中国 - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1985年1月号
21件見つかりました。

1. SFマガジン 1985年1月号

この九月の末から十月初にかけて、私は動として、何回も中国の作家、詩人、文学中国を訪れたのであるから、中国の作 家と会い、中国のについて語りあいた 「日中三千人青年交流」のもよおしの、日者たちと会い、懇談の一刻をもった。 また中国で日本のがどのように評 しかし、そこに出てくるのは、当然の結 本からの三千人の訪中団の一員として中国 果として ( その作家たちの話では、中国に価されているかを知りたいと思った。 を訪れた。 その旅については、ここでふれるべきこも、日本と同じような純文学、大衆文学の私は中国についてはまったく無知で とはない。旅は、北京から西安、上海をま二重構造はたしかに存在しているようだつある。北京で、中国作家協会の高名な作家 わる十日間のものであったが、私たちの団た ) 「人民文学」に執筆するような「高度たちと会った折に、 ( 「科幻小説」と中 は作家、評論家が多かったため、団別の活な文学」の作家たちであり、私はせつかく国ではいうが ) の第一人者は誰か、と問う 訪中中 間国島 葉中想 烈梓

2. SFマガジン 1985年1月号

新しい手法を喜ばないのです。少しは訳さ子供の読み物としての地位しかありませんです。昔のような子供向けだけだと、 れているでしようがとても少ないはずででした。現在、数年来、作家の文学性作品が書けても純文学の雑誌にはのらな す。中国の作家も試みとしてしたことはあのレベルが上って、も文学の雑誌、新 聞にのるようになりました。純文学の「人中島では、そろそろ時間もないことです るが、あまりに読者が少ないので ( 笑 ) まはさっきいった章回小説の書き方が主流民文学」にも、私は二つのりました。一つので、中国の未来の展望についてはど うでしようか。 葉ますます成熟してゆくでしようね。あ 中国では、米国のは、中国の国情に まり数はこれ以上ふえないが、質の向上の あわないと見ています。むしろ、われわれ 方向へむかうでしよう。つまりは、純文学 は、中華民族の民族的気風を追求したもの を望みます。それも少しづっ成熟して、た 真の方向へむかってゆくと思います。 中島さいごに、日本へのメッセージ くさんの小説が文学性をもつようになって 記をお願いします。 きました。もともと中国では、小説はおも と葉中国と日本の間の v-q の交流はとても しろくて興味があればそれでいいのです。 、よ、を通じて日中の 多い。私のねがし。 文学性が云われるようになったのは最近でイ とい、つ 向交流をいっそうふかめてゆきたい、 す。主題のはっきりしたものが好まれま ・浦ことです。 す。 米国よりソビエトのものがよく紹介され た中島どうもありがとうございました。お し 目にかかれてとても愉快でした。まだわが ますね。ペリャーエフですか。 行 同国では英米の半分も中国の co につい 中島レムは ? て知られているとはいえませんが、私もで 葉知りません。 きることがあればその交流をふかめてゆく 中島ストルガッキー兄弟っ・ ための力になりたいと思います。再見ー 葉知りません。 中島ポーランドやチェコのは知られ ていないのでしようか。 日本の中国研究会の手になる「中国 は一九八一年の「腐蝕」もうひとつはこと 資料之一、海豚之神」の林久之氏のあ 葉知りません。選集も長篇も出ていませしの三月の、「正負之間」です。 んね。 読者層もしだいに青年層にひろがって来とがきもあるように、中国が日本へ十 中国の読者はもともと少年少女を対ました。作家が自分の文学的水準をた分紹介されておらぬについては、「中国 象としたものです。文革以前は、まったく かめたことで、純文学作家の列に入ったのがまだ欧米の水準に達していないこ

3. SFマガジン 1985年1月号

中島辟中国 報 中文化交流協会の一員として国慶節にわく中 国を訪れた中島梓さん。上海で中国 S F の第一人者 葉永名 ! 岻と会い、日本の SF ファンにはほとんど知 られていない中国 S F についてのインタビュウとな りました。 葉永烈

4. SFマガジン 1985年1月号

ど遠くない将来、中国が日本に次々と いては刮目すべきものがあるといってよい とは、残念ながら認めなくてはなるまい」 紹介され、むろん日本のそれも中国にうけ ということも、たしかにあると思う。しかであろう。 し、考えてみれば、三国志、水滸伝をはじ私はせ「かくいただいてきた葉さんの著入れられる、ということも、ま「たくの夢 め、中国古典が日本の小説そのものに与え作を、 ( むろんそれは中国語であるので ) とは思えなかった。 まだまったく読めずにいるのだが、それほ現在、中国では、かって日本で一世を風 た影響は実に大きいものがあるわけだし、 靡した山口百恵の「赤い疑惑」が「血疑、 日本のが英 のタイトルで放映され、なんと視聴率 ( あ 米仏で中国 の十億人の国で ) 九十五パーセントを得て の日本における いるそうである。どんな田舎へいっても山 以上にちゃんと ヤオ・ハイチェン ロ百恵の名をきいたし、中国の人々は日本 紹介され評価さ の歌をとても愛して、「四季の歌」と「幸 れているかどう せなら手を叩こう」が一大流行歌となって 1 レ かも、まだま いるのだった。 ・こ、 A 」い、つレ J こ 0 面白いものに国境はないのである。まさ 一しく葉氏のいったとおり、を通して交 それゆえ、中「一 ( ル セ 流をふかめてゆければ、われわれの世界は 国のが日本 メもっともっとひろがり、楽しいものと、平 よりもいくぶん 低和に近づけるものとなるかもしれない。 おそくスタート ずっと収穫の連続で、得たものが頭から したといって 葉はみ出るぐらいな盛沢山の旅のさいごの朝 も、それは大き は、葉永烈氏のおかげでひときわ新鮮な感 な差とはいえぬ 動にみちたものとなった。急な申し出を快 と思うし、何よ くうけて、ホテルまで早朝にわざわざ足を りも、初版がマ はこんで下さった葉永烈氏に深甚なる感謝 ンガにもせよ七 を申し上げる。 っ 1 ) 百万、五百万出 通過日中交流 ! 版され、それが とぶように売れ てゆく底力につ 一九八四年十一月八日

5. SFマガジン 1985年1月号

たところ、かれらから異ロ同音にかえってでは、全部で百人ぐらいです。その中でも昌、彼は私の友人です。 っとも有名なのが、北京の鄭文光ーー彼の鄭文光、童恩正、蕭建享、遅叔昌、それ聞 きたのが、「それは上海の葉永烈だろう」 ということであった。 創作活動は一九五〇年代からはじまりましに私は世界小説協会のメン・ハーでもあ 葉永烈ーーその名だけは、私もどうやらた。 ( 中島注、鄭文光氏の代表作は、日本ります。 上海には女流作家もいますよ。ペンネー 耳にしていたのである。そこで私は上海に ムを繆士とい 、とても若い。二十五、六 着くと、同行の日中文化交流協会の戸室道 で、大学を出たばかりです。いまいった五 子さんに頼んで、葉永烈氏との会見を申し , 入れた。 名、それに彼女は、中国作家協会のメン・ハ 上海滞在はわずか三日であったが、その さいごの日、もうその午後には東京へ出発 島私は中国の歴史について文章を書い するという朝、葉永烈氏との会見は実現し 中たが、それは日本語に訳されました。中国 た。葉氏の側にも、日本へのつよい興 すの発展史です。これは、「イスカーチ ウ 味があり、このインタビューは、私の側か エリ」という同人誌に発表されました。訳 ュ らは葉氏インタビューであるが、葉氏の側 ビしてくれたのは、武田雅哉という人です。 からは私へのインタビューとして、相互に ン中島その文章を、見ていない人のため 雑誌に発表することになるはずである。 に、お手数ですがもう一回、中国史に 氏 このインタビューは一九八四年十月七 ついてかんたんに説明して頂けませんか。 永 日、早朝八時から、上海・海鷦飯店の私の 葉いちばん早いものは、一九〇三年で 葉 室で行われた。通訳の労をとって下さった す。それはジュール・ベルスの「地底旅 のは中国の王慶英女史である。 行」と「月世界旅行」で、これを訳したの は有名な魯迅です。魯迅は、日本留学中に 中島残念ながら、現在の日本ではまだ中 訳したのです。 国のについてよく知られているとはい 中島日本語からですか。 えない状況にあります。それでごく初歩的の中国研究会から林久之氏によって訳葉そうです。フランス語から日本語に訳 なことからしかおききできないのですが、 出され、鄭文光についての評論も紹介されされたものを、中国語に訳したのです。中 現在、中国全土に、作家とよべる人はている ) 国のの発展史は、日本ととても密接な 何人いるのでしようか。 それから四川省の童恩正、剿興詩。江蘚 かかわりをもっています。魯迅より一年早 葉永烈いまを書いているのは、中国省の蕭建享。現在日本に住んでいる遅叔 ・く、ベルヌの「十五小豪傑」 ( 中島注「十

6. SFマガジン 1985年1月号

五少年漂流記」 ) を訳した人がいました。葉非常にたくさんです。ベルヌが一番多たくさん紹介されましたが、中国の読者に 次にウエルズ。ロシアのガモフ「物理はベルヌがいちばん好かれた。新中国成立 梁啓超という人ですが、これも日本語からく、 世界奇遇記」 ( 中島注「不思議の国のトム後は系統的に紹介されています。中国青年 訳したのです。 梁啓超はこれを中国の昔の「章回小説」キンス」 ) 。米作家は一九四九年の解放後に出版社がベルヌ選集、江蘚科学技術出版社 がウエルズの作品を、アシモフもたくさん の書き方で書きました。これ 訳されています。 は一章づっ連載する形式でし 中島日本 r-o は ? たが、これがとても評判にな 葉星新一が一番有名です。百以上紹介さ り、それによって中国のある れている。三つの出版社が作品集を出版し 作家にへの興味をもたせ シャオスソ . ザーチン ています。小松左京はあまりたくさんでは ることとなりました。 ないが「日本沈没」が訳された。あと眉村 中国人の手になるで最 トンチンカ / ル / 号卓、筒井康隆が知られています。 も早いのは一九〇四年、荒江 的中国の初期は二〇ー三〇年代です 釣叟の「月球植民地小説」 です。これは実はペンネーム 奇が、そのあと衰えてから復活した。しかし 解放後にもう一度衰えたときがあります。 だけで、未だに誰だかわかり ません。これは「繍像小説」 熾一九六六ー七六年の、文化大革命の間で、 そのころは中国ではは一篇もない。そ に連載されましたが、これを 冷 のときは四人組の時代で、かれらは「知識 きっかけにどんどんこの手の 書が多くなるほど反動的になる」という主義 話が書かれ、清末から民国の のだったから文化はすべて衰えました。中国 初期は二十数篇ありました。 氏 小説の真の発展は、文革以後のことです。 その後一時衰えます三 0 年 烈 永 この数年間で、数、質、ともに昔をこえ 代では一九三二年の老舎の 葉 て、新人もたくさんあらわれました。 「猫城記」が代表的です。こ 中島たとえば : れは日本語、ロシア、英、仏 葉さっきいった上海の繆士。北京の宋宜 にも訳され、中国史にお 昌。彼は四十近いが、文湛報に「的貶 いて重要な作品です。 値」—> の価値が下がる、という作品で 中島その間も外国作品は紹 デビューしました。将来、人工皮膚ができ 介されていたのですか。 ンティアオソー ファンジャ シンシンイー

7. SFマガジン 1985年1月号

葉いや、みんな他の仕事をも「ていまた。いま文瓶報新聞社につとめています。 中島いっから小説を 葉一九五一年から発表しています。十一す。鄭文光、彼は天文学者です。助教授最近結婚したが、夫も文学者で、同じ大学 で、北京天文台の副研究員です。五十六歳の卒業生です。 歳です。 中島中国作家クラ・フ、あるいは協会 中島ええつ。浅利知輝みたいですね。日で、不幸にも去年脳血栓で倒れました。い 本に十三歳で 0 ンテストの佳作にな 0 た少ま、回復段階ですが、ペンをとるまでにはとい 0 たものはあるのでしようか。 なっていません。彼は数年前にたくさんの葉ないですね。全国の組織としてはない 年がいて : 葉小学校のころから、詩を新聞にのせて作品を発表しました。「飛向人馬座、が代です。研究グルー。フは各地にありますが。 しかし結成のうごきはあるのですが、その いました。少年先峰隊に入っていましてー表作です。 ( 中島注、「射手座へ飛べ」 ) ーそれはいま読んでも面白いです ( 笑 ) 高童恩正も助教授で、考古学者です。彼の中心にな「ていたのが鄭文光で、さ 0 きい 校を卒業して、姉が化学者だ 0 たもので、代表作は「珊瑚島死光」、これは映画化さ 0 たように彼は現在病気ですから。 北京大学の化学科に入りました。十七で入れました。彼は一九七八年に優秀短篇賞を中島大会、「ンヴ = ンシ = ンは。 葉まだないです。 t-0 ファンもいるが、 もらっています。 って、六年で卒業したのです。 ファンが大会をしたというこ 組織はない。 大学一年のときに作品を発表しました中島それはの賞ですか。 ファンクラ・フというものもあり が、化学を学んでいましたから、化学と文葉いや、一般の文学も含めたものです。ともない。 ません。中国の作家が世界大会に行っ 学の結合したものでした。一九五九年に、中島の専門の賞は。 さいしょのをかきました。十九です。葉いま考えてはいますが、まだないのでたこともない。私自身はアメリカで会議が あって行ったとき、出席したことはある これは六十年に上海少年児童出版社から出す。 が、そのていどです。 ました。 中島専門誌はありますか。 もともとが好きだ「たのですね。六葉四川省の「科学文芸雑誌」がそうで中島中国のの特色というと、どんな 一年に、「十万のなぜ」という本ーーーこれす。それから天津の「智慧樹」これは少年ものになりますか。 性のつよいも 葉中国のはストーリー は子供向けの科学知識の本ですが、当時五少女向けです。 のが多いですね。マンガ、といってもごく 百万冊出ました。 中島女流作家はいますか。 大学を卒業後、上海科学教育映画製作省葉少ないが、いることはいます。四川の写実的で、下に文章のある、それになって ャンショウ ーズになっているものはみなストーリ に入って映画監督をしていましたが、四年楊。しかし作品は少ない。短篇作家でシリ 1 のあるものです。 前にやめました。 す。も書く、というぐらい。 中島いまは専業作家ですか。 さいしょに云った上海の繆士は選集もあ中島 = 、ーウ = ーヴ、つまり新しい手法 を一こう 葉そうです。 ります。この人はお父さんも釉鴻という作などは : 家で、それで学生時代から書いていまし葉中国の読者の習慣としては、そういう 中島他の人も専業ですか。 9

8. SFマガジン 1985年1月号

てみんなが美しくなり、美の 十万、マンガにしたものはさらに百五十万 価値が下がって : : : という、 です。オリジナルとしてはこれが一番多い 9 が、マンガになったものでは「金明小説」 とても面白い作品です。彼は は七百万出ました。 最近長篇を二つ書きました。 中島すごいですね。他の人もそうです それと西安の魏雅華。七九年・ ( ・、、を から作品を発表していますが 、刀 強い影響力をもっています。 、 : 蓮葉七八年から八〇年はね。いまはたくさ 代表作は「温柔郷之夢」、こ 0 ・・一並ん書き手がいるのでもう少し減「て、初版 れはロポットの話。 五万ー十万というところです。一九八一年 選には一年で百冊以上のが出版されまし 呉岩、これは北京師範大学 飜たよ。 学中島それもすごい 葉私の小説は、文革以後に発行されたは 著じめてのだったのです。文革の十年間 い人もいます。孟偉哉、この一 ' 人は純文学に従事しながら ~ のはどんな文学もなかった。ひもじくて、食 もかいています。 烈べ物なら何でも食べるという状態だったの 中島このへんで、葉さんご 葉です。時期迎合といいますが、あの時代に 自身について。 書いたのがよかった。この時代に生まれて 葉現在、群集出版社から長 よかったということです ( 笑 ) いまだった 篇四篇が出ています。これは ら十ー二十万でしようね。あのとき、私は 推理とと結合させたもの 王府井 ( 北京の繁華街 ) を歩いてみたが、 で、主人公は同じ、つまり系 長い行列ができて、一人が五、六冊づっ買 っていましたよ。四川では一時間に五千冊 列小説 ( シリーズ ) です。 も売れたのです。いまではそうはいきませ 「金明小説」といっています。 ん ( 笑 ) この種類のものがたくさん出てし 評論も発表しました。英、仏、米で中国ではの読者層はとても広くて、 その評論が訳出され、あるいは紹介されまの印刷量はきわめて多いのです。私はまったし。 した。西ドイツでは選書が出、スウェ 1 デ一九七八年に「小霊通漫遊未来ーという作中島葉さんはおいくつですか。 ンでもさっきいった史が訳されまし品でデビーしましたが、この初版は百五葉四十四歳です。 こ 0

9. SFマガジン 1985年1月号

く特別インタヒ、ユウ〉 ④中島梓中国利学幻想作家訪間報告 く PhotO 日 eoort 〉 ⑥晴海エレクトロニクス・ショー 朝石原博士の SF 研究室⑩石原藤夫 の野田昌宏のセンス・オフ・ワンタランド⑩ 野田昌宏 ハソコンがひろける SF の夢 内藤淳一郎 ⑩ SF/ ヾソコン入門講座 協力 : ハード SF 研究所 第 1 0 回《光世紀》星占い くコミッワ〉 朝続・青い木、白い花、豊かな果実 世界の SF 界のホットな話題 海外 SF 事情 の SF 工ンサイクロペティア⑩ ・⑩世界 SF 情報 の書店通信堀江良文堂 ( 千葉 ) のてれほーと 0 第 11 回「ハヤカワ・ SF コンテスト」応募規定 バックナンバーのお知らせ 題名募集中 ! ⑤大原まり子 ① lllustrated Science Fiction 「 2010 年宇宙の旅』 ⑩ lnscrutable Nippon : Sci-Fi Empire 0f the East A happy-go-lucky SF fellow 0 リーダーズ・ストーリイ〔選・評〕星敬 〔 SF スキャナー〕工リザベス・スカーポロウ泉本和 小川隆 〔 SF スキャナー〕ハワード・ウォルドロッフ SFM 特派員報告 MAGAZINE FORUM ⑩ SF プンク・スコープ高橋良平 ⑩ S F レビュウ 伊沢日召 / 鏡明 / 水鏡子 / 中島梓 朝今月のプンクガイド星敬 朝インフォメーション・サーキット 藤田尚 / 安田均司、嶋さちほ ' 森田繁 古田 深見弾 ピーター・ニコルズ編 / 大野万紀訳 山岸真 The followng story is 「 epnnted wnth 内「 mi セ on Of the owner. fo 「 which is here gratefUIy made La Ronde by Damon Knight 01983 by Me 「 cury PrßS 表紙イラストレーション : 鶴田一郎目次写真 : 西條善弘 扉カット : 田中精美表紙・ 2 色ページレイアウト : 小詹夫 本文イラストレーション : 金森達 / 吾妻ひでお / 加藤直之 天野喜孝 / 佐治嘉隆 / 宮武ー貴 / 佐藤道明 / 横山宏 米田裕 / 福留朋之 / 浅賀行雄

10. SFマガジン 1985年1月号

由月家であるかを語「た、 = フレ 1 モフのことや、七一べ、ージから一〇〇ページまで、との手落ちにするのはいささか酷な気がす いうことは、中国の宇宙船〈チェン号〉にる ) ばを引用した上で、「反動勢力が世界を核 事 ここまで慎重に配慮されていれば、読者 の脅威にさらしている不安な時代に、このついて書かれている第二部のほとんどがカ LL は、本質的なものではないにしろこの作品 作家がふたたびペンに訴えて、宇宙研究のツトされている。 に問題の個所があろうなどとはまったく気 ( 『クロニクル』によれば、作品に登 事業でアメリカとソビエトの科学者たちが 外 場するロシア人の名前の中に、反体制派のがっかないだろう。それほどまで用意周到 協力する姿を描いたことは暗示的である。 、冫クラークは、人類が平和共存の道を歩み、活動家から採られているものがあるのに、 に準備し、いうなれば、有害な部分をきれ 核兵器を永遠に拒 いに取り除いたにもかかわらず、この作品 否し、あらゆる国 を載せたことが、結局はザハルチェンコの 際問題をもつばら 命とりになってしまったのだ。 。したい、どうしてそんなことが起 平和的な手段で解を ( ~ 決できると信じて 上書こったのだろうか。作者の側からクレーム がついたというのならわかるが、この場合 いる」として、こ はあきらかに、自分の作品が改竄されるこ の作品を連載する、、霧、 とを作者自身が充分承知していたはずであ 意義を強調してい ( を、ゞ のるし、ことによると自ら協力した節すらう その上でさらに 宇かがえる。 年 おそらく事の真相は、もとの作品を知っ 問題になりそうな ~ ・物・ , 個所をすべて、丹一第 3 ・・ー 5 ていただれかが、ザ ( ルチ = ンコの失脚を 念に削除したの 狙って裏で画策したにちがいない。もしそ だ。例えば、「ま、 うだとすれば、その人物は、編集長以上に ここまでしゃべっ 反社会的な行為を行ったことにはならない だろうか。寝ている子を起こす結果になっ ただけでも、別荘にまた軟禁されるに充分ザ ( ルチェンコがそれを見落としたこと だ。今度は面会もおそらく許されんだろも、この事件の火種であったと伝えているたのだから。連載がなんの説明もなく中断 ( 訳書、二五頁。以下、ー リ用は伊藤典が、それは多少こじつけの感しがする。たし、いつのまにか編集長が消えていれば、 夫氏の訳による ) といった細かい部分かとえば、現在、獄中にあるウクライナの作たいていの読者がなにかあったことに気が ら、「これがかの有名なサハロフ駆動か : ・家、ニコライ・ルデンコと同姓の人物が医つき、その原因が『 2010 年宇宙の旅』 であることはすぐに察しがつく。そうなれ : ・」 ( 同、五六頁 ) 以下、ほぼ一ページに者として現れるが、こちらは名がカテリー ば、おそらくこの作品の原書を読もうとす わたる、サハロフ博士に関連のある部分ナで女性である。それまでザハルチェンコ 円 4