チャクラに対する評価はいちじるしく上昇するはずだった。 「ゆ、ゆ、許さんそ」 チャクラは腰のナイフに手をあてながら、キツネに近づいていっ チャクラは喚き、キツネが消えた茂みのなかにとびこんだ。あの た。料理を得意とするチャクラは、また皮はぎにもたけている。そキツネをとらえすにおくものか、という激情にかられたのだ。 れこそ、鼻歌まじりでできる仕事のはずだった。 だが、チャクラが腰をかがめ、手をのばそうとしたそのとき 森には、午後のやわらかい陽光が充ちていた。 カエデや、カシの木がやさしい陰影をあやなし、地床には顕花植 毛皮がパッとはね起きて、足元をくぐり抜けていった。その際、チ ヤクラが手にしているウサギを銜えこみ、ひっさらっていくのを忘物があざやかな色彩を散らしていた。 ビンクの花を咲かした蔓生灌木をくぐるようにして、白いカゲロ ほんの瞬きする間に、キツネは茂みにとびこんで、姿を消してしウが漂っている。トビハムシは葉から葉へと飛びうつり、ウンカは まった。 ここでは、マンドールのジャングルのよ 樹葉の汁を吸っている 後には、ただ呆然としているチャクラだけが残された。口を大きうに過剰なものはひとつもなく、すべてがほどよく調和がとれてい いぶき く開いて、その顔が全体にだらしなく弛緩している。本人は気がっ た。植物と動物がまろやかな共同体を形成し、ときに生の息吹をや かないが、実に滑稽な表情になっていた。 さしく伝えてくるのだった。 「だまされた : : : 」 だが、今のチャクラには、自然のやさしさに心を奪われている余 やがてチャクラはポソリとつぶやき、おのがつぶやきに怒りをか裕はなかった。木の間にみえかくれするキツネを追うのに、懸命に きたてられたようだ。 なっていたのだ。 「お、お、俺はだまされた。キツネにだまされた。畜生にだまされ陽光をあび、キツネの銀毛皮はさんぜんとした輝きを放ってい た。チャクラの視界のなかで、それはとびはねる火の粉のように映 た。人間としてはずかしい。ほ、誇りを傷つけられたーーー」 っていた。 拳を振りまわし、じだんだを踏む口惜しがりようだ。その口から 泡をふきかねない勢いだった。 キツネは走り、チャクラも走った。 どうかする 実際には、キツネが人をだますはずがなかった。ただ、擬死から森の腐葉土は、決して走るのに適した土壤ではない。 蘇生したとき、たまたま眼の前にウサギがあったたけのことなのでと足にからみつき、走るチャクラをひきすりたおそうとさえするの だたが、ーーー興奮しているチャクラは、そんなことはいっさい意 ある。 彼の意識は、ただキツネをとらえるという一点に に介さなかった。 / だが、チャクラがキツネにだまされたと錯覚してもふしぎはな のみ絞られているのだった。 情況をみたかぎりでは、たしかにキツネのペテンにひっかかっ もちろん、キツネの脚力ははるかに人間にまさっている。いかに たともいえるからだ。 ゆと ー 05
しいような雰囲気が漂っているように感したのだ。全身が鳥肌立っ陽光がさえぎられ、容姿のほどはさだかではないが、たた非常な ような、ひどく異様な雰囲気が : 巨驅の持ち主であることたけはわかった。二本角の冠をかぶり、黒 8 キツネがその森林に逃げこんだことはわかっていた。しかし、チ いマントが風を孕んでひろがっていた。 ヤクラにはもうキツネを追うだけの気力は残っていなかった。眼前 「こりゃあ、どうもーーーとんだ粗相をいたしまして、つい気がっか なかったものですから : : : 」 の森林のあまりの無気味さに、気勢をいちじるしく削がれてしまっ たともいえる。 チャクラはひたすら恐縮した風を装いながら、その男が共通語た チャクラはなにかうすら寒いような表情で、しばらく森林を見つるタウライ語を使ったことに奇異の念を抱いていた。県圃を中心と めていたが、 やがてその眼を細くせばめた。 して、この地方の人間は非常に中華思想がつよいときいている。タ ウライ語など、耳にするのもけがらわしいと思っているはすなのだ 二、三歩、足を進めて、自分が眼にしているものをたしかめる。 巨木の一本に、こんな模様がきざみつけられていたのだ。 「銀ギッネを追ってきたな。ーー」と、その男が言った。 「そして逃げられた。そうではないか」 「まったく、その通りなんで : : : 」チャクラは頭を掻いてみせた。 「まぬけな話なんですが : : : あのキツネにはだまされちまいまして いまだかって、チャクラが見たことのない模様だった。おそらくね。それでカッとして、ついここまで追っかけてきちまったんです 甲骨文の一種に思われるが、占トにくわしくないチャクラには、そよ」 の意味をよみとる手段もなかった。 「キツネはキツネだ。男はずけりと言った。 その模様の形をより詳細にたしかめようと、なおも顔を巨木に近「人間をたますことができるほど利ロなわけがない づけるチャクラに、 キツネには特殊な能力が備わってはいるがな」 「それは、県圃の象徴だーーー」 「 : : : どんな能力なんですか」 とっ・せん、背後からそう声がかかったのだ。 「幸運だよー チャクラの驚きようはなみたいていのものではなかった。文字通「あのキツネには、常に幸運がっきまとっている。だからこそ、あ り、ビョンととびあがり、体を独楽のように回転させたのだ。 れほどの毛皮を持ちながら、これまで生きのびてこられたのた : いっからそこに居たのか、巨木の険に一人の男がうっそりと立っ俺はあのキツネを初めて見て以来、自分の守り神だとかたく信じて ていた。 いる」 ( 註 2 ) ただ、あの
は、なかば自動的にキツネに逃走の姿勢をとらせるものなのだ。 しかし、血のにおいを無視するには、″銀〃はあまりに空腹にす「あれまあーー」 チャクラは驚きの声をあげた。 ぎた。いうならば、食欲が″銀〃の盲目的な逃走をはばんだのであ る。 ッタリと出会ったキツネが、眼の前でとっぜん倒れたのであ ″銀″はすぐにも逃走可能な姿勢をとり、前方の茂みをジッと見つる。チャクラでなくても、驚かない方が不思議だったろう。 倒れたのがシカかなにかであったのなら、チャクラもこれを天の めていた。 どうやら、血のにおいはその茂みの向こうから流れてくるような恵みとして受けとったかもしれない。なにしろ、森のなかを半日う ろっきまわったあげくがウサギ一匹ーー・・・これでは、とうてい豪華な のだ。 野性動物の習性を考えれば、ありうべからざることた。 " 銀″は晩餐は望めなかったからだ。 だが、キツネが相手ではさほど食欲もわかない。第一、病気のキ 物音が近づいてきても、その場を一歩としてしりそこうとはしなか ったのだ。 ツネを食べたりして、体でもこわしたらことではないか。 なにかしら、魔にとり憑かれた瞬間としか形容しようがなかっ チャクラは、そのキツネを晩飯にしようという考えはすぐに捨て さった。それでいながら、なおその場を立ち去りかねていたのは、 キツネの毛皮があまりにすばらしかったからである。 茂みが左右にわかれ、そこになにか見知らぬものが現われた。 キツネは、自分のテリトリ ーを知りつくしているものだ。危険は実際、それは銀の糸を織りなして、つくられているようにさえ見 冫冫しし加減慣れているチャクラだ 単に、見慣れた場所の見慣れぬものということから判断される。現えた。森のなかをうろっくのこま、 が、いまだかってこれほど美しいキツネは見たことがない。 に″銀″は、自分がいま眼前にしているのがヒトであるということ すら理解していなかった。 チャクラはなかば反射的に、ザルアーのことを思い泛かべてい うすぎぬ マンドールのジャングルならいざ知らす、この辺りで薄衣 ″銀″はそれが人間だから、危険と判断したのではない。それが人た。 間であろうがなかろうが、見知らぬ動くものは、常にキツネのなか一枚ではいかにも寒そうだ。この毛皮を贈ってやれば、さそや喜ぶ のではなかろうか : に恐怖と逃避反応をひきおこすのた。 マークアル 逃げたすには、あまりにそれが接近しすぎているよう ) と、 ! 鶩 ) を手 男二人は、物々交換で筒袖の馬褂児 ( その結果、もう一つ に入れることができた。たが、女ものの衣類はどこでも貴重品で、 に思えた。″銀″は恐慌状態におそわれ、 チャクラたち流れ者にはどうにも手がだせなかった。 弓き金をひかれることになった。 の本能がー かねてからそのことが気にかかり、後ろめたくも思っていたの 擬死である。 だ。ここで、極上の毛皮を持ちかえることができれば、ザルアーの ″銀″が横たわるのを見て、それが声をあげた。 94
られたように冷えていくのがわかった。 チャクラがやっきになろうと、キツネとの距離がしだいに開いてい 数十メートルはあろうかと思われる巨大な樹木が密生しているの くのはいかんともしがたかった。 ・こ。一本の例外もなく、樹皮にはウロコ状の模様が浮かんでいた。 キツネの姿は視野から消え、足ももつれ始めていたが、チャクラ / はなおも追跡をあきらめようとはしなかった。咽喉をぜいぜいとな葉は巨大で、厚く、林冠をビッシリと覆いつくしている。樹木その らし、ほとんど這うようになりながら、とにもかくにも追跡をつづものは、悪夢のような深紅色たった。 ふしぎなのは、こちらの森林のような花や、灌木の類がいっさい けているのだ。 キツネに騙されたという屈辱感が、チャクラをいささか偏執狂的見られないことた。ただ単調に、巨木が密生しているだけなのであ るーーーもちろん、陽はさしこんでいない。暗く、ジメジメとして、 にしているようだ。 こちらの森林の華やかさとは比べうべくもなかった。 ふいに、森林の様相が一変した。 その森林がどれほどの規模のものであるかはわからない。巨木に 大鉈で断ち切ったように、ある一線をさかいにして、植物相がガ さえぎられ、視野がまったくないからだ。 ラリとかわっているのだ。 チャクラがその森林に足を踏み入れることをためらったのは、単 さしものチャクラも、そこから先へ足を踏み入れるのはためらわ れた。その森林を眼にしたとたん、赤く熱していた興奮が水をかけに見慣れなかったからたけではない。そこには、なにか一種おそま
もちろん、″銀″が自分の美しさを意識することはない。″銀″ なおうとしたことはないのか。今からでも遅くはなかろう。吉兆し いかにして獲物を獲得するかという の意識を唯一占めているのは、 ずれと出るか、うらなってみてはどうだ」 老婆たちは悲鳴をあげた。泥のうえを、先をあらそって逃げる足ことだけなのだ。 音がきこえてくる。 ただ、キツネにとって、獲物の獲得は必ずしも狩猟を意味しな 。キツネは捕食者であると同時に腐肉食動物たからである。山野 馬蝗が大きく跳躍すると、雲龍の頭上をとびこえ、闇のなかに消 では、動物の死体にはこと欠かない。なにも苦労して、ウサギやキ えていった。 老婆たちの絶叫も、骨を噛み砕くような音も、雲龍の耳には達しジやウズラを追い回す必要はないのだ。 ていないようだ。 一日山野を歩き回 今日の″銀″はついていなかった。 詩人が詩想に酔っ . ているような恍惚とした表情を泛かべ、その唇っても、ネズミの死骸ひとつ見つからなかったのだ。 には微笑さえ湛えていた。 一度、草陰にひそんでいるジネズミを見つけたが、前肢を振りお ろすより早く、穴に逃げこまれてしまった。″銀″は穴掘りにたけ 「女の腹から生まれた者は、俺にあだすることはかなわぬーー」 ばばあ てはいるものの、とうていジネズミの相手ではない。あきらめるし 雲龍はなかば歌うようにいった。「婆たちさえ、あのざまた : なんの、旅人ごときをおそれる必要があろうか。この手で握りつぶかなかった してくれるわ」 非常に不本意ではあるが、今日の″銀〃は甲虫でもさがして、食 闇のなかに、最初は低く、やがては高く、雲龍の笑い声がひびき欲を満足させるほかはないようだった。 わたった。 ″銀″は自分の臭跡をたどって、巣穴へと戻り始めた。 いや、戻ろうとしたのだがーーーそのとたんに、″銀″の鋭い聴覚 が草の折れるかすかな音をとらえたのだ。 しばらく、 ″銀″は大きな耳を前方に倒して、その音が危険を孕 んでいるかどうかたしかめようとしていた。 ″銀″はみごとなキツネだった。 体長は八〇センチに達し、体重は十キロにちかい。なによりみご だが、危険の有無をたしかめるより先に、血のにおいが″銀石を となのは、その銀白色にかがやく体毛たった。普通、銀ギッネと呼圧倒した。まったく、今の″銀には、体がしびれるほど魅惑的な ばれる種類は、単に毛の先端が白くなっているたけなのだが、 " 銀〃においだったのだ。 の場合は毛皮そのものが銀白色と化しているのである。 ″銀″は迷った。 実際、山野をかけめぐる″銀″の姿は、彗星のように光芒をひい 本来、キツネは非常に臆病な動物なのである。その大きな外耳 は、いわば危険探知装置の役をはたしているといえた。不審な物音 て見えた。
「ーーー・それはどうも、知らなかったものですから、とんだご無礼をとを知っているのか。 チャクラは慌てて頭をさげたが、その一方ではいつでも逃げだせ男はしばらく沈黙した。奇妙に、緊張を感じさせる沈黙だった。 るように、足腰をぎりぎりとたわめていた。守り神を傷つけようと その沈黙にたえきれす、チャクラが口を開きかけた瞬間ーーー男の したということで、いっその男が斬りかかってこないともかぎらな爆発するような笑い声が森林をつんざいた。 「俺の名は雲壟ーー、 かったからである。 男の声は笑いにうち震えていた。 「気にすることはない 」男の声が嗤いを含んだ。 こきいても、俺の居 「県圃に入ったら、俺を訪ねてくるがいい。誰 「俺自身が、いっかはあのキツネをしとめようと考えていたのだか 所はわかるはすだ」 らな」 あっ、とチャクラが体をのびあがらせたときには、雲龍と名のつ 「俺がこの手で守り神を殺せばどうなるのかーーーそいつを見とどけた男の姿はもう森のなかに消えていた。一瞬、木の葉がたかくまい そして、サラサラと地に落ちていった。 たくてな . あがり、 チャクラは呆然と立ちすくんでいる。今の今まで、自分が誰かと チャクラの想像を絶する考えだった。男の言葉は、たとえばチャしゃべっていたということが夢だったような気がしてくる。 クラが守護神たる海狸を殺そうと公言したに等しい。守護神の死チャクラはなにかに引き寄せられたように一歩を踏みだし、そし は、そのまま護られていた者の減びにつながるはずなのだが : てつまさきに当たるものを感じた。 「ここから先は禁域だーーー」 拳ほどの大きさの植物たった。褐色の茎が巻きちちんで、・ハラの もちろん、チャクラはそれがな 男が言葉をつづけた。「それを知らないとは、どうやらおまえは蕾のような形になっているのた 旅人のようだな」 んという名の植物だかは知らない。 チャクラはなんの気なしに、その植物を拾いあげ、掌にのせてフ チャクラは腰をかがめた。 ッと吹いてみた。カサカサと乾いた音がした。 「一人旅か」 「いえ、ほかに二人連れがいます、 獣脂のこげるにおいが、辺りに充ちていた。 「 : : : 女が一人に、男が一人ーーーそうではないか」 ゆらめく焔に赤々と照らしだされ、森は陽気に手をあげて踊る群 「おおせのとおりでー 集のように見えた。たき火のなかではじける枝は、さしずめ祭りの 9 チャクラは不思議だった。どうして、見す知らずの男がそんなこ爆竹といったところか。