ししかわからす、いっそ相撲取りになろう、と申しあわせました。 相撲は、 いまてこそ国技として大変なものてすが、当時の社会通念として、武士の家にう まれた者が相撲とりになるなど考えられません。が、この二人は食ってゆく道はそれしかな と田 5 、 、陣幕という関取を訪ねます。陣慕久五郎 ( 一八二九ー一九〇一一 l) 第十二代の横綱て カカ す。この人は出雲の人てすが、大変強かったものてすから、大名の抱え力士になりました。 お抱えというのは、ひいきという以上の意味があります。安政年間ては阿波の蜂須賀侯、つ いて出雲の松平家、幕末ては薩摩の島津家のおかかえてした。相撲好きの西郷隆盛がこの人 を愛して、両者の友情は一幅の山水画のようだったといわれています。てすから山本権兵衛 らは、陣幕をよく知っていたのてす。 陣幕は弟子入り志願の二人の武士をみて、 「あなたたちは、だめだ」 と、出雲なまりの関取言葉てことわってしまいました。相撲て伸びてゆくには、日常ゆっ くり頭のまわる者がいし あなたたちを見ていると、四方八方頭がまわりすぎる、力士とし というのが、理由てした。 て決して伸びない、 この挿舌は、 いくつかのことを想像させます。 薩長人なら大いに出世したろうというのは後世の感覚て、戊辰戦争終了直後・ーっまりさ きに使った〃世間の虚脱状態み の中にあっては、山本青年や日高青年といった尋常以上 を どう食ってゆくべきか の才能と気概をもった青年てさえ、身をどこへ託すべきか
新島襄ー一八四一一二八儿〇ー クラーク博士丨一八一一六 - ・一八八六ー 明治国家と。フロテスタンティズム 明治時代はふしぎなほど新教の時代ですね。江戸期を継承してきた明治の気質と プロテスタントの精神とがよく適。たという、」とてすね、勤勉と自律、あるいは自助、それに倹約 、」れがプロテスタントの特徴であるとしすと、明治もそうてした 世界と平均化する、つまり国際化する、具体的代いえば世界共通のルールを持つ、 ざらにいえば世界と似たような法冶能力をも。た国をつくる、明冶は , そういう普遍性へのつよい志向においててきあが。た新国家てもあります」 ノん一み島ん / , 茜 を正封申 同志社大学・アーマスト館 内村鑑三ー一八六一ー一九三〇ー と新渡戸稲造ー一八六二ー元三三ー 明治の日本人は、過去の武士道をはけしく思いだし、 無教会主義のキリスト教徒だった内村鑑三は、 武士道のなかで育ち、札幌農学校で入信し、 在学中に「信仰の独立」をとなえた。
「日本および日本人とよ可、 という説明をもとめられたとき、明冶人は武士道をもち出さざるをえなかったのてす。て はサムライとよ可、 ーイカ、と間われれば、自律心てある、ひとたびイエスといった以上は命がけ てその言葉をまもる、自分の名巻〔も命を賭けてまもる、商に対する情。さらには私しをもた また私に奉ぜず、公に奉ずる、ということてありましよう。それ以外に、世界に自分 自身を説明することはなかったのてす。そしてそれは、りつばな説明てもありました。すく なくとも日露戦争の終了まての日本は、内外ともに、武十道て説明てきるのてはないか、あ るいは、武士道て自分自身を説明されるべく日本人や日本国はふるまったのてはないか、と 田います。 皮肉なことに、 武士が廃止されて ( 明治四年の廃藩置県 ) 武十道が思い出されたといってよく、 過去は理想化されるように、武士道もまた理想化されて明治の精神となったと思います。 ごくつぶ ナマの武士というのは、つまらない人間も多くて、社会の穀潰しといった人もおおせしし たはずてす。それら、歴史上数千万の玉石を気体にしたのが、武十道というものてしよう。 明冶初年の人口は、ざっと三千万ほどてした。 そのうちて、武士 ( 足軽をふくめて ) 家族も計算に入れると、二百万弱てした。人口のし % ほ どて、ユンカーなどからみると、大変な人数てす。正確には明冶六年 ( ・八し : ・ ) の調査。て、百 八十九万二千人、戸数にしますと、四十万八千余戸。てす。 明治四年 ( 一八七一 ) の廃藩置県は、それらを一挙に失業させたのてす。 し ぎよくせき なさけ 254
クラーク博十が学長をしているマサチューセッツ州立農科大学にも案内しました。クラーク 博士は、のち日本にきて八カ月間、札幌農学校て植物学を教え、その植物学以上に、生徒に人 的影響をえた人てあることは周知のとおりてす。 クラークは、プロテスタントてもって人格を作りあげた人物てした。札幌の生徒たちもそ のことがよくわかりました。かれは明治九年 ( 一八七六 ) 七月に着任し、翌年三月、当時生徒た ちがおおせい クラークの用意した「イエスを信ずる者の契約」に署名したといわれます。 このなかに 一、明治期の武士道的なクリスチャン新渡戸稲造や内村鑑三がいたことは、い てもありません。クラークの感化力は大変なものてした。かれが離任のとき、 *Boys be ambi- tious 一んといったことばは札幌農学校のみならず、明冶の青年のむに、灯をともしたこと は、ご存じのとおりてす。 さて木戸たちは、まだヨーロツ。ハを見ていません。アメリカが最初の外国てあり、アメリ 力の官吏以外に親しく接したアメリカ人はクラーク博士てした。そして、民間の日本人とし ては、耶蘇教の神学を学んている新島襄にもっとも濃厚に接しました。キリシタンぎらいの 界 ) 一・山ナ・ 4 」、て ~ の、り・、まーしょ , フ 本戸の心はおそらく急速 ( 世 の クラーク博士は、木戸を、ホリヨークの神学校にまて案内したのてす。明治元年のキリシ 助 自 タン弾圧者は、どんなむ境だったてしよう。 本戸は、この間、新島の人物にすっかり惣れこみました。第一、新島は文明開化かぶれも 章 七 していませんし、アメリカかぶれもしていないのてす。このことに木戸はおどろき、滞在中
というのは藩主のみにたてまつる意見書のことてす ) は、二百七十藩に類を見ない思いきったものて、 あたかも藩をヨーロッパの一公国のようにする、というふうなものてした。 幕藩体制の基本は、武士制度にあります。その武士の制度を廃止して、百姓にしてしまい 本来有閑の人てあるかれらをして田畑を耕作させる、というのてす。武士たちがきけば、ふ るえあがるてしょ - フ。 それ以上に武士たちを戦させることは、武士たちがバカにして差別してきた百姓を兵に してこれに洋式調練を施し国家の ( この場合の国家は紀州藩のことてす ) 防衛にあたらせるというこ とてした。改革というより、革令 ロといえるてしよう。ちょっとここて申しますが、内臓外科 は、外科医という他者がやるべきものて、病人みすからがメスをとって自分の肺臓や心臓や 胃の腑を切りとるということはてきないものてす。しかし、紀州藩は といっても藩主と 津田出だけてすが それをやろうとしたのてす。 なせこれほど切迫して、こ しオか。亡びを待つよりも、古びきったみずからの心臓 ( この場合は武 士制度てす ) を自分てとりだして他の心臓 ( この場合は、農民てす ) と入れ代えたほうがよい ( 物狂いとしかいえませんが、そこまてしょ - フとしたのは、日本かヨーロツ。、に正服され て植民地にされるかもしれないという、この時代に共通した危機意識があったからてす。そ の危機意識は、それぞれの個性の気質によって、一方ては攘夷という排外直接運動になり、 っ↓り・開 一方ては、国をひらき、洋式 ( 西欧文明 ) をとり入れて、技術的に国防を強くする 国主義になるのてすが、根は日本が亡びるかもしれないという危機意識にありました。
「札幌独立基督教会」をたてたり、その後の無教会主義も、人格の独立ということが旗印て オかれは明治十七年、ア した。その独立の裏打ちをなし、支えをなすものこそ武士道てしご。 , いフォー メリカに留学し、アーモスト大学と 神学校に学びました。アーモスト大学の シーリー総長の感イをうけ いわば正統のピューリタン主義というべきものが、内村の信仰 、てーしご。、 オカれは「私の信仰の先生」 ( 大正四年 ) というみじかい文章のなかて、私は二人の父を もっている、という意味のことを書いています。「私は肉体の父として日本武士を所有し、霊 きっすい 明伯四 魂の父として排日法を布く以前の生粋の米国人をもちしことを誇りとする」と言い つぎ 十一年刊の『代表的日本人』の序文のなかて、自分の場合、武士道 という精神的土壌が、接 だいき 木における台木だった。その台木に、キリスト教が接木された、という意味のことを書いて います。 乱 反 の サムライが制度として消滅したあと、武士道をキリスト教によって理想化した人に、内村 士 と札幌農学校て同級生だった新渡戸稲造 ( 一八六二ー一九三一一 I) がいます。かれはジョーンズ・ホ る プキンス大学に留学して、クエーカー派の信徒になりました。この明治時代の官教育の場に あ 焉 おける教育者として足跡の大きかった人物は、なによりも、『武士道』 ( 明治三十一二年刊 ) という 終 の イ 英文の著書て小さからざる印象を世界の読書人にあたえました。日露戦争の講和に力をつく ム してくれたアメリカ第二六代大統領セオドア・ルーズヴェルトの日本についての理解のより サ 章 どころは、新渡戸稲造の『武士道』だったといわれています。 十 第
西郷も、廃藩置県に同意したことては、国民の設定については大きく賛成したということ になります。か、かれには、かれ自身が一身て解決てきないほどの矛盾がありました。かれ に薩摩武士が好きだったのてす。人間として信頼てきる は、武士がすきだったのてす。とく ) この層を制度として生かせばク国民みはてきあがらない のはこの層だと田 5 っていました。 かといって、かれにとって宝石以上のものてある武士を廃滅させることはてきない 西南戦争の真の原因はそこにあります。 同時に、これをほろばした政府は、〃議論みをもって滅ばさず、権力と武力をもって滅ばし たのてす。あまっさえ、その〃武士みてある敵を〃賊みとしました。福沢のなげきは、この とくに新教国と、精神の面て張り合って十分遜 ということにあります。せつかく欧米 色のない〃武士の心と生活みというものを、政府は〃賊みとしたということを、福沢は、国 反 の 家百年のために惜しみかっ、心を暗くしたのてす。『丁丑公論』の文章の激越さは、その憤り 士 武 にあります。 あ 焉 西南戦争における当初の薩摩士族軍 ( 私学校軍 ) は、約一万二千てした。西郷は、反乱につい 終 の イ オかれら郷党人が決起するというのて、かれはやむなく、 て終始積極的てはありませんてしこ。 ム 勝海舟にいわせると、身をわたしてしまったのてす。以後、西郷は、作戦についてなんの意 サ 見ものべていません。自殺するようにして身をゆだね、七カ月の戦いのあと、政府軍の重囲章 べつぶしんすけ 第 「ー 2 のなかて、別府晋介をかえり見、
家族をふくめて五万人を越しましよう。それらは、江戸て住みました。 大名も、多数の武士や足軽をかかえています。要するに、戦国時代の戦闘員がそのまま平 和な社会て、国家公務員 ( 直参 ) や地方公務員 ( 藩士 ) になったのてす。行政にそんな人数は要 らないのてす。何パーセントかの公務員 ( 武士 ) は、生涯無役て、先祖からひきっ いだ家祿て 食べていました。役に就いた者も、一人て十分やれる小さな職種を三人てやるといったふう て、いわば幕藩体制そのものが、しごとをする組織というよりも、養人組織てした。 かれらを養っているのは、農民てしたから、農民のくらしは、一部をのぞき、江戸期を通 じてくるしかったのてす。幕末に日本にきたヨーロッパ人は、日本の気候と土壌が農業に適 しているのに、農民がまずしいことに驚きます。そのわけは、右の事情の中に見出すことが てきます。 しかし、ありあまるサムライたちの多くが読書階級をなし、また武士的節度を重んすると いう規律を保ち、いわば江戸期日本の精神文化をささえたともいえます。農民にとって大変 高くついた制度てした。しかし日本史ぜんたいという場所からみれば、帳尻は合っていたて ー ) しょ A っノ 明治の日本人は、過去の武士道をはげしく思 いだしたりしています。たとえば無教会主義 のキリスト教徒だった内村鑑三 ( 一八六一、一九三〇 ) は、高崎藩士の子として武士道のなかて育 ち、札幌農学校て入信し、在学中に「信仰の独立」をとなえ、独立こそ生涯の主題になりま した。外国の援助や干渉をうけざるキリスト教というものを主唱したのてす。明治十五年に 2 ラ 2
日本に多いのは、むかしもいまも人口てす。それは、水田の国だからてしよう。小麦の国 だったなら、こうも人の数はふえなかったろうと思います。米と小麦をくらべると、単位面 積あたりの穫れ高は圧倒的に米てすものね。 武士というのは、時代によって中身がちがいます。十三世紀、鎌倉幕府をおこして日本を 武士の世にしたころの武士は、もともとは公家の世の下にあった農場主をそのようによんて くまがいじろうなおざね なすのよいち 、・ごして′、・こさ いたというべきてしよう。熊谷次郎直実や那須与一の武者姿をおもし この十三世紀の鎌倉時代の人口は八百万人だったという計算があります。十四世紀の室町 時代は米の生産高が飛躍したから一千万を越えようとしていたのてはありますまいか。室町 は乱世だったはずてすね。しかしながら荒れ地や河川の扇状地を開拓し、灌漑して水田にし たりして、あたらしい武装農民 ( 新しい中身の武士 ) がたくさん出てきました。かれらの力が、 世の中にあたらしい秩序を要求しましたが、なかなかそれに見合った新秩序がてきず、ごた ごたしました。そのようにして十四、五世紀の室町時代は、室町幕府 という武家政権があっ たものの、統治力を欠き乱世てありつづけました。もっともそのくせ農業生産高がそれまて の歴史から大いに飛躍して高くなったという、まことにややこしい時代てす。その乱世てあ る室町時代の末てある十六世紀には、もはや戦国時代に入っていました。戦国の世は、十六 世紀末まてほば百年つづきます。 「戦国の百年」 というのは、なしくずしの革命期とてもいうべき世てした。鎌倉以来の武家の名家のほと 248
( 一 nvalid 仏語 ) も置きます。陸軍は、軍務局を項点とし、騎兵・砲兵・歩兵・土兵を置きます。 兵士は武士・農民をとわず、二十歳に達した青年から選抜徴兵をし、給科を支給するように しました。この制度は明治二年二月に出発しますから、明治政府が徴兵制を布いて日本じゅ うが反対の気分 ( 明治十年の西南戦争の遠因てもあります ) て大さわぎするよりも、三年早かったの てす。 おどろくべきことに、明治政府を先取りした小さな明治政府が、明治政府とは何のかかわ りもなく、大田舎の和歌山県にてきたのてす。 また通商省といった「開物局」を置きます。この開物局は、洋式技術や洋式機械による皮 木綿製造をおこなったりするのてす。 革業をおこしたり、 靴製造をおこなったり、 いきなりかがやかしい新時 ついさきほどまて御三家の一つの紀州徳川家だったこの藩が、 小さな新文明の国家を出発させたのてす。 代の政体を持ち、 「津田出」 無名てした。 というのは、それまて世間てはまったく おもしろいから見学しようじゃないか と、すこし後の話なんてすが、アメリカ、イギリス、ドイツといった各国の外交官が和歌 山県にやってきて見学します。東京へ移った新政府ても、これがうわさになりました。 今回は、余談が多いのてすが、津田出は、洋式陸軍をつくった以上、やはりヨーロッパの俤 8