ファンジン「宇宙気流」のかなり前の号に載ったパロディに似というのを見せてもらったが、恐ろしいものだった。 こんな傑作がある。 のような芸はどんな風に開発するのか説ねてみたところ、最初 鏡よ鏡、世の中でいちばん大きいのは誰か答えておく から般若をやろうと練習するのではなく、鏡に向って色々と顔 れ。 の相を変えているうちに何かに似る一瞬があり、その瞬間をと 答は、身長一九〇センチ、体重は三桁あるのではないかといらえて発展させていくそうである。 われるあの巨漢、鏡明のことである。ところが、最近の説によ で、何かいいアイデアはないかと鏡に向ったものの、いたず ると、次のように書く方が正解だそうだ。 らに時間だけが流れ去ったのである。 鏡よ鏡、世の中でいちばん〆切を守らないのは誰か答え ておくれ。 鏡といえば、最初に出てくる問題は、なぜ鏡の中の像は左右 あんまり他人のことをいってられない。鏡のことを書こうとが入れかわっているのかという疑問であろう。これは鏡に関す 思って、机の前に鏡を置いていろいろやっているうちに、あつる文章では必す最初に出てくる。 という間に時間が経ってしまったのだ。自分の顔に見惚れてい 最も有名なのは ( ぼくが最初に読んだのがこれだが ) 、朝永 た訳じゃありませんよ。顔真似の練習をしていたのである。南振一郎博士の「鏡のなかの世界」という随筆である。 伸坊氏の顔真似というのを雑誌で見て驚いた。高田みずえの真「鏡にうつった世界は何も右と左が逆にならねばならぬ理由は 似なんて絶品である。 ないではないか。たとえば上と下とが逆になったように見えて ドラムの森山威男氏も名人である。だいぶ前に般若の面の真なぜ悪いのか」 ( 鏡よ鏡 : 第 7 回堀晃のマッド・サイエンス人門 はんにや △の△の△の 20 ー
よ、つこ 0 ては、彼女のことより先に、心配になった。 事 / 、刀学 / 理性をとりもどすと、コスモよ、 。いったい鏡はどうなったのかと彼女が鏡を運んでいったとは思えなかった。それほどしつかりと 考えはじめた。彼女のことについては、帰り道を見つけたたろう は壁に固定していなかったにせよ、彼女が運ぶにはあまりに重す と、楽観的に考えた。しかし、彼女の運命をにぎっている鏡に関しぎる。それから彼は、かみなりの音を思い出し、自分を倒したのは 落雷ではなく、何か他のものだと確信した。彼の結論はこうだった 自分は、身を守ってくれる輪からはなれているうちに、超自然 のカで、悪魔たちの復讐に身をさらしたのだろう。それとも、鏡 は、何かほかのやりかたで、もとの持ち主のところへ帰っていった のだ。そして、思うも恐しいことだけれど、すでにもう、ふたたび 売りに出されてしまって、あの婦人を他の男のカの支配下において いるかもしれない。もし , 、その男が、自分よりも巧みに魔法の力を 使ったら、鏡をただちに割らなかった自分の不決断さを、いっそう 呪うようなことになるかもしれないそ : じっさい、自分が愛したあのひと、自由にしてくれと自分にたの んだあのひとが、今なお、ある程度まで、鏡の所有者のなすがまま になっており、少なくとも、その男の前に身をさらし、常に見られ ているのかと思うと、それだけでもう、内気な恋人の気を狂わせる のに充分であった。 早くよくなりたい、なりたいと思ったために、かえって回復が遅 れてしまった。しかし、とうとう、はうようにして外に出られるよ うになった。 / 冫 彼よまず、他のものをさがすようなふりをして、骨董 屋の老人のところをおとすれた。そいつの顔に冷笑がうかんだの で、コスモは、彼が何もかも知っていることを確信したが、鏡は、 店に並べられた家具のあいだには見つからず、また、鏡がどうなっ たかについて、老人から何もきき出すことは出来なかった。 鏡が盗まれたと聞くと、老人はたいそうおどろいてみせたが、コ 7 5 8
コスモは、ていねいに鏡をおろした。すると、わくの彫刻が実に した、低いアーチ型のドアをくぐると、そこには種々雑多なものが 並べてあり、いずれもかびくさく、ほこりつ。ほく、古いものだった精巧で、手がかかっており、デザイン、細工ともに、まことにすば らしいものであることが見てとれた。何か意味をもっていると思わ が、こうした店は、まあそんなものだろう。 問題の鎧について、コスモが満足すべき判定を下したので、友人れるところが、何カ所もあるようだった。 これは , ー , 、・彼の趣味、性格からいって当然のことだがーーー古い鏡 は即座に買うことにきめた。 にいだいている興味をいっそう増すものであった。どうしてもこの 二人が店を出ようとする時、コスモの目は、ほこりにまみれて壁 と、今はコスモは思っていた。ひまな時 にかかっている古い鏡ーーーというより、 ″楕円形のもの″といった鏡を自分のものにしたい、 をみて、そのわくをしらべるためにーーである。 ほうがいいだろうか に引きつけられた。その鏡のまわりには、 けれどコスモは、実用に使うために鏡を買いたいだけであるよう 奇妙な彫刻がほどこしてあった。店の主人が手にもっているあかり では、きわめて・ほんやりとしか見えなかったが。コスモを引きつけなふりをした。鏡は大して役には立たんだろうね、なにしろかなり たのは、この彫刻たった , - ーー少なくとも、彼にはそう見えた。しか古いから、と言いながら、彼は、表面のほこりを、少しはらってみ し、コスモは、それ以上鏡に注目しようとせず、友人とともに店をた。すると、まことにおどろいたことに、鏡は、鮮明にものをうつ 出た。二人は、そろって大通りまで行き、そこで別れて、反対の方し出すではないか。ガラスが年月におかされていないばかりか、お どろくほど澄んでいて、完璧で、まるで作り手の手を今はなれたば 向へ歩いていった。 かりのようであることが、明らかになった ( 全体がこの部分同様た 一人になったとたん、奇妙な古い鏡のことが、コスモの心にもど と仮定しての話だけれど ) 。 ってきた。あれをもう一度はっきり見たいという強い欲求が高まっ コスモは、なにげない風をよそおい、いくらで手放すかときい てきて、彼は、また、足をあの店にむけたのであった。 ノックをすると、店の主人は、まるでコスモの来るのを予想してた。その返事として老人がロにした金額は、貧しいコスモにとうて い支払える額ではなかったので、彼は、鏡を、もとあったところに いたかのように、ドアをあけてくれた。主人は、かぎ鼻をした、小 柄な、しわだらけの老人だった。燃えるようなその目は、いつもの返しにいこうとした。 ろのろと、落ちつかなげに動き、何か見おとしたものはないかとで「高すぎるとお思いで ? 」と、老人が言った。 「あんたが要求するのに高すぎるかどうかは知らないが」と、コス もいうように、あたりを見まわしている。 ほかの品物をしらべているふりをしながら、コスモはしまいに鏡モ。「・ほくが支払うにはあまりに高すぎる」 老人は、手に持っていたあかりをかかげて、コスモの顔を照らし に近づき、あれをおろしてくれないか、と言った。 た。「人好きのするお顔をしていらっしやる」と、老人は言った。 「ご自分でおおろし下さいませ。わたしにはとどきませんので」 コスモは、このおせじに、返事を返すことが出来なかった。実の と、老人は言った・ 3 7
この後、研究室での雑談というかたちで、この問題に関するきるからではないだろうか。 解釈が続出する訳だが、 まとんどの議論はこのエッセイで出尽言い訳めいた文章が長くなってしまったが、自然界に関連し しているといっていし た話題を中心にして書こうと思う。 ところで、自然界における対称性について解説した本として 傑作なのは、人間の目は左右水平に並んでいるから、鏡像も 左右に入れかわるという説である。これは、片目を閉じて鏡をは、これ以上の入門書はないといえるような著作がある。マル 見ても鏡像は同じということがあるので、あっという間に否定ティン・ガードナー「自然界における左と右」 ( 紀伊国屋書 される。 店 ) で、ベストセラーにもなったから、お読みになった方もた : ・結局、このエッセイでは、鏡にうつった自分の位置に身くさんおられるだろう。自然界の対称性が、身近な例 ( 鏡、左 を置いて考えてしまうので、左右が逆転していると考えやすいききの問題、回文、植物のつるの螺旋、台風の渦など ) から分 と指摘してある。 子構造、光学的異性体、電磁気、最後は素粒子における偶奇性 この鏡像の問題というのは、ものすごく大きな範囲にわたるの問題まで、おそろしく広範囲にわたって解説してあり、しか 問題で、きちんと扱える自信がないのである。対象を自然界にもその語り口は見事なもので、を例に引いている箇所も 限っても素粒子から宇宙の構造にまで及んでいるし、背景とな二、三ある。 ( ガードナー自身、左と右の問題をネタにを る数学大系もまた大きい。群論というやつで、工学関係へ進ん一篇書いているという ) こんな立派な解説書があったのでは中 だものの、・ほくの受けた学校教育では、解析学の方が主であっ途半端な説明など今さら書けないし、変な要約などとてもでき て、群論や代数は高校の時からスポッと抜けてしまっている。 一度初等から勉強しようと思いながら、社会生活上の必要がな そこで、いくつかの話題をここから拾わせていたたくことに いとつい後回しになってしまう。そのために、大変面白い世界して、あとはなるべくガードナーの紹介している話とは関係な があるとわかっていながら、その面白さが十分にわからないとく書いていこう。 いう、情ない状態にあるのである。 鏡像の問題というのは、対称性として扱われる問題の一部で・左利き あって、さまざまな対称性のうちの、幾何学的対称のうちの空鏡を見て左右が入れ替っていると思うのは、鏡の中の自分の 間的対称に含まれる 3 次元の系の面反射変換ということにな 利き腕が反対になっていると思うのも大きな原因ではないだろ 鏡にうつった像や左右対称の問題が馴染み深いのは、自然界・ほくは左利きではないが、ひどい左右音痴で、タクシーに乗 に実例が豊富なことと、鏡をのそくたけで簡単に実例が観察でった時など、ごはんを食べる恰好をして箸を持っ方が右と確認 ンンメトリー △の△の△の△の△の 202
にじっと立っている。この荒涼とした忙しい世界のむこうにある静 しかし、コスモの興味は、主に、鏡のわくの奇妙な彫刻にあっ 。それでいて、 た。彼は、プラシでわくを出来るだけきれいにし、さまざまな部分かな安息の地を、じっと見守る監視塔のように : を細かくしらべていった。彫刻をほどこした者の意図を、せめてそ・ほくは、骸骨の骨の一つ一つを、関節の一つ一つを、まるで自分の の糸口だけでもっかもうとしたのである。しかし、この点では成功手のように知っているのだ。それから、あの戦闘用斧。あれは、 せず、しまいには、いささかいやけがさし、失望もして、しらべるつなんどき、鎧をまとった手にとりあげられるかもしれないように のをやめてしまうと、コスモは、しばらく、鏡にうつった細長い部見える。力強い腕で運ばれ、かぶとを、頭蓋骨を、脳を、ぶち割 り、これまた迷っているもう一人の亡霊とともに、未知のものを侵 カまもなく、なかば心の中で、 屋を、ぼんやりと見つめていた。。、、 略していくかのようだ。鏡の中へはいれるものならはいって、あの なかば声に出して、こう言った。 「鏡というのは、何とふしぎなものだろう ! 鏡と、人間の想像力部屋で暮らしたいものだなあ」 のあいだには、すばらしく似ているところがある ! だって、・ほく 鏡の前に立ち、鏡の中を見つめながら、なかば口に出されたこれ が鏡の中に見ているこの自分の部屋は、同じでいて、同じではないらの言葉が、終わるか終わらないうちに、はっと激しいおどろきに のだ。・ほくが住んでいる部屋が単にうつったもの、というだけでな打たれたコスモは、棒立ちになった。とっ・せん、音もなく、予告も く、まるで、好きな物語の中で、この部屋について読んでいるみた なく、白一色の服をまとった婦人の優美な姿が、しずしすと、それ でいていやそうな、よろめくような足どりで、ドアから、鏡の中の いだ。部屋の平凡なところは、すべて消えてしまっている。鏡は、 部屋を、事実の域から芸術の領域へと高めたのた。いつもの荒れ部屋へ、すべるようにはいってきたのである。 がらんとした部屋が、鏡にうつったたけで、・ほくにはきわめて はじめは、コスモに見えるのは背中たけだった。彼女は、部屋の 興味あるもののように思われる。日常生活でならば耐えられぬほどむこうはしにある寝椅子のほうへ、ゆっくりと歩いていったから。 つまらない存在として逃げだしたくなるような人物が、劇場の舞台彼女は寝椅子にぐったりと横たわり、彼のほうへ、言いようもなく で演じられると、みな喜んで見るようなものだ。芸術というのは、 愛らしい顔をむけた。その顔には、美しさといっしょに、苦しみ、 惓み疲れた我々の感覚から、また、不安に満ちた日常生活の恥ずべ嫌悪感、そして、何ものかに強繝されているという意識が、奇妙に き不正から、自然を救い、別のところにある想像力にうったえ、あましりあっていた。 コスモは、しばらくのあいだ、動く力もなく、つっ立ったままだ る程度まで、あるがままの自然を見せてくれるーーそんなものでは った。目は、どうしても彼女の上からはなれない。そして、動ける なかろうか。自然が子どもの目に見えるようにだ。子どもの毎日の 生活は、恐れを知らず、野心もなく、自分をとりまく不思議に満ちと意識してからも、ふりむいて、自分が今立っている本物のほうの た世界の真の大事さに会い、疑うことなくそこで楽しむのだから。部屋で彼女と顔をあわせる勇気が、出なかった。 しまいに、とっぜん力をふるいおこし、コスモは、顔を寝椅子の 今は、あの骸骨たってーーー見えないものだけが見える目で、あそこ 5 7
によってパリティの保存則が破られたのは、東洋と西洋の文化″反宇宙″である。 的伝統の差ではないかと述べているそうだ。韓国の国旗にもあ 小松左京「果しなき流れの果に」の巻末近くに出てくる反宇 る、円を非対称に区分した陰陽模様が例として挙げられてい宙のイメージは、数ある反宇宙の中でも最も強烈な印象を残し 日本はどうか。日の丸は対称性の代表選手みたいなもている。 のではないか。 この宇宙の膨張が、その宇宙では収縮として現象し、エ ントロピーの増大が、減少としてあらわれ、時間系が逆行し、 ・反宇宙 生成が消減に、消減が生成に、うっし出される。 微視的な鏡像と反対に、最も大きな鏡像はというと、これは ラストで、この宇宙をかいま見る時、そこに「存在の『鏡』」 当然、反物質でできた宇宙ということになる。 が現われる。 この反宇宙というのは何種類か考えられるらしいのたが、鏡 ーーー存在の鏡。それは宇宙の虚像かフ 像の扱いとどのように関連するのか、ちょっとわかりにくいと だが、鏡がますます精巧になった時、やがて、虚像の自立性 ころがある。 が生じてくる 粒子の反転といっても、空間反転、電荷の符号が変換される 粒子ー反粒子共役変換、それに時間反転の三種が定義されてい どうも鏡の問題、右と左というのは、範囲が大きすぎて、と て、この反転の組み合わせによって、どんな反宇宙が設定されてもまとめ切れなくなってしまった。 るのか、議論が混み入り、頭が混乱してしまって、よくわから左と右については、山下洋輔氏のポーリングに及ぼすコリオ リのカの影響論 ( ポ 1 リングとはかんべむさし考案の、ポ 1 ル 実際に観測される銀河の幾つかは、そのエネルギーの放射量に飛びついてグルグル回る競技。「まわる世間に」に出てく から反物質でできているのではないかといわれているし、最近る。山下氏の説は、この竸技では、コリオリのカの影響を考慮 の話題では、われわれの銀河系の「核」には、・フラックホールなして、右利きと左利きでハンデをつけ、北半球と南半球ではこ らぬ、大量の反物質が存在するのではないかという話まである。れを逆転すべきというもの ) とか、冷し中華の中心にあるナル ただ、時間的対称というのは、この宇宙 ( つまり膨張宇宙 ) トの渦の方向についての考察など書きたかったのだが、枚数が の中では成立しないような気が何となくする。 尽きてきた。 この結果、何となく実感を持ってくるのが、文字通りの反宇 シンメトリーというのは反物質、反宇宙に限らず、今後、いろ 宙、この宇宙と対を成して、宇宙の創成の時生まれたのかすっ いろなに発展しうる素材たと思うのだが、今のところ、作 と前から共に存在するのか、ともかく鏡像のように存在する品はそう多くないようた。最近では、 Anarog 誌に Ditch Su ・ △の△の△の△の△の 2
しの心のドアをたたき、わたしを屈服させたのは、わたしに会いた コスモの胸の中で、激しい葛藤がおこった。今、彼女は、自分の いという、あなたの強い願いだったのです」 力の支配下にある。彼女は、少なくとも自分をきらってはいない。 「では、あなたは、ぼくを愛することが出来るのですか ? 」 そして、自分は、会いたい時に彼女に会える : と、コスモは言った。死んだように静かな声だったが、胸がいっ鏡をこわすことは、彼の生活そのものを破壊し、彼の宇宙から、 はいで、ほとんど言葉になっていなかった。 唯一の光を消してしまうことだった。愛のパラダイスに面したたっ 「わかりません」彼女は、悲しそうに答えた。「わたしが魔法をか た一つの窓を徹底的にこわしてしまえば、全世界は牢獄以外のもの けられて苦しんでいるあいだは、申しあけられません。でも、あなではないだろう。まだ彼女を純粋に愛しているとはいえない彼は、 たの胸に頭をあずけて、死ぬほど泣けたら、ほんとうになんとなん躊躇した。 と嬉しいことでしよう。あなたがわたしを愛していて下さると思っ 悲しさに泣きながら、婦人は立ちあがった。 ていますもの。そうだと知っているわけではございませんが : 「ああ ! あの方は、わたしを愛していらっしやらないのだわ。わ でもーーー」 たしがあの方を愛しているほどにも、愛して下さらないのだわ。悲 ひざますいていたコスモは、立ちあがった。 しいこと ! わたしは、わたしがお願いしている自由にもまして、 「ぼくはあなたを愛しています。まるで いや、何と言って、 しいあの方の愛を求めているのに : かわからない。あなたを愛してしまってから、ぼくにとっては、あ「あまりやりたくはないけれど、もう待ってはいられない」 なた以外のものは存在しないのですから」 そうさけぶと、コスモは、大太刀が置いてあるすみへ、とんでい 彼は、彼女の手をつかんだ。彼女は、手を引っこめた。 「だめですわ、そんなことはなさらないほうが : 。わたしは今、 その間に、あたりはすっかり暗くなっていた。火桶のおきが、赤 あなたの力に支配されています。ですから、そんなことをしてはい い輝きを、部屋に投げかけているたけたった。 けないのです」 彼は、鋼鉄の鞘をひつつかみ、鏡の前に立った。しかし、重たい 彼女はワッと泣き出し、こんどは自分が彼の前にひざまずいて、柄でもって鏡に思い切った一撃を加えようとした時、鞘から刃が半 こう一一一口った 分すべり出てしまい、柄は、鏡の上の壁を打った。そのとたん、す 「コスモ、もしわたしを愛して下さるのなら、わたしを自由にしてぐとなりの部屋で、ガラガラッとかみなりの落ちる音がした。鏡に もういちど一撃を加える前に、 下さいませ。あなたからさえもです。鏡をこわして下さいませ」 コスモは気を失って、暖炉の上に倒 れてしまった。 「そうすれば、・ほくはあなたに会えるのですか ? 」 「それは申しあげられません。あなたをおだまししたりはいたしま コスモがわれにかえった時、婦人と鏡は、両方とも消えていた。 せんわ。わたしたちは、二度と会えないかもしれません」 彼は頭がおかしくなって、何週間も、寝椅子から離れることが出来 っこ。 4
ところ、はじめて近くから見てみると、彼は、老人に対して、一種「いや、いや、自分で運ぶよ」 の嫌悪感を感じた。自分の前に立っているのが男か女かわからない と、コスモは言った。彼は自分の住まいを他人にあかすことに、 ような、妙な気持もするのだった。 特別な嫌悪感をいだいていたが、特にこの男に対してはいやだっ 「あなたさまのお名前は ? 」老人は、言葉をついだ。 た。時々刻々と、反感がつのってくるばかりだったのだ。 「ご自由にどうそ」 「コスモ・フォン・ウエルスタール」 「さいでございますか ! そうではないかと思っておりました。お と、老人は言い、あかりをかかげて、コスモが中庭を出ていくの 父上によく似ておられる。わたしは、あなたさまのお父上を、よくを見送りながら、こうつぶやいた。 存じあげておりましたのですよ、若さま。わたしの家には、お父上「あれを売るのは、これで六度目たわいー こんどはどんな結果に の紋章や番号入りの骨董品が、まだいくつもあるかもしれないほど なるのだろう。あのご婦人も、もうたくさんだと思うがね ! 」 さいですか。あなたさまが気に入りました。最初に申しあ コスモは、戦利品を、注意ぶかく家へ運んた。しかし、帰るとち げた値段の四分の一で、鏡をお持ち下さってよろしゅうございまゆうずっと、誰かに見られ、あとをつけられているような、いやな す。ただし、条件が一つございますが : : : 」 気持がした。くりかえし、あたりを見まわしてみたが、尾行されて 「その条件とは ? 」 いるのではないかという疑いを裏づけるものは、何も見えなかっ と、コスモ。鏡の値段は、まだまた彼にとって大金であるとはい た。それに、通りはあまりにも暗かったので、仮にあとをつけてい え、何とか支払える額であった。手にとどくものだと思うと、鏡をる者がいたとしても、用心深いスパイが、そう簡単に見つかってし 自分のものにしたいという気持は、いやが上にも高まっていた。 まうわけもなかったのである。 「条件とは この先、万一あなたさまがこの鏡を処分したいと思 コスモは、ぶじに下宿にたどりつき、買ったものを壁に立てかけ われた時には、わたしが最初に申しあげた金額をお支払い下さるこ た。力は強いほうだったが、肩が軽くなったのでいささかほっとし とでございます」 た。それから、パイ。フに火をつけ、寝椅子の上に身を投げだして、 「必ずそうしよう」コスモは、につこりして、答えた。「実に寛大 いつもおそってくる夢のひだの中に、たちまちひたりこんでしまっ な条件た」 「名誉にかけて、でございますね ? 」と、売り手が念を押し、 つぎの日は、いつもより早く家に帰り、細長い部屋のはしにある 「名誉にかけてだとも ! 」と、買い手が言って、それで話はきまっ暖炉の上の壁に、鏡をとりつけた。それから、表面のほこりを、て たのであった。 いねいにふいた。日をあびた泉から湧きいでる清水のように澄んだ 「お宅までお運びいたしましよう」 鏡は、覆いがやきもちをやくのではないかと思われるほど、覆いの コスモが鏡をかかえあげると、老人は言った。 下からも輝きを放つのだった。 4
を見せた時、彼は気が遠くなり、一歩も動く勇気が出ないような気まなげに、鏡のそばに寄ってきた。まるで彼の目に魅せられたかの 持がした。しかし、今や彼の魂のすべてを占め、他の喜びや苦しみように : これほど近くで彼女を見るのは、コスモにとって初めてであっ は感じさせなくなってしまった彼女の、顔や姿を見つめていると、 彼女に話しかけたい、自分の声が聞こえているかどうか知りたい、 今は、少なくとも、二人の目と目があわされていた。しかし、彼 ひとことなりと返事が聞きたい という熱望が耐えがたいほどに は、彼女の目があらわしているものを、完全には理解出来なかっ なり、彼はとっぜん、いそがしく準備を再開した。 注意深く輪の中から出ると、輪の中心に小さい火桶をおいた。そた。彼女の目には、やさしい哀願がいつばいにたたえられていた れから、火桶の中の炭に火をつけた。炭が燃えあがるあいだ、彼はが、一方、彼には説明出来ないものも、あらわれていたのである。 窓をあけ、窓のそばに腰をおろして、待った。 彼は、のどがつまったような気持だったが、喜びや興奮に負けず、 むしあつい夜で、今にも雷雨が来そうだった。きわめて心地よい仕事をつづけた。彼女の顔に目をすえたまま、彼は、自分の知って 憂うつ感で、彼の頭はいつばいになった。空は重たくたれ、下の空いるもっとも強力な呪文へうつっていった。 気を圧迫しているように思われた。あたりは紫つ。ほい色に染めら とっ・せん、婦人は、くるりとうしろを向くと、鏡にうつった部屋 れ、開いた窓を通して、都会の何をもってしても消すことの出来なのドアから出ていった。 、遠くの野の香りが、ただよってきた。 一瞬のち、彼女は、まことの存在として、彼の部屋にはいってき 炭は、あっという間に赤くなった。コスモは、自分で調合した香た。彼はすべての用心をわすれ、魔法の輪からとび出ると、彼女の その他のものを、火の上にふりまいた。それから輪の中にはいり、 前にひざまずいた。彼があれほど情熱をこめて心に思い描いていた 顔を火桶から鏡のほうへと向けた。彼は、目を婦人の顔にじっとす婦人は、生きた姿をとって、稲妻のうすあかりと魔法の火の輝きの 中で、一人、彼のそばに立っていた。 えたまま、ふるえる声で、強力な呪文をくり返しはじめた。 「な・せあなたは、 まもなく、婦人は蒼白になった。つぎには、血が、よせかえす波「な・せですの ? 」婦人は、ふるえる声で言った。 のように、岸という岸を真紅の潮であらった。 あわれな女に、雨の通りを、ひとりで歩いてこさせたのですか ? 」 コスモは、より強力な呪文にうつった。婦人は起きあがり、彼女「・ほくが死ぬほどあなたを愛しているからです。しかし、・ほくは、 の部屋の中をおちつかなげに行きつもどりつした。 ただ、あなたを、あそこの鏡から外に出してあげただけですよ」 べつの呪文。彼女は、目を休めるものをさがしているよう「ああ、鏡 ! 」彼女は鏡を見上げて、ぶるっとからだをふるわせ た。「何と悲しいことでしよう ! あの鏡があるかぎり、わたしは だった。しまいに、彼女は、とっぜん、コスモに気づいたらしい まんまるに見開かれたその目が、彼の上にびたりとすえられたので奴隷にすぎないのです。でも、わたしを鏡から引き出して下さった ある。彼女は、しだいにうしろにさがり、それから、何か気がすすのがあなたの呪文だとは、お考えにならないで下さいませね。わた
ほうへむけた ( 意志の行使があまりに純粋だったので、故意にそう鏡にうつった二人は、彼がうしろをむいて、自分の部屋にいる彼 したのではないように思われたほどであった ) 。 女を見ないかぎり、顔をあわせることは出来ない。そして、彼女は 7 そこには、だれもいなかった。 実際にはそこにいないのだから、コスモのくだした結論はこうだっ 恐怖と困惑のいりまじった気持で、コスモはふたたび鏡のほうをたーーーそこに彼女がいる、ということで、自分の部屋のその部分を むいた。鏡にうつった寝椅子の上には、世にも美しい婦人の姿があむけば、鏡にうつる自分の姿は、彼女にはまったく見えないか、も しくは、少なくとも、彼女のほうをむいて空を見つめているように 婦人は、目を閉じてよこたわっていたが、閉じたまぶたの下から見えるにちがいない。そして、おたがいの魂が近よるほどの印象 、 - 彼女は、目と目が会わないかぎり生まれないだろう : は、二粒の大きな涙が、今にもこぼれおちそうになってした。 / は死んだようにじっとしていた。胸が不規則に上下していることた そのうちに、彼女の目は、骸骨の上におちた。 / 。 彼よ、彼女が身を けが、生きているしるしだった。 ふるわせ、目を閉しるのを見た。目はそのままあかなかったが、顔 には明らかに嫌悪の情があらわれている。コスモは、その不愉快な コスモは、自分の気持を言葉にしようにも出来なかっただろう。 その時の彼の感情は、意識を殺し、あとではっきりとは思い出せなものを、すぐにでも動かそうかと思ったが、動かすという動作で自 いっそう彼女にいやな思いをさせるのでは いようなたぐいのものだった。 / な 彼ま、鏡のわきに立ったまま、目を分の存在を主張しては、 婦人の上にくぎづけにしないではいられなかった。自分が不作法なないかと、心配だった。 いっ彼女が目をあけて、じっと見つめら ことはよくわかっており、 そこでコスモは、立ったまま彼女を観察した。 れていることに気づくかと、おそれていたが : まぶたは、目をおおったきりである。まるで、宝石のはいった高 価な箱のふたのように。顔からは、苦しげな表情がじよじょに消え しかし、まもなく彼は、いささかほっとしたのだ。 ていき、やがて、かすかな悲しみの色だけが残った。顔は、安らか 彼女のまぶたは、しばらくしてゆっくりとあがり、その目は開い な表情におちついて、そのままかわらなかった。こうした点と、ゆ たままになったが、 はじめのうちは何も見ていなかった。それか つくりした、規則的な息づかいから、彼女が眠っていることがわか ら、部屋の中を見まわしはじめた。まわりに何か知っているものが カ彼女の目 ナいかと、ものうげにさがしているかのようだった。 ; 、 コスモは彼女を見つめ、困惑せずにはいられなかった。簡素その は、けしてコスモにむけられないのである。彼女には、鏡にうつつ ているものしか、見えていないように思われた。だから、もし彼女ものの白い長衣をまとった彼女のからだは、顔に劣らずすばらしい が彼を見たとしても、彼の背中しか見えないはすである。彼が鏡のものであることが見てとれた。全体がまことに調和がとれていて、 中の彼女を見るためには、彼女に背をむけるかたちにならざるをえ優美なかたちの足を見ても、同じく優美な手の指のどれを見ても、 ないからだ。 すべての部分の美しさがしのばれた。