* 本のウマ ちほう 世界にはいろいろなウマがいます。モウコノウマ ( モンゴル地方 ) 、シェトラ ーしよと、つ まっう ンドボニー ( イギリス北方のシェトランド諸島 ) 、アジアノロバ ( モンゴル、チ さんがくちたい ットの山岳地帯 ) 、ヤマシマウマ ( 南アフリカ ) 、チャッブマンシマウマ ( 南ア ひがし なんぶ ちゅうおう と、つほく フリカ東北部、中央アフリカ、アンゴラ南部 ) 、グレビーシマウマ ( 東アフリカ、 北部ローデシア ) アビシニア、ソマリランド ) 、グランドシマウマ ( スーダン、 と、いろいろいます。 そせん いたニホンウマの祖先は、モウコノウマといわれていま 大むかしから日本に らようせんはんとうった す。朝鮮半島を伝わって、印本にはいってきたのでしよう。それから、長い年 おお につばん ほっかいどう ドサンコ ( 北海道 ) みなみ なカ { のけん キソウマ ( 長野県 ) ながさきけん ッシマウマ ( 長崎県 ) ながねん みなみ ミサキウマ ( 營藁 )
ちゅうがた 月かかって、中型のニホンウマという種類がで きたのです。ですから、 いまでは、ニホンウマ せかいしゅう 、気は世界中で日本にしかいない、めすらしいウマ なのです。 きた はつかいどう とから ニホンウマは、北は北海道から、南は吐 ~ 喝喇 れっとう はつかいどう 列島にかけてすんでいます。ドサンコ ( 北海道 ) 、 ながのけん ながさきけん キソウマ ( 長野県 ) 、ツシマウマ ( 長崎県 ) 、ミサ みやざきけん か ) 一しまけん キウマ ( 宮崎県 ) 、トカラウマ ( 鹿児島県 ) などと ンよばれるウマは、みんなニホンウマです。 しゅんすい このなかでも、純粋なトカラウマやキソウマ イマは、もうわすかしかいません。 げんろくじだい ねんちか ミサキウマは、元禄時代より三〇〇年近くも 都井岬のなかだけで、ゆうゆうと生きつづけて しゅんす、 きました。ですから、純格なニホンウマのかたちが、そのままいまものこって いるのです。 たいこう ミサキウマは、体高一三二センチ ( モウコノウマは一二〇センチくらい エトランドボニーは九〇 5 一一〇センチ ) ぐらいで、たくましく、粗食にたえ、 みさき みなみ そしよく
しみすようこうせんせい 清水洋香先生 写以、家か 四も ロ 真後ご業 : ン を 九宮ぐ時し で 九を、の九 担年崎 : 代を九 マ 撮と岬ミ国を五 当与串こ県を 保ょ都 民 す 間ま立 - 。 りの 護ご井。、年 2 っウ 宿年る 市し岬言年 2 山甲不火一プ ~ を 舎都と 立南 2 の 呂ゃ 呼ょ野や の井。、 けた 都と高ウ 崎 : び生東与るち 経中ぅ プト、 0 与 マ 県 か馬 、子 中第学を : と 都と の 呂 0 銀え け 生 校 5 学を , 校兄井。、 た写座ざ 活弯た を 校を 弟を岬 ; 真の 記きす退こ に卒の に 勤え業 : よ 展えフ 録さ 職 3 生ぅ を 務む わ っ ま の 岬言 る ひ の フ の れ 美びち く る ヨか 市え の り と す子こ つ 野やサ と 年き 体九 ど みさき
ちち イ・子ウマの年翁の見わけかた、 ほしがります。はしめて乳を飲むときは、目かよ ・・生まれてすぐ・ー・ 尾の話がちぢし 、六かーーー尾が一まだのびきって。 ( ん。 - 、 : く見えないので、をならしておかあさんウマの 一歳ーー・からだのうぶ毛がぬけ、おとなの毛かはを ちぶさ 、第乳房をさがします。 ちち ニ歳ーーー毛はかんぜんにはえかわりま : ) 、つど、つ「第 二か坪もすると、乳のほかに、やわらかい 群れとおなし行動をするよ一つになり しはすこ 三歳 , ー、ーおなじ年のなかまと、カ、ら 芝を少しすっ食べるようになります。一歳をすぎ 四歳以上ーー・もう、 下ても、弟や妹が生まれなければ、やはりウ「の くさ ちち 乳を飲んだり、草を食べます。もちろん、子ウマ は芝草だけでも生きられます。 ちら すうねん 数年まえ、三歳もすぎたウマが、乳を飲んでい つるのを見たことがあります。母ウ「は、大きくな ちち , 孑をたつぶり飲まれてしま、つので、 った子ウマに、 よそ すっかりやせ紐っていました。 群れのなかで は、子どもたちょ はおなし年に生 ' < バ , 「気籌ィまれたものどう しで、なかよく : 当。、笙まれてまもない赤ちゃ " んウマ。 あそ 遊びます。 からだはぬれています。母ウマ なめてかわかしてやります。 おとうと おお
* 野生ウマの成長 ウマの出産期は、春ごろ しといわれています。ところ か、ミサキウマはあたたか とち しゆっさんき まため、出産期も一月から八 月とはばがあります。その 一がなかでも、いちばん多く生 まいねん す。毎年、十五、六頭生ま 生まれたばかりの子ウマ ころ ドは、野大に食い殺されたり ながあめ 梅雨の長雨のときに死んだりして、生きのこるのは十頭ぐらいです。毎年、死 おな かす おお んでゆくウマも同しくら ) しいます。生まれる数より、死ぬのが多いときもある すこ ので、岬のウマは長いあいだのうちに、少しすっへってきました。 じかん 子ウマは、生まれて一時間もすると、歩きはしめます。そして、すぐに乳を みさき なが がっ やけん しゆっさんき がっ がっ と、つ、つ おお よる がっ
呂、之浦 ー・、ひうかなた 日向灘 第↓第一第 ←串問へ といみさきとうだい 都井岬燈台 Li2 やま 扇山 1 らい ・くみんいくしゃ あリあけわん 有明湾 といみさきちす 都井岬地図 たにがわ ・谷川の「水クレ」 ・「タチノヾ」 しるし - ・印ば一〒水レ」のある鷸所 みす あいよう を、大いに愛用しています。 あさひ ウマたちは、朝日がのばると、ね どこの林から、丘にのばり、芝を食 みす みす 水がほー ) ノなると「水クレ」に 出かけてゆくのです。 はやし
* 岬のウマ地図 みさき た、、へ、、よう 太平洋 こまつがつじお ) ぎやま 岬のなかで、ウマたちがよく集まるところは、小松ケ辻と扇山とよばれるふ くさ おか たつの丘です。丘にはウマたちのすきな草がたくさんはえています。しかし、 きけん 危険がせまると、ウマたちは林のなかににげてしまいます。 はやし ) くつもあります。これはウマ オのなかには、「タチハ」とい、つところかし あんぜんちたい たちの安全地帯です。 みす みす 「水クレ」とよばれるウマの水のみ場も、 いゆしせし てけ 殺か たんか しサさら はめし野や ほのて大まウたろ ろ をだマりが んすウ退をまは でみマ治しだ天ー少 ! 落ぉ いよたしし然しち ついちたっ記きすて て場ばがりか今ね . し、ん一つタヒ し所し り物ぢへん まを う作んをた 指してり でった走保ほ定こき してちる護こさた野や よやだ自しをれの大 うらけ動与・うてでに なで車けいすお け生、、をてま そ れき匍にいす わ ばて限ま れ やせい みさき ・岬には野生のニホンサルもいます。 珱、お豆第のきぃ みささ みささ はやし いくつかあります。これは、人間か たにがわ 作ったものです。ウマたちは、谷川 みず みすすく の水が少ないので、この「水クレ」
みさきまきば ねん あきづきはん げんろくねんがっ ミサキウマは、元禄十年八月 ( 一六九七年 ) 、秋月藩が都井岬に御崎牧場を作 ノ、しまちほ、つ あきづきはんぐんば ったのがはしまりです。そのころ、串間地方には、秋月藩の軍馬をそだておぎ まきば なうために、たくさんの牧場があったといわれています。 まきば ひと めいじねんがっ 明治七年十月、都井にすんでいた人たちの手にこの牧場がわたったときには、 と、つ メス一一七頭、オス六頭ものミサキウマがいました。それか、エ在では、わす か五十頭ほどになってしまいまー ) た。 すぎぞうき みさき ぜっぺき たいへいよう 都井岬は、太平洋につきでた、絶壁だらけの半島です。半島は、杉と雑木の 、でおおわれています。 一たわすか、小松辻と、扇 おか 山という丘だけが、「 けばになっています。こん ・なわけで、ウマたちはが * 都井岬の野生ウマ あめかぜ じゅみよう 雨や風にあたってもへいきです。寿命もふつうのウマよりながく、二〇歳すぎ ても、子ウマを生むことができます。 かちく ろ、つじんはなし とち 土地の老人の話では、家畜として使っていたころ、四〇歳まで生きたウマが いたということです。ウマの四〇歳は、人間でいえば、百二十歳くらいにあた ります。 つか はんと、つ ひやく はんと、つ みさき
、ご誉朝な当ン よで し 野や た 野や生菽 た と あ 生ウ 、な彦ぃ と ろ ウ で を マ の ど し か オこ べ ぎ た ち の ん ウキをゞ ウ が は じ す し す と ん を ふ き / し し の ん ま た 鼻を
よおも け ーヤ一 ) のカ 群れのタ、 よさネろう 、れる与三郎