えた。 に、それまでは、子どもを生むことはできなかったんです。とても 「ごちそうさま。おいくらですか ? 好きなんですけれどねえ」 「いいんですよ。何も特別に作ってさしあげたわけじゃないから。 もう立ち去ると知って婆さんのロも気持もほぐれたようだった。 あたしたちのを、お相伴していただいただけですから」 「生むことはできなかった 子ども、できなかったんですか 「でも、それじゃ」 「いえ。そうじゃなくてね」 「事故をおこさないように、お気をつけて下さいよ。親御さんが、 一瞬の風のようなためらいののちに、老婆はふっと笑った。なに 悲しまれますでしよ」 かを思いうかべていつくしむかのようだった。 そんなものーーートウルはロをゆがめたが、何も云わずに立ちあが 「私はねーー尼だったんです」 った。トウルにも、ひとに云うべきようもない物思いはあった。 「じゃ、どうも有難う」 しかし、あついみそ汁とたきたての飯とが、たしかに彼をいくら トウルの世界のほかのことばだった。トウルは一瞬虚をつかれ か素直にしていたのだった。突っぱりのリーダーらしくもなく尋常た。 なあいさつをして、トウルは茶店を出た。もう、日がのぼりきっ そのとまどいをどうとってか、老婆は年をとっていてもまだなめ て、朝露が葉ずえにきらきらと輝いている。 らかに白い品のいい顔を、うすく紅潮させた。 「気をつけていらっしゃいよ」 「遠俗したんですよ。仏様を、信じることができなくなってね。こ ぬれた手を前掛でふきながら、婆さんが門口まで見送ってくれれまでは、何が、どんなことがあっても仏様におすがりすればと思 っていられたのが、あるとき、どうしても、これが神仏のおこした 「無茶をしなさらないようにね。命は、一つですよ」 ことなら、そんな仏様は信ずることができない と、そう思えて 八月のことで ここへ彼をつれてくることになった、警察とのやりとりを、知っしまってね。ええ、ちょうど、こんなふうな夏の てでもいるかのような云い方であった。それも、いつものように反したけどね」 発もなくすなおにきけた。 何をみているのか、ふっとそのまなざしがとおくなる。 「お婆さん。子ども、ないの」 おびえたように見ているトウルの目に気づいて、老婆はなだめる ように笑った。 「いなかったんですよ」 老婆の品のいい顔が、やさしくーーーしかし淋しげに笑った。 「つまらない「ことをお話してしまって。さあ、もういらっしや、 「おじいさんといっしょになったときにはもう、ずいぶん年とってな。 私にも、坊ちゃんのようなむすこか孫でも、いればわえ」 いましたからね。年よりどうし、ひっそりくらそうと、ね。それ「 : ・ 234
いたとぎである。 この山の中では時は止まっているのだろうか・ーーあやしい物思い 裏の戸があいた。 につきあげられながら、彼は招じ入れられるまま、二十年まえに朝 3 2 「おやまあ」 食をよばれた座敷へ入っていった。白髪と青い目の、 いっかの老人 穏かな声がいった が、柱時計の下で、うつらうつらと居眠りをしていたが、彼をみて 「お客さまでしたか。これは失礼ーー水を出していたもんで、きこ ッと目をさまし、おだやかにほおえみかけた。 えなくて」 「ほんとに、よくいらして下さいましたねえ」 トウルは、あっと云った。 ちんまりと座った老婆がいう。 「お婆さん。生きてたんですか」 「そうですか。以前一度いらしたのを、覚えて下さってーーわざわ ざ ? 」 老婆は、びつくりしたように、こちらをすかしみるようなしぐさ気がついていまさらびつくりしたように、切れの長いびとえの目 をした。小さな小さな、時のはざまにほしかためられてしまったよが見開かれる。しだいに、二十年という月日は、なかったことのよ うに思われてくる。 うな、しかし品のよい色白の婆さんだ。」 「あなたは ? 」 「覚えてないでしよう。僕は、一ペん、ここへ来たことがあるんで トウルは、つぶやくように云った。 す。朝めしを食わせてもらいました。 もう、二十年も昔のこと「まさか、元気でやっておいでとは思わなくてーーーしかし、少し になりますが」 も、お変りないですね。まるでーーまるで寒山拾得だ」 どこにも、あのときの凶暴なライダー少年の面影を見出すことは おれには二十年の月日は恐しく長く波乱にとんでいたのだ、トウ できぬだろう トウルは苦く笑った。 ルは思う。それは、十九の、無知で激しいだけの不良少年を、教養 「ええ ? ーーーまあ、そういえばそんなことが : : : そりや、よく寄っゆたかな、しかしやはり激しい四十の男にかえるだけの月日だった。 て下さいました。さ、上って下さいな」 「山河大地をわが子にもてば こちは変わらでいつまでも、です か」 「お爺さんは ? 」 老婆は云った。 「あの人も、達者でおりますよ。さ、上へ」 「へえ 「とんでもない。もう、おじいさんも私もすっかり年をとりました 何をもとめてここへやってきたのか、まさか老夫婦が二人とも元よ。おじいさんもこのごろは、コーラの箱もよう持ちあげません 気で生きながらえて、少しも二十年まえとかわらぬ高砂の尉と姥とよ」 してこの茶屋を営んでいるとは、思いもよらぬことだった。 いらっしやらないでしようね。突 「僕を覚えておいでですかフ
う。ちゃぶ台にはあつい湯気を立てるナスのみそ汁と、お浸し、つ がいるんです」 けもの、それにたきたての麦めしが並んだ。トウルは茶碗をうけと 3 「お爺さんが」 りながら、ふしぎなものを見る心地で爺さんを見ている。着ている 「ええ、お爺さんが。あたしより、ずっと年をとってるんですよ。 ものも、手なれて板についた、箸をとってめしをかきこむしぐさ ごはんができたら、起きてくるでしようけど、びつくりなさんない ただ、顔だけが日本人のそれと違 も、まったく異和感はない。 で下さいね」 っている。 「どうして」 何か、人ならぬすがたをでもしているというのか、それゆえに、 「すみませんねえ、何にもなくて。ちょうど、たまごも魚もみんな いま、これで三日、行商が来ないんでねえ」 こんな山奥に二人して老夫婦が身をかくれ住んでいるとでもいうの切らしてて か。婆さんは笑って答えない。 、え」 そうするうちに夜が明けそめてきた。店と家のあいだのところが へどもどしながらトウルはみそ汁をすする。あたたかい香ぐわし 台所でつながっているらしい。ふつふっとご飯の噴く音、味噌汁の い匂い、忘れていたものを思い出させるーー・・清潔な台所、かつぼう 匂い。そんなあたりまえの朝にあうのもひさかたぶりのことだった着、まな板の音、幸せな朝。 家には、飯をたき汁をつくるような母親はいない。 それにしても何だかふしぎな朝だ、トウルは思っていた。明治ー 「できましたよ」 いや、江戸のむかしから化石したままのようでさえある、ひとけ 呼ばれて、何となくおずおずとした気分で家の方へ入っていっ のない山中の古びてつつましい峠の茶屋。たけだけしい暴走族の自 た。大柄な男が袖なしのようなものを着て、何もない座敷のちゃぶ分カ , ; 、。、トカーに追われて逃げこんださきで、黒レザーのツナギ姿 台のまえに背中を丸めてすわっている。ふりむいて笑いかける爺さのひざをそろえてかしこまり、ナスのみそ汁をすすっているのもお んをみて、トウルはあっと云った。 かしな光景だろうが、しかしそれにもまして、袖なしをはおった大 白髪はすでにもとの髪の色をおしはかることもできないけれど柄な西洋人の老人が、峠の茶屋のあるじだというのがおかしな、自 も、深い海の色の目、しわぶかい顔立ち 日夢のつじつまのあわぬ世界みたいだ。 それは、明らかに西洋人のものだったのである。 若くて物知らずな彼の胸にも、さすがに、あやしいさまざまな思 しったい、この峠の茶屋に、な いと好奇心とがの・ほってきた。 「少うし、おかしくきこえるところがあるかもしれませんけど、おぜこの奇妙な西洋人の老人と日本の老婆が、ひっそりと夫婦になっ 爺さんは、話すのもきくのもたっしやですから、ご心配いりませんてかくれ住んでいるのか。ここへたどりつくまでに、二人にはいっ よ。もう、この国にきてずいぶん長いことになりますからね」 たい、どのような数奇ないきさつがあったのか。 無遠慮にトウルはたずねてみた。 っそう小さくみえる婆さんがい 大柄な爺さんのかたわらで、
かれら自身、そんなことを知ってはいない。ぎらっく目とてかて「もうじき、《狂走》のやつらとぶち当るかもしれねえんだ。ムダ なエネルギーを、つかうもんじゃねえよ。 さ、そろそろ、下る かに光らせた頭、細くしなやかな体つき、粗暴なものごしとけたた 2 か」 ましい声の若いライダーたちだ。その巨大な単車のたてる轟音はか トウルはばちりと指を鳴らすーーーと、 っせいにライトがつい れらの若いが故の苛立ちそれ自体のように夜をつんざき、善良な町 た。轟音。 びとたちの眠りに悪夢を忍びこませる。 「なあ トウル」 「一気にふかすぜ ! 」 「トウルってば 叫び声がエンジンの雄叫びに呑まれる。 ーレーのライダーは、呼ばれていることにやっと気づいたよう に、空ぶかしするエンジンと、それにまけぬようはりあげる声の喧夜の狼どもは二列になって峠を下っていった。他に走っている車 の中で、眼下の町の灯にむけていた顔をふりむけた。黒一色のまもない。 ここちよく、風がからだにぶちあたる。ぐんぐんとスビー ん中にあざやかないなづまを描いたフルフェイスのヘルメット・、 カ光 ド・メーターの針がふっとぶ。ぶっちぎれ、ぶっとばせ、カのかぎ を反射する。 りかけぬけろ 「何だ」 「マッポだツ」 って、下の奴らが」 「今夜は、お祭りはねえのか 誰かのわめき声、それより早くトウルの耳にも、お馴染のホアン ホアンホアンホアン 「お祭りか」 白・ハイのサイレンがきこえていた。やば ヘルメットの中で、ちらりと凄みのある笑みがうかぶ。それは光 網を張りやがったなーーー思うひまもなくトウルは叫んでいる。 の反射にまぎれて誰にも見えない。 「散れツ、もうじきインターだ。インターをぬけて町ん中へ・ハラ 「いいかもがいね工んだからしようがねえだろう。来週を待ってラにもぐりこめーーーやつらをまいちまえ ! 」 な」 が、そんなこ このところ、やけに暴走族の取り締りがきつい とを、考えているいとまもなく、彼はぐいと上体をハンドルの上に 「ち、スカしたセリカにでも乗ったアベックでも来ねえかな」 かれらのお祭り、それは叩きこわし 、いためつけ、いたぶり、犯かがめ、膝をしめ、腰をうかせて、ぐんとス。ヒードをあげた。 凶悪な獣とかりたてる者たちーーーあるいは永遠にわかりあえぬ怒 すことだ。血の匂いをかぎつけた狼のように、かれらはたけだけし れる若者と大人たちーーー・その双方が一団にもつれて、たちまち、ス くあたりを、えものを求めて見まわしているーーーが、幸か不幸か、 カイラインは狂ったようなエンジンのうなりとクラクション、サイ ぐるぐる山肌を巻いているスカイラインを、この峠の頂上さして、 レンの音とわめき声とで切りさかれた。 上ってくる車のライトひとつ見えはしない。 「ちえ つまんねえ」
俺はね 気がっかな かったんだが ずっと さびしかったんだな ヴァルナ 君は メアリ ええ ? ・ 毎にとびこみでも したのかも あの船 ! あの船に乗って 行ったんだわ , 0 0 0 0 ロ 6
た数少ない戦慄すべき小説の中で、不気味 な象徴的役割を演じている。 現代 SF は、透明テーマの夢想の方面と も悪夢の方面ともほとんど関係はない。し かし不可視性が疎外の暗喩となって現われ る、優れたひと握りの作品がある。デー モン・ナイトの「王者の祈り」 "The Country of the Kind" ( 1956 ) とロノく一 ト・シルヴァーハーグの「見えない男」 "To See the lnvisible Man ” ( 1963 ) で は、犯罪者は、一般市民が当人を見ようと しないため社会から、、追放″状態におちい り、孤独の苦悩を味わう。これと似たテー マは、フリツツ・ライノく一の The & 工記 0 れぉ ( 1953 ; 圜短縮されて Yo 〃 Are 〃 スあれのでも扱われている。あまり上出来 とはいえないが、このテーマの最近の例に R ・ドゾアの "The は、ガードナー Visible Man ” ( 1975 ) がある。 こでは 犯罪者の視点から、一般市民のほうが見え なくなる。これと類似のテーマには、実存 の感覚を失いかけているという考えに取り 憑かれた人間が、しだいに存在感を稀薄に し、見えなくなっていくというものがあ る。チャールズ・ポーモントの「消えたア メリカ人」 "The Vanishing American" ( 1955 ) 、 ハーラン・エリスンの「聞いて いますか ? 」 "Are You Listening ? " ( 1958 ) 、シルヴィア・ジェイコフ・ズの "The End of Evan Essant ” ( 1962 ) な 透明テーマのアンソロジーには、ノくジル ・ダヴェンポート編のて , なん Men ( 1977 年春季号。 1978 年末までに 10 号刊行、 現在は隔月刊。発行はディヴィス・パフ・リ ケーションズ。編集長ジョージ・ H ・シザ アジモフは、、責任編集″者としてこの新 雑誌に名をつらねているが、誌名は明らか に彼の知名度に便乗したものである。第 1 号の表紙は、正面向きのアジモフの顔。第 2 号は左の横顔。第 3 号ではいよいよアジ モフの後頭部かという一部読者の期待は、 理屈に合っているものの裏切られた ( また 正面向きにもどった ) 。アジモフは、雑誌 の表紙に名を飾った SF 作家としては、 A ・メリットにつぎ 2 人目である。 I A sfm と略称される同誌は、それ以外の面では、 そっのない常識的な専門誌で、ギャラクシ イ誌とファンタジイ・アンド・サイエンス ・フィクション誌の混交といった趣きがあ る。ただし組み版は、ダイジェスト版雑誌 には珍しく 1 段である。呼び物は平易な科 学解説 ( 筆者はアジモフではない ) 、グレ ンデル・プライアトンの《ファーディナン ド・フエグート》シリーズの復活 (F & S F 誌のかっての人気コラム ) 、そしてポー ル・アンダースン、 A ・ トラム・チャ ゴードン・ R ・ディクスン、マ ンドラー イクル・ビショッフ。、ジョン・ヴァーリイ ほか多数による小説。 1970 年代なかばに創刊された S F 雑誌群 の中では、財政的に最も成功した雑誌とい う見方がもつばらである。 島 ISLANDS 〔 PN 〕 196 のがある。 〔 BS 〕 アイザック・アジモフス・サイエンス・フ アメリカのダイジェスト版雑誌 FICTION MAGAZINE ISAAC ASIMOV'S SCIENCE イクション・マガジン VI 。創刊は 架空の島は、もう長いあいだ 2 つのタイ フ。の小説に、利用価値のある設定を提供し * 1981 年はじめより年 13 回刊。シザーズは 1982 年はじめに編集長をやめ、一時期キャスリー ン・マローニが編集主任だったが、現在の編 集長はショーナ・マッカーシー 266
減んでから 何世紀も たってるんだ もう いうんてしよ、つ 私のコンヒューターの 調子か おかしいって そんなことないわ さかさなさや アケロンの人々は さようなら ええ ? 考えてみたんだが これでなかなか 人生ってのは 気の合う奴を 見つけるのは むずかしい おい待て ! 俺も一緒に 行きたい 気珍君 あくは どうぞ あなたさえ 良けれは
「それで、あなたは、その人たちを殺そうと ? 」 「ここにいなさい」 ゆっくりと、きつばりと老人は云った。それが決定であることを「え」 ぎくり、としてテロリストは老婆をみた。 トウルは感じた。 が、老婆の口調はあくまでもおだやかだった。 これまで、一体何 追われる不安と緊張なしに眠り、そして目をさましたのは、ひさ「まだ、お若いんですねえ、トウルさんは。 回、政府要人がわるい、王さまがわるい、首相がわるい、といっ びさのことだ。はじめのうち、自分が一体どこにいるのかさつばり わからない うすい布団、ひなびた緑の匂い、そしてゆたかなみて、人は殺したり殺されたりしてきたか、ー、・でも、一度だ 0 て、戦 争はなくなりやしませんでしたよ。一人の人間には、そんな大きな そ汁とご飯のたきあがる匂い。 力はありやしませんよ。ヒットラーだって、ムッソリーニだって。 ( ああ ) 人は、結局、自分の望んでるようにしてしまうものなんです」 雨もりのしみのある汚れた壁を見つめて、タ・ハコに火をつける 「われわれの誰が戦争をのそんでるというんです ? われわれは、 と、おもむろに記憶がよみがえってくるのが感じられた。 反対に、それを阻むために戦ってるんだ」 ( 時に忘れられた峠の茶屋 ) 「そのためにまたーー戦争をふせぐためにとって戦わなくてはいけ 老人は、朝が早い。顔をあらいに外の水道のところへゆくと、も う家事をみなすませたらしい婆さんが、せんたくものを竿にほしあない。悲しいことですねえ」 トウルは奇妙な気持になりながら彼女をみた。 げているところだった。 「望んでする戦いじゃない。それでも、一人か二人、いや、十人の 「あーー俺の」 くされ役人が死んで、一億人の人間が生きのびるなら、同じ戦うな 「服の袖に、血がついてたから、洗っときましたよ」 そう思うでしよう。原爆を・ーーヒロシマを らその方がずっといい。 老婆はおだやかにいう。 「何かのはずみに見られたりすると、ねえ。ーー戦争がはじまるつ見てきたというお婆さんなら」 「そうですねえ。十人の人にも、一億の人にも、いのちはそれぞれ ていうのは、本当なんですか ? 」 「このままいけば、人類がぶじに二十二世紀を迎えるみこみはまずひとっしかありませんからねえ , ーーどうして人間という種は、そん ないでしよう。二十一世紀を迎えたときより、さらに状況はひどい」なことがわからないのか、もともと、生きているということが、よ かわいそうにね」 「どうして、自分で自分の首をしめるようなことをするんでしようく理解できないのか トウルはますます奇妙な気持になった。 ねえ」 「政府がわるいんですよ。すべて、政府のくさった高官どもが元凶「お婆さんはインテリなんだな。しかし、私は、むかしは暴走族の 不良で警察に追っかけまわされ、いまはテロリストのリーダーでや ですよ」
異形の炎とも見えるそれは、すばやい、優雅な身のこなしで移動知るだろうように、それもまたそれらのことを知っていた。 それは凍りついたように立ちどまった。左前方から予期せぬ小さ した。嵐に吹き飛ばされた夜の雲のように存在をあらわにしたり、 消したりした。あるいは、炎と炎のあいだの闇のほうが、それの真な音が聞こえてきたのだ。そのとき、それはふたたび存在をあらわ にしつつあるところだったのだが、そこで輪郭を解放した。輪郭は の性質に近いかもしれない 黒い灰が渦を巻き、読まれなかった 本のページのように、あるいはまた歌の音と音のあいだの静寂のよ地獄の虹のようにすみやかに消えていった。しかし、姿を消して、 うに空虚だが充たされた建物の背後の涸れ谷に吹く風にのり、踊るも、むきだしの存在感だけは残った。 見えなくなったが、存在し、力強いそれはまた移動した。手引き ようなリズムで集まってきた。 されるように。前方。左。風雨にさらされた板にかすれかけた文字 また去り、また来たり、また 力、というべきか ? そう、おのれの時代の前あるいは後に ( あで″酒場″と記された奥。スイング・ドアを抜けて ( ドアの片方は るいは、前後ともに ) 出現しようとするとき、そこには途方もない蝶番がはずれて斜めにぶらさがっていた ) 。 力が必要になる。 止まり、見回す。 消え、あらわれながら、それは、暖かい午後を進んでいく。 ーのカウンター。埃だらけだ。カウンターの奥に割れた 足跡右手に。 ( は風にかき消されるーーーっまり、足跡がある場合は、・こ ; 。 鏡。空瓶。割れた瓶。真鍮の手すり。黒く錆がこびりついている。 理由は いつでもひとつは理由があるものだ。あるいは複数の左とうしろにテーブル。修理の程度はさまざまだ。 理由が。 一人の男がいちばんいい席に坐っていた。背中をドアに向けてい だが、な・せそこ それは、なぜ存在しているかを知っていた る丿ーヴァイスのジーンズ。ハイキング・プーツ。色褪せた青い に、その場所に存在しているかは知らない。 シャツ。左手の壁に緑の・ハックパック。 それは間もなく理由を知ることができるものと期待して、荒れ果男の前のテー・フルの上は、色あせたチ = ス盤になっている。染み てた古い街路に近づいた。しかし、前からあるいは後から理由がわ がっき、掻き傷だらけで、市松模様はほとんどかすれてしまってい かることがあるのも知っていた。だが、たしかにそこには吸引力がる。 あり、それを存在させている力が、いやおうなくそこに近づかせ 男が駒を出した引出しはまだすこし開いたままだ。 息をせず、血液が循環せず、ある程度一定の体温を維持できなけ 建物はすり切れ、荒廃し、いくつかは倒壊していた。どれにも隙れば、死んでしまう。それとおなじで、男はかって戦ったいい試合 間があり、埃つぼく、空虚だった。床板のあいだから雑草がのびてを並べなおしたり、チ = スの問題を解いたりせずにはいられないの ・こっこ 0 いた。垂木のうえには小鳥が巣をつくっていた。野性の獣の糞がい たるところにあった。もし顔を会わせれば、それらがそれのことを訪問者はさらに近づいた。埃のうえに新しい足跡をつけているか 3 3
秀克は無意識のうちに仔ネズミを創造していたのだ。佑一が手を秀克は言った。 「アメリカン・パトロール ! 何、それ。どうやるの」 拭いたティシュ ーを手もとに引きよせ、コョリにして仔ネ 目を輝かせて佑一は叫んだ。その言葉は、佑一にとって魔法の呪 ズミに変化させていた。 秀克は、その反応の意外さに、言葉を失った感じだった。なんと文のように聞こえたはずだった。 「まず、地面に穴を掘る。小っちゃな穴でいい。 ビー玉が三つほど か、佑一と意志を通じあわせようと躍起になった挙句、その言葉で 入る穴をいくつも掘るんだ。さあ、手わけして掘ろうよ」 はなく、無意識のクセが佑一の興味をひく結果になったのだ。 二人はいくつかの小さな穴を掘り終えていた。まず、秀克がルー 佑一の秀克をみる眼が変っていた。尊敬の色さえ加わっていた。 ルを説明した。ビー玉を当てて、うまく穴に入れ、いくつかの穴を 「ねえ、新しい紙だったら、もっときれいに作れるかなあ」佑一 冫。いくつかのドメスティック・ルーレ : は、ティシュ ーをまた一枚とりだしていた。「いいよ」と巡り終えるのだ。これこよ、 あるはすだったが、秀克が子供の頃よくやったルールを採用した。 答え、秀克は念入りに犬を作ってわたしていた。 まず、三つほどビー玉を佑一から預り、見本をしめした。当てら 「すごいなあ。うまいなあ」コョリの犬を掌にのせ、佑一は飽きも れた玉は自分の意志をもっているかのように最初の穴に入っていっ せず眺めまわした。 こ 0 「ねえ、・、 : ぼくと何かして遊ぼうか」 「あっ、入った。うまいなあ」 「うん。・ほく、ビー玉持ってる。ビー玉しようよ」 佑一は右のポケットから十個ほどのビー玉をとりだした。秀克も尊敬の気持の人りまじった声だった。佑一はあきらかに感激して 子供の頃、よくビー玉で遊んだ記憶があった。 「何をよくやるの」 「さあ、今度は佑一くんの番だ」 「ぼく、・ヒー玉持ってるけれど、・ヒ 1 玉で遊んだことないんだ。い スタートから、ビー玉を投げた。最初の玉は当らなかった。「し 「もう一回やっていし つも眺めてるだけだ。だって持ってるだけでビー玉はきれいだもまった」佑一は地団駄を踏んでいた。 の。だから、・ほく、ビー玉の遊びかたは知らない」 秀克は少し困ったような顔をしてみせた。 秀克は思った。佑一がビー玉を持っているのは、誰かとビー玉を「ほんとは駄目なんだけれど、佑一くんは初めてやるんだから、お して遊びたいという願望を持っていたのだ。しかし、今まで、佑一おまけにマケて、もう一回だけだよ」 にとって、その願いがかなえられることはなかったのだろう。だか「やった」佑一はビー玉を拾って、もう一度かまえていた。今度は ら、どうやってビー玉で遊ぶかということなそ佑一は知ることもな当ったのだが穴を通りこして三十センチほど先に停止した。 っこ 0 、刀ノ 「あっ。うまい。最初にしては仲々スジがいい」秀克が言った。 「よし、アメリカン・パトロ 1 ルをやろう」 工ヘンと佑一は胸をはった。まんざらでもないという顔だった。 ′ 0