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検索対象: 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義
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1. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

國家の進化的分類と云ふ吾人の主張は弦に存す。 而しながら今の憲法學者と雖も西洋諸國の國家を歴史的進化に從ひて時代的に分類せざるにはあらず。只、我が 日本國を論ずるに於てのみ常に古今の差別を無視して「我が國體に於ては』と云ふ特殊の前置きを以て憲法論の諸 論より結論迄を一貫すとは抑々何の理由に基くぞ。ーー『萬世一系の皇統』と云ふことのあればなり。日本國民は此 我が國饐に於ての萬世一系の皇統と云ふことのあるが爲めに西洋諸國に於ては國體及び政は歴史の進化に從ひ と云ふ循環論法て進化せるも、日本民族のみ進化律の外に結跏趺坐して少しも進化せざる者なりと考へつゝある なり。故に日本の憲法學者に於ては、國體を憲法論に於て論ずるは我が國體は如何なる國體か、印ち主權は何處に 所在するかを決定せんが爲めなりと云ふに共の解釋としては常に必ず、萬世一系の我國體に於ては主權は天皇に在 りと一貫す。是れ少しも解釋に非らず、萬世一系の天皇に主權が所在するが故に主權は天皇に在りと云ふものなり。 日本國民は萬世一系の一語に頭蓋甲が年齡を問はれたるに乙と同じと答へ、更に乙を間はれて甲と同じと答ふる問 骨を毆打されて悉く白痴となる答の循環なり。笑ふべきは法律學者のみに非らず、倫理學者にても哲學者にても、 共の頭蓋骨を横ざまに萬世一系の一語に撃たれて悉く白痴となる。日本に於て國家の進化的分類なきは此の故なり。 萬世一系の皇統につきては後の歴史論に於て明瞭に論かん。只弦には憲法學に於て此の萬世一系の一語を一切演 繹の基礎となす穗積八朿氏を指定すれば足れり、博士の頭腦は此の語の打撲によりて憐むべき白痴となり、憲法に 徹頭より徹尾まてを矛係はる凡ての事が連絡もなく組織もなく、自ら述べて自ら打ち消し前きに主張して後に打 盾せる白痴の穗積博士破し、忽ち高天が原に躍り上りて祚集ひの訷道論をなし直ちに顧落して訷話の科學的研究 者となる。特に甚しきに至りては主權本質論に於て全く君主々權論者の地位を棄てゝ國家主權論者に一夐し、共の 歴史論と見らるべき言に於ても或は天皇主權論を唱ふる如く或は幕府主權論を唱ふる如し。本編は博士が國體論の 首領的代辯者なるが故に最も多く議論を及ばしたる者なり。或に吾人は轉士を能ふだけ精密に研究すべき必要のた めに、共の世に出したるだけの著書も見、諸雜誌に掲げられたる殆んど凡ての論説も見、年々歳々花相似たる大學

2. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

ては不當ならずとして今日の國體に於て唱へんとする者のありとは何たるとぞ。ルヰ十四世の言は西洋に於ても當 時の國體に於ては不當にあらず。我國體に於ても中世迄は不當にあらず。而しながら之を今日の國體に於て唱ふる ならば共西洋なると日本なるとを問はず、單に不當なるのみならず明かに國家に對する叛逆なり。 ーー彼等は國體 とは横に異なるのみならず縱に異なる、とを知らざるか。彼等は數十日にして達すべき外國と日本とが天地の別ある 國體なりと論ずるならば、當然の推論として數千年間を隔てたる昔と今とが國體に於て全く同一不變なりと考ふる の根據なきに至る、とを心附かざるか。彼等は等しく天皇と云ひ皇帝と云ふも、露西亞の天皇と土耳古の天皇と白耳 義の天皇との異なれることを知れるならば、又等しく天皇と云ふも訷武天皇と後醍醐天皇と明治天皇との全く内容 天皇の文字の内容のを異にせる者なるべきに考へ及ばざるか。彼等は文字の發音が類似すればミゼレプルと云ふ 地理的時代的相異英語の悲慘もミゾレフルと云ふ日本語の霙降るも、ソージャと云ふ兵士も然うちゃと云ふ合 九點も同一なる意義にして、文字の形態が同一ならば鎌倉時代の主從關係を一意味する臣僕も、今日の君僕失敬の臣供 も決して相違なき意義の者にして、友人間の無作法も恐くは失敬罪重禁鋼五ケ年に値すと考ふる者なるに似たり。 義由來、法律學に於ては文字の内容を決定するを以て最も重大なる任務となす者なり。他の自然科學等に於ては酸 命法律學は文字の内容を決定す素水素と云ひ胃心臟と云ひ文字共者が地理的に又時代的に變化する者にあらざるが 的るを以て重大なる任務とす故に、術語の内容を決定することを以て研究の焦點とする社會的諸科學とは大に異 復なる。特に社會諸科學の中に於ても法律學に於ては、共の社會の進化し共の社會現象の異なるに係らず依然たる同 論一の形態發音の文字を繼承して使用する者なるを以て、文字の内容を定むること共事が殆んど終局目的なり。法律 國の歴史的研究者によりては殊の外に此の點に於て嚴肅なるを要す。果して然らば『天皇」と云ふ語の内容が數千年 所歴史によりて憲法を論ずと云の長き間に於て變遷限りなかりしことを忘却しては、共の如何に歴史によりて憲法 ふ穗積博士と有賀愽士の僣越を論ずと云ふとも誠に僣越を極めたる標榜たるに過ぎざるを知るべし。 故に穗 四積博士は現今の天皇を以て土地人民を所有せる時代の天皇の如く解し、有賀博士は文字なき時代の耐武天皇を以て 或時代の統治權を所有權として有する天皇と考ふるに至れるなり。 一三ロ

3. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

めて暗中の格鬪を事とするが故に、反對論者たる君主々權論者も國家を人格なき君主の所有物なりとも云ふ能はず、 形式に於て同論者なるに似たる國家主權論者と雖も、國家を生命ある實在の人格が法律上に認められたる者なりと 云ふ能はずして、機械的技巧の、若しくは擬制の人格に過ぎずとして甘んするの餘儀なきに至れるなり。實に、國 家は法律の擬制によりて作られたる機械的のものに非らず、國家は始めより共れ自身の目的を有する實在の人格な り。人格は人格の目的と利谷との爲めに活動す。固より人類一元論が定詭となり、社會主義が世界を抱擁して實現 せられたる曉に於ては、個體の最高階級は全人類と云ふ生存進化の目的を有する一人格たるべく、遠き將來の理想 として此の最高階級の個體としての人格に於て全人類の世界的國家が實現さるべきを期待し得べし。而しながら目 下の進化の程度に於ては民族或は人種地理的區割等に限られたる或る程度の階級の個體に於て、國家は一個體とし ての人格の目的を有す。今日の公民國家は古代の市府的國家、中世の封建國家より、漸時に個體の階級を高めて、 以て今日の大なる人格の國家となれるなり。而して此の實在の人格が或る時代叉は或る地方によりて法律上の人格 國民の信念に於けるとして認識せられ、若しくは所有者の利益の下に統治の客體として存したることありき。 國體主權論の表白而して今日の凡ての公民國家は明かに法律の明文を以て、或は國民の法律的信念によりて國 家の實在の人格を法律上の人格と認むるに至れるなり。 故に今日は『國家の爲めに』と云ひて國家を利谷の歸 屬する所、目的の存する所となして國家主權の國體なることを國民の信念に於て表白す。然るに國家が君主の所有 物として共の目的と利益との下に客體たりし中世時代に於ては國家の爲めにと云ふことなく『君の爲めに』として 君主々權の國家なることを表白するの語ありき。而して共の時代に於ても高遠なる理想を有する東西の聖賢は、法 律上の主權體たる君主の要求に對抗して、實在の國家の人格のために國家の利谷を主張したり。 ( 『社會主義の啓蒙 運動』に於て儒敎の國家主權論を論じたる所を見よ ) 。若し國家の人格とは法律上の擬制に過ぎずと解するならば、 擬制としての法律なき以前よりして聖賢の身を捨てゝ國家のためにしたるは解すべからざることゝなるべく、今日 に於ても擬制を維持せんが爲めに人類が血を流して戦ふとは解すべからざる現象ならずや。今日の國際戰爭は中世 の如く君主の名に於て君主の利谷の爲めに戦はれず、國家の爲めなりと云ふ。是れ未だ同類一意識の發展せずして國

4. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

に於て意志自由論なり。只、一意志必致論を以て人類の上に存する禪の命ずる所に從びて一意志すとり意味に於てする 古代宗敎の宿命論として唱へ、意志自由論をルーテル以後の個人主義の獨斷の如く人は先天的に自由なる一意志を有 すとの意味にて唱ふることの謬なるは論なし。而して此の社倉性と個人性とは共の強弱の度に於て各個人が先天的 に異なるのみならず、今日の如き雲泥の懸隔ある社會組織の下に於ては階級的差等に從ひて後天的に雲泥の如く異 なる。先天的に強盛なる社會性を有する者、印ち父祖の社會的境遇によりて強盛にせられたる社會性を遺傅せられ 今日に於て弛罪者若しくはたる者、若しくは後天的に敎育ある階級の室氣によりて強盛にせられたる社會性を有 消極的善人のみなる理由する者は、共の強盛なる社會性の必致に驅らるゝ一意志の自由を以て平易に道德を行ふ。 而して是れ今日に於ては殆ど曉星よりも乏し。然るに社會の大多數は先天的に、印ち父砠の社會的境遇の遺傳によ りて甚だ薄弱なる社會性を有し、又後天的に我利我慾を以て爭鬪を事としつ、、ある各々の階級に培養せらるゝを以 て個人性のみ強烈を極めて、共強盛なる個人性の自由に打ち勝たれて必致に犯罪者となり、然らざる者も漸く抵抗 し得て敗殘の社會性を大なる勞力によりて維持し、以て僅かに犯罪を犯さゞれば足ると云ふ一般の消極的善人とな るに止まる。道德とは社會性が吾人に社會の分子として社會の生存進化の爲めに活動せんことを要求することなり。 故に吾人が吾人自身を社會の一分子として ( 小我を目的としてに非らず ) より高くせんと努力することが充分に道 現社會が法律の上に於ても道徳の上に於德的行爲たると共に、多くは他の分子若しくは將來の分子の爲めに、印ち ても社會主義を理想としつゝある理由大我の爲めに小なる我を沒却して行動することをより多く道德的行爲とし て要求せらる。彼の大我の生存進化を無視して小我の名譽榮達を要むる行爲が不道德とせらるゝのみならず、小我 の利益共事を目的としての ( 社會の一分子としてに非らず ) 行爲が假令偶々社會の利益に歸することありとも一般 に道德的行爲とされざるはこの故なり。 實に、現社會は法律の上に於ても道德の上に於ても社會主義を理想と しつゝある者と云ふの外なし。然るに社會の現實は、個人主義と共の根底たる私有財産制度の爲めに、事實に於て 道徳法律の理想とは經濟的貴族國となりて個人の私有すべき財産なく從て個人主義も消え去りつゝありと雖も、 現質の道徳法律個人の凡ての努力は多くの私有財産を獲得して多くの自由を個人共者の利益の爲めに待望しつ 184

5. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

戀愛の理想の進男子と同數を以て男子の共れの如く女子間の雌雄競爭によりて健確なる急調を以て進化しつゝあ 化と自由戀愛論る者なり。男女を同數に産み落して人類にのみ偏寵を示せる進化律は雌雄競爭の選擇權を男女凡 ての手より奪ひて不靈冷血なる『輻祚』の絶對無限なる淘汰權の下に置かんが爲めならんや。土人部落に於ても命 を的の戀路はあり、今日の經濟的戰國の中に於て荷且っ智識廣く道德高く容姿美はしき男女が戀愛の理想とせられ っゝあるは實に瓧會進化の理想を社會の全分子たる男女の凡てが共の子孫に於て實現せんとしつゝある所の要求に して弦に社會主義の自由戀愛論あるなり。 故に社會主義の自由懸愛論が事實に現はるゝの世は食物競爭が今日の如く個人若しくは家庭若しくは經濟團體若 しくば國家を單位として同種屬が競爭の對手たゑとの無くなれるーー加ち經濟的方面に於て社會主義が實現せられ 舊思想の壓迫を排除すとの人類を單位としての對他種屬の食物競爭に入りし時ならざるべからず。自由戀愛論が 意味に於てする自由戀愛論舊思想を抱ける親の壓迫を排除すとの意味に於て、印ち自己が新らしき自己の利谷の 爲めに自己の舊き一部より脱却せんとすとの要求に於て唱〈らるゝとも固より大に意義あり。是れ印ち社會の舊き 分子と新しき分子との衝突にして社會とは新分子が舊分子に代ることによりて ( 印ち舊分子自身が死滅することに よりて、若しくは新分子の爲めに地位を奪はるゝことによりて ) 進化する者なるを以てなり。而しながら始めより 人は自由なるものに非らず、共の自由なるを得るは人の自由を認識する所の社會良心あるが故に共の範圍内に於て 戀愛の自由は先自由なるものなりと前編に詭明せる如く、慧愛の自由と雖も父母の良心の包容外に出でゝ先天的 天的に非らすに自由なりと云ふに非らず、父母によりて作られたる良心に甘ぜざるまでに子女の良心が進化 せる場合に於ては進化せる良心に從て行動すべしと云ふことなり。故に子女が父母の意志の下にありて共の良心を 作られつゝある間に於ては父母は自己の良心を以て共の戀愛を禁壓する權力を有すべく、子女は自己の良心を以て 父母の良心を排除するの値ありと認識せざる間は戀愛の自由なし。社會主義の自由戀愛論は斯ることの外に當面の 印ち月 意義を有す。加ち單に父母の舊思想を排除すとの意味ならば社會主義に待たずとも共れ自身の途あり。 下に相匏て囁けば可なり。瓧會主義の自由愛論とは現瓧會願覆の爲めに唱へらる。『政治家が議論しつゝある間に 138

6. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

論者の解する如き欽定憲法にあらず固より契約憲法を經過せる歐州諸國と雖も、共の君主と云ひ貴族と云ひ法理 學上階級的をなすものに非らずして國家の主權を行使する國家機關たるを以て契約當時と全く進化を異にせるは 論なし。而しながら日本に於ては憲法の制定が天皇の専斷にありしが爲めに現憲法を以て契約憲法なりと云ふもの なき代りに ( 固より事實に於ては個人主義の法理學を以て契約的對立の如く解釋しつゝある學者の多きは前きに詭 ける如くなりと雖も ) 、歔定憲法の名に於て君主々權論者は由々しき誤謬を傳播しつゝあり。 この誤謬は以上の歴史解釋によりて己に氷解したるべし。維新革命以後の日本は日本民族が社會的存在なること を發見したる國家主義たる點に於て國家主權の國體なり。全國民が國家の部分にして凡ての部分が共の代表者を出 而して維 し特權ある一部分 ( 印ち天皇 ) と共に最高機關を組織すと云ふ國民主義たる點に於て民主々義なり。 新革命より二十三年に至るまでに於ては國家は國家主權の國體にして、政體は最高機關を一人の特權者にて組織し 維新よりニ十三年に至るまてに於ては國家主權の國體にしたる君主政體なりき。 ( 先きの法理論に於て政體三大分類 て政體は最高機關を一人の特權者にて組織する政體なりきを主張したる所を見よ ) 。文字の形態發音に於て君主政體 と云ふを以て之を家長として全國家を所有すと云ふ意味の家長全體の共れと同一視すべからず。印ち、維新後の 『君主』と云ひ『天皇』と云ふは國家の全部の利益の爲めに國家の一部が、家長國時代の如く個人的利己心により てにあらず高貴なる社會的利己心を以て、個人としてにあらず社會の一部として社會の意志を發表しつゝありし一 家長國時代の君主專制國民なりしなり。斯くの如き君主政體は誠に純然たる政治道德のものなりき。故に唯一最 と公民國家の君主專制高機關たる君主の人格如何によりて君主の個人的利己心の爲めに國家の全部の目的と利益 とを無視し、自己以外の國家の部分を國家の部分に非らずと考ふるか或は自己が國家の外の者にして國家は自己の 財産なりと考ふるかに至りて事實上の家長國と化し去ることあり。維新革命のヒーローは社會單位の生存競爭の激 甚なりしが爲めに國家の目的と利益とに共の頭腦の全部を奪はれ、劣等なる利己心の如きは痕跡もなく去れり。 加ち維新革命以後二十三年に至るまで日本天皇の一意志は法理上明らかに大日本帝國の意志なりしなり。 ( この故を 以て天皇と國家とを同一なりと云ふべからざる注意は髞り返へされざるべからず、斯る君主政體に於て天皇と云ふ

7. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

に結合せずして存在せしとの測なるが故に當然に契約論によりて詭明するの外なく、而して契約論の誤謬にして 人類は原始時代より社會的存在なるは生物學の事實なるを以て、主權の所在の意味に於て君主々義或は民主々義 を論爭することは理由なきとなり。故に君主々義或は民主々義を個人主義時代の法理學に基きて唱ふるならば、此 今日に於て個人主義の主權論を唱ふるは前の社會國家を個人の自由獨立の爲めに ( 印ち個人の目的と利谷の爲め 提の契約説を捨てゝ結論を爭ふことゝなるに ) 組織されたる者と斷じ、共の組織さるゝ以前に於ては國民各自に主 權が ( ルーソ 1 ならば平和にホップスならば各人の各人に對する鬪爭をなして ) 存在したりと想像したる者なるを 以て、組織前に各自に存在すと假定せる主權が組織後に於て何者に存するかを問題とする者なり。而して共の組織 の方法は當時の思想に於て契約詭より外なく、從て契約詭が棄却されたる今日に於ては個人主義の主權所在論は前 提を棄てゝ共の結論を爭ふ無意義の者となる。固より國體論が幕末に於て大なる意義ありしが如く、契約詭は一た び一切議論の基礎なりき。佛蘭西革命に至るまでに於ては、今日の如く平等の法律の下に生ぜる階級に非らずして、 契約説の意義あり法律共の者よりしての階級國家なりしが爲めに、議會の如きも各階級各々異なれる決議に於て し階級國家時代共れ自體の目的と利谷とを持して對立し、決して今日の如き一國家としての法律にあらず、各 階級の契約による一の条約的性質の者なりき。故に契約詭は個人主義の思想に執られて之を國家の起原社會の原始 にまで及ばしては根據なき臆論に過ぎずと雖も、共當時の國家の説明、法律の解釋としては避く可らざる唯一の歸 結にして又この假詭なくしては一切の社會現象は解釋す可らざる者なりき。今日は然らず、假令資本家發達の爲め に國家の機關は一階級に獨占せられ社會の階級は大割裂を隔てゝ相對するに至りしと雖も、そは經濟學の取扱ふべ き所にして法律學の立脚點よりしては日本國は疑ひもなく一國家なり。又假令藩閥が天皇を擁して自己の階級に利 谷ある法律を制定し議會は全く資本家の手足となりて共の階級の目的によりて法律に協賛すとも、その一たび法律 〔ママ〕 となる以上は法律學は事状を顧みず階級を超越したる日本國の法律として見るべきは當然也。故に中世の契約論時 天皇と國民とは權利義務代の憲法は、君主と貴族、或は國民との条約的性質を有したるも、今日の憲法は決して 〔マこ の契約的對立に非らず契約に非ずして君主と國民とは憲法の訂結を以て權利義務の關係に於て相對立する二個 212

8. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

サ 言はゞ間接の關係なり。彼の一般人民が土百姓として土地と共に恰も貴族の財産なるかの如く相續與或は殺戮せ られたる如き是の故にして、特に武士が共の仕ふる所の貴族の一意志によりて他に贈與せらるゝも自己の一意志を以て 拒絶する能はず、貴族の自由に御手討にするも自己の獨立を以て自家防衞を爲す能はざりしは、實に全く此の土地 に封する經濟的從屬關係よりして生ぜる奴隷的服從なり。而して今日の科學的倫理學が道德の進化を分ちて本能的 道德時代、摸倣的道德時代、批評的道德時代、と爲しつ、、ある如く、道德進化の過程として如何なる民族に於ても 貴族階級の土地を占有せる階級國家時代と土百姓中世史頃までは現存の道德を批評して共の上に超越せる道德的理 及び武士の經濟的從屬關係より生ぜる奴隷的服從想を掲ぐる能はざる摸倣的道德時代なりしを以て、己に社會の進 化して共の道德的形式を自律的に於てする時代に入れるに係らず、共の内容は古代より社會に現存する奴隷的服從 章の道德的訓誡を摸倣して受け入るゝの外無く、此の點よりしても中世史の武士道が各自の君 ~ 亠イする奴隷的服從 實に、此の貴族階級の土地を占有せるが爲めに生ずる經濟的從屬係と、中世 十を最高善とするに至りしなり。 第史の程度なる摸倣的道德時代と云ふ二つの理由によりて、自律的形式の壯嚴華麗なる武士道は共の道德的形式とし 義ては誠に高貴なる者なるに係らず道德的判斷の内容を奴隷的服從を以て充塞したりしなり。而して歐州中世史の . ナイト・キャラクター 命騎士氣質も共の中世史なることゝ階級國家なることに於て同様なり。 吾人が政治史と倫理史とは經濟状態の時代的考察によりて解せらると云へる者これなり。實に經濟的基礎に於て 復獨立する者は政治上に於ても道德上に於ても獨立の權利を有し、經濟的基礎に於て從屬する者は政治上に於ても道 論德上に於ても服從の義務を負ふ。故に、天皇が共の強力を以て凡ての土地 ( 而しながら事實に於て近畿、後に至っ 襃ては諸大族の分割となる ) を所有したる古代に於ては凡ての人民は天皇の下に政治上道德上の服從者なりしと雖も、 籬貴族階級の經濟的獨立に源平以後の貴族國時代に人りては同じき強力による土地の掠奪によりて經濟上の獨立を よる政治的道徳的獨立得たる貴族階級は天皇に對して政治的道德的の自由獨立を以て被治者たるべき政治的義 四務と奴隷的服從の道德的義務を拒絶し、而して共等の亂臣賊子の下に在る家の子郎等武士或は土百姓は共等の貴族 階級に對する經濟的從屬關係よりして貴族を主君として奉戴すべき政治的義務と共下に奴隷酌に服從すべき道德的 フ 307

9. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

の努力によりて始めて道德的評價を附せらるとせば、好んで妻を愛し友を愛し社會國家を愛する如きは道德的行爲 とさるゝ價値無かるべく、母が自身の身よりも子を愛するこは苦痛にもあらず又克己にもあらず努力にも非らざる 〔君子力〕 を以て些の道德的なりと云はるゝ理由なし。又、君主の所謂七十にして心の欲する所に從ひて規を超えずと云へる ごとき習慣化せる道德的行爲は共の苦痛なく努力なく克己なきに至るを以て、習慣化せざる時代よりも大に道德的 價値に於て下落せざるべからざる筈なるべく、 父祖の遺傳によりて道德的傾向を繼承せるものゝ行爲の如きは全く 努力なきを以て市場に於ける道德的價格は無代價なりと論ぜざるべからず。而も是れマークスの價格論の誤謬にし 個人主義の倫理學は社會性のて吾人は天産物なりとて價値共れ自身に代價を拂ひっゝある如く、所謂天品の仙骨 滿足の爲めなる道徳を解せずのごとき最も奪重せらるゝに非らずや。 而しながら如何なる價値ある者も室気 の如く存すれば價格なし。價値の少なき者も需要に應ずる能はざる少數の者は價値以上の價格を表はす。今日『道 德」が無限の價格を表はれつゝあるは共の要求の甚しくして、而も天産物として存する聖の天なる者がダイヤモン ドよりも少なく、又非倫理的社會組織の中に於ては徒らに努力多くして人造の寶石が得られざるの故なり。人は個 八 人の立脚點より見ての利己心を有すると共に、社會の立脚點より見ての社會的利己心を有す。故に、彼の意志自由 意志自由論と意志必論と云ひ、意志必致論と云ひ、顯微鏡以後の個體の科學的基礎より考ふれば少しも論爭すべ 哲致論とは合致す・ヘしきことに非らず。意志自由論は一意志の自由とは最も多き内心の必致なりと云ふ點に於て意志 社必致論と合致し、一意志必致論は亦等しく意志の必致とは最も多き内心の自由なりと云ふ點に於て一意志自由論と合致 論す。印ち、吾人が道德を行ふは最も多き内心の必致に驅られたるにて、吾人の罪惡を犯すは最も多き内心の自由に 進從びたるなり。人は内心に於て社會性と個人性とを有す。内心に於て社會性が最も強盛にして他の個人性を壓して 物働くときに於ては人は共の最も多き社會性の必致に驅られて道德をなし社會性はに自由を感じて意志自由論とな る。而しながら壓伏せられたる個人性は共の自由を失ふが故にこの意味に於て意志必致論なり。是れと同じく、共 參の内心に於て個人性が最も盛にして他の社會性を壓して現はるゝ時に於ては人は最も多き個人性の自由に打ち勝 たれて社會性は必致を感じ一意志必致論となる。而しながら打ち勝ちたる個人性は共の自由を得たるが故にこの一意味

10. 北一輝著作集 1 国体論及び純正社会主義

に吸收したる如く、經濟的維新革命は亦幾多の經濟的家長君主等の所有せる生産權を國家に吸收し國家が凡ての経 濟的源泉の主權體として土地及び生産機關を經營すべし。 只而しながら、最も注一意すべきことは孟子に於ては吾人の詭きっゝある『社會主義の啓蒙運動』と云ふことを全 く解せざりしなり。是れ誠に如何に卓越せるものと雖も共の古人たる點に於て止むを得ざることにして、階級鬪爭 孟子は社會主義のの原理が歐州に於てカール・マークスに至りて漸く發見せられたる如く ( 固より彼の詭明は完 啓蒙運動を解せすからざりしと雖も ) 、二千年前の孟子としては共の實現を君主等の權カ階級に詭くの外なかり しなり。印ち彼は君主の良心を社會主義に作成せんと努力したる點に於て啓蒙運動なりと稱せられざるに非らずと 雖も、前きに詭ける如く啓蒙運動とは下層階級を對象とすべきものにして階級鬪爭に於て強力を發現すべき前提の 社會民主々義と日本天皇者なり。故に孟子の運動が君主の遊説なりしに反して、今日の社會主義は一般階級特に と兩立するを得るや否や勞働者階級の智識を開發することを以て唯一の方法となす。この點は『社會民主々義と 日本天皇と兩立するや否や』と云ふ最も恐るべしとさるゝ問題に觸るゝが故に、更に孟子の國家學原理論につきて 一言の説明を避くる能はず。 一般の信ずる由々しき誤謬は孟子の政治學を以て漠然と民主々義なるかの如く考へ來れることなり。固より吾人 吾人の如き意味に於て孟子の政治學は民主々の如き見解を以てすれば堂々たる民主々義なり。印ち、吾人が先きに 義なりと雖も一般に謂ふ民主々義にあらず詭ける如く國家を進化的に分類し、人類の社會的存在なることを意識 せず單に一人若しくは少數の君主等の個人的利己心に從ひて行動するより外なかりし時代を君主々權の家長國と なし、終に長き進化の後に於て國家が生存進化の目的を有することを國家の全部分によりて意識せられ凡ての部分 が法理上社會的利己心を以て國家の利益を目的として行動するに至りし近代を國家主權の公民國家となし。從て君 主が國家の外に在りて國家を客體として取扱ふ所有者たる主體なるか、將た國家の人格の下に行動する國家の一部 分なるかによりて、前者を君主國と云ひ後者を民主國と云ふならば ( 吾人も上來この意味に於て民主々義の語を使 418