いた作品のイメージに近いが、夢の世界に入 七九年九月号 ) 、「過熱した男」 ( 同八一年 を知り、を深く愛した 年″が、を書きはじめる時、ひとつの大九月号「熱死」改題 ) 、「悪夢の狩人」 ( 同っての明るく透明感のある、それこそ夢の中 でのユーモアといった不思議なタッチを生み きな罠がある。それは過去の厖大なの縮八〇年五月号 ) である。 表題作「狂走団」は、日本の主要な高速道出している。以上四篇、どれを読んでも満足 小再生産化への自らの危惧という罠である。 ″少年″だった川又千秋が、いかにして路が結合し、完全な環状路の形態を完成してするはずだ。 その罠をクリアーしたか、それが『夢の言葉いる時代に、その高速道路地帯を栖とし、ス 長篇小説では、果しなく物語を語って欲し ・マシンの車や・ハイクで群団を結成し いと望むように熱中させる川又千秋。キリッ ・言葉の夢』に書かれている。に対する 自己確認・の内在化である。を血肉ている若者たちの運命を描いた作品。「芸夢とし、しかも少し悪夢的終わり方をする短篇 レ 」は、定職につかない都市生活者、遊民もまた、いい。 ( 『狂走団』 / 著者Ⅱ川又千 化し、そこで川又千秋は、言葉の錬金術師、 夢の錬金術師に変貌した。ともすると、幻想が異常に増えている時代、芸夢場でのコイハ秋 / 一一一六頁 / \ 一一六〇 / 文庫 / 角川書店 ) ット・シミュレーション・ゲームの戦いに 5 小説の書き手として、自己閉鎖化してしまう かれた若者たちの末路を描いた作品。ほ・ほ同 道を閉ざし、夢と現実というふたつのリアル ッコーリー カービー なものの間に立ち、そこで言葉を紡いで世界時期に書かれたこの二作には、状況にからめ を構築する作家となった。現実からの逃とられた若者の怒りとやるせなさがある。荒 避の″夢ではなく、〃夢あるいは″妄廃した未来社会のムードと暗い熱気。暴走 想。が、充分、この " 現実なるものと拮抗族、フーテンの未来図ともいえるが、パセテ『闇の展覧会』 1 ・ 2 ィックな近未来風俗のチンビラ小説 ( に ) と するものであることがわかっている、無意識 だかしても傑作。付け加えておくと″芸夢″日ゲ を意識化できる知的な作家に : ームというような言葉の改造も、川又千秋特 ら、作品に夢からの侵攻がテーマとして語ら 伊沢昭 れる。だから、玩具宇宙・通俗が改造さ有のもの。 ( だから、言葉の錬金術師なの れ、メタ・超俗になり、妄想によるだ ) 「過熱した男」は、大藪春彦の小説に登場す『危険なヴィジョン』を引き合いに出すのは ワー。フ航法の″アリス・ドライ・フや″シャ ガナスの星船″が登場する。だから、どの作るような特殊工作員、もっともサイボーグ化やめにしよう。読んだ人は多くないと思う ードし、あれを読んだことによって語れることは 品もリアルなアクション日活劇が基調となっされているのだが、その男が主人公。ハ 編者の意図はともかく て語られる。そして、″妄想カ第によって手ポイルド・タッチで、しかもコミカル。長篇 に入れた世界に、を抱きしめた時の高揚小説では味わえない川又千秋の「一ーモア感覚本書は、要するに、純文学、恐怖小説、 が楽しめる。必然的ドタ・ハタで、どこか平井 r-k 等の枠組みに捉われずに、様々なタイプの 感を忘れずに甦らせる。だから、面白い ホラーを集めたアンソロジーなのだが、純粋 川又千秋は、興奮するを書く作家であ和正作品にも共通するものがある。 に読者にかえってみると、そういった建て前 る。 「悪夢の狩人」は、文字通りが夢″をテーマ にした作品で、他人の夢に入り込み、夢の中すらどうでも良いことという気がしてくる。 さて、その作家の処女短篇集。収録作品は おそらく本を読むのが好きな人なら賛同し 四作。初出とともに記すと、「狂走団」 ( 奇での殺人 ( 患者の治療 ? ) をする錬夢術師が 想天外七九年十二月号 ) 、「芸夢」 ( 同登場する。ファンが初期の川又千秋に抱いててくれるのではないかと思うが、夜、くつろ
レヒッウ ホラーもも、その楽しみを知っている いだ気分でひんやりしたシーツの間にもぐりも、作家である以上、子供のころ本をたまに こみ、スタンドの明かりで、眠気を催すまで楽しんだこともあろう。とすれば、ホラーが人間にと「ては、小説スタイルの便宜的な枠 など問題ではないのだ。そのスタイルに固執 好きな筈である。 好きな本を読むことの楽しかったこと ! , ーー つまり、僕はさ 0 きからクドクドと何を言する人、例えば純文学しか認めない人は、結 そして、そんな楽しみ方に一番応えてくれた のは、必ず恐怖小説、幻想小説の類ではなかおうとしているのかというと、ホラーはホラ局純文学のすばらしさを万分の一も味わえず に死ぬのである。我々ファンにとって てあり、が純文学作家の書いたホラー ったろうか。細かな語弊を怖れずに言うな " 作家の書いたホラー。というふうに考は、まさに「今に見ておれでございますよ」 ら、そんな読まれ方をされる小説こそが、良 1 ・ 2 / 編 い小説なのだーーと僕は思う。僕はこの本をえるのはアホのすることだ、ということ。各の世界である。 ( 『闇の展覧会』 ・マッコーリー / 訳者日矢野浩 作品の違いは、属するジャンルの違いではな者日カービー ここ数日、そうした読み方で楽しんだから、 三郎・真野明裕 / 1 Ⅱ四六四頁・ 2 日四六六 くて、作者の持っている資質の違いである。 つまり良い本なのだろう。 個々の作品をどこどこの畑から見つくろつみんな″何か。を表現しようとしてホラーを という注釈は、この際、膩い選んだのだ。そのことにどんな差がある ? てきた云々 下げにしたいものだ、 ( アンソロジストとし純真な読者が勘違いするといけないと思って 言うのだが、純文学やの方からも分けへ ては、そこの部分こそ雄弁に語って、自分の 着眼の妙を誇りたいところだろうが ) 。そしだてなく作品を選択してくるのは、別に大し て重大なことではない。それがあたりまえな て、怪寄小説に限っては、僕は作品の文体、 趣向、その他あらゆる範囲にわたる欠点に目のだ ! 我が界にも、似たような誤解があるよ をつぶろうと思う ( これもまた、多くの本の 紹介者が好んで揚げ足とりをするところであうな気がする。ひと頃はやった「の浸透 ろうが ) 。怪奇小説というのは、それだけでと拡散」の議論ーーあれだって、なんと多く それほどに楽しいものであるし、もちろん怖の人が勘違いしていたことか。 物事をとして楽しむことができるの・・。辮【 ( ~ 第 " 【、ー物、 ( 、・簽ーー・、 いものなのだ。この楽しさは、本を読むとい うことの原点なのである。極論すれば、怪奇は、我々ファンの「能力」あるいは「権 小説の嫌いな人は、本を読むのが好きである利」なのであって、断じて「義務」ではな どうして、あれはだ、いやでは 筈がないと、僕は田いう。 1 この楽しみを知っている人なら、本書の個ないなどと決めねばならないのか ? 「権利」 個の作品をーー純文学作家が書いたとか、を行使するのは、我々フ , ンの側なの霻、 作家が書」たとか」 0 たーー出自で判断すだ。そもそも U)ß@楽しみを知らな」人たち一「黽 は、物事のおもしろさを万分の一も味わえず、ま・・ る人はいないだろう。怪奇小説として編んだ 以上、全作品まぎれもない怪奇小説なのであに死んでゆくだろう。我々は、ファンに り、なんでこれが怪奇小説なんだとイチャモなれたことの幸福を、もっとも「と自覚しな ンをつける読者はいない筈である。各作家ければいけない。
種もの雑誌が星新一の作品を発表してい 私もこの本のために序文を書き、この作家星新一氏の連作『 / ックの音が : : : 』を全 8 て、中にはこの作家の。フロフィールを載せ 5 の。フロフィールと作品の特色を紹介してい 文訳してもらった。私はこの巧妙なプロッ たものさえある。一九八一年十月十六日、 る。本はすでに印刷に廻されており、陳達 トを用いた作品が大好きだからである。 「光明日報ーに発表した拙作「ショート・ 林の装丁によって黒竜江科技出版社から出 筒井康隆、眉村卓、矢野徹、杉山祐次郎 ンヨ】ト の話」でも、星新一氏の創作の概版される予定である。また、孟慶枢の編集らのも、さまざまな雑誌に載ってい 況や作品の特色を紹介し、″星新一のショ による星新一ショート・ショート選も、江る。貴州の「大衆科学」、上海の「児童時 】ト・ショートは。フロットが精巧で、物語蘇科技出版社から出版されるはずである代」、天津の「智恵樹」、北京の「科幻海 性が濃く、空想と現実とがよくとけあい が、私は孟氏と意見を交した上、両選集の洋」などである。筒井康隆氏は、氏の編集 かなりの程度に日本の社会の様子を反映し作品が互いに重複しないようっとめた。更による『日本ベスト集成』を寄贈して ている″と指摘しておいた。星新一のショ に私は上海にいる二人の翻訳者に頼んで、 下さったし、眉村卓氏もまた作品を寄贈し 1 ー , い・ンヨ 1 ーー が中国で流行するようにな ったのは、私見によればいくつかの原因が ・解説 事情はあまり変わらないだろう。だから、日 考えられる。一、作品が短いので新聞や雑 日中交流雑感 本の翻訳者たちも作品を人手するのに苦 誌に載せるのに具合がよいこと。二、物語 労する。しかもこの国はまだ万国著作権条約 深見弾 性が濃厚で、面白く、結末がしばしば人の に加盟していないため、著作権エージェンシ 意表をつくこと。三、何人もの熱心なファ 一昨年、各誌で中国が何点か続いて紹 ーを通じて手に入れる事もできない。そこで 介されたとき、社会主義圏を表看板にし熱心な翻訳者や研究者は直接作家から送って ンがいて、たえず翻訳しては推せんしてい ているため、解説を書いたことがある。中国もらうか、あるいは個人的な友人に頼むしか ること。たとえば上海の李有寛氏、長春の 語ができもしない者が、中国について解方法がないわけだ。これにはいろいろと障害 孟慶枢氏などは星新一作品のきわめて熱心 説したり、紹介者のような顔をするのも烏滸もあり、長い目で見たときけっして好ましい な紹介者である。「科学文芸訳叢」の第四 がましいと思い、そのご本誌で中国に関状態とはいいがたい。中国が早急に著作権条 心がある人達に呼びかけ、昨年一月に仮称約に加わるのがとりあえずはいちばん望まし 号には孟慶枢のこんな文章が載った。が科 「中国研究会」 ( 代表者・岩上治 ) を発 いのだが、それは国家レベルの問題であって 学的思索、詩的抒情、深刻なる諷刺 ( 星新 足させてそちらにパトンメッチした。 すぐには実現しないだろうから、現実的な策 一のショート・ショートについての読後メ ところがまたもやこうしてこの国のことをを考えなくてはならなかった。 書いているには事情がある。 そこで、目下中国界で精力的に活躍し 社会主義圏では一般に個人が外国の書籍を ている葉永烈氏と日本のプロダムの窓口 私の編集による『星新一ショート・ショ 手に入れにくい 。ソ連や東欧ではいわゆる洋として私が、とりあえずは文献交換の方法に ート選』には、李有寛、盛樹立ら五人が翻 書店があり個人でも店頭で外国書が買えなく より、事態の改善をはかることになった。そ 訳した作品を収めている。巻頭には作者の もないが、いろいろと制約がありが自由 してできる限り早い機会に公的組織にこの仕 に手に人るわけではない。中国でもおそらく 写真と中国の読者へのメッセージがある。 事を引き渡し、それそれの国の研究者、翻訳
のがあるわけではない。、 とこもかしこも砂ばかりで、車を走らせら れるという意味ではどこも変わりがない。だから第二観測所からい きなり第四観測所へ直行することにした。そうやって、短い軸にほ ・ほ並行に楕円形を横切った。それで大いに時間の節約になった。だ がそれよりもなによりも、初めてのコースが走れた。月は、たとえ ばヒマラヤ地方よりよくわかっていると、地球ではいわれている が、それは正しくない。たしかに月面地図は正確かもしれない。だ が、数キロメートル 上空から航空写真で地図を作製することと、ま だ一度も宇宙飛行士が足を踏み入れたことのない砂漠を横断するこ ととは、まったく別問題だ。それはちょうど、地図をのそくたけ で、どこで抜けだすべきか正確に知ることができるのに、それでい て未知の世界を探険しているような趣きがあった。 第二観測所に着くまでに地図を調べたところ、つぎのことがわか ったーー第二観測所から谷を左へ向かい、そのあと中ぐらいのクレ 1 ターの底を横切り、峠をひとっ通り抜けるだけでよかった。その 先数キロメートルのところに第四観測所へ通しる通常ルートが伸び ている。 そこで、ムネモトロンを交換してから、第二観測所が建っている 低い丘を越えると、そこはすでに谷底だった。月上車のヘッドライ トを点灯。太陽が輝き、丘の上は月が痛いほど明るかったが、谷間 には黒い、まさに宇宙の暗黒が支配していたからだ。おそらくうん と昔、何世紀も前に、火山活動と月面を波打たせた月震が続くうち に、丘は谷底といっしょに陥没し、それまでの高さより数十メート ルは沈下してしまったのだろう。だが、数世紀前のその大異変を偲 ばせるものはなにひとっとしてなかった。谷底は平坦で、ほとんど 石はない。だが岩壁のそばには大きな石しかなく、まるで途方もな ポーランド T) 界は、レム にあらずんば人にあらずの感 、、があるのは、日本での印象で あって実態はそうではない。 本国の界にあってはレム はむしろマイナーな存在。そ の点フィアウコフスキは典型 的な人で、創作いがしに も多面的な活動をしている。 六〇年初期にデビューしてい るからこの道では年季が入っている。その間ほ・ほ二十年のあいだに 五十点を越す作品を発表しているが、すべて中短篇で、長篇を書か ない作家と思われてきた。ところが心機一転、七九年に長篇。、、 ~ 。 3. ミ 5 『分裂人間』を発表して短篇作家の名を返上した。しかも この作品はポーランド史上画期的な作品として評価され、たち まち再版を重ね、十四万部を売り尽すべストセラーとなった。翌八 〇年には英語を除くおもなヨーロッパの言語に翻訳されている。そ れに気をよくしてというわけでもないだろうが、八〇年八月に新し い長篇斗ミ . をト、 ~ 、 ~ を『アダム、われわれの一人』を脱稿、 国内で出版される前に国外で買い手がついたという。そうした背景 もあってか、昨年からは ( 世界作家協会 ) のソ連を除 く社会主義圏の代表におさまっている。 「見張り」はこの作家の代表的作品を収めた短篇集『宇宙港』 ( 七 五 ) から採った。 ( 深見弾 ) コンラド・フィアウコフスキ Konrad Fialkowski と作品 , の
がすっかり姿を消していた時期に、中国の中国で翻訳されたはアメリカが最も多 ついでイギリス、ソ連、フランスとい 最も著名な出版社ーーー人民文学出版社が、 うことになろう。現在、中国ではすでにア 一九七五年六月、日本の著名な作家小 メリカ、イギリス、ソ連、フランスの 松左京の長篇『日本沈没』を出版した アンソロジーや長篇が出版されている。そ のである。訳者はべテラン翻訳家の李徳純 のうち海洋出版社が一九八〇年に出版した であった。これは今にいたるまで中国語で 出版された唯一の長篇日本である。訳欧米著名選『魔の三角海域と』 者が私に語ったところによれば「中国語訳は四十二万部を発行、この一年間のベスト セラーに入った。然るに日本について は日本の光文社から一九七三年に出た本に よっている。翻訳にあたっては地震に関すはいまたに選集も出ていないし、長篇も出 る知識とラブシーンの描写を削った」そう版されていない。むしろ日本の推理小説の だ。この時出版された『日本沈没』は〈大方が中国では流行していて、松本清張や森 批判資料〉とするためのもので、一万部印村誠一の中国語訳は初版で何十万部も印刷 刷された。装丁は白紙で何の装飾もなく、 され、甚たしくは同一作品がいくつもの出 〈日本沈没〉の四字が緑色で刷られている版社から異なった訳本で出版されるほどに なっている。 だけである。 、る。だが彼の作品があまり中国の国情に 小松左京は現代日本界の重鎮で、著 〈四人組〉粉砕ののち、中国の創作は 急速な発展を見たが、同時に大量の外国作にもあまたの長篇がある。ところ合わないためか、多くの翻訳家が小松左京 が翻訳出版された。私見によれば、近年が、おそらく作品が社会性に重点が置かれのをいくつも手がけているにもかかわ ているせいであろうが、中国語に訳されらす、なかなか出版できすにいる。 現在、中国で最も有名な日本の作家 一レたものは殆どない。ただ江蘇科技出版社 シ表が一九八〇年に出版した『科学文芸訳というと、おそらく星新一ということにな ろう。彼の ( 主としてショート・ショ ・の叢』の第二号には『物体 0 』が出てい ート ) は、中国の文学雑誌、科学普及雜誌 一刊る。訳者は小松左京の紹介には好意的 ョ未 で、彼を " 日本の著名な作家″、″多から少年児童向けの雑誌まで、いたる所で 産型作家″で″作品の題材はたいへん広見ることができる。「青春」「外国文学」 " 日本の政治や文化の現状「科幻海洋」「科学文芸」「科学時代」「児 ー新品ウきにわたり″ 星作ア 童時代」「好児童」「世界児童」等々何十 に対し常に批判を行っている″と評して 5 鉄腕アトム ( 連環画 ) 中国版表紙
て下さっている。 日本の作家の筆になる人物で、中国 で最も名声を得ているのは、アトムである にちがいない。というのは、中国中央テレ ビ局では一九八〇年十二月四日から、連続 アニメ『鉄腕アトム』 ( 全二十六回 ) を、 毎週土曜日の夜に放送し、小さな観衆たち に大歓迎されて、かなり大きな社会的反響 を呼んだからである。手塚治虫氏も中国中 央テレビ局の招きに応じて第一回の放映に ゲストとして出席、中国の観衆に向かって メッセ 1 ジを述べた。今では、中国の子供 ならほとんど誰もが『鉄腕アトム』の主題 歌が歌える。玩具屋の店先にはアトムの人 形が並び、子供たちのハンカチやマフラー にはアトムのキャラクターがプリントされ ている。『鉄腕アトム』のシナリオ作者の 一人である杉江恵子が一九八一年六月二十 二日に自殺したというニュースが伝えられ たときは、大勢の注目を集めたものだ。北 京科普出版社からは一九八二年五月から 『鉄腕アトム』の連環画を分冊にして出版 していゑ一九八二年に出版された雑誌 「科幻世界」にはその推せん文が載った。 いわく″『鉄腕アトム』の特色は、科学技 術を形象化し、人格化して、科学の持っカ を示してみせてくれる点にある。また科学 は人間が邪悪と戦うのを助け、前途にふさ であり、その活躍ぶりは目ざましい。 ( もっ 者が広く利用できるように努力するよう申し とも処女作を一九五一年、十一歳のときに発 合せた。 表したという ) に限らず推理小説もて そして八月からその作業が始まっている。 がけるが、最近はが多い。六三年に北京 すでに送られてきている文献は、当面、中国 研究会が管理してくれるので希望者があ大学化学科を卒業したあと、転じて科学教育 ればそちらから借り出すことができる。でき映画の制作にたずさわり現在もディレクタ , ー ることなら最初からどこか公的機関、たとえとして活躍している。推理小説の手法を に応用した巧みな筋の運びかたは中国界 ば公共図書館などの協力が得られればと思 で第一人者と目されており、若い層にファン 、何カ所か相談を持ちかけたがことわられ た。どこかに、中国と中国語に翻訳されが多い。ことに西側への中国の紹介では た日本をぜひ収集してみたいというとこその功績は大きい。たとえば「ローカス」へ ノノロン編、 ~ 、 0 ミヒ 0 ト の寄稿、ニーレ・・、 ろはないだろうか。 三、・ ( 第二版、一九八一年 ) の中国 中国は日本のように出版活動がかならずし の頃の執筆などで、英語圏にもその名は知ら も中央に集中しているわけではなく、北京、 上海、長春、杭州、天津などそれそれの都市れている。十月初めに日本へ寄った後、上海を ( 地方 ) で独自の出版活動が行なわれている訪れたハインラインを密着取材したそうだ。 一般に中国では翻訳出版書に原作名を表示 ようだ。したがって、それぞれの地方で個別 しない習慣があるせいか ( しかし、ごくたま に同じ作品が翻訳紹介されることも起ってい には記載してあるものもある ) 、この人の原 る。中国の翻訳者や研究者が広く利用できる ことを条件に今回の文献交換が始まったわけ稿には訳題しか表記されておらず、せつかく の貴重な情報がその価値をなくしてしまって だが、結局、葉永烈氏の住む上海の関係者に いる。今回の「中国における日本につい ついてはその条件が満たせても、他の都市は ても星新一、眉村卓、田中光二の作品に ( ? ) 依然としてあまり状態は変わっていないよう がつけてあるのは、葉氏にも問い合せても原 だ。相変わらず交換交換の要請が続いてい 題がわからなかったからだ。浅倉久志氏の指 る。だがとてもそうした要請に応えきれない のが現状である。〈中国へ本を送る運動〉の摘によれば、「ローカス」の記事にも原題が はっきりしない作品がかなりあるという ( 訳 版ではないが、手持ちのの中からも し送れるものがある方があれば、ぜひ協力し題から英訳されているため ) 。 ここで見るかぎり、今のところ中国に紹介 てもらいたい。 された日本は短篇の紹介しかされていな い。たが、 r-nr-æに関心のある日本語翻訳者が 今回、本誌に中国における日本の紹介 かなりいるようだし、田中光二の『大いなる を寄せた葉永烈氏は、いわゆる文革以前に 逃亡』の連載が始まっていることからみて を発表したことのある鄭文光、童恩正とい った作家とちがって、第二世代に属する作家も、今後が期待できそうだ。 9
篇は、ラリイ・ ーヴンと合作の The 切 g & 尾 ( 1971 ) である。未開惑 星に不時着した調査隊が出くわす数々ので きごとーー傍観者の目には魔術としか見え ない現象に科学的合理性を与えようとす る、生彩に富んだ試み。最初のソロ長篇 S 第。化飜 / 襯襯 ( 1972 ) は、消え失せた 銀河帝国と、題名にあるその宇宙船群をさ がすひとりの男の物語である。彼の最も有 名な長篇は一ん〃浦 e Ⅳ 0 ( 1972 ) だろう。これはコンピューターに おける人工知能 ( 知性 ) の進化を扱った もので、内容に必ずしもそぐわない荘重な 調子で生命のさまざまな問題が論じられ る。Ⅱ″んツ g 襯 3 , 1 ( 集 1972 ) には、彼の数少ない貴重な短篇がおさめら れている一一一表題作 ( 1972 ) は、唯我論と 知覚をテーマにしたファンタジイで、多少 幼さはあるものの効果的な言語遊戯が盛り こまれている。立イ ' s C ん 7 ・ ( 1972 ) はスペース・オペラ これにス ターシップの船長と一等航宙士の対立がか らむ。 The Ma 〃ん bl イい elf ( 1973 ) には、タイム・バラドックスによ り自分の複製たちと出会う男が登場する。 ぎくしやくした短い文章で語られ、最後に はその数人と乱交し、相互的自己愛を満足 オデッセイ』 させる。『ムーンスター ユ。 r 0 ( 1977 ) の舞台となる のは、異邦の惑星の両性具有社会である。 その住民は、思春期を過ぎるまで、いずれ かの性に落ち着く必要はない。フ。ロットに 弱点はあるが、どこかカリフォルニア風 で、ときには照れくさくなるような性差別 なき社会の想像図には、迫力がある。ジ ェロルドはアンソロジーも編んでおり、 ~ ro ね立の・ s ( 乞 1971 ) 、 G 翩 ra た・ 0 れ ( 乞 1972 ) 、 & れ化け / 0 れ刃川 2 んのな 1 ( 1974 ) 、ス〃れ浦ぉ ( 乞 1974 ) などが ある。ジェルドが作品に盛りこむ数々の VIII アイデアは、やや自意識過剰な、しかもあ くまでロ語的な文体に埋没してしまうこと がある。 その他の既訳作品 〔 J C / P N 〕 『最後の猿の惑 星』おなんア br 〃尾刊 4 訪ス 2 い ( 1973 ) 神と悪魔 GODS AND DEMONS 宗教への関心は S F の初期からの特質で はあったが、それは必ずしも、神を扱う多 くの S F 作品の原動力となってきたわけで はない。場合によっては、単純な誇大妄想 と見えるときもある。 S F 作家を最もひき つける神の 3 要素は、全知、全能、そして 生命からさらには世界までも創造する能力 である。いちばん魅力的なのは、おそらく この最後のものだろう。というのは、たん に文章の上だけとはいえ、それこそ正に S F 作家自身がやっていることにほかならな いからだ。 SF 作家がそのような能力をそ なえた人物をしばしば登場させるのも当然 のことである。 SF に唯一神が描かれることはめったに ない。 S F 宇宙に神が存在する場合、その 数はふつう複数である。キリスト教的な神 の本質を探った S F 作品も、境界線上には ちらほら見つかる。マリー・コレリは宗教 体験をどうやら電気的なものと考えたよう で、スの〃〃化研 T てこ , 0 % たゞ ( 1886 ) では、神は電気となって現われる。『アル クトゥールスへの旅』 A by 加スな - s ( 1920 ) の中で、作者のディヴィッド ・リンゼイは、キリスト教やユダヤ教の神 の類型に相当するものをつぎつぎと登場さ せ、いずれも卑しいまやかしであるとして 打ち捨ててゆく。苦痛と克己のみが意味を 持つ宇宙にあっては、それらは無用なもの なのである。 H ・ G ・ウェルズのいまや埋 もれかけた著書 GO ノ , the 観なルん King 264
ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅲⅲⅢⅢⅲⅢⅲⅢⅲⅢⅲⅢⅢⅢⅢⅢⅶⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢ日ⅢⅢⅢⅢ してはその発明家よりも賢明であることを 証明する。この作品はまた短篇集 The Sco ゆ / 0 れ Go ( 集 1971 ) に ほか 2 つの ファンタジイとともに収められている。 7 ' ん / 尾 ( 1964 ) は、中世の教会の 400 ートに達する尖塔建設をテーマとし た、精妙な暗喩に富んた長篇小説。プロバ ー S F ではないが、初期科学の情報をふん だんに使い、それ以上に、天にむかって野 心的な工学実験を挑む人類の、危難と傲慢 と歓喜が語られており、その意味で SF 精 神を要約したものと解釈できる。 ゴールディングの S F との関わりは、彼 の一般主流文学との関わりと同じ程度に周 縁的なものである。しかし彼は、特に初期 作品においては寓話と小説の接線上を巧み に歩んで、驚くほど実り多い成果をもたら 〔 J C / P N 〕 0 ゴールドスミス、シール GOLDSMITH, CELE ( 1933 一 アメリカの編集者。 1956 年から 58 年にか け、ポール・ W ・フェアマンのもとで、ア メージング・ストーリーズ誌およびファン タスティック誌の編集補佐を、ついで編集 主任をつとめた。 1958 年 12 月、両誌の編集 長に就任、 1965 年 6 月までその地位にあっ た ( その後両誌は別の発行主の手にわた り、しばらくのあいだ新作小説の掲載を中 止している ) 。彼女が編集長になるととも に、アメージング、ファンタスティック両 誌の質は目立って向上した。彼女は実験を 奨励し、新人作家の育成にも努めた。彼女 のもとで処女作を発表した作家には、トマ ス・ M ・ディッシュ、ロジャー・ゼラズニ イ、アーシュラ・ K ・ル・グインなどがお り、特にル・グインは「 S F 雑誌にはめっ たにいない、進取の気象に富み、感覚も鋭 い編集者」とほめあげている。 1964 年に結 婚し、シール・ G ・ラリと名が変わった。 255 〔 M J E 〕 ゴードン、レックス GORDON, REX イギリスの作家 S ・ B ・ハフ S(tanIey) B(ennett) Hough ( 1917 ー ) が最も多く つかう筆名。この名前は S F にのみ使われ るが、また本名でも境界的な S F スリラー 刃ェツ c 〃 0 ”おの〃厖 r ( 1956 ) や、原爆による 破減もの召 00 ” e 刃ん眦厩ん〃 0 ″ K1961 ) を発表している。レックス・ゴードン名義 のデビュー作は U が 4 239 ( 1955 ) 。無 政府状態にある未来社会が、はじめのうち は愚劣に、しかし最終的には迫力満点に 描かれている。『宇宙人フライデイ』 No Man ・ / 靃 y ( 1956 ; Ma ”米 ) は、最も力のこもった作品である。ダニ 〔次しにつづく」 〔 J C/ P N 〕 が常に不協和音となっている。 を少々うわすべりに使う傾向が見え、それ はうかがわれるが、 S F テーマと科学情報 には、人間の行動論理についての深い理解 る。そのキャリアを通してゴードンの作品 する標準的な疑問がひととおり提出され 時間旅行もののスリラーで、予定説にかん 7 ' / 〃尾 ( 1962 ; 圜 T T / 襯け 0 だ英 ) は する。『未来を変えた時間』窺 r 立 7 ' 厖 g ん 助力もなしに生き残り、子孫をのこそうと ほぼ同様で、不時着した男女が何ら文化的 Ⅳの・ I み Ec ん 5 英 ) も、テーマは前作と る ) 。お耘立ん / / 尾 & 4 ” ( 1959 ; ßThe が、筋書きにはかなり似たところが見られ には彼の名前こそクレジットされていない 1 号』しん・ 0 Crusoe 0 れね 1964 の漂流譚がつづられる ( 映画『火星着陸第 のの、静かな説得力のある文章で、火星で で、科学考証にあやふやなところはあるも ー』。房れ” C を語りなおしたもの ノレ・デフォーの『ロビンソン・クルーソ XVII
く選考委員 > ・入選作・ 津山紘一 第 1 席「風の翼にのせて」 北中正和 第 2 席「ばんば駆ける」 鏡明 フ岡 ) 青 第 3 席「そして夢の国へ」 ( 本誌編集長 ) 霜月空 入谷直子 根津宏明 受賞風景。右から北中 正和氏、本誌編集長、 霜月空氏、入谷直子 : 望氏、根津宏明氏 評ー ーーー■選 レコード・アルバムによって触発されたイ 感性を全面に押し出した「風の翼・・・・・・」が第 1 席になりました。第 2 席の「ばんば駆ける」 メージによるファンタジー・コンテスト、と いうことで、応募された方にもだいぶ戸惑い は、中世のお姫様の亡霊 ( ? ) に現代の若者 があったようです。もともと、ファンタジー が恋をするという設定で、擬古文を取り入れ コンテストそのものも初の試みですから、い た書き方とあいまって、応募作中随一のオリ たしかたないところもあったでしようが。そ ジナリティがありました。しかし、技術的に の戸惑いを反映してか、応募作は総体に印象 力の及ばない部が目立ち、北中委員をはじ の薄い、またオリジナリティにとばしい感じ めとして選考委員が内容、意欲は高く買いな がありました。特に、フェアリー・テールの がらも第 1 席は逸しました。第 3 席の「そし 系統の作品が多く、かなりまとまっているも て夢の国へ」はかなり乱れた感じの作品です のも多かったのですが、選考委員会全体の雰 が、イメージのおもしろさで選ばれています。 囲気も、いまさらまったく同じような作品が なお、昨年 11 月 25 日、渋谷のヤマハ店内の 書かれる必要があるのだろうか ? というも く D O I N 〉において授賞式、あわせて のでした。そして、サウンド・ファンタジー 「クロスウインド」のライプがおこなわれま にふさわしく、音楽の要素を取り入れ、若い した。 ( 今岡清 ) 早川書房 主催キティレコード 協賛東海楽器 後援 209
ジネスマン、いまや人間ではなくなり、金 属と融合し、そのおそるべき現実改変は善 悪をほとんど超越しているかに見える。上 記作品をはじめ、ディックの著書は、平凡 な人びとを宇宙的なあやつり手の夢と悪夢 に直面させる。そこにはポルテージの高い スリルがある。 もっとはるかに正面きって神を扱った作 品も一握りある。その思想の起源は中世占 星術にさかのぼり、どんな惑星にも守護霊 が存在するというものだ。 C ・ S ・ルイス の《ランサム》もの 3 部作がそれにあたる が、その着想は直接キリスト教から発して いる。ゴードン・エクランドとグレゴリイ ・ペンフォードのノヴェラ「もし星が神な らば」 "lf the Stars are G0ds" ( 1974 ) は、後に同題の長篇 ( 統 1977 ) の一部にも 使われているが、 ここに登場する異星人た ちは、宇宙が恒星の内部に住む神々によっ て支配されていると信じている ( このアイ デアはウィリアム・フ・レイクの詩にも見ら れる ) 。同じテーマをさほど神秘的でも超絶 的でもなく扱った先駆的な例としては、フ ランク ートの『鞭打たれる星』 悪魔的な闇の生き物どもも、ロノく一 ・ハワード描くコナンには、まったく日常 のものだ。ジャンル S F 作品に特別おそま しい異星人が登場する場合、 ( 種族的記憶 の話題などを添えて ) 悪魔的な外貌が付与 されることが多い。『宇宙船ビーグル号』 The % the S, 加化 & ( 1950 ) に組みこまれたヴァン・ヴォートの デビュー第 2 作、 "Discord in Scarlet" ( 1939 ) 、そしてキース・ローマーの A ~ g46 De 襯 0 ( 1965 ) どちらに もおそろしく邪悪な生物が描かれる。もう 少し創意に富んだ変種は、アーサー・ C ・ クラークの『幼年期の終り』 C んん。。 d な 五〃 d ( 1950 ; 囲 1953 ) に現われる。 は人類は、まさに悪魔そっくりの異星人に 遭遇する ( キリスト教神話にあるコウモリ の翼を持ったイメージは、かって来訪した 異星人の記億が綿々と伝えられたものであ ったのだ ) 。しかし彼らの性格はなさけな いほど穏やかなものであることがわかる。 ハード S F 作家の S F がかったファンタジ イでは、地獄も悪魔も実在すると仮定さ れ、そこに擬似科学的な合理性が与えられ る。初期の例のひとつはロバート インラインの「魔法株式会社」 "The Devil Makes the Law" ( 1940 ; Y'Magic, lnc. ") で、近年の例にはポール・アンダースンの 『大魔王作戦』 0 加 ra 〃。れ C 。 5 ( 統 1971 ) 、 Ⅳんゆがれ g Star ( 1970 ) ならびにその続篇 『ドサディ実験星』 The D 。市刃の加厖 - ”尾厩 ( 1977 ) がある。 悪魔や悪霊のコンセフ。トも SF では同様 にありふれたものだが、その扱いはたいて い単純なレベルにとどまっている。一般の ファンタジイと同じように、それらは中世 的な地獄の解釈から導きだした、恐ろしい 邪悪な存在であるにすぎない。 S F 的要素 を含んだ悪魔学小説もかなりあり、アンソ ・パウチャーの「スナル虫」。。 Snulbug " ( 1941 ) には時間を歪める悪魔が、またへ ンリイ・カットナーの「その名は悪魔」 "CaII Him Demon" ( 1946 ) には異次元 からやってきた吸血生物が登場する。剣と 魔法ものには、悪魔そのものも現われる。 XII ラリイ・ ーヴンとジェリ ーネルに S F よるダンテの模作『インフェルノ 地獄篇』み。 ( 1975 ) などがある。ノ ーヴェル・ W ・ペイジの最も有名な作品 "But Without Horns" ( 194 のでは、テ レバシー能力を持っミ ータントの物語に 悪魔のイメージが重ねられる。アイザック ・アジモフの「地獄の火」 "Hell-Fire ” ( 1956 ) は核実験の道徳性をたくみについ ート・ショートで、爆発の瞬間をと らえたスローモーション・フィ / レムに、キ 260