ゃあ物足りないと思ってるんだ。」 「物足りない ? どう云ふ意味で ? 」 「どうせ彼處まで書く位ならいっそもっと突っ込んで、僕と云ふものを赤裸々に書いて貰ひたかったね。 僕は始めから自分で惡入だと云ってるんだから、決して遠慮する事はないんだ。惡人なら惡入で、その惡 人の心理に立ち人って充分に書いてくれさへすりゃあ、僕は死んでも滿足する。僕ばかりちゃない、多く うそ の惡入はきっと喜んで瞑目する。そこまで行かなけりや謔だと思ふよ。」 添田は最初、例の負け惜しみを云って居るやうな口調だったが、或る一瞬間、痙攣的にビリビリ口元を顫 かほいろ はせて、やや蒼白な顏色になった。「やつばり幾らか眞劍になってゐるんだな」と穗積は思った。 「そりや偉大なる作家なら多分そこまで行けるだらう。けれど僕には目下のところそんな野心は毛頭ない んだよ。いづれ一生の間にはさう云ふ物を書かうと云ふ気もないことはないが、ただぐうたらに生きてゐ る今の態ちゃあどうせロクな物なんか出來やしないさ。君は頻りに自分のことを悪入惡人と云ってるけれ ど、第一僕にはほんたうに君の方が惡人なのか、一體善だの惡だのってそんなものが世の中にあるのかな いのか、何が何だか考へ出すとさつばり分らなくなって來るんだ。」 か乂あ 「要するに僕の嬶に惚れてゐると云ふことだけが事實なんだね。」 「うん、まあさうさ、 それより外に事實はないから、成るべく君にあたり障りがないやうに、自分 自身に關したことだけを事實の中から選り拔いて書くやうにしてゐるのさ。僕は今でも君を恨んでゐる、 前より一層恨んでゐる、 ふる 288
好し、出來るだけそれに親しみ近づく事によって、纔かに藝術家の持っ喜びの幾分を知る。それでさうい さすらひ ふ人たちは、多くは讀書好きになるとか、金があれば書畫骨董を集めるとか、旅行とか漂浪とかさう云ふ 手段で自然の詩の中に憂ひを遣るとか、ややもするとそれらの方面へ走りたがる。吉之助がちゃうどそれ だった。 あきんど 商人の子は商人になるのが當り前だ、ましてお前は小野田の家の一人息子 / 吉之助はしばしば父 親にさう云はれた。そして一時は自分でもさう云ふあきらめを抱きながら、學生時代の多くの時を讀書と 旅行とに費したものだった。彼の考へでは、いづれ自分は父の跡を受けついで西洋家具屋の主人になる。 が、幸ひなことにその商賣はそれほど主人が忙しいものでもないから、暇に任せて一種の藝術鑑賞家にな 彼が中學を卒業した時に、大學の文科へ這 る事は出來る。自分はそれで滿足するより仕方がない。 人りたいといったのも結局はさう云ふ腹だった。文學をやって置けば、商賣をする傍でも何かを樂しむこ とが出來る。せめて教養の上にでも、詩や藝術を味はふだけの資格を作って置きたいと、嘗時の彼はたゞ さう思っただけなのであったが、それさへ父親に反對された。「本來ならば中學だけで十分だけれど、も っと學問をしたいと云ふなら高等商業へ入學しろ」と、父は云った。吉之助はたとへ高等商業でも、店の あきなひ 小僧の中に交って商の見習ひをするよりはまだよかったので、そこの學校生活を選んオ 何處かしら、日本の土地でないところ、 夏の休みには彼は必ず遠くの方へ旅に出かけた。遠くの方、 要するに彼は何と云ふあてもなく知らない國へ行って見たかっ 朝鮮、滿洲、支那、西伯利、 た。幼い頃から憧れてゐたお伽噺の世界を求めて歩くのだった。北京の城壁の外に立って、沙漠を越えて
「さうだとも、君の奥さんはグッド・ワイフだよ。 僕のやうな獨り者はどうでも、 には早く歸って奥さんを慰めてやり給へ。餘計なお世話のやうだけれど。」 「有り難う、ちゃ、お説に從って一と足先に失敬するかね。」 「どうか御遠慮なく。」 さう云って柴山はからからと笑ったが、それが吉之助には妙に心を壓せられるやうで、不愉快に響い 自分は勿論妻を愛してゐる、だのに柴山は「もっと妻君を大事にしてやれ、いたはってやれ」と云ってゐ るやうに彼には思へた。柴山の親切はよく分ってゐる、だが、自分は嘗て民子を疎略にしたことはない。 仕事の上では彼女を激しく追ひ使ふから、他人の眼には或は無慈悲に見えることもあらうけれど、それも 此れも自分と妻との間には完全な了解があるのだ。妻は決して自分に對して不平や嫉妬を抱いてはゐない。 自分がどんなに仕事に夢中になって居ようとも、心の底では妻を賴りにしてゐる事實は、誰よりもよく彼 女自身が知ってゐるのだ。彼女はそれで意を安んじ、充分に慰められてゐるのぢゃないか。 ・・に、も拘 らず、吉之助は今更柴山にさう云はれると、民子と云ふものが矢っ張り哀れに感ぜられて來るのだった。 成程彼女は夫を恨んではゐないだらう、だからと云ってその境遇が必ずしも幸輻であるとは云へない。不 幸にゐて自分の不幸を知らず、却てそれに滿足してゐる入間なら、一脣不仕合せであるかも知れない。 その言葉は、何と云ふ理窟なしに吉之助の胸に強くこたへて、 一瞬間、彼をうら悲しい淋しい気分に誘って行った。 「お休み。」 「たまには奧さんを慰めてやり給へ」 ℃が、君はたま 110
肉 「帳面を見せませうか。」 「いや見ないでもいい、大几の事を聞かしてくれれば。」 「今のところぢやまだそんなでもないけれど、此の勢ひだと大分超過するらしいのね。」 「實はグランドレンの給金のことなんだが、今日當人から話があってね、 と、夫は頭を掻きながら云ひ難さうに切り出した。 「いくら欲しいって云ふんですの ? 」 「それが少うし高過ぎるんだよ、三百圓くれろと云ふんだ。」 「さうね、そりゃあの人は外の人とは違ふんだから、 が、民子はちょっと意外な気がして、不快な感じを色に出さずにはゐられなかった。それでは最初の話と は大變違ふ。自分の家は別段生活に追はれてはゐないし、何も女優を職業にするのでないから、給料の點 。と、グランドレンの最初の條件はそんな事だった。就いてはどうせ十分な報 は相嘗と思ふところでい 酬は出せないのだし、僅かばかりの金をやるのも却て何だから、或は品物でお禮をしようかと、此の間も 夫と二人でその相談をしたくらゐである。 「今になってそんな事を云ひ出すなんて、思ひ掛ない話なんでね。」 と、吉之助は氣まづい様子で、云ひ譯するやうな口調で云った。 「こんな事なら、始めにハッキリきめて置いたらよかったんだが、有耶無耶にしといたのが手ぬかりだっ 三百圓と云ふ金は此方に云はせると高過ぎるけれど、西洋流に考へたらそこらが相當だと思ふ こ 0
くれ、ばい、のであって、それだけの義務は彼女も感じてゐなければならぬ筈だった。それとも彼女は、 その義務をさへ忘れてしまったのだらうか ? 知ってはゐるがわざと觸れないやうにして、有耶無耶の裡 2 に葬ってしまふつもりだらうか ? 「しかし自分は決して有耶無耶には葬むられない」と、穗積は固く極 めてゐた。自分は何年でも返辭のある迄待ってゐる。彼女が忘れてしまっても自分は一生忘れずにゐる。 そしていっかは、返辭を聞かずには措かな、。 その頃添田が女優の幹子にのばせ上ってゐることは、文壇にも世間一般にも知れ渡ってゐる事實だった。 そればかりでなく、始終添田が發表する創作と云ふ創作は、いろいろ形を變へてはあるが、きっと自分と 彼女との情事から來た着想でないものはなかった。幹子はいつも才気の溢れた妖婦として描き出だされ、 彼女の魅力に征服されてゐる男、その男から虐待され、荷厄介にされながらも甲斐性もなく夫にへばり着 いてゐる愚鈍な妻、 それらを添田はさまざまに組み合はせて、而も時々は事實の通りに赤裸々に書 くのだった。そこに出て來る朝子の描寫が、穗積に取って堪へ難い海辱であったのは云ふ迄もないが、彼 の憤懣を一層激しく募らせたのは、さう云ふ罪深い作物に對する「大向う」の喝采だった。彼は自分の戀 人が公衆の前で一人の男から思ふ存分の嘲りを受け、なほその上に打たれ、叩かれ、足蹴にされるのを見 たのである。そして公衆は手を拍ってその男の殘酷な藝を見物してゐる。その男はい、気になって、何の 長い間全く文筆の嗜み 自ら悔いるところも耻づる色もなく、ますます惡業を盛んにする。穗積カ を忘れてゐた彼ではあるが、 ーいっからともなく再びほっぽっと詩や、小説や、飜譯などを試みるや うになったのは、それより外に孤獨の己れを慰める術がなかったからでもあるけれど、一つには又、添田 あくげふ かひしゃう あしげ やむや
云ふまでもなく藝術の上での美しさと、實生活での美しさとは違ってゐる。自分は夫を混同するほど無理 解ではない。此世の中で美しいものが、常に必ず藝術的に美しいとは云へないであらう。だが少くともグ ランドレンの場合には映畫の中の人魚が現す美しさは、彼女が日常の實生活の延長であると自分は見てゐ る。よしや物語の世界が全く寫實をかけ離れた夢幻的なものであらうとも、それは現世に生きてゐるグラ ンドレンの生れながらの美しさを、出來るだけ充分に、出來るだけ明瞭に、そして出來るだけ順序よく翫 賞するに都合がいいやうに、 一つの便利なシチュエ 1 ションを作ったに過ぎない。その映畫は一定の時間 内に短縮され、適當に壓搾された彼女の生命そのものであるとも云へる。たとへば人は泥土の中から貴い 石を掘出したとき、その貴さを增す爲めに研きをかけ、細工を施し、それにふさはしい贅澤な筐の中に收 める。グランドレンはその石と同じだ。自分は彼女を此の世の中から掘り出したのだ。宮殿や、水族館や、 噴泉や、鱗の衣裳や、 それらのものは彼女と云ふ石を藏って置くびろうどの筐だ。その筐を作り、 さてその裡にその石を收め、かがやかしい光を飽かずに打ち眺める。それが今度の映畫なのだ。クロ ズ・アップが多過ぎるのは自分に云はせれば當然のことだ。自分はそこに、大きく映された彼女の顏の表 情の中に、酌めども盡きない無限の變化があるのを感じ、滾々として湧き出づる微妙な音樂を聞くことが 出來る。それで藝術の目的は達せられてゐるのぢゃないか。共の外に何を求めることがあらう。 「それとも又、さう云ふ風に考へるのは自分の心の迷ひだらうか ? 柴山が遠廻しに諷したやうに、グラ ンドレンの愛に溺れた結果だらうか ? 」 が、若しその映畫が彼女の生活の延長だとすれば、グラン ドレンに溺れる心は劇中の人魚を愛づる心と變りはない。實際吉之助に取っては、グランドレンを人魚の それ 132
夫をただの商人だとは思ひたくない気持ちがあった。夫に室想があるといふなら、自分も共にその室想を 樂しまうではないか。美術の鑑賞がしたいと云ふなら、自分もその道へ這人らうではないか。そして一緖 に夫の世界を歩んで行くことは出來ないものか。どうせ女の理解力では男のやうには行かないとしても、 しかし自分には深い愛がある。愛のカで、夫の跡に從って高い所へ登って行けないものでもない。 さう云 ふ風に努めてこそ、ほんたうに忠實な妻だと云へる。若しも夫が心の中に祕めてゐる「幻の女」の姿を示 してその前に跪いたら、自分も恐らく地に額いて、夫と共にその足を押し戴き、その爪先へ接吻すること を辭さないであらう。 彼女の同情はそこまで行ってゐたのだった。 「あたしはあなたをそんな風にさせてしまひたくはないんです。あなたはどうか昔のやうでゐて下さい そして私にもいろいろの事を教へて下さい。生意莱なことをいふやうだけれど、敎へて下さればきっと少 しは分るでせうから。 ・ : 私だって、あなたがそんなに慕っていらっしやる文學や藝術が知りたいんで す。永久に朽ちない、立派なものの値打ちが分るやうになりたいんです。」 「永久に朽ちないものの値打ち、 それは己よりお前の方がよく知ってゐる。己はお前の心の中にそ れがあることを敎はったのだ。」 吉之助はさういって、妻のすずしい瞳をちっと視つめた。 「己が出し拔けに斯う云ってもお前は多分不思議に思ふばかりだらう。お前自身は気がっかずにゐるだら 己はお前の此の顏の中に、此の眼の中に、此處から流れ出た涙の中に、永久に朽ちない『女 性』の眞實と美しさを見たのだ。 : 民子、己はほんたうに馬鹿だったんだよ。穴一想の世界は何でも美
連れてゐた。が、別に惡びれた様子もなく、しゃべってゐるうちに傲然と相手を見下すやうな様子を見せ た。穗積は何だか、自分の方に却てひけめがあるやうな気がした。 朝子が今の道子を産んだのはその時分だった。或る日添田が龍岡町の宿へ迎ひに來て、氣の進まない穗積 を連れ出して自分の家へ引っ張って行ったとき、 まる一年の月日を置いて穗積は始めてその人を見 しぎゐ たのであるが、それは恰も數日の後にお産が迫ってゐる折だった。故意にか、偶然にか、添田は家の閾を 跨ぐまでその事を默ってゐて、格子を明けながら突然穗積に云ったのである。 めでた ↓はかふノ、 「ああさう、多分君は知ってた筈だが、もう一一三日でお目出度があるんだよ。 こんなにお腹が膨れ てるんだぜ。」 知ってゐた筈ではあるけれど、それがそんなに近づいてゐようとは豫期してゐなかったことなので、穗積 ははっと、不意討ちを喰ったやうに立ち止まった。そして今更、 うかうか誘はれて來てしまったのを悔ま ないでは居られなかった。來ようか止さうかと迷ってゐた自分を、かうしてわざわざ引っ張り出した添田 の腹がそのとき漸く讀めたのであった。 はかりこと の實際、惡の謀は見事に圖星を射たのである。 穗積はその後も絶えず添田を憎み、妬みはしたけ れども、あの恐ろしい姙娠姿の戀人を見せられたときほど、あれほど強くそれを感じたことはなかった。 どんな場合にも彼の憎みと妬みとは、添田に向って注がれこそすれ、戀しい人に對しては何の批難も放っ くや 275
禪と人との間 うか ? 「まあ出來るだけ二人を困らして見物してやれ、先はどうなるか分りやしない。」と云ったやうな、 燒け糞半分の興味が手傳って、どうと云ふ腹や目的があるのでもなく、行きあたりバッタリにその所謂 「惡魔主義」を實行してゐるのぢゃないか ? ・ 朝子が停車場まで送らうと云ったのを、強ひて斷って飯田町から長野行きの汽車に乘り込んだ穗積は、東 京での一週間の出來事を囘想し、添田と云ふ不思議な人物を今改めて發見したやうに、いろノ \ 臆測を廻 らして見たが、要するにいくら考へても彼には添田が分らないのだった。たゞ分ってゐることは、汽車が だん / \ 鄕里の方へ進むにつれて、自分の心が反對に東京の方へ惹き戻されて行くことだった。往きには 彼は、自分が幸疆にしてやった友人夫婦を見舞ふつもりで國を出て來た。が、歸りの彼は、再び新たなる 戀の重荷を背負はされて、而も次第にその戀人の住む所から遠ざかりつ、あるのである。何と云ふ運命の いたつらだらう ! と、彼は思った。つい此の間まで自分は既に朝子と云ふものをあきらめてゐた、それ よみがヘ が彼女を見た一刹那に昔の戀が甦って來たばかりでなく、今や彼女と別れた後では一倍強く胸に迫って來 るのである。自分は嘗てこんなにも切なく、やるせなく、ひし / \ と命を削り取られるやうな戀ひしさを 經驗したことがあるだらうか ? もとから朝子を愛してはゐたが、しかしこんなに激しい情熱を燃やした ことは絶えてなかった。若し此の思ひがもう一年早く來たなら、決して添田に義理立てはしなかったらう 穗積は殆んど夜汽車の中で一睡もせずその事ばかりを考へつゞけた。 戀ひしい朝子 ! さう思ふと同時に、憎むべき添田 ! と云ふ言葉が自然と彼の唇に浮かんだ。飜弄して いちづ 一途に「憎い ! 」と云ふ心持ちが先に立った。 ゐるのか、利用してゐるのか、その腹の中は分らないが、 あと 243
と、吉之助は私かにさう思ってゐた。新妻のやうな心持ちで、絶えず自分を深く深く愛してやまない妻が あること、 それが自分の萬難を排して今度の計畫をなし遂げようとする勇氣の源泉である事を彼は 感じた。 民子は最初、夫の口から「いよいよやる」と云ふ決意を聞かされたとき、夫がそれほど熱中して心を傾け てゐるものを、妻たる者が阻止することは道でないと、たゞ一途にさう思った。一旦かうと云ひ出したら 容易に後 ~ 退かうとしない剛情な夫が、今更他人の忠告などを用ゐる筈はないのであるから、事の成否は 兎に角として、倒れるまでも夫の跡に從って行かう。 彼女は單純に、生一本に、さう考へるより外 はなかった。夫が日夜あこがれてゐる活動冩眞といふものの事業の性質、 小野田スタディオの設立、 高級映畫の製作と販賣、 さう云ふ仕事が何を意味するか。殊にづぶの素人の手で誰の助力も後援も なくそれをやり出すといふ事が、商賣としていかに危險なものであるか、又どれだけの立派な値打ちがあ るものか。それは彼女には ( ッキリとは分らなかったが、有體に云ふと彼女はただ、そんなに迄も思ひ詰 めてゐる夫がいちらしくてならないのだった。 「己は商人などになりたくはなかったんだ。高等商業へ這人るときも、實は大學へ行きたかったのに親父 の反對でよんどころなく這人ったのだ。己は一生をしくじってしまった。」 と、舅が生きてゐる時分から口癖のやうに云ってゐた吉之助、 さうして始終何かしら夢を見てゐた 吉之助、 それが今度と云ふ今度は、やっと自分の思ひ通りの仕事を遂行しようとするのに、世間は 誰も相手にしない。吉之助としては多少資本を融通して貰ふ心あたりもあったのだけれど、何分事業が事 ひそ