「どんな証拠を考えているのかな」 かった。「証拠とな」と言い、 ないでしようか。もしフィアンナやフィオンが本当に〈地獄〉にい るとすれば、それには立派な理由があり、その理由は我々にはおよ「なあに、とても簡単なことですよ」とフィネガスは答え、「あな そわかりそうもない物た、と。 たとパトリックとが死ぬことになれば、おふたりの議論にはたちど ころに結着がっきます。〈地獄〉へ行くことになれば、フィオン・ さて、これで第一の質問にかかります。一同はいったい、本当に 〈地獄〉にいるのでしようか。こちらは、じきにおわかりになるとマク・クーメイルは、そこにいるかいないかのどちらかです。〈天 思いますが、さっきよりずっと複雑な疑問です。 国〉へ行くことになっても、そこにいるかいないかのどちらかで というのも、誰かがこれこれの場所にいるかどうかを問題にするす。片方にいなければ、もう一方にいることになり、これで疑問は より先に、そのような場所が実際にあるかどうかを問題にしなくて確実に解消するわけですよ」 そこでフィネガスは、借りたばかりの本を腋の下にかかえこみ、 はならないからです。私自身は〈地獄〉に行ったことがありません し、行ったという人に会ったことも、そういう人のも聞いたこと帰途につこうと立ち上がった。 「そいつは議論を解決す がありません。従って、そういう場所があるという直接的な証拠は 「言ってはなんだが。とオイシンは言い、 ないということになります。しかしながら、。ハトリック師の説く福る方法としては、ずいぶん思い切ったやり方のようだな」 いとまを告げながらフィネガスは言 音という証言を受け入れるならば、〈地獄〉は実在すると結論せざ「そうかもしれません , と、 るを得ません。ただし、そこに人がいるかどうかについては、何ら 「でも、恐れることはありません。いすれはそういうことにな 一 = 拠がありません。こうして見ますと、質問自体が、科学的論理でるのですから」そう言い残すと、丘を下って自分のすまいに帰って は証明しようのない推測の域を出ません」 行った。 「いや、ちょっと待ってくれ」とオイシンはロをはさみ、「もしそ んな場所があるんなら、フィオン・マク・クーメイルはそこにいる〈地獄〉の丘陵地では、フィオン・マク・クーメイルがオスカ・マ か、いないかだ。この疑問はどう解くね」 ク・オイシンとともに、苔むした小丘に腰をおろして、フィアンナ 「なあに、そういうことでしたら」とフィネガスは言い、 「もっとの何人かが、現代ではアイルランド・オオジカとして知られる大き 証拠が必要ですよ」とその時、邪魔がはいった。フィネガスに読まな黄鹿の革をはぎ、なめすのを眺めていた。 せるために助祭が本を持って来たのだ。 「なあ、オスカ」とフィオンはロを開き、「また狩りは成功だ」 「この本「まったくです」とオスカは同調し、「馬はみごとに走りました 「フィネガスに勧めておくがーと聖大司教は小声で言い オ・デュ を先に読んだほうがいいね。《神の街》オーガスチン司教の本だ」し、猟犬の働きもみごとでした。それにディアールミド・ 「では、そういたします」とフィネガスは答えた。 イヴナが槍を投げたら、狙いたがわす命中しましたからね」 ところがオイシン・マク・フィオンは容易に気を散らす男ではな「昨日はゴール・マク・モ】ナが猪をしとめたが、あれとそっくり
「どこまで行っても 伝わるところによれば、フィオン・マク・クーメイルが泣いたの 「まさにそう思えるのです」とオスカは言い は生涯に二度だけで、その二度目というのは、ガーヴラの闘いでカ同じで、およそ何も変わらないという、このおぞましい土地で永久 ーフリ・ マク・コーマクを倒したオスカが、死にかけているのを見に過ごすことになるんですよ」 フィオン・マク・クーメイルは眉根を寄せ、親指の端を噛んだ。 た時だというが、ある意味で、これも事実である。ただ、三度目に 泣いたことがあるわけで、それは、この寒く限りなく霧におおわれそれから、しばらくして、こう言った。「オスカよ、今お前が言っ た灰色の平原で、オスカと再び出会った時のことである。この時はたように、これまで何も変わらなかったというのが本当であれば、 喜びの涙であったけれども。 確かにお前の結論は正しかろう。この先、何をしても何の目あても なかろうよ。しかし、今お前が言ったことは本当ではない。お前が そこで二人は冷たい灰色の砂に腰をおろし、長い間語りあった。 語りあったことがらは、ほとんど個人的な問題ばかりで、我々のこ嘘をついたというのではなく、お前の考えが至らなかったというの だ。変わったこともある」 とではないから、ここではお話ししない。 オスカは、灰色で砂に覆われ、霧に包まれ、朧ろに明るく、変化 しかし、二人がこの灰色の地でめざめて以来のお互いの冒険をー ーというより実際は、冒険のなさをーーくらべてみると、話は同じのない景色を眺めわたした。「申しわけないが、フィオン・マク・ クーメイルよ」と、とうとうロを開き、「あなたの言うのが嘘とい であった。すでに私はフィオン・マク・クーメイルに起こったこと うのではなく、私には何の違いも見当たりませんー をお話ししてあるので、オスカ・マク・オイシンについて、まった 「我々が出会ったではないか」しかとした口調でフィオン・マク・ く同じ話をする必要はない。 ただし、ここでもう一つ知っておいていただきたいのは、フィオクーメイルが言う。 「すると、出 「なるほど」とオスカ・マク・オイシンがう・ヘない、 ン・マク・クーメイルとオスカ・マク・オイシンとの間に、ガヴ ラの闘いの前、長年にわたって冷たい関係が続いていたということ会ったことそのものが変化ですな」 「そこから、お 「さよう」とフィオン・マク・クーメイルは言い、 である。その理由は後ほどお話しする。そして、ここでこの二人の 不和がいつの間にか解消してしまい、二人は再び同志であり友人と前ならどう先を読むね」 なったのである。 「それなら」とオスカ、「明々白々ではありませんか。先へ進む と、また誰かに出会います。 「さて、それではフィオン・マク・クーメイルよー長い話しあいが すんで、オスカは言い、 「これからどうしますか。長い間、すわっ「俺も、まさにそう考えるのだよ」とフィオン・マク・クーメイル 「それでは、みこしを上けて出かけようか」 は一一 = ロい、 て話しこんでいましたから、しばらく歩くとしますか」 そこで、二人はその通りにした。 「お前の言い方では、何の目あてもないようではないか」とフィオ 二人は歩いてはすわりこんだ。飢えはそのままでそれ以上飢える ン・マク・クーメイルは一 = ロう。 3 8
そこで三人は、陽射しに暖まった大岩に腰かけ、語らい始めた。 「それでは、あなたは賢くて学問もあるようたから」とオイシンは 「もうキリスト者になったのかね、フィネガス」とオイシン・マク言い、 「ひとっ訊いてみたい。い やふたっといった方がいし力な。 二つの質問というのはこうだ。フィオン・マク・クーメイルとフィ ・フィオンが尋ねた。 「さてまあ、なったとも申せますし、ならないとも申せます」と老アンは本当に〈地獄〉にいると思うか、そして、もしそうなら、な フィネガスは答え、「それというのも、私は、イエス・マク・イ = ぜそんな所にいるのか。理由がわかるかな」 「まあ、そういうことでしたら」とフィネガスは答え、「まず二番 ホヴァと呼ばれる方の哲学はよいものと思うのです。つまり、あの 、トリック師の 方のおっしやるような人間の優しさとか善良さとか、それにこれも目の質問から答えさせてください。もしも本当に、 あの方のおっしやる大いなる神とか、それは信じているんです。たおっしやる神がみんなを〈地獄〉にやったとしますと、それには何 か理由があるはずです。ここで、あなたならおわかりのことと思い だ、また〈水流し〉をお受けしておりません。ですから、私はキリ スト者であるともないとも、言いきれません。こちらのパトリックますが、ハ 。トリックの神がみんなを〈地獄〉へやったという仮定を 師なら、キリスト者ではないとおっしやるでしよう」 受け入れるには、。、 / トリックの神が存在するという仮定も受け入れ 聖なるパトリックは徴笑んでゆっくり首を振り、一言も言わなか なくてはなりません。そうではありませんか、オイシン・マク・フ イオン」 った。その前に彼は、手近に働いていた助祭に合図して、フィネガ スの持って来た本を渡すと、助祭は、中央寺院の建設中だけ。ハト丿 「反対しようとしても、あなたの道理には反対できないな」とオイ ックが住んでいた瓶の中に本を返しに行った。フィネガスがよりキシンは言い、「続けてくれ」 リスト教の知識を深めるようにと、 、トリックが貸してやるように 「結構、それでは」とフィネガスは言い、 「そういう仮定を受け入 トリック 言いつけた本を持って、じきに戻って来るであろう。しかしパトり れるとすると、 ハトリックがその方について言う通り、 ックはオイシンにもフィネガスにも一言も口をきかなかった。オイの神は賢明で公平で道理がわかる神だと仮定しなくてはなりますま シンが自分以外の誰かと議論するのを聞いてみたかったからであ い。そして、そうだとすれば、フィアンナが〈地獄〉にあるのも理 る。 由なしとはしないし、むしろ立派な理由があるのに違いありませ すると、オイシンはこんなことを言っていた。「フィネガスよ、 ん。議論をすすめるために、ここまで受け人れていたたけますか」 フィオン・マク・クーメイルとフィアンナは知っておられるたろう「喜んで」とオイシンは言い、 「先へ進めてくれ」 な。それに、ずっと昔の彼らの行ないもな」 「よろしゅうございます。ところが、パ トリックの ~ 説くところによ 「知っておりますとも、オイシン・マク・フィオン。知っておりまると、神とは謎めいていて、その振舞いというのは、いかに公平で すとも」老人は小声でくすくすと笑い、「実によく知っております道理にかなっていても我々には理解できないものだということにな っています。とすれば、こういうふうに結論せざるを得ないのでは 8
得だろう」 タイプの男がよく会社にも出入りするのである。 そして指定された契茶店で待っていたところ、この男が現われた「さてと」 のである。 食べ終り飲み終えると、彼は声を落として俺に顔を近づけた。 「嫌な奴だ」 「いつもお世話になっている部長さんからの御依頼ですから、私も 俺はもう一度思い、運ばれてきたカッサンドを食べながら喋る彼真剣に御協力をさせていたたきたいわけですが」 を、じっと見つめていた。 語尾のがを強く押しつけるように言い、ますます声を小さくし こ 0 「いや、また選挙が近づいてきましたんでねえ、このところ大忙し でしてね」 「正直言って、私も忙しい身体ですから、やはり何かとこの」 スーツは、俺の物よりはるかに上等を着ている。ネクタイも、チ 「お支払いについては、僕は何も聞かされてはいません」 ラッと見えた腕時計も多分外国製だろう。かなり収入があるらし俺は、彼の言いたいことを察知し、切口上でこたえた。 「とにかく、会ってみろと言われただけなのです」 「前回の総選挙で、私が軸になってイメージングした候補者が上位「なるほど」 当選しましてね。それが評判になって、今回はぜひともという方が鼻白んだように顔をひぎ、うなずいてから俺を見つめた。総務部 大勢で、こちらもお断わりするのに難儀をしているような始末で。長とのつながりという金ヅルを守り、かっ俺に協力しても損にはな はつはつはつ」 らない方法を考えているらしい。長いことそうしてから、口元に笑 食べた物を口に入れたまま笑っている。コーラをストローで乱暴いを浮かべた。 にかきまわし、テー・フルに置いたまま顔を近づけて飲んでいる。そ「いや、わかりました。それではこうしましよう。とりあえず私の の姿勢のまま、上眼遣いに俺を見た。 事務所へ来ていただき、出演するかどうかを決めていただくための 「五人のイメージングをひき受けてるんです。五人のね」 判断材料を提供しましよう」 団子鼻で、その表面がぶつぶっしている。 また、ぐいと顔を近づけてきた。 「勿論、保守革新誰彼なしというわけじゃない。ちゃんと節操は守「いままで御協力してさしあげた方のデータが揃っているわけで っていますよ」 す。普通なら、閲覧だけでも何がしかを頂いているのですが」 そう言ってカッサンドをかじり、大口あけて笑うのである。 もみ手でもしそうな顔でささやいた。 そんなことわかるものかーー俺は思い、手段を選ばす金を儲ける「部長さんの顔を立てて、無料にします」 ことに必死の、そのくせ小金程度しかっかめない、人品卑しい成り「そうですか、それはどうも」 あがり者だろうと、彼を判断した。株主総会が近づけば、こういう儀礼的にこたえ、俺はレシートをつまんで立ちあがった。 幻 8
「私は〈使者〉だ」 すると〈使者〉の声がして、「聖なるパトリックよ、フィアンナ にもわかるように、起こったことを何もかも話してあげてはどうか 「〈使者〉ですか。どなたからのか伺えますか」 「ルーキフェルが〈敵〉と呼んだ方からの〈使者〉だよ。長くかかね」 ったな、フィオン・マク・クーメイルよ。でも、君とフィアンは闘 さて、何があったかは、もうお話ししてあるので、この後の長い いに勝ったんだ。君に会いたくて仕方がないという友人たちを連れ語らいをこまごま語ろうとは思わない。ただ、語らうに従って、皆 て来たよ」〈使者〉が片手を動かすと、素早く薄れて行く霧の中かが友情の暖かみを味わったとたけお話ししておこう。 ら三つの人影が現れた。三人の雄々しい若者である。 とうとうフィオン・マク・クーメイルが質問した。「パ フィアンナもフィオン・マク・クーメイルも、最初の若者はたち師よ、ひとつだけわからないことがあります。もし〈地獄〉が〈懲 どころに見分け、声を揃えて叫んだ。「オイシン・マク・フィオン」らしめが永久に続く所〉なら、どうして俺たちフィアンは逃げ出せ オイシンは進み出て父を抱き締め、接吻した。フィオン・マク・ たのですかな」 マク・モーナか クーメイルは、ほとんどロもきけず、「わが子よ、また会えて嬉し 聖なるパトリックは微笑んで、「テュアナハ いそ」とようやく言い、「お前の子のオスカに会ってくれ、俺たちら、扉の上に彫りこまれた言葉を教わっただろう」 「それは確かに。『望みを捨てよ、ここに入る皆人よ』と」 はお前がいなくて長いこと淋しい思いをしたんた」 「ほう、それでも、君は望みを捨てなかっただろう。そのおかげ そこでフィオン・マク・クーメイルは二番目の男に眼を移した。 「あなたを知っている」と言ってから、「はすなんだが、わからなで、本当の〈地獄〉を見ずにすんたのき。君が見たのは単なる表面 。あなたはフィアンナしゃなかった」 上の見せかけさ。あれで、もし望みを捨てていたら、そしてルーキ フェルに身を任せていたら、〈地獄〉の本当の姿を見て、永久にあ 男はニッコリ笑って言った。「デムナ坊や、わしを知らないかな」 自分の幼名を耳にして、フィオン・マク・ク 1 メイルは眼を瞠っそこに留まるところたったんだよ」 「それで、ここからは、どこへ行くのかな」とフィオン・マク・ク た。「フィネガス。師匠。年寄りフィネガスが生き返って若返った ーメイルは一一一口った。 んだ」フィネガスに接吻されて、彼は声をつまらせた。 それから、しばらくして彼は尋ねた。「懐かしのフィネガスよ、 聖なるパトリックはしばらく考えて、こう言った。「アイルラン この人は誰だい。まるで見憶えがないが」 トの良いところはすべてそなえていて、悪いところはまったく受け 三人目の若者は優しく徴笑んで言った。「一度も会ったことがな継いでいない場所など、君に想像できようかな」 いからだよ、フィオン・マク・クーメイル。でも私はいつも君を友フィオン・マク・クーメイルはニッコリ笑い、「まるで〈天国〉 みたいだな」 だちだと思ってきたし、君も私を同じように思ってくれるといい 「まさにそれさ」と聖なるパトリックは答えた。 な。私の名前はパトリックだよ」 99
つい今朝がた別れたばかりだというのに、息子は何年も会わなか 「プランデーかね ? しいね ! 」わたしは答えた。「ただし一杯 ったように強くわたしの手を握った。それから、店内全体を見わた だけじゃだめだ。ダブルにしてくれ。こんな有名な教授先生と昼飯 せる壁ぎわの大きな、黒い革張りの椅子をわたしにすすめ、自分はを食うなんて、そう毎日あることじゃないんだから」 向かいあった椅子に腰をおろした。 「いやだな、よしてくださいよ、おとうさん」息子は目を伏せ、顔 「これなら食事ちゅうずっとおとうさんの顔を見ていられますからを赤らめんばかりにして言った。それから、背の曲がった白髪のワ ね」と、男らしい親愛の情のこもった口調で彼は言った。「それイン・スチュワードのほうへ、威厳をもって向きなおった。「じゃ に、時間はすくなくとも一時間半あります。さっき、おとうさんのあシュナップスもだ。ダブルで」 荷物をカウンターに預けておきましたから、もういまごろは積みこ老人のスチュワードはうなずいて、急ぎ足に去った。 まれているでしよう」 ちょっとのあいだ、わたしたち二人はたがいに満足げに見つめあ 思慮ぶかい、たのもしい息子よー った。それからわたしが言った。「さて、それじゃあもっと詳しく 二人が席に落ち着いたところで、息子はつづけた。「さてと、お話してもらおうかーー・社会史の交換教授としての、おまえの新世界 ・サウア とうさん、なににします ? 今日の特別料理は、酢漬け肉の煮込みでの業績のほどをな。これまでにも何回か話題になったが、いつも のダンプリング添えと、赤キャベツの甘酢漬けのようですがね。も時間がなかったり、おまえの友達や、すくなくとも魅力的な細君が そゞよこ ー冫いたりして、詳しく聞けなかった。この機会に、・ せひもっと っともほかに、鶏肉のとうがらし煮もありますし、それに 「今日のところは、鶏めに勝手にパプリカの赤さを見せびらかさせ腰を落ち着けて、男と男としておまえの偉大な研究のことを聞きた いのだよ。ついでだが、ニューヨ】ク市立大学の研究施設ー・・ー・・蔵書 ておくさ」わたしはさえぎった。「ザウアープラーテンがいいね」 とか、その他そういったものーー・ーは、・、 ーデン大学をは 給仕長にうながされて、すでに年寄りのワイン・スチュワードが わたしたちのテー・フルに近づいてきていた。わたしが注文を出そうじめ、ドイツ連邦最高の研究機関の恩恵に浴してきたおまえの目か としたとき、息子がいかにも主人役然とした鷹揚さでその仕事をひら見て、不足はないかね ? 」 きうけ、わたしの目を細めさせた。彼はすばやく、だが綿密にメニ 「ある面では、足らないところもあります」息子は認めた。「です ーに目を通した。 ぼくの研究にはじゅうぶんすぎるほどですよ」それから、もう それから、「ツインファンデルの一九三三年だ」ときつばり言一度彼は視線を落として、かすかに頬を赤らめた。「しかしおとう わたしがその判断に同意するかどうかと、ちらりとわたしのほさん、あなたはぼくのささやかな努力を、あまりに過大に評価して うをうかがった。わたしはほほえんで、うなずいてみせた。 おられますよ」彼は声を低めた。「ぼくの仕事なんか、おとうさん アイン・トレツ・フヒエン・シュナツ・フス 「それと、食前酒としてシ = ナツ。フスを一杯、どうです ? 」息子はがわずか二週間で、国際的な工業関係においてあげられた成果にく 6 つけくわえた。 らべれば、ものの数じゃありません」 ュ 、刀
・カンパニーからクビにされたら大変。じゃあね、坊や」 いことをスーに知らせたいと思った。 「じゃあね 、。、ール」パールは満面に笑みをうかべて去った。スー 「その二つは同じ意味とはいえないけど、答えはどちらもイエス 6 は彼のいた椅子にかけた。そしてジョン・リー の手をとると、自分ねースーは目をそらしたまま言った。 の顔にあけた。 「・ほくのために、あいつを捨てたんだね」彼は感動し、苦しいほど の愛しさをお・ほえた。 「ごめんなさいね」苦悩にみちた声だった・ 彼は、明るい笑みをその顔によみがえらせたかった。「きようは スーはそこで彼を見つめ、ほほえんだ。だがその目には、ふしぎ 特別にきれいたよ」彼女のドレスアップした姿を今まで見たことは な光があった。「あなたのためなら、たいていのものは投げだす なかった。淡いグリーンの絹の服を着ている。とび色の髪は、下にわ、ジョン・リー 長くおろしていた。 つづく二週間は混乱のうちに過ぎた。たくさんの人びとが彼に質 彼女は、そのとおり、ほほえんだ。「ありがとうーーそれに、プ 問をあびせた。青い服の男たち、顔をこわばらせた灰色の服の女た レイテックスとメイドンフォームとミス・クレイロールにも、ありち。彼は今までのできごとをすべて話した。入れかわりたちかわり がとうをいわなきや。あなたのほうは : : : 相当にひどいわね」だが違う顔が現われたが、スーに会いたいという希望を聞きいれてくれ 本気でいったようすはなかった。 るものは、ひとりもなかった。中にひとり、彼が好感を持った女性 : 、た。彼女は判事だということだった・ジョン・リーは、ずっと 「。、ールによると、これがとってもセクシーなんだってさ」 「ンヨン・リー、 昔に死んた自分の祖父も判事だったと話した。彼女はつぎつぎと質 彼女はニコリとし、すぐに真顔にかえった。 まあなたの頭ははっきりしているかしら。これから、わたしの話す問し、彼はそれにいちいち答えた。声はやさしく、マ ( ン先生がそ ことが理解できそう ? 」彼はうなすいた。「じゃ、話すわね。あとうだったように、聞く人びとの心を和ませるものがあった。 二、三日したら : : : 事情聴取とか : : : 何かそういったものが始まる「しかし閣下」男のひとりがいった。「この少年は、酔った水夫と の。これはあなたが回復して、少年裁判所に出頭できるようになっ 売春婦のことでいざこざをおこし、相手をナイフで刺し殺したので たらの話だけど。べつに問題はないとは思うわ。ジョッコが襲ったすぞ」 ことは、みんな知ってるし、あれが事故だということも : : : 」 判事はさわやかに笑った。「メイリ 1 さん、誇張なさる必要はな 「あいつはたれ ? , ジョン・リー・ か轡ってはいっこ。 いでしよう。いまは陪審に説明しているのではないのです。ジョン スーはすこしのあいた彼を見つめた。「前に知っていた人よ」ひは襲われたから、自分を守ったにすぎません。男の死は、自分のナ っそりといっこ。 イフの上に倒れたからです」 「愛していた ? むかしの彼氏 ? 」その言いまわしが正しいかどう「しかし彼が、名の知られた売春婦と同棲していた事実は否定でき か、わからない。彼は知りたいと思った。また自分が気にしていな ないでしよう。彼女のほうから誘惑はしなかったようたが、そう聞
い、小さなドイツふうダンプリングでいってくれ、と息子をうながした。 ラーテンと、かわいらし ばいだ「たし、い 0 ぼう鼻孔のほうは、赤キャベツの甘酢漬けの独息子は思いがけないことを言いだした。「話というのは、アメリ 特の香気を楽しんでいたからだ。息子の話にす 0 かり夢中にな「てカの南北戦争の結果についてなのですよ、おとうさん。あなたはご あの血なまぐさい内戦のあとの十年間に、黒人 いっそれらが運ばれてきて、いっ食べはじめたの存じでしたか ? いたわたしは、 、、ほとんど意識していなか 0 た。わたしはロ中のものを呑みこの自由と民権という大義、つまり、ほかで言われている理由はどう み、上等のツインファンデルの赤を一口すすると、「どうかつづけあれ、そのためにあの戦争が戦われたはすのその大義が、完全に打 205
ないのさ。一種の偏執病患者だと考えているらしい」 ている、それにバ ーンズの殺害事件は、ハングマンが関係している 「最近のおたがいの消息はわかっているのか ? 」 とは考えていないんだ。ありふれた窃盗の居直り、空巣狙いの逆上 9 「全国各地に散らばっているから、何年も会っていない。しかしたとか、麻薬患者とかそんなふうに考えている」 まに接触はあった」 「じゃあ彼女はハングマンを怖れてはいないのか ? 「じゃあその診断は根拠薄弱じゃないか」 「自分はだれよりもよくあれの頭脳を知る立場にあるが、あれのこ 「そのうちの一人は精神病医だ」 とはとくに心配していないといった」 「ほう。だれが ? 」 「もう一人のオペレーターはどうだ ? 」 「ライラ・サッカレーというのが彼女の名前だ。セントルイスに住「サッカレー女史はあれの心理をだれよりも知っているかもしれな んでいる。そこの州立病院につとめているんだ」 いが、自分はあれの脳をよく知っているから、心配はしていないと 「じゃあ、彼らはだれも警察へは連絡していないのかーーー連邦警察 いっていた」 にしろ州警察にしろ ? 」 「というと、どういうこと ? ・」 「そのとおり。・フロックデンは ( ングマンのことを聞いたときに彼「ディビッド・フ = ントリスは技術コンサルタントなんだ・ーーー電子 らに連絡した。ちょうどワシントノこ 、冫いた。あれの帰還はすぐに知工学と人工頭脳学のね。彼はじっさいに ( ングマンの設計にたずさ わっているんだ」 らされたから、そのニ = ースはもみ消すようにはからった。それか ら彼ら全員に連絡し、その途中で・ ( ーンズのことを聞ぎ、・ほくに連わたしは立ちあがってコーヒーポットをとりにいった。そのと 絡をしてきて、彼らにもうちの連中の警護を受けるよう説得をここき、コーヒーをもう一杯飲みたいというやむにやまれぬ欲求にから ろみた。彼らは受け入れなかった。・ほくがサッカレー女史と話しあれたわけではない。そうではなくて、ディビッド・フ = ントリスと ったとき、彼女は、・フロックデンは重病人であると指摘した いう男をわたしは知っていたのだ、い っしょに仕事をしたこともあ れはまったく正しい」 った。そしてかって彼は例の宇宙計画にたずさわっていたのだ。 「何の病気た ? 」 十五ばかり年長のディ・フと知りあったのは、彼がデータ・ 「癌だ。脊髄の。あそこをやられたら、もう手のほどこしようがな 計画に加わっていたときだ。計画の進行につれ、われわれの多くが 。本人は、こういっている、非常に重要な法案を彼が考えている再考しはじめたときにも、ディ・フは相変らすはげしい闘志をもやし ものーー犯罪者新更正法ーーを通過させるまであと六カ月は生きのていた。五フィート八インチの痩、灰色の短髪、角縁の厚いレンズ びたいとね , ーー・彼がこの話をしたときは、偏執病的な話し方こっこ だナの奥の灰色の眼、放心と気ちがいじみた突進のあいだを循環しなが ことは認めるがね。しかしたよ ! そんなふうにならないやつがいら、そのとちゅうで、未成熟な考えを口にだしていってしまう性癖 るだろうか ? だがサッカレー女史はそれを全体的なこととして見があり、それゆえ縁故採用や政略で、ささやかな権限の地位を獲得
そう思った。 しな。生きるか死ぬかは五分と五分だぜ」 「百万と簡単に言われても」 そして、もし俺が八十万しか用意でぎず、一時的にせよ気違いに 2 とりあえず俺は逃げをうった・ なって妻にそれを頼んだら、彼女はどうするだろうかと考えた。 「僕にとっては大変な金だ」 答はすぐに浮んできた。妻は一言のもとにそれを拒否し、同時に 「そうか、百万もないか」 俺とは無関係の人間になろうとするだろう。荷物をまとめて姿を消 彼はしばらく俺の顔を見つめ、ニャリと笑ってささやいた。 し、俺が出演しているときには、書類を用意しているに違いな、。 「ならばギリギリ、八十万までは勉強するぜ」 土曜と日曜の二日間、彼女がどれだけ俺を責め、またそれが何を恐 いまや彼は、人の弱味につけこむゆすり屋になっているのたった。れてであるかを考えれば、結論はそうなるのたった。そのくせ、も 「ただし、差額の二十万は現物で頂くがね」 し自分が犠牲者にされかけたなら、二十万円以上のことをするだろ 「現物 ? 」 うとも思えるのだった。 「そうさ、金がなければ品物だ。とかくこの世は、何とかと金って そんな女ではなかった妻も、いまはそうなってしまっていること 言うだろう」 が、俺にはよくわかった。 「それも御無理でしたら、どうぞ他所様で御相談を。手前どもも商 色と金。色とは何た、何を指すのだ。 「局の連中、どういうものか人妻が好きでねえ。勿論、俺も人後に売でございますので」 は落ちないが」 彼は、わざとらしく猫なで声をだした。 「といっても、こんな人助けやってるのま、 : いまのところ俺だけだ 「けな気な奥さんもいるもんでな。まあ、ああいうのを美しき夫婦けどな」 そして、がらりと態度を変えた。 愛というのか、亭主の難儀には身を挺してという心だな」 「それともお前、名の知れた会社に勤めてながら、実は毎週出演し 考えに考えた挙句彼に仲介を依頼しようと決め、しかしそこで八 十万しか揃えられなければ、彼と局の連中に自分の妻を差し出さなてる奴らと同じ、どうしようもない貧乏人なのかい。え」 コートの実態になってしまっているら ければならないというのである。もう二十万あるかないかで、それ結局、それがカメガル 1 しかった。 だけ辛いめにあわなければならないのだ。 「あんたの奥さんだって、旦那のためなら一肌も二肌も脱ぐんじゃ彼の存在を知らす、知っていても金を用意できない人間ばかり が、社名を出されたくはないという理由たけで勤務先を追い出され、 ないのかい」 あるいは社名を出されてしまって解雇通知の遠からずくるであろう 下卑た冗談を言い、彼はげらげらと笑った。 ことを予測し、絶望しながらカメラの前に立つ。それを無責任な視 ネクタイと腕時計をむしり取り、ス 1 ツをひき裂いてやりたい。