福沢 - みる会図書館


検索対象: 「明治」という国家
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1. 「明治」という国家

「門閥制度は親の仇てござる」 と、福沢はいったことがありますが、かれは門閥家の木村に対しては何ともいえぬ親しみ をもっていました。 木村はけっして威張らず、このような身分の福沢、それも自分より五つも年下の福沢を、 人のいないところては、 「先生」 とよんて、ごく自然に尊敬していました。福沢の学問と識見をみとめた最初の発見者の一 人にこの木村摂津守がいます。福沢は生涯、木村を尊敬しつづけ、明冶後、木村が新政府か ら仕官せよといわれても仕えず、貧しいままて隠遁生活をつづけているのをみて、どうやら 陰て経斉的な援助もしていたようてす 福沢は、明治も二十四年ごろになって、 『瘠我慢の説』 という、福沢にしてはめずらしく武士論というべきものを書きました。「立国は私てある、 おおやけ 公てはない さらに私ということていえば、瘠我慢こそ、私の中の私てある。この私こそが 立国の要素になる」と説きました。 福沢は、言います。一個の人間も、この世も、あるいは国家てさえ、瘠我慢ててきあがっ ている。国ていえば、オランダやベルギーなどの小国が、ドイツ・フランスの間にはさまっ て苦労しているが、あれだって大国に合併されれば安楽なのだが、瘠我慢を張って、栄誉と 0 わたくし -4-

2. 「明治」という国家

文化を保っている。 そういうことていえば、勝海舟という人は、どうも解せませんというのが、福沢の論てす。 幕府瓦解のとき、将軍から全権をゆだねられ、江戸を開けわたし、みすから徳川家を解体し、 静岡に移し、わずか七十万石に縮小して日本を内乱からふせぎました。福沢はこれに異論を もちます。徳川慕府は衰えきっていたとはいえ、あのときなぜ瘠我慢を張って戦わなかった み : フい - フの か、勝氏は「立国の要素たる瘠我慢の士風を傷」った責任を感じねばならない。 てす。 私は、この福沢の勝論には与しません。勝の幕府始末は命を張った実務家のものて、福沢 こうぜっ は勝の事歴のこの部分を衝くかぎりにおいては、ロ舌の徒のにおいがしきりにするのてす。 ただ、福沢が勝をはげしく攻撃したのは、勝が、新政府につかえて大きな栄爵を得たと、 うことてしよう。なぜ、勝には「瘠我慢」というものがないのか えんげん さらに、福沢の感情は、咸臨丸時代に淵源するのてす。勝が、太平洋横断中、ふてくされ て艦長室から出て来ず、温厚な木村摂津守を手古ずらせぬいたことを、木村好きの福沢に って、勝への憎しみになって生涯消えなかったのてす。勝は、のちその大いなる文明感覚を もって、歴史を旋回させる大演技者になるのてすが、あの当時、小さな咸臨丸の中に、しか 足者という、とるに足らぬ小者の中に、将来の福沢諭吉が潜んていようとは も木村の私的な彳 こいつは〃という憎しみをもって、自分を見つ 思わなかったのてす。その福沢が、 こだに田 5 わなかった。勝にとって、災難てすな。 めていようとは、古めかしくいえば、夢 ( くみ 〃なんだ そこな 【第ニ章徳川国家からの遺産】 47

3. 「明治」という国家

福沢は、『丁丑公論』の中て、政府が西郷をク賊〃としたことに腹をたてています。西郷一 〃賊〃にされることによってサムライまてが亡びてゆくのてはないかという 個のこし J トり・・・、 ことを、日本のためにもっとも不安としたのてす。 やせがまん 『丁丑 そのことは、福沢が明治二十年に執筆した『瘠我慢の説』 公論』の第二編というべきものてす。 『丁丑公論』の中て、福沢は、東京て栄華の中にいて、ときに不品行な者さえ出ている官 〕貝たちのことを、 「人面獣心」 というはげしいことばて評しています。もっとも福沢は自分が使ったようにいわず、薩摩 士族のうち、故郷にいる者が、東京て官員になった者をののしってそういっている、という 乱 反 の のてす。薩人は東京と故郷の二派にわかれています。東京て官員になって栄耀栄華の中にし 士 しつばく 武 るものと、故郷て、古来の質朴のなかている者とてす。故郷の者は、東京の官員を「評論し る て人面獣心と云ふに至れり」と書いています。ちょっとっかうのをはばかることばてすが あ あえて福沢がっかったのは、かれも同感だったからてしよう。ついてながら、質素というの駕 は、欧米ても日本ても、高貴なひびきをもったことばてした。英語の plain という簡単・質素イ ム といったことばは、高潔な精神と仲間をなす精神とされています。これもプロテスタンティ サ 章 ズムの遺産というべき精神、あるいは生活態度てしよう。武士における質素というものは、 十 第 精神を置くスタイルとして欠かせないものてした。 にもよくあらわれており、

4. 「明治」という国家

福沢は、明治十年秋、西南戦争が西郷の敗北ておわった直後、『丁丑公論』という論文を書 きよ、ってい きます。発表するつもりがなく、ながく筐底に秘めておくつもりてしたから、文章には物事 の本質の底の底まて掻きとってくるような痛烈さがあります。二十余年後、門人が福沢の許 可をえて時事新報に連載します。連載がおわる前に、福沢は死にました。 「猿にてもわかるように書く」 という明晰さが福沢の文章論てした。それだけに、 『丁丑公論』の文章はいっそう痛烈てし この場合、論者の福沢という人についてのべておく必要がありましよう。かれはいまの大 アドミラル 分県の中津の藩士てした。江戸末期、大坂や江戸て洋学をおさめ、幕末、咸臨丸の船将木村 摂津守の従者になって渡米しました。帰国後、その洋学を買われて幕臣になりました。かれ は、自分が旗本 , というよりも、技術てその身を買われただけの存在だ、とじつに した自己認識をもっていました。語学技術者だ ごけに、公務てその後、欧州とアメリカに護航 しました。幕末において三度も海外に行ったというのは、めずらしい経歴てしよう。 み、のしょ , フに、 にわか慕臣ながら、幕末争乱期のなかて、孤独に日本の将来を考えました。 かれは〃個人の独立があってこそ国家の独立がある〃と考えていましたし、その個人の「独 立」の中身は、自由と平等てなければならないと考えていました。つまりは、勝海舟や坂本 龍馬が考えた国民国家の樹立ということてしご。 オかれは幕臣てしたから、慕府をして諸大名 を解散し、国民国家をつくらせるということはてきないか、と考えました。かれは徒党を組 ていちゅう 260

5. 「明治」という国家

「抵抗あるのみ」 抵抗の方法はいろいろある。文てやる方法、武てやる方法、あるいは金てやる方法。ちか あざむ ごろの日本は、「文明の虚説に欺かれて」だんだん抵抗の精神が衰えてきたようだが、これは こし」′しはた 6 、。 政府の勢いの前にちぢこまっており、真実をい 世の中が無気力になっていて、士民とも、 わず、おべつかばかりいったりしている。 いまからのべることは、私情から出たものてはなく、公論 「自分は西郷氏に一面識もない。 として聿日く。 一国の公平を護りたいために書くのだ」 その目的は「日本国民抵抗 福沢は、この稿を深く家に蔵めて、時節を待って発表したい。 その の精神を保存して、其気脈を絶っことなからしめん」がためてある、というのてす。 「乱の原因は政府にあり」 と、福沢は断言します。そしてその理由を綿密に書いていますが、ここては西南戦争が主 題てはありませんのて、ふれません。 福沢は、西郷について、まず、 かれが国に対してなにかわるいことをしたか というのてす。なにもしてはおりません。むしろ西郷には大功があります。てあるのに、 かれに賊名を着せるのはおかしいてはないか おさ 264

6. 「明治」という国家

譯光失著 「丁丑公論」「瘠我慢の説」 「独立自尊迎新世紀 明治三十四年・元旦諭吉 晩年の福沢諭吉 福沢は〃個人の独立があ。て、」そ国家の独立がある〃と考えていて、 その個人の霾立」の中身は、自由と平等でなけれはオらオいと考えていた つまりは、勝海舟や坂本龍馬が考えた国民国家の樹立という、」とでした。 福沢は、日本には国民国家ができあがる芽がいと絶望し、 私塾ー慶応義塾ーで若人を教えることに専念したのです福沢は、 「独立とは、自分で自分の身を支配して他によりすがる心がたい 、」とをい巨・といいます】 慶応義塾大学・演説館 以・、まにをれしまれ 2 地ッ ( 物・せ・まれを・つけれ 第新髜れ 嵶ト , ャ丁せ事を、物もッ呵 , リ ればを当“対ⅸ置・い第て 氿・を : 鉚靠身を分きるユヤ、 要久支をし上氿士人のれを・ー さ新的簒を - 勤 " 一時 の祖 % ) 、靼を : , てゞ " 、、′畤をて久 れ周 2 「等にーねもるん をン , 当 , ・えグ峰ん 0 」去物 」を笊下偬周・を立・ : 臥 第、文らんしすり " 帑第告一い を・んて、蓄、 ( 4 【 : 第ダ第十 " 当い多第・ 「瘠我慢の説」写本ー栗本鋤雲書入れ本ー

7. 「明治」という国家

ていたし、願ってもいたのてす。 小栗は、 「明冶の父」 てあるという言い方は、ここにおいて鮮やかに納得てきると田 5 います。このドックは、明 治国家の海軍工廠になり、造船技術を生みだす唯一の母胎になりました。 小栗のことを、もすこしふれておきましよう。 小栗は、徳日国家のために身を粉にして働きました。かれは栗本にこういうこともいって います。 「両親が病気て死のうとしているとき、もうだめだと田 5 っても、看病のかぎりをつくすては ないか。自分がやっているのはそれだ」 この言葉を、明治二十年代、福沢諭吉は栗本からきいて、さきの『瘠我慢の説』のなかて、 自分の言葉として使っています。福沢にすれば、暗に勝をあてこすっています。勝がやった く、とい - フ立昜ご、とい - フわ 江戸開城というのは、あの病人はもうだめだからほうってお てす。是非をいっているのてはなく、福沢は人間の〃情みについて語っているのてす。ここ て、私の意見をはさみますが、私はそれても、勝はすきなんてす。これは私の余計なつぶや きてす力 ここては、小栗のことをのべねばなりません。 【第ニ章徳川国家からの遺産】

8. 「明治」という国家

しかし、日本にとって幸福だったのは、別途に太平洋を進んている米艦「ポーハタン」 は小栗かいて、この咸臨丸には、勝と福沢という、 稀代の文明批評家が乗っていたことてす。 小栗は、幕府を大改造して近代国家に仕立てなおそうとし、又、勝は在野の、あるいは革命 たとえば西郷隆盛、横井小楠、坂本龍馬など 派の俊秀たち にアメリカの本質を語ってかれら に巨大な知的刺激をあたえ、一方福沢は、官途には仕えず、三田の山にいたまま、明治政府 から無類の賢者として尊敬をう け、明治国家のいわば設計助言者としてありつづけたのてす。 いわば、二隻の軍艦に、三人の国家設計者が乗っていたことに、われわれ後世の者は驚かざ るをえません。建築ていえば、小栗は改造の設計者、勝は建物解体の設計者、福沢は、新国 家に、文明という普遍性の要素を入れる設計者てありました。 右の三人の設計者のなかに、木村摂津守をふくめなかったのは、あるいは当を得ていない かもしれません。かれは明治国家成立のときは身をひき、栄達よりも貧窮をえらび、幕府に 殉じて、みずから生ける屍になったからてす。福沢流にいえば瘠我慢の人になったわけて、 精神において、明治国家に〃立国の私みを遺したのてす。 勝とはちがい、木村はさすがに累代の武門の人らしく、成臨丸て出てゆくことは、戦国の 武士が出陣することだとむ得て、家に相続してきた金目のものー書画骨董や刀剣などーーを売 、り . は、ら それらをすべて金貨 ( 日本の貨幣やドル金貨 ) に替え、袋いつばいに詰めこんて、船室 に置いたのてす。出発にあたってお上から出る経費て十分とはせす、世話になるひとびとに わたくし

9. 「明治」という国家

の功も名も、 っさい黙殺しました。 「小栗の視野は、徳川家にかぎられていた」 旨のことを、勝は言っていますが、それは、ちょっと言いすぎてあったてしよう。 明治も年が経ったころに、福沢は小栗や木村摂津守を思い ご時勢に対し、腹にすえかね て、『瘠我慢の説』を書くのてすが、福沢もフェアな人物てありますから、いわば勝を誹謗し たこの文章を、発表しようとはしません。使いを勝のもとにやって、勝に見せます。そして、 返事を求めます。 勝の返事は、りつばなものてす。 「自分が天下のためにやったことの責任は、自分一人にある。その批判は、他者にある。て すから、あなたの文章を他のひとびとにお示しーっまり発表してー下さってもけっこう てす」 福沢は、この原稿を筐底に秘めました。その後、うわさがひろまったために、文章を書い てからざっと十年後の明治三十四年に「時事新報」紙上に発表されました。 まあ、こんなことも、ど - フても、 明治国家というのは、江戸二百七十年の無形の精神遺産の上に成立し、財産上の遺産とい えば、大貧乏と借金と、それに横須賀ドックだったということを話したかったのてす。 さらには、明治国家が、一セントの外貨の手持なしに成立した国家てあることも、わかっ て項きたかったのてす。 きようてい

10. 「明治」という国家

長室にいたんてす。 よしたけ それにひきかえ、年下の木村摂津守喜毅 ( 明治後、隠居して芥舟 ) は御浜御殿奉行の子てしたか じゅごいのげ いきなり軍艦奉行、従五位下の大名なみてした。いわば少将ともいうべき位てした。旨 揮は木村がとらねばなりませんが、木村は勝をたてようとする、勝はふてくされる。権力欲 と名誉欲は男の悲惨な病気てすね。といって勝海舟の全体としての偉大さをそこなうものて はありません。 この話、もう一つのお金の話の前置きなんてす。 その話にたどりつくまてに、明冶国家とかかわりのある大切な話をさせてもらいオし 旗本は、大名と同様、 「ル癶 ( 求 雇〃窄」 とよばれていました。封建制度の話として理解していたたきたい。 げにん 産 おなじ侍ても、大名の家来の侍なんぞは、旗本からみれば下人同然なんてす。その木村が、 遺 の 咸臨丸てアメリカにゆくにあたって、当時、江戸て多少は知られていた若い洋学者をつれて ぶぜん いました。福沢諭吉てした。福沢は、大分県、つまり豊前中津の奥平家十万石の家来て、大家 名の家来の身分からいうと、 木村は雲の上のお殿様てした。福沢はってをもとめて木村に願 徳 い出、私的な従者としてつれて行ってもらうことにしました。身分としては、荷物持ちの下章 第 男てす。 かいしゅう