「きみのいうとおりだ」ファロンはいった。「すくなくとも、きみある朝、船底のビルジを吸み出していると、だれかが水といっし を口説くのはそうむすかしくないという気がする。ェイ ( プが正気 ょにかなりの鯨油があがってくるのに気づいた。スター / 、クカ - 呼一 3 じゃないことは、きみにはわかってるだろう ばれ、すぐ自分で船倉を見に行った彼は、出てくると後部の船長室 とうしたのかとき 「おれはなんともいわんよ。きっとエイハ・フには、おまえが考えるヘ知らせに行った。ファロンは船員のひとりに、・ 以上の理由があるんだ」彼はひとつ大きく息を吸ってから、空をふ り仰ぎ、ついで船の陰で泳ぐ男たちを見おろした。そして笑みをう「樽が漏ってるんた。停船して船倉をひらくそ。でないと、だいし かべた。「あいつら、もっとサメに気をつけないといかん」と、彼な油をごっそりなくしてしまう」 よ、つこ。 すこしして、スターノ ・、ツクはもどってきた。いまにも卒中を起こ 「きよう、世界はたしかにのどかに見えるがな、ファロン。だ ; 、 しそうな真っ赤な顔をして、手をうしろで組んで、後甲板を行った あの老人の目は、おれたちの目よりいいのかもしれん」 り来たりしはじめた。みんな指示が出るのを待った。彼は乗組員を 「あの男が狂っていることを知りながら、なにもしないのか」 にらみ、立ちどまり、仕事をつづけろと、つこ。 しナ「ポンプの手を体 「そういう問題は、あまり深く突っ込まないことだ」 / / ・、レキントンめるな」と、これはほかの者に。「見張りをつづけろ」それから鯨 はちょっと黙ってから、「へそに銀のネジをつけて生まれた男の話骨舵柄をにぎる舵手になにかひと言いったあと、後甲板の隅へ行っ し / し を知ってるだろう。ずいぶん気にしていたのを、ある日、 て船の航跡を見ていた。しばらくすると、エイハプが甲板に不自由 なんのためだろうと思ってゆるめてみた」 な足であがってきて、スター・ハックをみつけてなにかいった。そし ファロンはそのジョークを、サウス・サイドの小学校時代にきい て甲板の男たちに向きなおった。 たことがあった。「尻がすつ。ほ抜けたんだろう」 「上檣帆巻け」と、彼は大声で命じた。「中桁横帆縮め、前後とも 「おまえもエイハ・フも、その男にじつによく似てるよ」 に。大檣下桁を後へ、軽滑車をあげて船倉をひらけ」 ふたりは声をあげて笑った。「わたしはヘそのネジをゆるめるま ファロンはみんなといっしょに船倉へおりた。作業がはじまる でもない」と、ファロノよ、つこ。 、。しナ「どうせわれわれは全員、尻をと、彼は持ちあげること、引っぱること、そして背骨を痛めないこ なくすんだから」 とに神経を集中した。マン島人が、船長室の外で立ち聞いたエイハ ふたりはまた笑った。・ ( ルキントンが彼の肩に手をまわし、ふた ・フとスター・ハックの話をみんなにおしえた。一等航海士が鯨を追う , なはモービイ ・ティックに乾杯した。 のを中断して船倉をひらくことを要求したら、エイハ・フは彼をその くックがもど 場で撃ち殺すといったのだという。ファロンはスター / ってきたとき顔にみなぎっていた、あの怒色を思い起こした。そう えば、メルヴィルの作中のスター バックは、あまり有能な男では 9
を読んだ。だが、もう〈自分をみつめる〉ことにはうんざりで、ほ だが、そこでいやな着想がわいて、希望のつぼみが開花せぬうち 8 かの連中を見ていると、自分を見つめることがじつはなにもせぬこに踏みつぶしてしまった。作中かならずしも、イシュメールという っ 4 との口実になっていることがよくわかった。 人間はいなくてもいいのだ。〈わたしをイシュメールと呼んでく マーティのいとこで、シカゴ商品取引所でビアスン・ジョエル れ〉で作品ははじまっている。イシュメ , ールはだれかほかの男の別 チョーンズの外回り助手をやっている女がいて、ときどき〈ビッグ名であって、ビークオド号にきっとそういう名の男はいないのだ。 ートに行ったりした。ファ これはわれながら見事な文学的推理だ、とファロンは思った。 ハウス〉にもきて、酩酊したりコンサ ロンはその女といちど寝たことがあった。彼女に電話をすると、い それでもまだ、希望はし・ほみきってはいなかった。なるほど。ヒー ろいろたすねられ、とどのつまりが彼は頭をみじかくしてーーみじクオド号にイシ、メールは、よい。作中とくに名ざされていない乗 自分も。ヒアスンの助手になった。身だしなみに組員のだれかが、しつはイシュメ ールなのかもしれない。ある年齢 かすぎはしない もいくらか気をつけるようになった。毎日シャワーを浴び、下着をと性格の範囲のなかでーーー語り手が自分のことをどういっているか だれか無名の水夫が、イシ とりかえた。ネクタイを三本買い、取引所ではネクタイ着用の規則ファロンは懸命に思いだそうとした ールなのかもしれない。 これに彼はとびついた。その可能性を に従い、そのどれか一本を締めた。 ちょうだいして、着用におよぶことにした。なぜ悪かろう。そもそ 自分が死ぬのに生きのこる男はどんな男か見るだけでもいいかも自分がこんなところにいるほどまでに不条理が支配するのであれ ら、イシュメールをさがしてみようと思い立った。彼は目をこらしば、自分が最後に生きのこる男であってもいいのではないか。し フラスク、スや、ならばいっそのこと、自分がその男になってしまえばいいので 耳をそばだてた。そして乗組員全員の名を知った はなしか。ファロンが知っていることを、ほかに知る者はいない。 タブ、スタ、ー くック、。ハルキントン、タシュテゴ、ダグー、ク ールがしたとお ほかの者にたいして、それは彼の強味だ。イシュメ クエグ、そしてフィリ。ヒン人のポート漕ぎはフェダラアだ。イシュ ールになれるかもしれない。作中人物 、。しふかり、ついで希望がほのなじことをすれば、イシュメ メ ! ルはいなかった。最初ファロノよ、・ にならねばならぬのなら、 いっそ主人公になればいし 見えてきた。自分がいまいる現実と、メルヴィルの作品の現実が、 こんなに重大なところでくいちがっているのなら、もっとべつのと ころでもちがっているのではないか たとえば、最後は自分が助ファロンの商品取引所における資本主義の心との最初の出会い かるようになるのではないか。このエイハ・フは白い鯨をとらえるのは、こわくもあり面白くもあった。こわかったのは、五月の買い注 かもしれない。スタ しハックは一大決心をして狂人に逆らい、自分文をうつかり七月業者に受け渡して、会社に一万ドルの損をかけた が船を支配するのかもしれない。モーヒ ・イ・ディックなんか最後まときである。なんとかその窮地を切り抜けたのは、神の恩寵と、彼 で発見されないのかもしれない。 自身のしやにむに押し切る図太さのおかげだった。そのとき自分で 、 . け・ツ・フ
ファロンの上方の索具をふりあおいだ。彼がっかまっているロープイートの高さだった。一段一段気持ちを集中し、息をととのえて、 自分をひつばりあげた。主帆最上部まで行くと がぐいと揺れたので、自分も見あげると、檣頭に立っていた男が、 、・ハルキントンがす 2 2 手をかしにおりてこようとしていた。 ばやくファロンの下へおりて、彼に手をかした。水夫が梯子に乗っ 「・ハルキントン ! 」ェイハプが叫んで、男に檣頭へもどれと手で合て起こした複雑なうごきが、またファロンをロープにしがみつかせ 図した。「かまうな ! 」水夫は上へ引き返し、主帆の上の桁端へひこ : 、 ナカこんどはだいぶはやく立ちなおれた。めくるめく一歩一歩を よいと乗った。。ヒ 1 クオド号の全員が待っていた。追われる鯨がい踏みしめて、ふたりは檣頭までのぼった。水夫は横桁に乗って、自 分は檣頭の左舷丸枠にはいり、ファロンを右舷の枠にみちびき入れ るなら、彼らも待っていた。 ィートのところでビークオド号の旗が、風にばた ファロンが一語のこらずききとれるように、エイ ( ・フはしごく明た。頭上二、三フ ムこ良 2 っこ 0 瞭にいった。「の・ほるんだ。みんなといっしょに誓約したのだか ら、いまさら撤回はさせぬそ。きみとて撤回したくはあるまい。の「着いたそ、ファロン」と、・ハルキントンはいった。つぎの瞬間、 ばるんだ。さもなくばおりてきて、腰抜けの意気地なしぶりを見せ彼はまた索具のなかへ身を落とし、それがあまりに唐突で敏捷だっ たので、ファロンは転落したのかと思い、はっと息をとめた。 るがいい」 はるか下方で、また男たちがうごきたした。ェイハ・フはスタ・フと ファロンは索具にしがみついた。誓約なんかしていない。そんな ものは物語だ。物語のなかでなにをしようと知ったことか。自分がひと言かわしたあと、手すりへ行って支索につかまった。遠い索条 本の登場人物であるのなら、そんなものははねつけて、人の決めるの先で黒い操り人形に見えるその人影が、またファロンのほうへ白 い顔をあげた。そして、片手を口元にあてがってどなった。「よく 筋道になど従わず、自分は自分であることを見せてやる。 見張ってろ ! ひれでも腹でも見えたら、大声でおしえろ ! 」 「自信を持て ! 」ェイハ・フが叫んだ。 なにが大声でおしえろだ。ファロンはもうすべてに抜きん出て、 上で・ハルキントンが、喉をがらがら鳴らして、べっと痰を吐い た。風と船の横揺れを計算に入れて、甲板にでなく、うまく海にとひとり立っていた。の・ほりつめたのだ。誓約なんかしていないのだ ばした。ファロンは背をそらして男の顔を見た。最初の夜、彼を下から、自分がしたくないことなんかする義務はない。自分の自由意 へ連れておりてくれた親切な水夫だった。ファロンは宙ぶらりんの志で檣頭まであがったのだ。だが、鯨取りになるのだったら、鯨を 状態たった。下を向いて、エイハ・フがまだこちらにじっと目を向けみつけて大声をあげるのも悪くないのではないか。たたし、ふつう たまま、甲板の揺れといっしょに揺れているのをながめた。あの男の鯨だ。文学上の鯨ではない。白い鯨ではないぞ。 は狂人だ。あんな男をつくりだしたメルヴィルは狂人た。 彼は水平線を見はるかした。海は世界をおおって、あらゆる秘密 ファロンは歯をくいしばり、ロ】・フをにぎる手に力をこめて、檣をおおいかくして、世界の果ての果てまでのびひろがり、無邪気な 頭へ向かってもう一段あがった。主帆のなかほど、甲板から三十フ空の下で青く澄んで、ちょっぴり波立っていた。
を知らぬ。されば万物は殺されるのだ」 後にやり合ったときも、そうやってはじまったのだった。 ・、ツクはいいすてて、そこをはなれて行き ェイハ・フは船を台風のまっただなかに突っ込ませていた。帆はず 「仕事にもどれ」スターノ たずたに裂け、男たちは風に負けぬ大声でわめきながら甲板を走 かけた。 ファロンはその肩に手をかけた。「なんとかーー」 り、ポートが流されたり、たたきつぶされたりせぬよう、固く締め スタバックはびつくりするほど乱暴にふり向いて、ファロンをつけにかかっていた。スタブは左手をポートと手すりのあいだには 突きとばしたから、ファロンはあやうくひっくり返るところだっさんでしまい、右手でおさえて顔をしかめていた。檣頭にはセント ・エルモの火が光った。ェイハプは右手に避雷針をにぎり、右足を た。舵手がこちらを見ていた。 「仕事にもどれ ! おれがなにを考えてるか、おまえにわかってたひざまずいたフェダラアの首にかけて立ち、稲妻に向って語気激し まるか。これ以上うるさくいうと、ただはおかんそ。三百番配当のく呼びかけていた。ファロンは足をすくわれぬよう、支索にしつか 男が、おれにいうことなどない。さあ行け」 りつかまっていた。滑稽な光景だった。おそろしくもあった。 しれもの 「いまやいかなる怖れを知らぬ痴者も、おぬしに立ち向かおうとは ファロンは逆上した。「ええもう。ばかにもほどがーーー」 「いい加減にしろ ! 」スター / 。、ツクは手の甲でファロンをひつばたせぬ ! 」ェイハ・フは嵐に向かって叫んだ。「おれはおぬしの言葉な ふる とど いたーーースタインがやろうとしたように。スタインの手はあたらな く止まるところなき威力を認めるが、さりとておれのとどろき震う ・、ツクのほうが、スタイン・ジュニアより腕がいし かった。スター / 生涯の最後の息を吐ききるまで、おぬしの力が無条件無原則におれ ようだ。頬がひりひりした。なによりも屈辱的たったのは、そのとを支配することには敵対するそ。この人格化せられた非人格の肉塊 きの自分の姿で、分際を知らされたみじめな反逆者といったところの呼奥に、頂天立地、ここに一個の人格がある」 サイコ だった。ファロンがと・ほと・ほ歩きだすと、スター、 / 、、ツクは冷静をとすさまじいな、とファロンは思った。心理療法陰語だ。メルヴィ りもどした声でいった。「おまえは自分の良心に従え。おれはおれルは嵐を書き込むことによってエイ ( ・フに、自分をくつきりきわだ の良心に従う」 たせるための背景をあたえているのだ。メルヴィルの時代には、あ まりリアリズムは好まれなかったのだろう。彼は向きをかえ、後甲 0 板のポートを締めつけにかかった。ポートの艫はすでに波でつぶさ れていた。その波はファロンも入れて三人の男を、すんでに舷外へ また稲妻が走った。 連れ去るところだったのだ。稲光りがし、一瞬遅れて雷鳴がとどろ あが いた。ファロンは五秒かそえたら雷が一マイル先であることを思い 「まことのおぬしを崇める途は、おぬしに向かって挑むほかにない 9 ことを、いまこそおれは知ったのだ。も尊敬もおぬしには気に染だした。それでいくと、いまのはみんなの尻の下で光ったのにちが さっ いない。乗組員の大半の者が、エイハブと、檣頭にぼーっと燃える むまい。憎しみのためとても、おぬしはただ殺をもって報いるほか
でない恐怖にかられながら、なにか単純な仕事をしようとあがくあ の夢だった。もういまにもエイハ・フにみつかるのではないかと、気 が気でなかった。つかまったら乗組員のつめたい視線にさらされ て、さんざばかにされるのだろう。 ファロンはまたタールの樽のそばの、辛気くさい持ち場について いた。そこにいれば、困惑狼狽から、せめていくらかのがれられる だめだった。指先から血がにじみだしても、どうしても金貨のふ ちが持ちあがらない。ェイ ( ・フの鯨骨の足が甲板へあがってくるのような気がした。タ , ールのにおいと感触に気持ちを集中することが がきこえた。世界はマストに打ちつけられた金貨と、割れた指の爪できた。エルマイラ市の祖母の家の前、夏の道路のタ 1 ルが思いだ と、耐えがたい恐怖に凝縮した。死にもの狂いで金貨をはずそうとされた。日がのぼると、補修された田舎道の路端に、てらてら光る する彼の背後に、だんだん足音は近づく。それでも逃げだすことは タ 1 ルの泡ができる。タ】ルがスニ】カーズの底にくつついて、祖 できす、ふり返る気は起きなかった。永遠の焦燥の末に、ついに、母のびかびかの台所をよごしては大目玉をくったものだった。いと このセスと爪楊子でつついては、泡がゆっくりしぼむのを見てたの 手が肩にかかって、彼をふり向かせた。心臓が喉にせりあがる。工 しんだ。ビ 1 クオド号のタールの樽は、ファロンが精神を集中でき イハ・フではなかった。キャロルだった。 目が覚めると、息が荒く脈が速かった。いぜん・ヒークオド号の水るものだった。タールは本物だ。吸い込む空気は本物、ファロン自 夫部屋で、ハンモックに寝ていた。また目をつむり、そのあとはひ身も本物だった。 と晩じゅうきれぎれに眠った。朝がきた。まだおなじところにい 二等航海士のスタ・フが彼の前にきて、両手を腰にあてて立った。 じっとファロンをねめつけた。顔をあげたファロンは、相手の薄笑 いを見た。そこには一片の慈悲もなかった。 つぎの日、数人の男が、彼がもうずいぶん橋頭に立っていないこ 「マストにのぼってもらうぞ、ファロン。おまえは逃げてばかりい とをいい立てた。彼はもごもごと言葉をにごし、彼らが士官のとこ ろへ行かないことを祈った。消えてしまいたかった。やめてくれとるが、この船に怠け者はいらん」 ファロンは返す言葉が考えっかなかった。彼は重い腰をあげ、ポ 思った。男たちは日がたつにつれ、しだいに彼をばかにしはじめ た。日がたつばかりで、なにも彼を自由にしてくれることは起きな ロで手をぬぐった。二、三人の船員が見ていた。ファロンが逃げた か 0 た。毎朝、ス。〈イン金貨は陽光にきらきら光り、船の中心になすか、スタ・フがむりやり連れて行くか、どちらかを待っていた。 り、ファロンにはのがれるすべはなかった。おれ見る、おまえ見「さあ行け ! 」スタ・フに肩をどんと押され、ファロンは向きをかえ る、あいつ見る、おれたち見ゑおまえたち見る、あいったち見て索具をつかみに行った。ちらと舷外へ目をやると、なめらかにす る。 ぎ行く水が見えた。あの短時間で慣れた甲板のしずかな横揺れが、 いま、おそろしいいきおいでもどってきた。スタ・フはまだうしろに こ 0 6 223
をはいていた。ほとんどがはたしだった。ファロンは甲板掃除にとへ行った。甲板磨きには、海水と、大きなブラシ、それにモッ・フの りかかった彼らの邪魔にならぬよう気をつけて、よろけながら甲板ようなものが使われていた。この、毛のかわりに革屑をつけたモッ を歩いて行った。船はミシガン湖あたりで見るどんな船ともちがつ。フは、窓ふき用ゴム雑巾の大型版といったものだった。砂色の髪の ていた。ここはミシガン湖なんだと自分にいいきかせるのを邪魔し男が見ているので、ファロンは四つん這いになって、・フラシをつか んだ。 にかかる潮の香を、しやにむに無視した。それにしても、こんな小 「よしよし、いい子だ。なあ、みんな」 さな船が、大海原のまっただなかにいるなんて、なんだかばかげて 二、三人が笑い声をあげた。ファロンは甲板の木目に注意して磨 いると思った。沿岸警備隊が士官候補生訓練用の帆船を持っている きはじめた。ゅうべはいて寝たらしい、すでに湿っぽいズボンをぬ ことは知っているが、この男たちは士官候補生ではない。 甲板は摩減して、傷たらけで、なにかべとべとした、ラードのよらさぬよう、最初こそ気をつけたが、すぐにむたなことだとあきら うな透明の油でよごれていた。甲板の周辺の手すりは黒塗りで、風めた。なまぬるい海水が上からざーっとぶちまけられ、男たちはプ 雨にさらされていたが、なかに通っている動索固定用の。ヒンは象牙ラシを持つ手に力をこめる。油がぎらぎら浮いてきて、手すりのあ なにかの歯のようた。象牙いだから海へ流れ落ちる。日がのぼり、また一段と暑くなった。と だった。ファロンは手を触れてみた は滑車類にも、錨鎖を巻き取るキャ。フスタンにも使われていた。船きどき、だれかがひと言ふた言しゃべりかけたが、彼は返事をしな は塩と日ざしで白っぽく褪せた黒塗りの木と、よごれと酷使で黒すかった。 「ファロンは憂鬱症たそ」だれかがいった んだ白い象牙からなっていた。左舷に両端のとがったポートが三 艘、木と鉄の腕に吊るされている。右舷最後部にも一艘吊るされ、さ「でなきやコレラだ」ほかの男がいった。「たしかに目がとろんと らにメイン「スト後方の一段高い甲板に二艘、ひ「くり返して固縛してる。のどがかわかないか、ファロン。足が痛くないか。腸がお してある。これらのほか主甲板には大きな ( ッチと、前部マストのかしくないか」 かまど 「腸は調子いいよ」彼はこたえた。 すぐうし「つに昔風の竈を思わすどっしりした煉兀構造物があって、 これにはどっときた。「調子いいってよ。おい、マン島人 ! 」 甲板上の十五人ないし二十人の男が立ちはたらく場所なんか、あり むね と、彼はモップを押しているよ。ほよ・ほした老人に呼ばわった。「棟 そうに思えなかった。すくなくとも、かくれる場所はなかった。 、といってこい。甲 「ファロンー 三等航海士フラ ) に、ファロンの腸はもういし はやく甲板に手をつけ、でないとその鼻っ面をく「束さん ( ス つけてやるそ」背の低い、砂色の髪の男が近づいてきた。すんぐり板磨きでゆるんだらしいやー して筋骨たくましく、権威ある様子だった。その笑いかたには横柄「こんなとこでゆるめるんじゃねえそ」老人はましめくさっていっ た。男たちが大笑いし、また・ハケツの水がファロンの股のあいだに さと、どこか真剣味もあった。ほかの男たちが顔をあげた。 ファロンは男に道をあけた。男は甲板掃除をしている一団のほうぶちまけられた。 つか 2 ロ
甲板が磨かれて見違えるほど白くなったあと、フラスクという航海脱出を何度夢見たことだろう。いまこうして、二十五年たって、夢 がかなえられたのだ。帰って、だれか信頼して打ち明けられる相手 士が、ファロンを人の邪魔にならぬ船の前部へ連れて行き、ひとり で太いロープにタールを塗る仕事をさせた。男たちは彼がどこか変がみつかったら、すごい体験談になる。帰れたら。 だと気づいたようだったが、なにもいわず、どうやら仲間のひとり もうひとつ、あまり考えたくない可能性があった。自分は眠って いる間にここへきて、たしかにこの現実感には、狂気めいたものこ が奇妙なふるまいを見せはじめたからといって、なんとも思わない らしかった。 そあれ夢の徴候はないのだが、それでも翌朝目覚めたら、いつもの 手になまぬるいタールをくつつけた彼が突きあたったのは、したべッドに寝ているのではなかろうか。理屈ではその可能性もあるの がってつぎの疑問だった。彼らはどうして自分のことを知っているだ。だが、理屈にはあまり信をおかぬことにしている。一九八〇年 のか。彼らにとって、彼はファロンなのだ。あきらかに彼は、目がの大豆相場で大損をしたのは、理屈がろくなはたらきをしてくれな 覚める前から船に乗っていたのだ。ひとつの個性と役どころを持つかったからだ。 た、以前からの正規の乗組員なのだ。知らぬは自分ばかりだ。鏡が長い熱帯の一日がおわりに近づいた。タ焼けは旅行代理業者の願 ほしかった。自分がいまつけている顔と、前夜シカゴでつけていた望の実現であった。落日の位置からすると、船は東へ向かってい た。ファロンは巻いたロー。フに腰かけて、船尾の舵手が舵をにぎつ 顔が、ほんとにおなじものかどうか、見たくてならなかった。から だはおなしだ。九つのときからつけている盲腸の跡もある。手足もてとろとろ居眠りしているのをながめた。この船では、エロール・ かわらない。全身の疲労と、赤く焼けた肌は、こんな仕事を長らくフリンの映画でおなじみの、あのにぎり棒つきの舵輪ではなく、長 やっていない人間であることをものがたる。するとこれはまさしくい象牙の舵柄を使っていた。いや、むかし仕止めた鯨の骨にちがい 自分、シカゴの自分、正真正銘のファロンということになる。いまない。だれがこの船をつくったのか、これまたヤンキーの残酷なる ごろヴァン・ビ、ーレン・ストリートの仲買商社で、十九世紀の船実利感覚のあらわれであった。妙に無邪気でおそましい芸術品であ 乗りがひとり、まごまごしているのだろうか。この考えは彼の頼をつた。昼間ファロンは、手すきの船員たちが塩漬けの豚肉と堅い ナしふ分が悪かろう。 ゆるませた。穀物取引所の船乗りのほうが、。こ : ンを食べながら、骨片を彫っているのを飽かずながめた。 「ファロン、こんなところで寝られんぞ。老爺に寝てるところをみ 彼自身はついぞこんなところにきた覚えはないのに、みんな彼の つかってもよけりや いいが」声の主は、ファロンと同年配の長身の ことを知っているのだ。きっとこの船にパトリック・ファロンとい う男がいて、なぜか自分が、その役どころにおさまるため連れてこ水夫だった。彼はファロンがタール塗りの仕事をあたえられたと られたのだ。理由はわからない。方法もわからない。なんとも奇怪き、まもなくマストからおりてきて、しばらく黙って見ていたが、 よ : 仕事のやりかたをなにかと助言してくれた男だ。タ闇の落ちかかる なかで表情はよくわからなかったが、声には親切気をかくしている 冒険と考えてみてはどうか。少年のころ、日常世界からのこんな おやじ 幻 9
ス・チニイス 、きみが神をおそ ら、船主はなんというだろう。こんな無茶な鬼ごっこを承知するとかぬ神の言葉を吐いたじゃないか。スティリー れる男なら、それを否定しまい。あんな人にきみは服従していいの 思うか」 か。モービイ・ディックなんて、神が造った生き物のひとつ、もの はきよとんとした。「グース・チェイス ? 」 スティリー いわぬ動物でしかない。動物に復讐なんて許されることだろうか。 ・ハルキントンは興味を持った。「先をつづけろ」 ドアに一歩踏み込んだかたちだ。ファロンは何度も頭のなかで稽きみはそんなことに加担したいのか。神様はとても承知すまい」 スティリ ーは困惑顏になったが、それでもかたくなだった。「全 古した論法を持ちだした。「なにもモービイ・ディックには、ま、 能の神がなにを承知するとかしないとか、おまえにきかされなくて の鯨よりも油が多いわけじゃなし : : : 」 、、 0 そんなことは、おまえごときがいうことじゃない。ェイ ( ・フ が口をはさんだ。 「ばかでかい鯨だというそ」スティリー ファロンはいらだちの表情をつくった。「しかし、どんな二頭をは船長なんだ」いいすてて甲板を反対舷へ歩いて行き、そこに立っ てこちらを見ていた。できるだけそんな会話から遠ざかりたいが、 合わせたよりも大きいわけじゃないだろう。ェイ ( ・フの目当ては、 その鯨の肉から取れる油なんかじゃない。わたしが知っているようしかし様子は知りたいというふうだった。 ファロンは腹が立ち、厭気がさした。 に、もしも船主があの人の考えていることを知ったなら、もしも穴 蔵のような船室を出る前の一週間、あの人がどんな病人だったかを「 ( ルキントン、きみもスティリーのところへ行ったらどうだ。わ 知ったなら、もしもあの目の輝きと、戸棚にしまい込んでいる海図たしに付き合うことはないぞ。きみの評判を悪くするだけだからな を見たなら : : : 」 ・ ( ルキントンはじっと彼を見すえた。「おまえはかわってるよ、 ファロン。最初おまえをビークオド号で見たときは、なんとも思わ 「海図 ? なんの海図だ。おまえ、船長室にはいったのか」 「いや、そうじゃないが」と、ファロンはいった。「わたしはいろなかったが、おまえのいうことは道理かもしれん」 はそう思っていないようだ」 んなことを知ってるが、それはいつもしつかり目をあけて見ている「スティリー のと、情報源を持っているからだ」 ・ハルキントンはグロッグをぐいとあおって、「どうしてスティリ ってることの半分もわ 「ファロン、おまえさん、くにはどこた。い 1 なんかに、エイ ( ・フの狂気をおしえようとするんだ。あんな男は かりやしねえ。情報源 ? そいつはなんのこった」 な、サインした契約書に空は緑と書いてあれば、いくら青だといっ くックやおれならまだ 「ジーザス ! 」・ハルキントンなら話がわかると思ったのだ。 たって承知するやつじゃないんだよ。スター / スティリ 1 が顔色をかえた。「濱神語を吐くんじゃねえそ。冒漬しも。スタイリーはだめさ。それともおまえさん、自分が話しかけ る相手のいうことはきかんのかい」 者の言葉はおれが許さん」 5 ファロンはパルキントンの顔を見た。長身の水夫は穏やかに見返 ファロンはべつのとっかかりをみつけた。「もっともだ。わたし が悪かった。しかし、あの誓約の夜、老人はわたしなどおよびもっして、辛抱強く待った。
立っている。ひとつ大きく息を吸って、彼ははたしで手すりの上に った。うちへ帰りたいと思った。帰らせてくれ。スタ・フは怒り、か あがった。内側に向きなおり、索具をの・ほりにかかった。スタ・フはらかう。ほかの者も寄ってきて、笑って見物している。ファロンは 2 ひややかにながめ、なんだか彼の失敗を待っているみたいたった。 目をつむった。目をつむれば、そこからいなくなるような気がし 期待しているみたいだった。カウンティ ・フェアでためす梯子の・ほ た。彼はふと、大工の木槌のような音をききつけた。 りに似ていた。一段あがるたびに、体重の方向へ梯子はねじれ、上「どうした、スタブ君」穏やかな声。ファロンはまた下を見た。工 へ行くほど拡大される船の揺れのために、足がつぎの段をみつけるイハ・フがメインマストに片手をついてからだをささえ、顔を上に向 のが容易でなかった。あまり人目を意識するほうではないのだが、 けていた。親指が金貨に触れていた。 いまはみんなに見られているのを感じ、自分の珍妙さを痛いほど意 スタ。フは、エイハ・フがまるきり見当ちがいの呪文で呼びだされた 識した。間抜けぶりとおびえが、まる出しにちがいない。 亡霊ででもあるかのように、ぎくりとなった。彼はあわてて顔を上 胸がむかついてくる。甲板が方図もなく遠く見える。大気はむしにふり向けて、ファロンをしめした。 暑く、風はすこしも爽やかさがなくて、ひたいと首の汗をちっとも 日ざしに目をしかめて、エイハ・フはしばらくファロンをじっとな 冷やしてくれない。彼は必死にローブをにぎりしめた。もう一段あがめた。い っせいに見あげている男たちの日焼けした顔にくらべる がろうとするのだが、両足の力が抜けてしまったみたいだった。屈と、エイハ・フのそれは異様に青白かった。だが、その青白さのなか にも、死のしるしのように、顔の半面を縦に走る傷の白さは、さら 辱たった。恥すかしさに身がほてり、だが落ちるのではないかとこ わくてたまらなかった。こわいのはそれだけではない。 もうなにもにきわだった。彼は老人であった。身をささえようとしてふらつい かもがこわかった。いるはすもないところにいて、欺かれ、ばかに され、なにがなんだかわからすにいることがこわかった。両腕で索「どうしてのぼらんのだ」ェイハプはファロンに大声で呼びかけ 具にしがみついても、ひざががくがくし、胃の腑がむかっき、喉元 に苦い汗がこみあげてくる。目をぎゅっと閉じて、泣きながら、な ファロンはかぶりをふった。・つぎの段へあがろうとしたが、足は にもかも消えてなぐなれと思った。 ロ 1 。フをさぐりあてても、もうからだを引っぱりあげる力がないみ 「フアンー ファロンの大野郎、サメ野郎、はやくの・ほらんかー たいなのだ。 のぼれ、意気地なし、のぼらねえなら二度とこの甲板を踏まさん ェイハ・フはまだ見ていた。いらたちゃ怒りの様子はなく、通る車 そ ! 」スタ・フが怒声を吐き散らした。目をあけると、顔を真っ赤に がこわくて中央分離帯ですくんでしまった動物でも見るような、た して、すごい形相で下から見あげていた。卒中を起こすんじゃない だの好奇の表情たった。いつまででもそこに立って見ている気らし か、とファロンは思った。 かった。スタ・フは怒りのやり場をなくしてしまい、落ち着きなく足 あがるでなし、おりるでなし、中途でとまって身うごきできなかを踏みかえた。乗組員たちはただ見守っていた。いくつかの顔が、
ファロンがいずれ迎えねばならぬと思っていたときが、ついにや「それでだ」 「こんな鯨狩りに、動物を殺すことに、なんの意味があるんです。 ってきた。 その夜の深更、彼は前夜同様 ( ッチの下で寝ている = イ ( ブのとそれがあなたの生きかたをどう正当化するというんです。・せんぶ煮 ころへ話をしに行った。大工は彼のあたらしい義足を、こんどは木詰めて油にしたところで、モービイ・ディ〉クを聖書のページのよ でこしらえているところで、エイ ( プは後部昇降ロの暗い陰にむつうに切りこまざいて食いつくしたところで、結局それがどんな満足 つりうずくまっていた。待っているのか眠っているのか、ファロン感をあたえるというんですか。解せぬことだ」 船長は真剣な様子で彼を見た。じっとききいり、質問の先まわり にはわからなかった。 梯子をおりかけて、二段目でためらった。 = イ ( ・フが顔をあげたをしているようだ 0 た。穴倉はひどく暗くて、たがいの顔を見きわ められぬほどだった。ファロンは両手をしつかり後ろ手に組んでい のだ。「なんだ」と、彼はきいた。 ファロンは相手がなにをいうだろうかと思った。彼は暗がりに身た。ベルトにさし込んだ肉包丁が、腰の皮膚にあたってひんやりつ をちぢめた男を見て、なにがこの男を突きうごかしているのか想像めたい。鯨肉切りに使った包丁だった。 「うごかしがたく定められているものなら、わしはなにをやろうと し、彼を物ではなく人として見ようとっとめた。この男が、ただの ーーーきみの掌中 人間でしかないということがありうるだろうか、それともファロン問題ではない。目的も意味も、わしの掌中にはない 自身が、メルヴィルの想像の産物たる書物中に棲んだため、類型化にも。われわれはただ自分の役どころにおさまって、あらかじめ定 められたものになればいいだけだ。どうせ筋の運びがおなしなら、 され歪められてしまったのだろうか。 くックと話しているとき、この世で起き逆らったり逃げたりするより、あたえられたその役を生きたほうが 「あなたはきよう、スター / 。あの鯨を追うわしを狂人という者もいる。狂人かもしれぬ。 る一切のことは、あらかじめ定められ、そうなる運命にあるのだと 、いましたね。すべてみな、じっさいに起きる何万年も前に、稽古だが、やつを追いもとめて、邪魔立てする者を切り裂き、焼き殺す のがわしの運命であるなら、このわしの狂気の問題など、どうでも ができているのだと。ほんとですか」 しいこととちがうかね」 ェイハ・フは上体を起こしてファロンのほうへかたむけ、甲板のラ ン。フが投げるほの暗い明りに顔をさらした。すこしの間、彼は黙っ彼は作中人物のしゃべりかたをしていなかった。 「一方、何事もあらかじめ定められていなくて、この足をあいつに てファロンを見ていた。 「そうなんだろう。そういう言葉が口をついたようだ。拑教徒持って行かれたのも、鯨狩りで希望をつぎつぎに挫かれたのも、運 フ、ダラ ) はわしに先立って死んだが、本人の予言したとおりだっ命ではなか 0 たとするなら、なんという残酷な世の中だろう。この た。そうなんだろう」 世自体の慈悲とカ以外に、なんの慈悲も力もはたらいてはおらぬの だ。世界はほんの気まぐれから、われわれの人生をぶちこわすの 「あなたがあの鯨を追うのもそれでですか」