びしッと、柴山の手がとうイ \ 彼の頬ツ。へたへ行った。ムラムラと癇癪が破裂したからでもあるが、擲り 、一 0 148

7. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 「は。」 と云って、急に「気をつけ」の姿勢のやうにびんと體を眞っ直ぐにした相澤は、もうロ元まで燃え切って ゐる吸殻を床に放って、足で二三度ごしごし擦った。同時にばっと柴山が頭の上のスヰッチを捻ったので、 部屋は俄かに明るくなったが、さすがに相澤の顏色は幾らか靑ざめてゐるやうだった。戸外の雨はまだ盛 んに降ってゐて、とたん葺きの屋根の上へ霰の如くバラバラ落ちる水音が、ややともすると話聲を掻き消 すやうに騒々しい。柴山は突っ立ってゐる相手の前へ椅子を引き寄せて、「いろいろ取り調べてやらなき ゃならない」と云ふやうな風に、それへどっかり腰を卸して膝を組んオ 「ぢや、貴様が今迄に盜んだフィルムはどうしたんだ ? 」 友達の西洋人で ( ンド・キャメラのマシンを持ってる男がある 「あれは或る所へ賣ってゐました、 んです。其奴の處 ~ 持って行くと、ポジティヴの方は一尺五錢、ネガティヴの方は一尺七錢で買ってくれ るんです。」 「ふむ、 : その友達と云ふのは誰だ ? 」 : ああさうさう、ほら、いっか假裝會の晩に女のなりをしてゐた 「御存知だかどうか知りませんが、 男があったでせう、僕がジム、ジムツて呼んだ : たった今怒られた許りだのに、ふいと相澤は地金の馴れ馴れしい態度を出して、何か面白い話でもするや 、つに眼を丸くした。 「あれです、あの男です。あれはジェームス・ガスピ 1 と云って、・ O 商會のクラークなんです。」 、よ ) 0 139

8. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉塊 さう云って相澤は、子供のやうに頬を報くしてばちばち眼瞬きしてゐる吉之助の顏を不思議さうに見上げ 「 : : ・ : : 實は此の間から男の志願者は澤山來る、中には有望だと思はれる者もないことはないんだが、女 優のいいのが得られないので困ってゐるのだ。全體横濱といふところにはいろいろ變ったタイプの女がゐ るに違ひないんだが、さういふ連中がさつばりやって來てくれないんだ。往來を歩くと、『あ、、あ、、 ふのが欲しいもんだな』と、さう思ふのが眼につくけれど、耻かしながら僕等にはさういふ人を勸誘する 手づるがない。君の知ってゐる女のなかに心あたりはないだらうかね ? 」 「さうですね、 : ああさうさう、あの女なら來やしないかな。」 相澤はひとりで頷いて、知ってゐる女を一入一人頭の中で數へるやうな眼つきをした。と、急にその眼を ヂロッと吉之助の方へ向けて、 ・ : 活動寫 「聞いて見なければ分りませんが、多分來るだらうと思はれるのが二三人はゐるんですよ、 眞がすきなんだし、女優になって見たいなんてさういってたこともあるんですから、僕が話したらきっと 來るかも知れません。けれど一體どう云ふタイプがいいんでせうか ? 」 、混血兒の 「どんなタイプと云ふことはない、、 ろいろなタイプがほしいんだよ。純日本式の女でもい ゃうなのでもいい、寫眞にして見て人を惹きつけるやうな顏なら孰れでもいいんオ 「ああ、あります。」と、相澤は聲に應じて伸び上るやうな恰好をした。「混血兒ならばグランドレンはど うか知らん あの本牧の海岸の赤い家に住んでゐるグランドレンと云ふ娘を御存知でせうか ? ちょ こ 0 あひのこ

9. 谷崎潤一郎全集 第9巻

肉 出て來た。 「もう此れッきりか ? 」 「それッきりです。」 「だけれど貴様、何だって此處へプリンティング・マシンを持ち出したんだ ? 」 「機械の使ひ方を調べて見たいと思ったんです。」 「何の爲めに ? 」 ちょっとの間、相澤は默って體中を捜るやうにもぐもぐやってゐた。と、上衣の隱しからキラリと光った 物を出したが、それは銀のシガレット・ケースで、煙草を悠々と一本引き拔いて、マッチを擦ってそれに 火をつけて、一方の手をぐっとヅポンのポッケットにさし入れ、先づ一と休みと云った風に股を開いて片 足を前へ突き出しながら、 「使ひ方を覺えてコッビ 1 を取らうと思ったんです。實は賴まれたもんですから、 「賴まれた ? 」 「ええ、」 「隹に ? 」 「グランドレンに。 すうッと一と息煙を深く吸ったので、煙草の火がぼつりと明るく伏し目になった相澤の顏を照らした。 「グランドレンに ? ・ : 貴様、好い加減な事を云ふのちゃないか。」 137

10. 谷崎潤一郎全集 第9巻

と云って娘は振り返った、そして西洋人くさい發音の日本語で、 「何の話 ? 」 と云ひ直しながら、十七八の少女にしてはひどく落ち着いた、寧ろ冷酷にさへ思へる眠っきを吉之助の方 へ注いだ。 「何の話ッて、さっきも僕が話したちゃないか。活動の女優にならないかって云ふんだけれど、 「ええ、私ほんたうに女優になりたい、ママが許しさへするならば。」 「許すも許さないもありやしないよ、お前がならうッて云ふ気があるなら、ミセス・マイヤアは何も云ふ 筈がないんだから、 もえ、そんな事はありません、ママと相談しなければなりません。」 娘は手を擧げて、馴れ馴れしく話しかける相澤を制するやうな、しかし飽く迄その落ち着きを失はない物 靜かな口調で云った。 「あの、その話、あとでゆっくり聞かして下さい、わたし今彼方へ行かねばなりませんから、 きっとだぜ ! 」 「それちやほんたうに考へといてくれ給へ、 「ええ、よろしい、分りました。」 「ちょツ、、 もやに濟ましてゐゃあがる ! 」 さう云って相澤は、すうッと斜めに身をひねって花瓶の方へ戻って行く娘の後つきを見送りながら、 「さっきはあんなにしゃべってゐたのに、あなた方が居るもんだから急に気取り出したんです。あれがグ