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検索対象: 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義
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1. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

執れる近代思想に於ては君主を國家の一要素として、加ち國家を組織する一員として國家の内に含する者なり。 國家の外に在りては國家を所有するを得べく、又國家を統治するを得べく、從て國家は君主の所有物たり統治の客 體たりき。國家の内に在るならば國家を所有する能はず、包含されたる一分子は共の分子を包含する所の國家に對 して所有權を主張し得べき統治の主體たる能はず。故に統治の主體と統治の客體とに分ちて君主々權論を主張する ならば、第一條の大日本帝國を中世時代の物格たる二要素の國土及び人民とすべく、然るに國家を人格となし統治 權の本體となすならば第一條の大日本帝國は三要素ある主權の本體にして下の如く解せざるべからず。日く、統治 權の本體たる近代國家の大日本帝國は共の統治權を萬世一系の天皇によりて行使すと。 加之。天皇を統治の主體となしながら大日本帝國を三要素ある近代國家となすならば第一條は添削されて、一國 家にあらざる大日本の國土及び人民は萬世一系の天皇之を統治すと書き替へられざるべからず。何となれば三要素 ある近代思想の國家觀を取るを以て、是れ大日本帝國中に博士等の所謂統治者たる所の天皇をも包含せるものにし 君主々權論者は國家觀を中世の者に改むるか憲法第一條のて、之を主體と客體とに分ち天皇を統治の主體となすは此 大日本一帝國を國家に非らざる國土人民のみと添削するかれ一要素を國家の外に置くものにして憲法の明示したる大 日本帝國とは一國家にあらず單に國家の二要素たる所の國土及び人民のみとなればなり。印ち國家を以て統治者を 包含せる三要素の者とせば、更に統治者たる天皇が統治者を包含せる大日本帝國を統治すとは解すべからざること ゝなるべく、憲法第一條の大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治すとある帝國も天皇も共に共の統治すと云ひ統治 せらると云ふに係らず統治の要素を各々有することゝなる。約言すれば穗積博士及び他の凡ての君主々權論者は兩 刀論法に陷れる者なり。印ちザイデルの定義の如く國家とは土地及び人民の二要素なりといふ中世の國家觀を執る か、國家を三要素ある近代思想に持して統治の一要素を萬世一系の天皇が持ちて憲法第一條の大日本帝國とは國家 にあらず國土及び人民なりとして添削するか。 穗積博士の恣な而しながら斯る兩刀論法は穗積博士のみに對しては效果なき者なり。何となれば愽士が主觀的 る文字の混用に見れば國家とは主權の本體なりと云ふとは三要素ある國家の大日本帝國を云ふ者に非らずして、 222

2. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

し、他の部分たる下階級は未だ何等の一意識なきを以て、法理上朕共者が社會の全部なるを以てなり。斯る時代に 於ては忠君と愛國とは一致す、印ちルイにとりては彼自身が國家の全部なるを以て彼自身の利己心は國家が國家自 身を愛する愛國心にして、國家の部分にあらざる下賢階級が國家一意識の覺醒せる所の君主の利己心に向って忠なる こは、等しく國家の全部に向ってする行動なるが故に愛國なり。印ち、忠君愛國一致論の成立するは君主以外の國 家の分子は國家の部分にあらずと云ふ時代ならざるべからず。 ( この家長國時代の君主と臣民との關係は亦先きの 法理論に論ける如く君主を國家の外に置きて國土及び人民を國家と名くることあり、從て君主の愛國心は國家を自 己の財産として愛し國民には忠君あって愛國なし ) 。大皇帝天智は儒教の理想的國家論によりて朕印ち國家の全部 なりと云へるルイ十四世の如くならず、天皇が國家の一部分なることを一意識し、國家自身に生存進化の目的あるこ 章とを意識したり。而しながら凡ての者は天智にあらず、社會の進化は遠き古代よりして卓越せる個性を出現せしめ 十個人的利己心の意識が同時て到達を努力せよと敎ふるかの如く後代の理想たること基督釋奪の古代に産れたるが 第に國家の意志たる家長國 如くなりと雖も、彼以後の天皇は社會進化の當然として自己が國家の一部分なるとを 義解せずして國家の全部なりと考へ、個人的利己心の意識が同時に國家の意志たる者多かりき。家長國の君主國時代こ 命れなり。而して家長國の潮流は斯る個人を終局目的として行動する多くの家長が相抗爭せる貴族國時代となり國家 意識は少數階級にまで張したり。固より共の各地に相攻伐せる戰國時代に於てはその所有の區域内に於て朕印ち 復國家たりしと雖も、封建制度に人りて貴族階級の聯合するに至るや、彼等は彼等各を以て國家の全部とせず弦にその 論 社會の進化と國階級間の凡べてに平等觀を擴張せしめて他の貴族等と共に國家の一部なりと云ふ國家一意識を有す 體家意識の覺醒るに至れり。國家の進化は平等觀の發展に在り。社會内の衝突動搖混亂接近等によりて自他の同 類なりと云ふ意識を漸時に擴張せしめ、奴隷賤民が家の子郎等となり、家の子郎等が武士となり、伊勢瓶子と卑し められたるものゝ子孫が太政大臣となり、今世の思ひ出に昇殿したるものゝ子が征夷大將軍となり、陪臣の北條氏、 に平等觀が貴族 四平民の豐臣氏が天下の主となり、草莽の野武士が一劒天下を横行して諸侯となり大名となりーー。 階級にまで擴張せられて貴族等が國家の部分なることを一意識するに至りたる如く、同一なる平等觀は社會の進化と 一三ロ 349

3. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

が政權者として一意志を表白するに至れる後と雖も凡ての社會の小兄は國家の意志をなさゞる故に共等は國家の部分 今日國民の意志たる者が上層階級なりと に非らずして年長者のみ國家なりと云ふか。彼の普通撰擧の要求は社會主 云ふことを以て國家を否定すべからず義が國家の意志たらんとの目的の爲めにして、普通撰擧を呼號しつつ國家 を否定するは社會主義を解せざる無理想の盲動者なり。國家を否定するならば、何が故に否定すべき國家に土地を 所有せしめんとする自家の主張を否定せざるか。否定されたる國家は室なる國家にして、空なる國家は公有にされ たる生産機關を持扱ふこと能はざるなり。上階級が只吾等のみ國家なりと考ふるとも、社會主義者は彼等の暴に 對するに暴を以てして然らば吾人は國家を否定すと反撃せざるべきなり。彼等は固より國家の進化せる ( 物質的に 若しくは精訷的に ) 國家の部分なり、而しながら國家は他の未だ進化せざる國家の部分たる下賢階級を包含して國 家なり。國家は佛蘭西革命時代の個人主義の如く、原始的個人の假定より個人の意志によりて舊社會を解體し以て 個人主義の革命論に於ては國新國家を組織すと云ふが如く考へらるべきものにあらず。個人は決して原始的に個 家の否定は論理的可能なり 人として存ぜしことなく墳墓に入るときにも社會をなす。個人主義の革命論は國家 を解散して更に自由平等の基礎によりて國家を組織せんとしたり。故に國家の否定は新國家の建設までは論理的可 能なり。而しながら社會主義の厳肅なる科學的基礎より見れば國家は決して個人の自由に解散し若しくは組織し得 べき機械的作成の者にあらすして、革命とは國家の意志が時代の進化に從ひて社會的勢力と共に進化すと云ふこと なり。故に今日の國家に於て今日の上階級の意志が國家の意志とさるるは今日の社會的勢力の上に立てるが爲め 社會主義の革命は國家の否定にあらずして國家の にして、若しこの故を以て今日の國家が否定さるるならば同一な 意志が新たなる社會的勢力を表白することに在りる論理によりて近代の社會的勢力の上に立ちて國家の意志たるべ き社會主義は國家の意志に非らずとして否定されざるべからず。ー ! 敢て日本と云はず、今の社會主義者の殆ど悉 くは純然たる個人主義者にして、社會主義を以て單に佛蘭西革命の反復と等しく解しつつあるに似たり。法理學上 現今は經濟的階級國家の爲めに政治上の國家と政治學上の國家とを明らかに解せよ。法理學上の國家は國家主權の に階級國家の實を表はしつ、あるなり社會主義なり、而しながら凡ての政治的勢力は經濟的勢力に在るを以て今日 376

4. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

法理學上の國家と政治學上の國家とを混同るべく、社會民主々義は維新革命以後の日本國が法律の上だけに於て堂 するより生ずる權カ階級と社會黨の惑亂 々たる社會民主々義なるを認め、共の維持と共に更に共の發展を努力す る者なり。而しながら、國家の論究に於て、法理學上の國家と政治學上の國家とは自ら考察の途を同じうせず。法 理學より考察されたる國家は共の法律の上に表はれたる國家が如何に組織されたるか國家の目的理想が如何なる程 度まで法律の目的理想として表白せられたるかの理論的の者にして、政治學より論究されたる國家は法律の上に超 越して國家の目的理想等を論ずると共に、更に國家を現實のありのまゝに法律の上に現はれたる國家の組織が如何 にして活動しつゝあるか、法律に表白せられたる國家の目的理想が如何にして實現せられつゝあるかの事實論なり。 法律とは國家の理想的表白なり、政治とは國家の現實的活動なり。凡ての者が此の明白なる差別を明らかにせざる が故に、上脣階級は社會の利益を圖ると標榜する社會主義者を迫害するに却て社會共者の名に於てし、社會主義者 は亦上階級を國家の名の下に否認すべきに係らず却て國家共者の掃蕩を公言して自家の論理的絞臺に懸りつゝあ 章るなり。社會の利益の爲めに土地及び一切の生産機關の公有を主張する社會主義者は單に社會が最高の所有權者た 五 ることを規定せる法律の理想を實現せんとする忠實なる法律の遵奉者にして、決して法律と背馳するの理由に於て 十 第迫害する能はざるは論なく。亦社會主義者なる者も穗積轉士の如く天皇をのみ國家なりと云ひ若しくは米のバルヂ 動現今の國體に於て國家ヱスの如く議會のみを國家なりと名くるが如き無智にあらざるならば、『勞働者は國家を とは國民の全部なり 有せず』と激語せるマークスの宜言を信仰個條とし、以て國家共者の否定を公言して國家 のの部分たる所の自家を否定し國家の將來の進化に來る所の理想的國家を否定するに至る如き論理上の矛盾無かるべ レバブリック し。科學的社會主義は二千年前の太古に掲げられたるプ一フトーの理想國家論の源泉より流れ來れる大河なり。プ一フ 主 トー日く、國家は個人の全部にして個人は國家の部分なりと。而して現代の法律を見よ、何處に天皇のみ國家なり と云ひ上階級のみ國家なりと規定せるか、又何處に勞働者は國家に非らず小作人は國家の部分にあらずと規定せ 五るか。或は曰ふべし。上階級が國家の凡ての機關を占有し上階級の意志が國家の意志なりとさるゝが故に國家 は否定さるべしと。然らば上階級の意志をなさざる所の上暦の小兄は國家の外にあるものにして、國家の全部分 375

5. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

及び他の私立大學の講義筆記をも見たり。而しながら矛盾撞着せる言語の羅列の中より一貫せる思想を見出すとの 不能なるは論なく、萬世一系の一語に打撲せられたる頭腦よりしては如何なる精訷病醫も意味を取る能はざるべき なり。否、博士は實に國家の觀念に於て國家主權論の國家觀を執る。 此の點は敢て穗積博士のみに限らず。凡ての君主々權論者は誠に共の國家の定義に於て近代國家の者を窃取して 恬として氣附かざる者なり。穗積博士及び凡ての君主々權論者は共の憲法學を組織するに「統治の主體』と「統治 君主々權論を取るならばサイデルの如く國の客體』とに分っ。而して統治の主體を天皇とし、統治の客體を國土及 家を中世の土地人民のニ要棄の客體とせよび人民と爲す者なり。若し彼等にして吾人が前きに中世の國家とは國土 及び人民にして君主の目的と利益との爲に存する物格なりしと云ひし如く、印ち君主々權論者のザイデルの如く國 家とは國土及び人民の二要素にして天皇は國家の外に在りて國家を統治する者なりと云ふならば、憲法第一條の 『大日本帝國は萬世一系の天皇これを統治す」とある大日本帝國とは國土及び人民の二要素にして中世時代の物格 九 第の國家なり。君主主權論を取り、統治の主體と統治の客體とに分っならば、統治さるべき所の大日本帝國なる者は 義中世時代の二要素なる國家ならざるべからず。然るに穗積博士及び今の凡ての君主々權論者は全く近代思想の國家 命觀を執りて却てザイデルを排す。穗積博士は日く、國家とは一定の土地に住する人類社會にして統治者と人民とに 的よりて組織されたる者なりと、曰く國家とは主觀的に見れば統治權の主體なりと。 復實に、國家を主權的に見れば統治權の主體なりとは是れ國家が統治の主體なることを主張する國家主權論の思想 に非らずや。國家とは統治者と人民と土地との三要素なりとの思想は、君主が國家を所有物として與し相績せし 國中世時代には無き國家觀念にして國家主權の近代國家にあらずや。何となれば三要素ある國家ならば君主共者をも 籬凡ての君主々權論者の國家觀は近代の主包含せるを以て君主が國家を贈與し相績することは自己共者をも同時に贈 權體たるを表はす國家主權論者の者なり與し相繽すと云ふ意義なきことゝなるべく、中世時代の君主が國家の所有 四者たる思想に於て『朕の國家』と呼ぶときは共の國家とは二要素の者なりしを以てなり。印ち中世に於ては君主を 法理上國家の外に置きて國家を統治する主體となし、國家は共れによりて統治さるゝ客體たりしに反し、博士等の 221

6. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

以上の概括は下の如くなる。今日の國體は國家が君主の所有物として共の利益の爲めに存したる時代の國體にあ 日本今日の國體と政體らず、國家が共の實在の人格を法律上の人格として認識せられたる公民國家の國體なり。 とは社會民主々義なり天皇は土地人民の二要素を國家として所有せる時代の天皇にあらず、美濃部博士が廣義の 國民中に包含せる如く國家の一分子として他の分子たる國民と等しく國家の機關なるに於て大なる特權を有すと云 ふ意味に於ける天皇なり。臣民とは天皇の所有權の下に『大御寶』として存在したりし經濟物にあらず、國家の分 子として國家に對して權利義務を有すると云ふ意味の國家の臣民なり。政體は特權ある一國民の政治と云ふ意味の 君主政體に非らず、又平等の國民を統治者とする純然たる共和政體に非らず。印ち、最高機關は特權ある國家の一 分子と平等の分子とによりて組織せらるゝ世俗の所謂君民共治の政體なり。故に君主のみ統治者に非らず、國民の み統治者に非らず、統治者として國家の利 ( 金の爲めに國家の統治權を運用する者は最高機關なり。是れ法律の示せ 章る現今の國體にして又現今の政體なり。印ち國家に主權ありと云ふを以て社會主義なり、國民 ( 廣義の ) に政權あ 第 りと云ふを以て民主々義なり。 命依之觀之、社會主義の革命主義なりと云ふを以て國體に牴觸すとの非難は理由なし。共の革命主義と名乘る所以 の者は經濟的方面に於ける家長君主國を根底より打破して國家生命の源泉たる經濟的資料を國家の生存進化の目的 復社會主義は國家主權の爲めに、國家の權利に於て、國家に歸屬すべき利益と爲さんとする者なり。實在の人格は 論の國體の擁護者なり個人と雖も之を剥奪して奴隷とすることは今日に於ては不能なる復古に非らずや、國家と云 國ふ實在の大人格が長き進化の後に於て得たる法律上の人格を無視して君主の利谷の爲めに存する物格と考ふる如き 謂は、所謂國體論と云ふ復古的革命主義にして吾人社會主義者は却て今日及び今後に亘りて國體の擁護者たらざるべ からず。何ぞ國體を革命すと云はんや。而しながら政體は統治權運用の機關なるを以て、國家は共の目的と利益と 編 四に應じて進化せしむべし。而も共の如何に進化すべきかにつきては或は今日の民主的政體のまゝに進むか、或は一 人のみの特權者を以てする君主政に進むか、或は純然たる共和政體に進むか、又或は社會の驚くべき進化して一

7. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

政體と同一視し、中世の君主と貴族とを以て國家機關なりとして今日と同一の國體分類中に置かざるべからず。艾、 美濃部博士の如く國體の差別のみにして政體の共れは無しと云はゞ、氏自身も認むる家長國と云ふ中世の國體を、 國體分類の外に排斥するか、或は君主國體、共和國體、家長國體と羅列するが如き奇觀を呈するかの孰れかならざ るべからず。而して斯く國體と政體とを同一視する所以の者は、實に國家の進化的研究を爲さゞるが故なり。 吾人は國家人格實在論の故に、吾人は斯る根據なき紛々たる國家主權論者を排して國家人格實在論の上に國家 上に國家主權論を唱ふ主權論を唱ふる者なり。固より法律學上の人格とは共の實在の人格なると法律の擬制に よる人格なるとを問はず法律の認識を以て權利の主體なるや否やを決する者なるを以て、國家が實在の人格なりと も共の未だ法上に於て認められざるに於ては主權の本體なりとする能はざるは論なし。而しながら實在の人格が法 律に認識せられたる者と、人格なき者が法律の擬制によりて人格を附與せられたる者とは、法律を進化的に攻究す る者に取りては決して混同すべからざることなり。 法律の進化とは實在の人格が法上の人格に認識さるゝこと 法律の進化とは實在の人格が法上に存す。家長國時代の國家は共の實在の人格なるにも係らず、恰も實在の人格が の人格を認識さるゝことに在り奴隷たりしが如く法律上は共の國家の所有者の利益のために存したる物格なりき。 故に、中世時代に於ては「國家のために』と云ふ國家自身の獨立自存の目的よりして要求さるゝことなく、要求は 常に『君の爲めに』と云ふ國家の所有者の目的と利益とに在りき。而しながら、奴隷が法律上の人格に非らざりし と雖も實在の人格たることは始めより然りし如く、國家は長き進化の後に於て法律上の人格たりしと雖も、實在の 人格たることに於ては家長國の時代より、原始的平等の時代より、類人猿より分れたる時代より動かすべからざる 者なりき。故に國家と云ふ大人格が擬制の機械的技功なるか將た實在の人格なるかは、國家の進化、起原、目的理 想の如きを取扱ふ國家學のみの重大なる問題にあらず、法律學の決して怠慢に附すべからざる根本思想なり。何と なれば國家が擬制の人格なりと云はゞ法律の力を以て國家共者を解體消散せしめ得べく、實在の人格なりとせば人 個人主義の佛國革命を以て國家を分解せしと 爲を以て如何なる法律を作るも決して消滅せしむること能はす。 云ふも國家は依然として社會的團結に於て存し破壞せられたるは表皮の腐朽せる者にして國家の骨格は甞て傷れざ

8. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

れ自己に歸屬する利益を有するを以て固より權利の主體たりと雖も、共の權利とは所謂政權にして、君主に在りて は重大なる權限を有する皇位に印くの權利たり。貴族に在りてはまた特別なる權限を有する貴族院議員或は共の撰 擧を爲すべき權利たり、國民に取りては多く撰擧の際に重要なる機關たる所の撰擧者の地位に加くの權利なり。而 しながら皇位に印く權利、撰擧者たる權利は決して主權にあらずして主權を行ふべき地位に對する權利なり。故に 近代の公民國家に於ては如何なる君主專制國と雖も又直接立法を有するほどの民主國と雖も、共の君主及び國民は 決して主權の本體に非らず、主權の本體は國家にして國家の獨立自存の目的の爲めに國家の主權を或は君主或は國 民が行使するなり。從て君主及び國民の權利義務は階級國家に於けるが如く直接の契約的對立に 國家主權の法理 あらずして國家に對する權利義務なり。果して然らば權利義務の歸屬する主體として國家が法律 上の人格なることは當然の歸納なるべく、此の人格の生存進化の目的の爲めに君主と國民とが國家の機關たること は亦當然の論理的演繹なり。 故に階級國家時代の契約論と個人主義の假定とを維持する者に非らざるよりは、現今の憲法を解して君主と國民 とが權利義務に於て對立する者となし、君主或は國民を主權の本體と斷ずるの理由無し。 國體の進化的分而しながら國家は始めより社會的團結に於て存在し共の團體員は原始的無意識に於て國家の目 的の下に眠りしと雖も ( 『生物進化論と社會哲學』に於て原人時代を論じたる所を見よ ) 。共の社 會的團結は進化の過程に於て中世に至るまで、土地と共に君主の所有物となりて弦に國家は法律上の物格となるに 至れり。印ち國家は國家自身の目的と利益との爲めにする主權體とならずして、君主の利益と目的との爲めに結婚 相續讓與の如き所有物としての處分に服從したる物格なりき。印ち此の時代に於ては君主が自己の目的と利益との 爲めに國家を統治せしを以て目的の存する所利谷の歸屬する所が權利の主體として君主は主權の本體たり、而して 君主が國家を所有せる家長國と君國家は統治の客體たりしなり。此の國家の物格なりし時代を『家長國』と云ふ名 主が國家に包含されたる公民國家を以て中世までの國體とすべし。今日は民主國と云ひ君主國と云ふも決して中世 214

9. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

る貴族國は維新革命によりて國家主義の名の下に國家の利谷の爲めに打破せられたり 然るに今や國家の名の下 に此の經濟的君主等に殺されつつある此の經濟的階級國家を如何。王侯將相豈種あらんやの單純なる平等主義を國 體論の被布に包みて國家の爲めに貴族政治を打破したるならば國家の目的と背馳するの甚しき此の經濟的貴族國が 國家の名を盗奪しつ平等主義の眼に映ぜざるや。過去の貴族制度が顧覆さるべき人權の侮辱なりしならば人權を ゝある經濟的貴族侮辱するの甚しき此の經濟的貴族の發生が維新革命の讃美者に無感覺なりや。否 ! 今の經 濟的階級國家の群雄諸侯等はこの國家の爲めにこの語を盜奪して、貴族階級の爲めにすべき一切の利益と罪思の辯 護としつゝあり。經濟的貴族に歸屬すべき利益と利益を歸屬せしめんとする意志を以て爲さるゝ一切のことが、却 て國家の爲めと云ひ國家の利益が目的なるかの如く僞はらる。是れ君主々義にして、印ち二三子の個人の利益を中 心とする個人主義にして國家主義にあらずーーー少しも國家主義にあらず。ソクラテスは斯る『國家』の前に毒盃 を傾けんや。あゝ眞正なる愛國者よ ! 今の黄金貴族等は共の貴族國を顧覆したる所の國家主義を以て、却て經濟 的家長國を維持しつゝあるものなゑとを見ずや。國家主義と君主々義 ! 國家主義は國家が目的にして君主々義は 主君が利益の主體たり、從て一切の他の者は犧牲たり手段たり。この二大矛盾がーー恐くは歴史上無比の二大矛盾 歴史上無比の大が愛國者の前に滑らかに運轉しつゝありとは何たる怪事ぞ。國家主義とあらば國家が外の共れに 矛盾 對して權利を主張する如く、國家の利益は經濟的君主等の蹂躙に放任すべからず。國家が經濟的 家長君主等の爲めに恣に處分せらるゝは是れ國家の人格が打破されたるものにして、『大日本帝國』は名を憲法の反 故に止めて家長國の中世に復古せるものなり。國家は共の眠りたる眼を開き見よ。。ーー二三個人の利益を圖る經濟的 君主々義は國家の錦繍を剥奪して美々しくも飾られたるかな ! 中世貴族國時代の家長君主等はこの經濟的貴族等 より露骨なりき。彼等は國家の目的が解せられざる時代なりしを以て共の經濟的從屬の奴隷に向って『君の爲め に』として死を求めたり。然るに今の經濟的君主等は共の自己の利益の爲めのみを意識してする生産も之を社會の 利谷の爲めとなし、金鑛を南阿に爭ふも、砂糖をキ ーバに獨占せんとするも、國家主義を掲げて國家の爲めにと云 ふ。個人の械臧は著しく進化したり。嘗て奴隷階級の武士が下脣に向っては虎の威を振ひたるに係らず共の仕ふる 380

10. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

ば一木博士は君主政體共和政體のみを認め、美濃部博士は君主國體共和國體のみを認む。印ち、國體と政體とは今 の國家主權論者に取りては同質の最高機關に對して用ひらるゝ異名に過ぎずとさるゝなり。 而しながら、是れ今日に於ても凡ての國家を論明する能はざるものにして、支那朝鮮の如き國家に於ては君主は 決して國家の目的と利益との爲めに存する最高機關にあらず、統治權は國家の權利にあらず君主の所有權として官 職を自己の利益の爲めに賣買し、國土及び人民は君主の目的の爲めに存する、全く進化の程度を異にする別種の國 體なるを以てなり。特に、此の混同よりして單に今日の凡ての國家を説明する能はざるのみならず、古代及び中世 國體及政體のの國家は全く詭明の外に逸出すべし。假に今日の文明國と稱せらるゝ者のみを研究の内に置きて 屋史的分類今日は「公民國家』と云ふ一國體のみと爲すも、今日の公民國家は希臘の如き古代の國家とは國 體を同うして政體を異にし、中世時代の國家とは政體の頗る似たるものありて國體はまったく異なる。希臘古代の 九國家に於ては國家の團結的權力、印ち、主權の本體が裸體のまゝに發動して政治的形式を經ざりしが爲めに、個人 第の上に秩序なき壓力を以て臨みたりき。印ち政體とは團結的權力に對して個人の自由を保證する政治的形式なるに、 義古代に於ては此の制度なかりしが爲めに少數者と犯罪者と同一意義にして所謂多數專制の時代なりしなり。而して此 命の多數専制時代は常に急轉して僣主なる者を生じて一人専制の時代となり更に急轉して多數専制時代となり、専 勺制より專制に轉々して個人の自由は國家なる名の前に全く無視せられたりき。是れ國體は今日と同一なる公民國家 復なるも、三權分立説に影響せられて統治權發動の形式が確定せられたる今日の政體とは全く異なれる所謂専制政體 論なる者なり。中世史に入りて階級議會の生ずるに至り專制政體は去りしと雖も、君主と貴族とは ( 日本に於ては將 國軍諸侯天皇の各々が ) 各々共の目的と利益とを有して各々の土地及び人民は共目的と利益との爲めに所有物として 存したる『家長國』と云ふ全く別個の國體なり。印ち國家が統治權の主體に非らずして、統治さるべき客體として 國土及び人民の二要素が國家の所有者の目的と利益との爲に存したる君主々權の國體なり。故に一木榑士の如く政 四 國家主權論者の國體と政體の差別のみにして國髀の差別はなしと云はゞ、中世時代は共の全く今日と異なる家長 體とを混同するを排す國なるに係らず今日と政體の似たる者あるが故に、階級間の契約を以て今日の立憲君主 1 三ロ 237