何だというんですかーーー原口さん、少し、ノイローゼ気味なんじゃ彼がとうとう入口を見つけ、あの原つば、大きな洋館がありいっ もたそがれどきの、コウモリのとぶあの原つばに帰っていってしま ありませんか ? やつばり、働きすぎですよ : : : 」 った、などということがーーありうるはずはない。 「幽霊じゃない。現実ーー」 きっと原口氏は疲れすぎてーー、ふっと何もかもがイヤになる、あ 原口氏は、低く笑った。 の恐るべき発作にとりつかれたのだ。そうにきまっている。 「どうしてそう云える ? そんなに君は、自信があるの ? 」 そうでなければ 「ぼくはねーー・・ほくは、そんなこと、どっちだってかまやしないん何ともいえない心細さ、たよりなさ、心もとなさーータぐれどき ・ほくが幽霊の泣きたいようなやるせなさが・ほくをつよくとらえていた。まだ、 . だーー本当はね。彼女が幽霊であろうとなかろうと であろうとなかろうと。ただ、・ほくは、あそこへ帰りたい。更級日まっ昼間、光あかるいビルの谷間の、都会の大群衆の中にいるとい うのに。ぼくは原つばなど知らない。青白い顔の少女も、白い古・ほ 記の少女のゆめみていた、あの物悲しい、さびしいたそがれどきー けた洋館もない、ー まくはそんな幽霊などとは縁がないのだ。だのに ー原つば、タやけ、 あの中へ帰りたい。もう トーフ〕距のラツ。ハ 一度彼女を見上げ、彼女の窓にポールを投げこみ、おそるおそるあなぜーー。ぼくはこんなにも淋しいのだろう ? の古い、きしむ扉を叩きーーーそうだ、そうしたらきっとあのひとに原口さんは行ってしまった。 そして、・ほくには、かえるべき原つばは、もうどこにもありはし 入れてくれる。あの洋館の中に入れればーー。何もかも : : : なぜあの ないのだった。 ひとは、いつもあんな、悲しそうな顏をしてたんだろう。ぼくは、 また原つばへ遊びに 電話は切れた。 ぼくは受話器を見つめ、凝固したように立ちつくしていた。気の・ せいだろうかーー気のせいだろうか ? 途中から、電話の向こうの 声が、カン高い、幼い、少年のそれにかわっていったようにきこえ たのは そんなばかな そんなばかなことがあってたまるものか。 翌日、原口氏の失踪を知ったときも、ぼくはそう思ったのだっ一 た。そんなばかな
実際にはもう、 しい中婆さん いや、病気だったんだから、とっ 「ーー考えていたんでね」 くに死んじまって、家族にさえ、忘れられているかもしれないけど何ともいえない妙な口調で彼は云った。その口調が、・ほくの酔い 7 : しかしーーそう思ってたからね、ぼくは、ショックでしたよじをすっかりさましてしまった。 っさい、さっきこの生島君が、われわれは原つばなんて塾通いでい 「いったい、・ とうしたっていうんです ? 」 くひまがないし、第一原つばなんてものがもうない、と云ったとき外へ出てから、ぼくは思いきってきいてみた。 にはね」 「原口さん、変ですよ : 「わかるなあ。しかし、あんた・ーー」 「オレにはーー・オレにはわからん」 ・ほくは、いつのまにか、カウンターにつっぷして、ぐっすり眠っ 原口さんは、相変らず、何ともヘンな口ぶりでいった。が、少し てしまっていた。 行ったところで、急に立ちどまり、・ほくの肩をつかんだ。 子守唄のように、はじめのうち、二人の郷愁にかられた中年男の 「生島君、あんた、オレがどこかおかしいように見えるか」 話し声が快く耳にひびいていたが、意味がとれなくなり、それもき「ええ。 って、いつもの原口さんとちがうって意味ならね。少 こえなくなり : し、ヘンですよ。何かあったんでーーー」 気がついたら、・ほくは、原口氏に乱暴にゆりおこされていた。 「あのーーーあの山田さんと、ずっと話してたんだ」 「看板だ、生島君」 彼は思いきったように、ふるえ声で云った。 原口氏は妙なぎこちない口調で云った。 「あんたが寝ちまってからーーー話せば話すほど、意気投合して 「出よう」 これほど記憶が一致するのは、互いに顔にや覚えはないけど、どう 「あ・ーーうーん、ええ」 したってあのころ原つばで顔をあわせてるはずだーーーひょっとした のびをしながら見まわすと、せまい店の中はぼくと原口氏だけー ら、小学校の同級生じゃないかってことになった」 ーくだんのおしさんはもういない。 帰ったんですか、と云おうとして、ぼくは、原口氏のようすがど「でーーーさいごに、どこの小学校かと , ーー同じでないまでも、とな こかおかしいのに気がついた。 り町にちがいないとーーきいておどろいた。というより : : : 」 「原口さん ? どうか、したんですか ? 」 「何です。ふるえてますよ」 「いいから出よう。もう勘定はすんだ。今夜は奢るよ」 「イクちゃん」 「すいません。 あの人は ? 」 原口氏はごくりと唾をのみこんだ。 「山田さん ? 帰った、とっくに」 「あのーー山田さんは、 x x 町の生まれだ、というんだ」 「なんだ、しゃ起こしてくれりやいいのに」
ま、 ・ほくは自分の仕事に忙しく、別に彼のことを気にとめるでもなか ・ほくは思い、仕事に戻った。原口氏のしたいという ったがーーーちょうど一週間たったタ方、ふいに原口氏から電話がか話だって、そのことだ、という根拠は別にないのだから。あんな酔 7 かってきた。 余の下らぬ会話を真にうけて怖がったり、いつまでも気にしてるな 「生島君、このあいだはすまなかった。今夜、あいてないか」 んておかしなことだ。きっと、何かの偶然にきまっている。さもな 「今夜 ? え工、あいてないこともないですけどオ : きゃあの山田という人が、原口氏をからかったのだ。そうとしか考 えられない。 「よかった」 電話の向うで、彼の声は、妙におちつかなかった。ぼくはそれに ところがーーー待ちあわせの場所にいってみると、原口氏の話とい 気がついて、イヤだなと思った。あまり、人の個人的な悩みやなに うのは、やつばり、そのことだったのである。 かにまきこまれるのが好きな方じゃない。 「生島くん : : : よく来てくれた」 「よかった。じゃ七時に、『ぼたん』でどうだ。オレはーーー」 ぼたんの小座敷に入っていった・ほくを見るなり、原口氏は、すが カまたつづけた。 原口氏は絶句した。 : 、 りつくように叫んだ。 「オレはもう、何が何んだかわからん。こんなこと、云ったら迷惑「原口さん、どうしたんです」 だろうが、君に助けてほしい いや、君しか、助けてくれる人が「ぼくも思わず叫んでいたが、それは、彼がこの一週間で、げつそ いない気がするんだ。頼む」 り憔悴して、目ばかりギラギラ光らせ、病人みたいになってしまっ ていたからである。 「何だかわかんないけど、とにかく行きますよ」 答えてぼくは電話を切り、ふっと憂鬱になりながら、窓の外へ目「いいんだ、・ほくのことなんかどうでも。それより、座ってくれ」 原口氏は奇妙な狂おしいまなざしで・ほくを見つめた。 をやった。五時半ーーーそろそろビルの群はタ焼けをあびている。 「かはたれ時か」 「生島くん、・ほくは気が狂いそうだ。どうして君を呼んだかという ・ほくは呟き、そんなことばがなんでふっと出てきたのだろうと思とーーー君だけが、これまで・ほくのぶつかった中で、ちがう反応を示 「た。後は時ーーそろそろ人の見わけがっかなくなるたそがれ時したからだ。・ほくたちがみんな気狂いで、君だけが正常なのか、そ 魔が刻。そんなことを、昔習ったことがある。たしかに、大れとも君だけが狂ってるのかーー世代の問題なのか : : : しかし、・ほ くは君のほかに、君くらいの年の人で心をうちあけて話せる人を知 のおとなでも、物悲しく、心細くなる時間にちがいない。 そんなことを考えたのは、このあいだの原口さんの話をつらつららんのでーーー」 思い出したせいだったのだろう。だが、考えてみてもやつばりぼく「いいですよ」 ばくは内心溜息をついて、云った。 には、思い出の中でいつまでも逢魔が刻のノスタルジアに輝いてい る原つばはなかった。トウフ屋のラツ。ハぐらいなら覚えはあったが。 「何でも、ききますよ。ぼくでできることでしたらーー・話してみて
建設的に考えましようよーー結局のところ、心の中で結晶作用が行原口氏は、きいていなかった。彼の目は、遠い昔をひたすらなっ・ かしんでいた。急にぼくは深い徒労感を感じた。 われて、何となく似たパターンになったけど、原つばなんてものは 昔はどこにでもあったんだろうし、古い洋館だってそのころは珍し かなかったんだろうし、その女の人のことはーー・見た人と、見ない 人といたわけでしよ。同世代ってことは、あるていど共通の感性や それきり、あまり話もはずまぬままに原口氏と別れたが、そのあ 体験の基盤があって、それでーー」 と、・ほくのむには、このあいだとちがって、いつまでも気がかりな ・ほくはロをつぐんだ。原口氏は、少しもきいていなかった。 思いがわだかまっていた。ぼくはそれとなく仕事仲間の若いのをつ 「あれは、本当にあったことだったんだろうか」 かまえて、原口氏のいわゆる「原つば」についてきいてみたーーあ 彼はぼんやりと云「た。その目はとおく、目に見えぬものを追いまり深入りしない方がいし という気はしきりとしてはいたのだ 求めて、自分の中へ埋没してゆくかのように何も見ていなかった。 が。しかし、・ほくと同い年か、少し上の連中には、まだ「原つば」 「あのタ焼ーー日ぐれどき、コウモリの影ーートウフ屋のラツ・ハ についての思い出をもっているものは二、三人いたけれども、白い ーたそがれどきの風にそよいでいた草ーー草いきれ、蚊柱、水たま洋館だの、髪の長い女だのに覚えのあるものは一人もなく、そし 遊ぶ子供らの声、その原つばを、いつも淋しそうにじっと見て、・ほくより若い子たちはそもそも原つばなんて死語みたいなもの おろしていたあの人ーーーぼくは忘れやしなかった。忘れたと思った だったーー公園の砂場とか、駐車場とか、工事現場のことを思い出 だけで : : : あれはいったいどこだったのだろう。いつだったろう。 すやつはいたが。地方のものは知らず、東京で育った我々には、も いっからぼくはあのすべてを忘れてしまったのだろう : : : 」 はや、原口氏のような思い出をもっ余地のある空地なんて、発見す 「原口さんーーー」 ることもできなかったのだ。大体、ぼくにしてからがそうだったー 「そうだ、そのあと何かでーーー何だったか忘れちまったがーーーアッ ーしかし、・ほくは、それで何かをうれえる気もしなかった。しよせ と思ったことがあった。すべてがありありとあざやかによみがえつん、ひとつの形がほろびたって、次の形は必ずあらわれてくるの てぎて、ああ、そうだったのかと、急に何もかもーーーあの人をわか だ。原口氏の原つばを・ほくたちが知らなくたって、あわれまれるこ ったような気がした。あれはーー何だったろう。思い出せない」 ともあるまい。・ほくらには、・ほくらの「原つば」があり、少年時代 彼はもどかしげにこめかみをおさえた。ぼくは心配になってきの思い出がある・ーーたとえそれが、塾の行きかえりに買い食いした 肉まんじゅうや、暴走族のたむろするスナックのようなものでもそ 「原口さん、でも、どっちにしてもそういうことはあまり考えないれがぼくらにとってはかけがえのない追憶なのだ。 方がいいですよ。とにかく、ものごとは、前を見た方がいいんで ぼくはわけのわからぬ不安にかられて、何回か原口さんの会社や 家へ電話をしてみた。しかし、どういうわけか、いつも留守たった 3 7
「あーー君は東京じゃないのか。 x x 町ってのはーー・江東区なん「わからん、オレに、わかるわけがないだろう。だから云ってるん じゃないか」 だ。そのーーぼくの生まれ育ったところは、世田谷区なんだよ 原口氏は叫び、そして、ふいに・フルッと身をふるわせた。 東京の反対側だったんだ : : : 」 「生島君。オレは、怖いんだ。何がどう怖いのかわからんけど、何 だか無性に怖くなっちまったんだよ。すまないけど、家までつきあ ぼくは鳩豆の顔をしていたにちがいない。 ってくれないか。ーー大の男が、と思うだろうけど : : : 」 「でもそれじや同じ原つばへ遊びになんか、いけないじゃないス 「いいですよ。でも・ーー」 か」 ぼくはまだ半信半疑だった。 「だ だからさ」 「なんかのまちがいか、偶然の一致としか、・ほくには思えないけど 原口氏の顔は、頭上のネオンに緑と赤に交互に照らし出されなが ら、そのくせひどく白っ茶けて見えた。 「それならいいんだがーー」 「じゃ、カンちがい あんまり、かんたんに意気投合するからで 原口さんは重く呟いた。 すよ。同じような経験があるからって」 「オレだって何がこう怖いのかわからんよ。こんなことって現実に 「そうじゃないんだ ! 」 あるのかなあ」 彼があまりカをこめて叫んだので、酔漢がふりかえった。 そう呟く彼の肩はがつくり落ちて、何だか急に弱々しく、たより 「君には、わからんのかなア。 こんなことは、ありえないんだ なくなったみたいに見えた。 よ。原つばぐらいなら、あちこちにあったかもしれない。しかし、 白い洋館と二階の美女ーー家のようすも、女の人の外見も、何もか も同じーーこんな・ハ力な偶然があるかい ? 江東と、世田谷と、た またまどちらにも同じ原つばがあって、つきあたりに古い洋館がた奇妙な一夜だった。ぼくは原口氏を彼の家まで送りとどけ、結局 っていて、そこに病身の女の人がひっそり住んでいたなんて : ・ : ・偶すっかり酔いつぶれてしまった彼をきれいですてきな奥さんにぶし 然だってそんなことはありえないよ。誰も、そんなこと、信じるパ ひきわたして帰り、そしてーーそしてたちまちその夜のことなど忘 力はありやせんよ」 れてしまった。 「しや同じ原つばが、次元断層で江東と世田谷につながってたって それもしかたない。ばくにとっては、この話そのものが何の現実 んですか ? じゃあるまいし」 感もなかったし、原口氏の感じているショックそのものが、もうひ 「そうさ。そんなことはありえない」 とっビンと来なかった。原口氏からは、それきり一週間、何の音沙 3 「じや一体、どういうことなんです」 汰もなかった。
下さい」 少し間をおいて次ーーそしてまた次。どれも大同小異だった。 「うん」 五、六人のその証言者たちは、みな、原つばを知っており、洋館を 原口理は、少しおちついて、酒をぐっとあおり、かたわらの紙袋覚えており、そしてその女についてだけは、知っているものも、知 から、小さなテー。フレコーダーをとり出した。 らぬものもいた。原口氏以上に熱烈に彼女にあこがれていて、思い 「ぼくがロで云っただけじゃ、君は、ぼくが気がふれて下らぬ妄想出すと泣き出したものもいた。一回だけ見た彼女を、幽霊だとかた をたくましくしてるだけだと思うにちがいない。そう思って、全部く信じているものもいた。 録音しといたんだーーまあ、きいてみてくれ」 「この人たちは どこの生まれなんです ? 」 ばくは原口さんと向かいあってすわり、再生されるやりとりに耳「東京ーーーそれだけは共通してる。あとは全部 : ハラバラだ。一人は を傾けた。 谷中ーー原つばの向うに五重塔がみえたといった。一人は杉並、あ と、本郷とか、経堂とか、渋谷とかーー何の共通点もない。絶対、 「ぼくは何人もの奴に電話をかけたり、呼び出したりしたんだ」 原口氏は注釈をつけ加えた。 同じ原つばでは、ありえないんだ。ー・ーー君、どう思う。ぼくが、下 「云っとくが、決して編集したり、意識的にあいてをえらんだりはらん手のこんだいたずらを君にしかけて喜んでる、と思うならそう していないよ。アトランダムに、・ほくの知人で、そして同年輩の者云ってくれ」 をえらんだだけだ」 「そんなこと思やしませんよ。原口さんが・ほくのことをそんなふう 「ーー原つば ? 」 にからかって、一体、何のトクがあるっていうんですーー・この人た どこか小料理屋か何からしく、とおくから歌のきこえてくる中でち一人一人だって、別々に話をきいたんでしよ。とすれば、原口さ んがロウラをあわせてからかわれた、ってこともないでしようし 男の声がいう。 「ああ、そういやーーーあったなあ。うん、毎日、学校がひけると遊ね」 「ああ。第一、この連中、中には共通の知りあいもいるが、大半 びにいったよ。え ? 洋館 ? 髪の長い女 ? ( 沈黙。ややあって ) へえっーーふしぎだ。云われて、突然思い出したよ : : : そういや、 は、互いに全然無関係な人たちなんだ。それにこのあいだの山田さ 原つばのつきあたりに白い家があったつけか。オ・ハケ屋敷だ、とい んなんて、正真正銘、あのときはじめて会った人だからね。ーーあ のとき、『赤のれん』へ行こうと決めたのは、君と会ってからだっ」 って、みんなこわがって近よらなかったよ うん。へえ、すっか た、それも君が云い出した。そうだろ」 り忘れてたなあ : ・ いや、そこに人が住んでたってのは、覚えがな 。うん、女の人ーーー見たことないな。へえーーー君に云われるまで 「そうですよ。それに原口さんがあんな話はじめるなんて誰にわか ります ? すっかり忘れてたけどーーあれ、君、オレと同じあたりの生まれだ でも、じゃ、どういうことなんだろう、これは」 つけ ? 」 「君が、まじめにうけとってくれるようなので有難いよ」 5 7
り、会議中だったりして、話をすることができなかった。そのうちだった。土地の老人の話じゃ、まっ平らな焼けあとに立って ・ : 焼けのこった に、しだいにぼくの気がかりもさめてきて、あまりそのことを考えもない地平線に富士山がみえた、といってたよ。 ないようになったとき , ーー突然、原口氏から、電話がかかってきた古い家など、少なくともあのあたりには一軒もなかったはずだ、と のだ。 いうんだ」 「ああーー原口さん。心配してたんですよ」 ぼくが叫ぶのをおさえるように、原口さんの声は沈んでいた。 ぼくはそ 1 っとした。云うべきことばも見つからぬまま、黙って 「もういいんだ」 彼は云った。 「何だかーー何だか、それを知って、ぼくはーーー何かがわかったよ 「もう、 いいんだよ」 うな気持になってね」 「やつばりーーこ しいって、何かーーわかったんですか ? 」 「わかったというかーーーそうでないというか : : : 」 幽霊だったんでしようかーー・・云いかけて、・ほくは思わずまわりを 「気をもたせないで下さいよ。どうしたんですか」 見まわした。 「あのーー山田さんを訪ねていったんだ」 家の幽霊。古い洋館に住む、白い服の、髪の長い女の亡霊。彼女 原口氏の声はますます低かった。 は、東京じゅうのすべての原つばで、タ焼けとメンコとトーフ屋の 一フツ。、、 日ぐれも忘れて遊ぶ子どもたちを見おろしていた、という 「そうしたら ? 」 なんとさびしい幽霊だろう。物 「そして いろいろと調べたんだ。そうしたら、奇妙なことがわのだろうか。だとしたらそれは 悲しい怪談話だろう。 かった」 「考えてみてねーーー思い出したんだ。何のときに、彼女のことを思 い出し、どう考えたのだったか」 「山田さんは、とても古びた洋館、といってただろう ? 何十年も しかし、ぼくの思いをよそに、原口氏は、寄妙な淡々とした口調 たっているような、ペンキは火ぶくれし、・フラインドはひびわれて そりかえりーーーそれは・ほくも知っている。家があんなに古びるのはで喋っていた。 「あれはね、生島君 , ーー高校の授業だったよ。高校の、古文の授業 それに様式からいっても、おそらく、五、六十年はたってるは だったよ : : : 『昼はひねもす、夜はよもすがら』ーー何だか知って ずだ。ところが : ・ : こ いるかい」 「ところがーー山田さんの生まれたあたり、というのはねーーー戦災「いし で、すべて焼け野原になってーーそのあと、新しくたて直された町「更級日記さげ あの少女は、ずっと本をよみつづけ、もっとた 9 7
「淋しいねえ」 「奇遇だ」 「淋しいねえ。ま、熱いのを一杯」 「えっ ? 」 原口氏は、ついで、うっとりと思い出をたどる目つきになった。 「なんてえ奇遇だろう。あたしやその洋館を知ってますよ。あたし 「私はあの、原つばのことを考えるとき必ず思い出すことがありまも実はその家に夢中だったんだ。同じ年ってだけじゃない、ご同郷 してねえ。うちはまあ、別にお邸ってわけでもなきや、スラムってだったとは」 「ええつ」 こともない、ごくふつうのしもたやがずっと並んでるあたりにあっ たもんで、なおさら珍しく感じたってこともあるのかもしれないけ「たぶん同じ家だと思うんだ。あんたの云われた町並とか、家のよ どーーその私の好きな、原つばってのは、まわりがビルとか、道とうすとか、そっくり同じだもの。白い二階建ての家 ! ー二つづつ、 かにかこまれてたんだけど、そのちょうどっきあたりのところに、張出窓があって、枯れた。ハラの鉢なんかおいてあったでしよう ? 一軒だけ、私の気をむしようにそそる家が建ってたんですよ。そう天窓があってーー」 ー白い洋館といや、きこえはいいけど、何十年か前にはしようし「おお ! あれを知ってるとは ! 」 やたる白亜の洋館だったんだろうな、という感じのがーー、あんな古原口氏の目に、現実に涙がうかぶのをみてぼくは少々唖然とし こ。・まくには、そんなにも大切な少年時代の追憶などなかった。 い建物、まわりには、ほかにひとつもなかったから、やつばりあれナー は戦災でやけのこった昔からの家だったんでしような。いかにも古「じゃもしかして、あなたもあれを・ー・ー」 ・ほけて、白いペンキなんかも火ぶくれになってるんだが、窓は張出「そう、そう、そう、そうなんです。あれでしよう ? あの洋館 窓になってて、木のプラインドがついて、四角の二階建でね。何かの、二階の右側の窓でしよう ? 」 「おおつ、やつばり、同じ家だ ! 」 こう、どこからどこまでまわりの、つまりわれわれの仲間の家とは ハイカラというか、ノスタルジアという原口氏は絶叫し、おじさんの手を握りしめた。 感じがちがっていて か、とにかく見ると何か映画の中みたいだなという気になるーー私「あなたもあの人を見たことがあるんですね ? あの二階の人を : ・ は、その家に気をひかれてたまんなかった。というのも : : : 」 原口氏は、そこまでいって、ふいにことばをきり、びつくりして「キレイな人でしたねえ」 男を見つめた。 「長い黒い髪の毛を、白い顔の両側にたらして、いつも白い服をき 「ど、どうかしたんですか、あんた」 て、本を手にもって : : : 」 「どこか淋しそうでーー・」 おじさんは、はずかしそうに、しかし非常な感動をこめて原口氏「青白い顔だった。私らは、あれはロウガイ病だといってました」 の手をつかんでにぎりしめた。 「そうそう、親にうつかりその話をしたやつがいて、ロウガイはう 0
「オレが小さかった頃にはまだ町ん中に、原つばってものがあってよ、 それだって、・ほくのころにや、いまの子よりはすんと楽だ ったみたいだけど : : : それでも。ヒアノだ、絵だ、そろばんた、何だ 何から、そんな話になったのだったろう。 って・ーー大体、学校友達は、近所の子じゃないわけですよ。みんな、 ぼくと原口氏は、四本目の銚子を倒しながら、行きつけの赤ちょ 電車通学だから。近所の子ってのは、汚い、貧しげなのが多くっ うちんの中で勝手なオダをあげていた。 て、あんな育ちのわるい子と遊ぶんじゃありませんよ、おふくろに 「原つば、ね」 クギをさされるし。そうだなあ、子供のころ、いちばんよく覚えて 「そうさ。原つば、だよーー今はやりの、児童遊園たの、公園だのることっていうと、年一回、家族旅行であっちこっち、つれてって って、シャラ臭いものしゃないんだ。ただの原つばーー空地ーーー」もらったことかなあ」 「なんと、なさけない。話にも何にもなっとらん。貧困な少年期 原口氏はぼくより十年上で、なかなか有能なシャー。フな営業マン かけ出しのコ。ヒーライターのどこが気に入ってくれた 原口氏は威勢よくけなした。 のか、よく仕事をまわしてくれて、それだけでなく、ときどき飲み に誘ってくれる。いわゆる・ハリバリのタイ。フで、仕事も趣味も、の 「オレの記憶のゆたかさをわけてやりたいね。あのころには、高度 マルチ人間 スキン・ダイビングと水中力メラの撮影に凝ってい 成長のどうのって話はまだ関係なかった。日本そのものが、やっと て、広尾にマンション住い、乗ってる車はダブル、という典型的復興しかけているところだったが、しかし、そのかわり、古きよき ハリ・ミドルで、かなわね工なあ、という気をぼくにいつも日本てやつが、まだいたるところに残っていたね。うんーー塾なん 起こさせる。 か行ってるやつは、内む。ハ力にされてたな。点とり虫のがりがり亡 その原口氏にしては、いつにない、 シプい話題だ、とは、云えた者、といってさ。みんな、のびのびとしてたよ。ャンマとりのすご かもしれない。 くうまいやっとか、べエゴマの名人、メンコ、ビー玉の名人、ケン 「イクちゃんには、そういう思い出ってないの ? おれなんかさー 力のつよいやっーーみんな何か、誇りにしてるものがあってさ。オ ー考えてみると、あれ、オレの原点たったよ : : : 毎日、毎日、あきレは、メンコをあつめてたが、ケン玉もちょっとしたもんだった。 もせずに、学校からかえると、ランドセル放り出して原つばへかけョトヨーもうまかった。原つばでメンコをしたり、ケン玉の妙技を て行くんだよな。仲間もみんな同しでさーーー約東するまでもなかっ みせたりしてると、時間の立つのなんか忘れてた。自分より背のた た。行きや、必ず、みんないてさ : : : そんなの、覚えないの ? 」 かい草むらがあったり、ドロドロに青ミドロのういた汚い池があっ こ、り . 原口氏は、・ほくの反応のなさが、いまいち、不満だったらしい うん、カエルとったり、オタマをすくったりーー・ー四つ手網 「んなこと云ったってえ、ムリですよオ。大体、学校からかえったでしやくうと、泥といっしょにザリガニやら、長ぐっの片つぼや、 7 って、遊んでる時間なんてないですからね。みんなパラ・ハラに塾が妙なもんがごそっとあがってくるんだよ : : : 」
すっかり消沈したようすで、原口氏はつぶやいた。 「ウッ病ですよ」 「女房も同じくらいの年たしと思って、ためしに云ってみたんだが ぼくは云った。 ねーーーぜんぜん、覚えてもないし、まじめにきいてくれようともせ「熟年性ウッ病って奴ですよ。働きすぎですよ。少し、休みとって んのだよ。なんでいまごろ、初恋の話などもち出すの、私へのいやゆっくりした方がいいですよ」 がらせなの、とか云い出してーーーあげく夫婦ゲンカさ。これもどう「ほくは別に、自分の心身の管理には自信があるよ。いわゆるモー やら、男に限るらしいんだよな この話は」 レッ連中とは、少し年がちがうからね。趣味も大事にしてるし、仕 「それにしても、妙な話だなあ」 事のために家庭をおろそかにしてるってわけでもない。ただーー・・原 つばがね : : : 」 ぼくは云った。あんまりいい気持じゃなかった。それに、何と云 っていいか、よくわからない。 「もう、そんな原つばのことなんか、考えるのはおよしなさいよ」 「なんかよくわかんないけど、この話については、あまり深く追及「あの時にはもう帰れないんだな」 しない方が、いいのとちがいますか ? ・ほくには、何となく、そん原口氏は。ほっんと云った。 な気がするんですけどねーーもう、・ほくも、偶然の一致だとか、誰「いまになって、こんな形で、過去とつながりをもとうとは、田 5 っ かにだまされてるとかは、思いませんけど、それにしても、何ともていなかったよ。しかしーーこのあいだは、何だかわけもわからず・ 妙な話でしよ。あまり考えたり、かかわったりしないで、このまま無性に怖かったのに、こうしていろいろやっているうちに、少しも そっとして、忘れちまった方がいいですよーーーそんなことをかかえ怖いという気はしなくなってーーーただ、本当はどうだったのか知り こまなくたって、いま、原口さん、すごく忙しいんだし」 たいーー真実を知りたい ただそれだけになってしまうんだ。ぼ 「そうなんだ」 くのあの原つばー・・・・ー一体本当にあったのか、なかったのか : : : あの 原口氏はぼんやりした顔で云った。 人は、いたのか、いなかったのか。幽霊だったのか こんなに大 「忙しいんだ。 こんなことをやってるヒマはない。ぼくは同時勢のかっての子供たちの心のどこかにきざみこまれ、ぼくの心に影 進行で、三つの、どれも大仕事のプロジェクトをかかえてる。どれをおとし、そしてーー・・」 も、今が大事なときだ。ろくろく、チビと遊んでやるびまもないく「よして下さいよ」 らいだ : : : 君、『トカトントン』って知ってるかい」 ぼくは身ぶるいした。 「きいたことがあるなーーー太宰じゃありませんか ? 」 「こんどは・ほくが何だかやたらおっかなくなっちまうから。ーー・・何 「そう。何かやってるときにその『トカトントン』がきこえてく だか、いやにぞっとする話なんだもの。そんな、東京のいろんなと る。そうするとふっと何もかもむなしくなって、一体自分は何をやころに、同じーーー同じ原つばがあって、洋館があって、幽霊の女の ってるんだろうと思うーー」 人が住んでるなんて : : : イヤですよそんなの。それより、もっとい 6