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検索対象: 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義
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1. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

相搏物する野蠻殘虐なる生存競爭を絶減せしめんとする者なり。等しく一元の人類より分れたる大なる個體の一分 子たりながら國家を異にし人種を同うせずと云ふが如きことよりして相殺戮する生存競爭を世界聯邦により地球よ り掃蕩せんとする者なり。而も荷大なる單位の社會競爭と完全に行はるゝ小單位の個人競爭なからんや。 先づ個人單位の生存競爭より論く。 個人單位の生存競實に、斯る當然に似たる疑問の起るは亦等しく個體の思想に於て顯微鏡以前の者を取るが故 爭印ち雌雄競爭なり。印ち個體の延長と云ふことを解せざるが爲めなり。 ーーー社會主義時代の個人單位の生存 競爭は、斯の個體の延長の爲めにする生存競爭 印ち雌雄競爭のことなり。實に個體を横に擴大したる點より見 れば現在生存する凡ての人類は一大個體にして、之を縱に延長したるより考うれば原人よりの十萬年間の歴史は 一大個體の長命なる傳記なり。横に見られたる兄弟が各々別個體に非ざる如く、縱に考へられたる親と子とは又各 ーバが無數に分裂して 章々別個體にあらず、一は大きくなれるものにして一は長くなれる者に過ぎざればなり。アミ 繁殖する如く親は共の親自身の一部分を分裂せしめて是れを子と名けて抱けるのみ。一個のアミ 第個體の延長 ーバより分裂せる無數のアミ ーバが各々一個のアミ ーバたると同時に室間を隔てたる分子として ・の大きくなれるものと見るを得べきが如く、一個體の分裂せる親と子とは各々一個體たると同 哲本の一個のアミーハ 社時に親の生命の長くなれるものと考ふることを得べし。吾人はワイズマンの生殖細胞不死の假論が多くの困難なる 論非難に對して維持する能はざるを知るを以て敢て彼に據らずとも、單に、親の細胞が子に傳はり、子の細胞が孫に 進傳はり、孫の細胞が曾孫に傅はり、而して共の細胞は傳へたる親の肉體の一部なりと云ふのみの事實によりて、吾 ハが分 生人に永遠の生命ありとは印ち肉體共者が永遠に死せずして生くとの一意味に取る者なり。加ち、一個のアミ ヾよ繁 裂し共の分裂せる或る部分が死するとも、他の部分が生きて分裂を續けて繁殖しつゝあるならば本のア ヾによりて明かに不死不滅なる如く、分裂せる親の舊き部分が死して新らしき親の部分が子となりて 參殖せるアミーノ 分裂し孫となりて分裂して繁殖しつゝあるならば、元との親は繁殖せる子孫共者となりて明かに存在し肉體に於て 127

2. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

大禪の生命の死せずして延長せる者なるを以て皆悉く主權の本鶻なりと論ぜざるべからず。ーー是れ民主々義に あらずや、「同一民族は民主々義に至る』と云ふ者に非らずや。 ( 斯る推理は決して博士を侮弄するが爲めにあらず、 後の歴史解釋に於て系統を辿りて政權覺醒の歴史的に擴張するを論じたる所に對照して見よ ) 。然れば博士と雖も 然り々々と爲して斯る推論の後へに尾行して民主々義の世界にまで誘はるゝ者に非ざるべく、從て或る所に停立せ ざるべからず、印ち天照大訷の生命の蕃殖し延長したる者の中、特に天皇の位に印きし者のみ統治者なりと云ふこ となり。而しながら是れ天皇の肉體に統治權ありと云へる主張を捨てゝ先きに逃遁せる皇位に統治權在りとの詭に 再び逃げ返れる者、而して皇位詭は國家主權論者の駁撃によりて維持すべからざるは博士自身の之を棄却したるに て知るべし。曰く、皇位とは國家の制度にして此の國家の制度によりて皇位に印き始めて統治權を行使するを得、 此の皇位に印くの權利は乂國家の制度によりて或る限られたる系統の者の有する權利にして、皇位に印きて行ふ權 利は國家が國家の目的と利谷との爲めに行ふ國家の權利なり。 加之、若し穗積榑士の如く統治權は天皇の一身に存し個體の延長と云ふことによりて永久に死せずと云ふならば、 敢て萬世一系の我國のみに限らず、三世にて亡びたる者も三世間統治權は生命と共に延長せるものにして、英獨と 穗積博士の議論は萬世雖も子孫の斷絶せざる間は皇位が統治の主體にして、天皇印ち國家なるべく終身の力を注 一系の國體に限らずぎて『萬國無比の國體を論ずるなり』『日本歴史によりて定められたる憲法を論ずるなり』 「比較類推の如きは無要なり』と論ずるの要無かるべきなり。由來、萬世一系の一語の爲めに一切の判斷を誤まり、 日本國のみ特殊なる國家學と歴史哲學とによりて支配さるゝと考ふゑとが誤謬の根底なり。謂ふまでもなく人 種を異にし民族を別にするは特殊の境遇による特殊の異にして人種民族を異にせる國民が共れみ \ 特殊の政治的 形式を有して進化の程度と方向とを異にせるは論なきことなりと雖も、恰も鎖國時代の人種民族を異にする者は人 類に非らずと考へたる如く、些少の特殊なる政治的形式によりて日本國のみは他の諸國の如く國體の歴史的進化な き者の如く思惟するは誠に未開極まる國家觀にして、依然たる奪王攘夷論のロ吻を以て憲法の緒論より結論までを 一貫するは誠に恥づべき智識の國民なり。故に凡ての君主々權論者は共の國家觀が社會の進歩に從ひて近代思想の 226

3. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

幸なる境遇によりて不幸になされたる資本家階級の嬉荒を寬過しつゝあるの寬大を止めざるべからず。斯れが人面 を備へたる者のロにすべきとか、掠奪は荒の權利を作り貧困は生物として缺くべからざる義務を消滅せしむと云 ふ。統計は明かに示めす、印ち今日の如く加せる人口あるが故に、加せる機械を運轉し増加せる新發見地を開 墾し、以て今日の如く増加せる富の資本家階級を作り上げたるなり。貧民の生殖慾が烈なるを以てこそ今日の經 濟的貴族は維持せらる。信侶の身を以て人の閨中にまで容喙すとは何事ぞ。 而しながら吾人は理論を語る者の恥づべき感情論に陷ゑとを避けざるべからず。彼れマルサスの如き個人主義時 代の古人に對して斯る態度を以て怒罵しつゝある社會主義者と稱するものゝあるも、そは亦等しく個人主義を以て 貧民階級の傍より人口論を解釋しつゝあるものに止まりて社會主義は自ら論據を異にす。否、單にマルサスと等し マルサス論は個人主義の立く個人主義に脚を立てて彼の人口論を考ふるも價値なきの甚しき獨斷論に過ぎざるな 脚地よりするも價値なし り。マルサスの人口論は獨斷の一點より演繹を始め、共の獨斷を先入思想として獨斷 に適合すべく統計を解釋し、共歸納より如何にも科學的研究なるかの如き眺めを以て再び出發點の獨斷に歸り來れ り。人口論の室中樓閣は實に『算術級數』と『幾何級數』と云ふ二語の夢より畫かる。而してこれが誠。 こ全部根據な き獨斷なり。印ち、マルサスは、食物は算術級數印ち一二三四の割合を以て墳加するに人口は二、四、八、十六の速 度を以て増加する幾何級數の者なるが故に貧困は先づ以て人生の永遠に伴ふ運命なりと獨斷せり、 而して此の 夢よりも驚くべき獨斷が人口論の全部を組織し、今の學者階級がこの獨斷に疑を挿まずして彼を權威として奉戴し っゝありとは解すべからざるも甚し。彼は固より統計を掲げて論じっゝあり、而しながら彼の平凡なる腦中には己 に算術級數と幾何級數と云ふ獨斷が統計の歸納より先きに凝結して存せしが爲めに、統計の按排の上に常に此の獨 算術級数と幾何級数と云ふ獨斷が君臨す。例を擧ぐれば、彼が二十五年毎に人口が二倍するものなるに食物の坿 斷より統計の取扱ひを誤まる加は遙かに僅少なりと歸結するに當て、全く比較すべからざる別種の者を比較した る如き是れにして、彼の根據とする二十五年毎に二倍する人口の加と云ふ統計の計算は北米の未開時代のにし て當時の北米にては人口の坿加と共に食物は共れと同一の幾何級數を以て增加しつゝありし天然として存したる者

4. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

せしめたり。 實に德川氏の政權を握りし間に於て天皇の強迫讓位は一貫の政策にして、後水尾の卓勵なるは固 より用明の賢明も、後西天皇も、東山天皇も、中御門天皇も、櫻町天皇も、印ち德川氏の幕府を維持せし間の凡て の天皇は、苟も侏儒に非らずして年長ずる者は共の長ずることが強迫讓位の理由なりしなり。後西條天皇の如きは 一のロ實をも發見する能はざるが故に、單に『四時陰陽和せず』と云ふが如き羊に對する狼のロ實を以て讓位を強 迫したりとは何たる亂臣賊子ぞ。後鳥羽天皇が共の輕躁と一寵姫との爲めに義時に挑戰せしは天皇の傍にも一分の 義時の自家防衞と徳責任存するを以て吾人は決して順逆論者の如く義時をのみ亂臣賊子なりとは云はず、而も德 川氏の積極的迫害川氏が皇室に封する迫害の陰忍陰惡なるに至りては吾人の如く公平を以て歴史を看察せんと するものに取りては憎の念の胸に漲ぎるを覺ゅ。義時は天皇の自家を覆すべき挑戰に對して受動的の自家防衞 もありき。而も三代將軍家光の如きは能ふだけ後水尾を侮辱し、後水尾が怒に堪へずして自ら位を去るに至るまで は義時の爲せし如く之を隱岐に流さんとし、伊達政宗を先鋒とせる三十五万の軍を卒いて都に入れる如きは實に増 長を極めたる威示運動に非らずや。又、彼の王覇の辯と稱せられて他日主權論の起るべきを豫想せる新井白石の大 膽なる政策を見よ。彼は有賀博士の所謂天皇の榮譽權なる者を剥奪して幕府を純粹なる主權者、印ち最高の統治權 者たらしめんと企圖したり。固より彼の繼承者が彼と反對に退嬰政策を取りしが爲めに彼の死と共に實行に至らず して止みしと雖も、彼は賴朝の共犯者たる大江廣元よりも遙かに大規模なる陰謀家なりき。日く『王朝己に蓑へ武 家天下を治しめして天皇を立てゝ世の共主となされしより、共の名は人民なりと雖も實ある所は共の名に反せり。 王覇の辯の主權論と白我己に王官を受けて王事に從はずして我に事ふる者我事に從ふべしと令せんに下たる者豈 石の幕府主權の計畫に心服せんや。且っ我が受くる所も王官なり、我臣の受くる所も王官なり、君臣共に王官 を受くるとき共の名は君臣なりと雖も共の實は共に王官なり、共の臣豈に我を奪ぶの實あらんや。義滿の代叛逆常 に絶たざる者は共の不德の致す所と雖も且つは又君を奪ぶの實なきによるなり。共の上己に人臣たり、然るに臣を 召仕へて是を名けて臣となし、共の家僕となすと雖も僣越の罪豈に万代を免れんや。世態己に變したれば共の變 に應じて一代の禮を制すべし、これ印ち夐通の義なるべし。若し此の人をして不學無術ならましかば漢家本朝古今

5. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

的研究に於ては著しく發逵したるに係らず全體に渉りて荷混沌たり。印ち「組織」と「結論』となし。故に本書は 共の主たる所が社會哲學の攻究に在るに係らず、單に生物進化の事實の發見として繼承せられつゝあるものに整然 たる組織を建てゝ凡ての社會的諸科學の基礎となし、更に目的論の哲學系統と結び附けて推論を人類の今後に及ば し以て思辨的ながらも生物進化論の結論を綴りたるものゝ始めなる點に於て、著者は無限の歡喜を有することを陰 蔽する能はず。固より人類今後の進化につきては今日の科學は充分なる推論の材料を與へず且っ斯るものゝ當然と して著者共人の傾向に支配さるゝ所の多かるべきは論なしと雖も、是れ愼重なる歐米思想家の未だ試むるに至らざ る所、後進國學者の事業として最も大膽なる冒險なり。而して著者は瓧會民主々義の實現が則ち共の理想鄕に進む べき第一歩たるべき宗敎的信念として是れを社會民主々義の宗敎と名け、社會主義と基督敎との調和衝突を論爭し っゝある歐米社會主義者と全く異なれる別天地の戸を叩きたり。由來基督敎の歐米に於て思想界の上に專權を振ふ こと今荷羅馬法王の如くなるは恰も日本に於て國體論と云ふものゝ存するが如し。日本の社會主義者に取りては 「社會主義は國體に牴觸するや否や」の問題にて巳に重荷なり。更に「社會主義は基督敎と牴觸するや否や』とい ふ歐米の國體論を直譯によりて輸入しつゝある社會主義者の或者の如きは解すべからざるも甚だし。而しながら本 論は固より宗敎論にも非らず又生物進化論共者の論述が主題に非らざるは論なく、人類社會といふ一生物種屬の進 化的詭明なり。著者は、憐むべきべンデヤミン・キッドの「社會進化論」が人類社會を進化論によりて詭明せるダ ー年ン以後の大著なりとして驚歎されたる如き今日、この編を成したるにつきて聊かの自負を有す。 第四編「所謂國體論の復古的革命主義」は則ち日本の基督敎につきて高等批評を加へたるものなり。印ち、社會 主義は國體に牴髑するや否やの論爭にあらずして我が日本の國家共者の科學的攻究なり。歐米の國體論がダー年ン 及び共の後繼者の生物進化論によりて長き努力の後に智識分子より掃蕩せられたる如く、日本の基督敎も亦冷靜な る科學的研究者の社會進化論によりて速かに共の呼吸を斷たざるべからず。この編は著者の最も心血を傾注したる 所なり。著者は今の凡べての君主々權論者と國家主權論者との法理學を悉く斥け、現今の國體と政體とを國家學及 び憲法の懈釋によりて明らかにし更に歴史學の上より進化的に論明を與へたり。 著者は潜かに信ず、若し本書にし

6. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

荷個人主義の餘波に漂はされたるが爲めに生物進化論に於て占むべき食物競爭の地位につきて遺憾なる過失に陷り たり。印ち彼れに取りては生存競爭とは同じ食物の上に重複する同種屬間の食物個々の要求が衝突して、共の競爭 の優勝者が生存すと云ふことに過ぎず。 誠に惜むべきことなり。若しダー年ンにして當時己にカール・マークスの出でしほどに進める社會主義の風潮を 取り入れたるならば、少くも個人主菱の獨斷論より脱却し得たりしならば、生存競爭を同種屬個々の競爭と解する が如き過失なかるべきなり。此の點に於て最も正當なる見解を有したる者は彼と同時代のハックスレーなり。彼は ハックスレーは食物競爭を種屬對種同種屬間の生存競爭とは間接にして無意識なるも、異種屬間印ち食物にする 屬のものなることを正當に解せり 者と食物にせらるゝ者との間に於ける生存競爭は直接にして一意識的なること を明かに表白せり。言ふまでもなく、ハックスレーの間接にして無意識的なる同種屬間の生存競爭とは狹義に解せ られたる食物競爭のことにして吾人の廣義に用ひたる生存競爭、ち長き命に於て理想を實現せんとする最も直接 にして一意識的なる雌雄競爭を除外せる者にして、又、食物競爭を異種屬間の生存競爭と云ふも吾人の如く明かに競 爭の單位を決定してのことに非ざるは論なし。何となれば異種屬間の生存競爭たる食物競爭が異種屬間に於て直接 に意識的なると共に、同一の食物たるべき生物種屬の上に同種屬が或る單位にて ( 印ち遊牧時代には部落の單位に ハックスレーのて、現代には國家若しくは階級の單位にて、飢饉の如き場合には純然たる家族若しくは個人の單 不備の點 位にて ) 直接に意識的に生存競爭をなすを以てなり。而しながら同種屬間の直接に意識的に食物 競爭をなすと云ふも、共の競爭は食物たるべき異種屬に對して直接に意識的に生存競爭の優勝者たらんが爲めに同 屬を排除すると云ふだけのことにして、同種屬を排除するの要なきほどに食物たるべき異種屬の豐富なる所 ( 人類 に例せば堯舜の原人時代の如き ) 、若しくは同種屬を排除するの努力を轉じて協同に團結せる大なる單位にて他の 生物種屬の上に完き優勝者となり以て異種屬を豐富ならしめたる所 ( 例せば社會主義の理想が實現せられたる時代 の如き ) 、にては直接に一意識的なる食物競爭は種屬對種屬のものなり。若し個人主義を以て生物進化の事實を解釋せ ゐダーヰンの如く、生存爭とはマルサスの人口論が凡ての生物種屬に行はるゝことゝ解しては、印ち同種屬間の 154

7. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

比して社會を首足胴腹ある一疋と解すべきに非らざるは論なしと雖も、今日の人類社會に於て下脣階級を犧牲とし 載會と云ふ大個體の今日の進化の程度は下等生物て取扱ひっゝある所以は、全くこの大個體の進化の程度が純然た の如く個體の一部を缺損して生存するの方法なりる下等生物の共れの如き者なるを以てなり。下等生物は物質的危 難、或は他の生物種屬の爲めに常に生存の困難なる進化の程度にあるが故に、一疋としての個體の或る一部を犧牲 にして走り共の犧牲にされたる部分は忽ちに補缺せられ原形のまゝの生物としての生存の目的を達す。蚯蚓、蛭の 如き遁走する能はざるものは身體の一部を切斷せらるゝも忽ち原形のまゝを補缺し、蟹は共の鋏を失ふも間もなく 小さき鋏を生じて原形のまゝに補缺し、蠑螺が共の四腋を失ひ、蜥蜴が共の尾を切られて遁走するも又忽ち共れ共 れに補缺して原形に返へるは、皆斯る犧牲の方法によりて生存の目的を逵するより外なき必要に基く者なり。人類 社會と云ふ大個體の進化の程度も今日の状態にては斯る下等なる犠牲の方法なり。印ち、地震洪水風浪の如き物質 下層階級の人口過多は政治的單位の個體及び經濟的的危難は漸く避くるを得、食物とすべき動植物の如き他の生物 單位の個體の缺損すべを部分として捕缺の爲めなり種屬との生存競爭及び食物とせらるべき他生物黴菌の如き者と 章 七の生存競爭に於ても亦漸時に優勝なる地位に進みつゝありと雖も、荷小さき政治的單位加ち國家、或は小さき經濟 的單位印ち會社ツ一フストが激烈なる生存競爭をなしつゝあるが爲めに、共れみ、の單位としての個體の生存を維持 哲せんが爲めに共の單位たる個體の缺損する一部を絶えず補缺するの必要あり。詳しく云へば、國家の下脣階級ち 社萬骨として枯るべき階級は國家の缺損すべき一部として人口過多を以て補缺し、侖社ッラストの下階級印ち掠奪 されて貧困に捉へられたる勞働者階級は共の經濟社倉の缺損すべき一部として人口過多を以て補缺するなり。 進人口過多なければ人類人口坿加は恐怖すべきものに非らずして是れなかりしならば貧困と戦爭との爲めに人類は 物は己に消減したるべし遠き以前に於て地球より跡を絶っぺかりしなり。然り、人口增加は恐怖すべきものに非ら ず、只恐怖すべきは下脣階級が、何の故に徒らに死滅するに過ぎざる子の多くを産むやを疑ひ始めたること是れな 參人口過多の恐怖さるべきは過多の子を犠牲り。 而して彼等は疑問に對する答案を科學者に俟たずして、殆ど獅 とするに堪へざるに至れる愛の進化なり 子の鬣を振ふが如き憤怒を以て犧牲の義務を拒絶し始めたり。おゝ讃美

8. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

分國旗濫用の國際法違反者なりと。 吾人は先づ金井博士の『社會經濟學』が如何に社會主義の根據より解する能はざるかを下の一節によりて知れり。 曰く。 『社會主義の論者は往々資本の起原は元來勞力に在るを以て生産事業より生ずる凡ての利益は悉く之を勞働者に 報酬すべきものなりと論けり。然れども之れ大に誤まりたる説たるに過ぎず。社會の荷未だ全く開けざる時代に於 金井博士の社會ては論者の如く資本の生ずるは全く勞力によれりと云ふを得べくこの點に於て勞力は資本の起原 主義評 なりと斷ずるを得べきかなれども、當時の所謂資本なるものは共の生ずるや否や直ちに消費され しを以て未だ眞正なる資本の利谷を與ふるに暇なし。共れより漸時進みて以て漸く今日の所謂資本なるものを生ず るに至りしなり。之を資本の增加する順序の大要とす。印ち然らば資本の增加するに當りて共の增加する所以の者 は單に勞力にのみ是れ依るに非らずして、資本共物も亦大に與かりて力ありと云ふを得べし。若し此の時に際し資 本全く無かりせば勞力は只孤立して何等生産の用を爲すを得ざるべし。畢竟勞力は資本に逢うて共の用ひらるゝ所 を得べく、資本も亦勞力を得て活漫なる生産的の活動をなすを得べし。是を以て兩者は恰も車の兩輪の如く離るべ からざる關係を生ず。この兩者に自然を加へて生産のこと全きを得るは、荷車の廻轉する兩輪の外に共の走る場所、 共の動く力を要するが如し。若し資本の起原は勞力なるを以て生産事業より生ずる所の利谷を擧げて之を悉く勞カ に報酬するを得べしと云ふを得ば、同様の論據によりて共の要を爲さしむる所のものは資本なるを以て凡ての利益 は之を悉く資本に歸せざるべからずと云ふを得べし。然れども資本が勞力を得て共の用をなすと同時に、勞力は資 本によりて始めて共用を爲すを得るものなれば、到底兩者は應分の報酬を得て可なるものなり。』 『未開時代に於ても資本の起原は獨り勞力のみによるに非らず。勞力は資本の父たるべきも共の母たる自然なく んば資本は決して生じ得べからざるなり。然らば加ち自然物を供給する土地の所有者も亦相當の報酬を受けざるべ からざるの理なり。現今の經濟社會に於ける分配は不公平なる所あるにも係らず、社會主義の論者は荷一脣不公平 6

9. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

級の君主等と異なりて後世漸時に稀薄になりしと雖も訷道的信仰の勢力によれり。 「天皇」と云ふ文吾人は前きの憲法論に於て詭ける『天皇』なる文字の内容の進化と云ふことを注一意せざるべ 字の内容の進化 からず。印ち歴史的生活に入らざる原始的生活時代は、日本國土の上に無數の家族團體が散在 し皇室はその近畿地方に於ける家族團體の家長として耐道の信仰によりて立ちたりき。是れ先きに詳説せる文字も なく數の觀念も朦朧として今の土人と大差なき生活をなせる一千年間と傅説さるゝ時代なり。印ち三韓交通により て文字を得るまでの一千年間と傳説さるゝ間は、人口も誠に稀薄にして單に皇族のみならず臣連の諸族も後世の想 像するが如き者にあらず。 ( 日本歴史ありて以來の大歴史家『二千五百年史』の著者は當時の共れ等が單に後世の 君主貴族の萠芽なることを表白せんが爲めに諸大族の中共等大族の漸時に強大を加ふることを詭けり。而して當時 の生活が純然たる原始人なることを豐富なる事實によりて示したり。而しながら日本歴史を「二千五百年史』と名 けたゑとを惜しむ。三韓よりの移住者は多く九州中國に獨立し若しくは獨立せる部落に屬して未だ近畿に入りて 歸化人となるほどに至らず、九州も、東北も、又耐武の經過せしと傳詭する中國も全く獨立の原始的部落にして、 雄健なる皇室祖先の一家が純潔なる血液によりて砠先敎の下に結合し以て近畿地方と被征服者の上に權力者として 立てる者なりき。斯くの如くなるを以て當時の『天皇」の一意義は共の謚名せられたる時代、或は今日の天皇を指し 「天皇」の内容の進化なき第一期たる原始的生活時代は天皇はて云ふ共れと全く内容を異にして、一族宗家の家長と 一族一家の家長として祖先を祭るとをの祭主と云ふ意義なり して祖先を祀るときの祭主との意義なり。ーーー是れ 『天皇』の内容の未だ進化なき第一期なり。彼の先きに詭ける訷武天皇の結婚に於て ( 傳説の凡てを全く沒一意義と せざるならば ) 共の時代の天皇の政治的社會的地位を見るに足るべく、崇訷天皇が祭祀の費用として熊皮鹿角を徴 せしに見ても今日の天皇と全く別意義なる祚道の祭主なることを察するに餘りあるべし。而して天照大祚の靈は死 せずして存在すとの祖先敎は共れに對する忠と孝とを一致せしめ、系統によりて覺醒を繋ぎたる社會意識は一家族 團體のみを社會と考へて他の共等を排斥する所の君臣一家の素朴なる團結の爲めに本家たる ( 注一意するを要す、共 の一家族團體内に於て本家たる ) 皇室を無上の命令者として服從したるべきは論なし。印ち、祖先敎、君臣一家、 316

10. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

は一のみ」と云へる如き、『若し藥暝眩せずんばその疾へず』と云へる如き、殆ど土地資本の公有以外如何なる 所謂社會改良主ことをも傲然として拒絶しつゝある現今の社會民主々義者を共の儘に表はす。戴盈之なる者が恥 義の排斥 「什が一にして開市の税を去るは今蠍に能はず、請ふ之を輕うして來年を待ち然る後に止めん」 と云ひしときーー何ぞ講壇社會主義者に似たるや、呵々ーー彼は實に社會主義の權利思想を以て經濟的正義の名に 於て斷乎として斥けたり。曰く、『今、人の日に共の隣の鷄を盜むものあり。或人之れを告げて曰く、是れ君子の道 にあらずと。日く之れを損じて月に一鷄を攘て來年を待ち然る後に止めんと。若し共の義に非らざるを知らば速に 止めんのみ、何ぞ來年を待たん』 而しながら孟子の言を以て凡て今日の社會民主々義と同一なりと考ふべからざるは論なし。印ち、彼は單に東洋 の思想史の上に於て最も明らかに理想的國家論を夢想し共の實現の爲めに終生を投じて努力したりと云ふ點に於て 重大なりと云ふことにして、共の土地國有論の如き一歩を轉ずれば直ちに土地君有論なり。而して共の井田の法と 彼の土地國有論は部落共有云ふものゝ單に部落共有制の原始時代〈の復古にして、機械農業を以てする科學的社 制時代の復古的夢想なり會主義の國家經營と云ふことゝ異なるは論なく、印ち萠芽なり。私有財産と云ひ君主 の絶對專制と云ひ人生の自然として社會進化の過程たる者、孟子等の如き特殊に卓越せる良心を以てすれば悪なり しと雖も、上古中世を通じての社會の標準として見れば社會の承認によりて得たる權利にして誅求苛斂も不道德の ことにあらざりしは吾人斷言すべし。何となれば彼等權カ階級が誅求苛斂によりて而も社會的勢力に奉戴せられた りと云ふこと共の事が當時の道德的水準を證明する所以にして、孟子の如きは一介の夢想家として取り扱はれたり しは歴史的記録の示しつゝある所なり。人口の稀薄にして漸く土着せるまゝなる堯舜の原人時代に於ては土地の自 由は空氣より聊か缺亡せりと云ふほどに天産物の豐富なりし樂園にして、社會の進化する所人口の增加を來して部 彼の承認せる掠奪階級の落單位の生存競爭となり、終に彼自身の言へる「心を勞する者は人を治さめ、力を勞す 發生と空想的社會主義る者は人に治めらる。人に治めらるゝものは人を養ひ、人を治むる者は人に養はる』と 云ふ如き掠奪階級の生じたる時代に於て、部落共有制を復古せんとすることの不可能事なりしは論なし。印ち私有