しかし、なか / 、、筆がすすまず、一回分がやっとその日の組みらも、その痴呆的、超現実的なところが気に入ったのだろう。文 こみに間にあうといった難行ぶりで、今わたしの手許にあるその楽座へもよく出かけられ、上方漫才にもときどき足を運ばれたよ 時の原稿を見ても、書いては消し、消しては書いた、といった添 うである。「キミ、アチャコはすばらしいよ」などと話されて、 削の苦心がありありうかがえる。作品としては格調の高いものだ たこともある。そして自分では地唄の稽古を始められていた。大 。たが、爆発的人気を呼んだ「痴入の愛」のあとだけに、一般受阪から菊原検校というのが教えにきていたが、「先生は三味線の けは芳ばしくなかったようである。 手筋がよろしいし、お声も地唄向きで結構におます」と検校が語 間もなく谷崎さんは苦楽園を引払って、阪急沿線岡本に移り、 っていたことがある。 その後、同地の梅ヶ谷に新居を求められた。今、実業家文箭氏の 「卍 ( まんじ ) 」が「改造」に載り出したのは、確か昭和三年の 住居にな「ているが、その時とはす「かり様子が変「てしま「て三月じゃなか「たかとおもう。谷崎さんは文学作品の上で、 いる。当時は門を人ったところに、細長い部屋が二つほどあり、 ところの上方弁、とりわけ上品でニ = アンスに富んだ船場ことば その奥のちょ「と離れたところに、中国の高官の閨房をそのままを如何にうまく表現するかそのことに深い関心を持たれていた。 再現したという新築の別館があ「た。谷崎さん自慢の設計で、部「卍」は美しい女同士の同性愛を中心とした男女の不思議な愛欲 屋の真ん中に香炉が置かれ、名香が焚かれていたのを思い出す。関係を描いた耽美的傾向の強い作品だ。たが、会話から地の文ま その一段下の広間が応接室になっており、ここでわたしは上山草で終始一貫して船場ことばで書かれている。東京育ちの谷崎さん 人や津田青楓、武林無想庵らに紹介されたことがある。 にはこれが難物 / しかし執筆は例の細長い部屋でなされており、ここで「卍」を そこでその仕事を手伝うため、大阪生れの、そして国文学に素 はじめ「蓼喰ふ虫」や、「乱菊物語」、「蘆刈」、「吉野葛」とい「養のある女性アルバイトがほしい、というんで、大阪女専に人選 た名作がつぎつぎに生産されたのである。 方を依頼したところ、三人の女生徒が選ばれてきた。みんな、き そのころの谷崎さんは上方生活がすっかり身について、心かられいなお嬢さんたちばかり。谷崎さんからロ述を聴いて、それを 上方のよさをたのしんでいられたようである。居室には文楽の吉船場ことばに書き直す。それを再び谷崎さんが見て、磨きのかか あですがたおんなまいぎぬ 田文五郎から贈られた「艶容女舞衣」のお園の人形を飾り、長い った文章に仕上げるわけだが、一言一句、吟味に黔味を重ねる、 細身のキセルですばすばきざみをふかせたり、当時奈良にいた志といった難作業だった。 賀直哉さんから借りた、等身大の弘仁仏を床に飾ったりして、古 これが縁で、後に谷崎さんと結ばれ、谷崎第二番目の夫人とな 典的なムードであった。 ったのが、そのときの女性のひとり、古川丁未子さんだった。他 文楽は痴呆の芸術だという辰野隆先生の議論に半ば同調しながのひとりの女性隅野滋子さんは、谷崎さんの推薦でわたしの部 -0
にして頂きますしるしに御寮人様より改めて奉公人らしい名前必ず「春琴抄」の舞台として紹介しているほど名物になっている。 をつけて頂きたいのでござります、『潤一』と申す文字は奉公人 もう一つこの小説で、伝説化されようとしているのは、下寺町 らしうござりませぬ故『順市』か『順吉』ではいかゞでござりまの春琴の墓所である。 せ、つか」 「知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂神社のある高台 この境地は、翌八年に執筆された「春琴抄」のそれと、まったが聳えてゐるので今いふ急な坂路は寺の境内からその高台へつゞ く一致しているばかりか、このような思慕が「春琴抄」を書かせ く斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍しい樹木の繁っ たといっていいであろう。 た場所であって : : : 」 「春琴抄」は、そうした境地のうちで、紅葉で有名な京都高雄山 と「春琴抄」に描写されている。下寺町のその高台側には、大 の神護寺にある地蔵院で大部分を執筆した、と先生自身も書いてきな寺がずらっと建ち並んでいる。しかもその寺のいずれもが、 おられる。当時、そこを紹介されたのも松子夫人である。この地浄土宗であり、したがって法然聖人関係の巡礼所にもなって残っ 蔵院はもともと由緒ある寺だが、大正初期に夫人の実父森田安松ている。 と長田恭介の両氏が再建寄進されたもので、はるか眼下に鳴滝川 その寺の一つに、鵙屋春琴ゆかりの碑を記念に建てようという の錦雲渓の峡谷を見下す、当山第一の観楓の場所である。紅葉の話さえ出ているそうである。戦前までは寺の裏側一帯は、樹木が 、まやしだいに開けてきて、ちゃちなホ 頃は人で埋まるけれど、それ以外は神護寺の一番奥まった、ひっ多く生い繁っていたが、も そりした小堂宇で、「春琴抄」を書くのにふさわしい場所だったテルがつぎつぎに増えてきつつある。 にちがいない。 この前私は、京都の樋口富麻呂氏から、松子夫人の実家の菩提 「春琴抄」の女主人公春琴は、大阪道修町の薬種問屋の娘である。寺のことを聞かされた。そこはまた樋口氏の菩提寺でもあるとい 道修町は古くから薬の問屋街で、今もそれは変りない。戦災で半 う。その寺は上本町五丁目にある正念寺といも 、「春琴抄」の墓 分あまり焼失したけれど、まだナマコ壁をめぐらした昔風な間屋所のイメージに似ているとのことで、ついでに立寄って見た。だ も少なくない。 この薬の神とされる神農さんの祭りは、毎年十一が六丁目寄りのこの寺内は、整然としており、戦災にあっていて、 しかも墓地の裏側には住宅がギッシリ建ってしまっているので、 月二十二、二十三日に行われ、大阪名物の一つとして賑わってい る。ふだんは道修町二丁目の狭い横丁の奥にあって、人目につか 私にはやはり下寺町のほうがイメージに近く思えた。 すくなひこな ぬ神社 ( しかも少彦名神社と称しているので ) だが、中国伝来の だが、松子夫人に聞くと、この正念寺にも先生がしばらく滞在 薬の神を祭る伝統がいきていることを感じさす。 されたことがあったという。昭和六年に「盲目物語」を執筆する しかし現在では、一般に道修町といえば「大阪案内」などにも ため高野山に三カ月余も籠って帰宅されることになったが、贅を どしよう もすや いくたま 9.
そればかりでなく、ある激しい気魄の一貫するものがあって、私 は、読みすすむうちに、これは谷崎さんがその生涯の重要な節々 についての遺言のような気持で書いたものだな、と考えた。 この随筆の冒頭に「我といふ人の心はたゞひとりわれより外に 知る人はなし」という歌が載せられている。これは多分谷崎潤一 郎の作品だろうと田 5 う。前にどこかに発表されたものか、それと 谷崎潤一郎が自分を語った文章の中で、昭和三十八年に「中央もこの随筆にはじめて現われたものか、私には分らない。谷崎さ 公論」に連載した「雪後庵夜話」がもっとも力のこもったもののんのものは一通り読んでいるが、記憶の悪い私は傍から忘れるか ように思われる。 らである。いずれにしても、この歌は素晴らしい。日本の近代短 この文章は、松歌の歌いぶりの枠の中にあるものとは思われず、百人一首の中に 郎子夫人と知り合っおけば落ちつきのよいような歌である。歌として美事であるばか 潤た事情や、その後りでなく、谷崎潤一郎という、悪魔主義とか、変態心理の作家と りし の結婚までの経過か言われ、あの数々の数奇な物語を書いた人が、七十八歳という とな ゝルなどから書き起さ晩年になって、自己の心懐を托した言葉として、これ以上の表現 」たる は知れており、よくこはない。その思想表現がそのまま「新古今」あたりの歌風の中に 。心に の外こまで打ちあけてきちんと納まっていることに私は感歎した。 , 一いれ書く気になった、 その「雪後庵夜話」の中でも、最も迫力のあるのは、松子夫人 〔」とわ 我と思われるほど直との結婚までの事情のいきさつであるが、これは多分、後世にい 截なものであるが、ろいろ伝説や風聞となって悪質なものに転化することを夫人のた わこ穹かて に一叩 公中公 「我といふ人の心」 伊藤整 月報 2 昭和れ年月 〈普及版第一一巻付録〉 「我といふ人の心」 目次 放浪時代の谷崎 回想の兄・潤一郎 1 三代文壇小史 2 第二巻後記 三谷澤伊 好崎田藤 行終卓 雄平爾整 11 10 6 3 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
が、このごろ町名変更や合併ばやりなので、改称でもしたのかし らと、近況が分らなかったためである。 すると早速、 Z Ⅱから電話があって、たしかに古くから〃え じま〃といってきたが、島民はそういう語感に、海賊の島のイメ えじま〃とい、つ入が多 ジがっきまとうため、それを嫌って 野村尚吾 くなっているようなので、ということだった。 どこまで真実か分らないながら、私には少しばかり意外だった。 この春、 Z Ⅱテレビの「新日本紀行」で瀬戸内海の人口にあ たる「家島群島」を、〃繁栄する離島〃の観点から捉えて紹介しもし実際に島民が、海賊の島のイメージを嫌っているとしたら、 ていた。だが、家島を離島扱いするのは、、 ささか見当違いに思あるいは「乱菊物語」の影響もいくらかあるかもしれぬ、という しびろく えて、ちょうど新聞にテレビ評を書くことにな「ていたので、異気がした。「乱菊物語」には鮪六などという不可思議な男が、こ 議を申し立てておいた。家島は、だいたい飾磨港から船で一時間の島に出没するからである。 だいたい瀬戸内海の島表には、海賊の伝説や、海賊島 ぐらいの海上にあって、日に二往復から三往復の定期便がある。 それに沿海の水産物は、前から阪神地方や姫路に運んでいる。こ と見なされやすい島が少なくない。それに中世の海賊というのは、 れほど恵まれた条件にあるのを、〃離島〃とこじつけて、〃繁栄〃 一種の通関税を徴収した程度のものだったようだし、まして正真 というテーマで見せるのは、苦しまぎれの編集に思えたからであ正銘の〃海賊〃など、めったにいたはずもないのに、世間のあや ふやな先人観を気にするのは可笑しい気もするが、住民としては いえじま ついでに一言、「家島群島と放送していたけれど、土地では家必ずしもそうはいかず、汚名に神経質になるのかもしれない。 島ともいならわしているのではなかったか」と疑間を出しておい 私がこの家島群島に行ったのは、昭和二十九年の五月初めであ た。私としては、市町村便覧にも「えじま」とルビをふってある った。姫路市出身で西宮に住んでいた友人に誘われてであった。 「乱菊物語」と家島 月報昭和年川月 〈普及版第十二巻付録〉 「乱菊物語」と家島 「続蘿洞先生」始末記 回想の兄・潤一郎Ⅱ 三代文壇小史肥 第十二巻後記 目次 三谷楢野 好崎崎村 行終尚 雄平勤吾 12 10 7 5 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ーユ
その年の八月に、谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫の連名で、離婚並岸の飯貝に、代々「松六」と称する醤油醸造を営んでいられる旧 に結婚の挨拶状が出されたのは周知のとおりで、その後の鮎子さ家。先にまずお宅に寄「て、先生の遺墨や手紙などを見せてもら った。氏はすでに家業を子息に譲って、別宅を構えていられるが、 んの身の振り方についての相談の手紙である。 なお、その「挨拶状」の末尾に、「小生は当分旅行致すべく不以前から俳句をやられるとのことで、高浜虚子が命名して揮毫し 在中の留守宅は春夫一家に託し候」とあるように、八月下旬からた「田螺庵」の扁額が掲げてあった。 私は中ノ千本の地にある旅館「桜花壇」に行く途中で、尾上氏 各地を転々と旅をされたらしい。 吉野へは、新年号用の原稿を書くため、初めからしばらく滞在と先生の関係を尋ねてみた。 するつもりで〃立籠った〃ようである。その時、執筆された創作昭和五年秋に、沢山の本や荷物を持ちこんで桜花壇に宿泊され た先生が、給仕に出た女中さんに突然、 が「吉野葛」なのである。 「吉野に尾上という醤油屋があるそうだが、知らないか」 そこで私は、「吉 と聞かれたそうである。ところが偶然にも、その尾上六治郎氏 撮野葛」を執筆された 場所を尋ね、あわせの夫人は、桜花壇の娘で、二年ほど前に尾上氏に嫁いだばかりの いっそ、つ話が通じることになった。 て作品の舞台になっ親戚関係だったので、 た吉野川の上流地帯なぜ先生が、尾上家のことを知っておられたかというと、何年 右 を実地に確めてみよか前に、尾上氏の母上が京大病院だかに入院されたさい、隣りに 山 とうと、吉野に出かけ先生の妹さん ( 末さん ? ) も人院中で、看病に来ていた尾上氏の 亠既 - 、 0 父君と、見舞に見える先生とが顔見知りになり、「吉野の醤油屋 知幸い吉野町飯貝に尾上家」のことを記憶されていたらしい。それで早速、尾上氏が 合は、昭和五年に谷崎先生を訪れ、国栖その他へ案内する因縁になったのだそうである。 餉先生を案内された尾また桜花壇の主人の故辰巳長楽氏は、文人墨客好きで、吉野の 挾上六治郎氏がいられ歴史や伝説にもくわしか「たので、よく夜など、親しく話相手に を るというので、当時なって無聊をなぐさめたという。 野 桜花壇では、最上級の部屋を仕事場にされていた。十畳の部屋 吉の模様を聞くことに にさらに十畳の控えの間がついている、そこの正面から谷を距て 尾上家は上市の対て如意輸堂の建物が樹間に点景のように見え、眼下の谷にはいわ
強く、容易には許されない事情でありました。然し、私にとって、 この桁はすれに新しい世界へ踏み切ることに依って、私が周囲の 期待している無難な、所謂良家 ( ? ) の子女の道を取ることを拒 んだことを自分自身にも確認させ、周囲にも無言のうちに示し、 認めさせる第一歩となったことのために、人生的にも忘れ難い事 ロ晃 件となったのでした。 間もなく、熱海、伊豆山の先生 ( そう呼び慣らわして居りまし 谷崎潤一郎先生の秘書をしていたのは、私がまだ旧姓 ( 田畑 ) を名の「ていたころで、昭和三十四年の一月から七月頃までの短た ) のお住居の近くに下宿を見つけて頂き、朝九時から五時迄の また自分の全力を挙勤めが始まりました。動作の大変のろい私は、つねづね時間に間 い間でしたけれども、相手どる人物といも に合わなくて苦労致しますが、大方作家というものは、時間など げてぶつかってみた仕事であったこと、作家という、私のそれ迄 の環境とはガラリと景色の異「た職場に、周囲の不賛成を身に感は余りきちんとなさらぬものと多寡を括「ていたのが失策のもと、 じながら遂には踏み切「たこと等の為に、忘れられない印象を今当初から電声一喝、手きびしく言い渡されました。少し都合で遅 れますと、家を出かける前に連絡して置いたからと、安心してノ も刻み込まれている半歳の経験でした。お相手がお相手だけに、 コノコ出頭したところ、「僕は待たされるのは大嫌いです。今後 一躍華やかな座に上ったようにいろいろ興味をもって噂されたり、 は待たせないで下さい。以前にもこんな風に待たされた事があっ 訊ねられたりすることは気が進まず、ほんのごく親しい友人だけ て、とっても嫌な思いをしました。」私はたヾもう小さくなって に知らせました。 内緒で面接試験を受けたものの、採用に決まると、氏の経歴、汗をかいて居りました。先生の日常生活は規則正しく、人を待っ また当時世間で評判とな「ていた「鍵」の内容のために、家族ののもお嫌がるが、御自分もきち「としておいででした。 当時住まって居られた伊豆山のお住居は、終戦後「細雪」がよ 者や友人達の間にも、無理解や誤解、意見の相異が思案を越えて 公眥中公 秘 の 甲、 出 月報 こう 8 昭 . 和お年・ 4 月 〈普及版第十八巻付録〉 目次 秘書の思い出 「蓼喰ふ蟲 j 補説 谷崎文学関西風土記 4 三代文壇小史 第十八巻後記 野篠川 好村田口 行尚 雄吾士晃 12 10 7 5 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
中村のものも折ロのものも、『細雪』完成の直後の沸き立った 雰囲気のなかで書かれたもので、つまりあの「戦後」という一時 リ卩。、よっきりと押されている。おもしろいのは、軍人たち 期のカ ( の『細雪』弾圧に対する憤慨が、年老いた国文学者の文章のほう により多く露骨なことで、若い小説家のほうはその点について、 丸谷才一 しかし圻一口にくらべるな 怒っていないわけではもちろんないが、 らば比較的冷静に、客観白 勺に、そして具体的に語ろうとしている 谷崎潤一郎の長篇小説のなかで最も優れているものが何かとい うことになれば、答はさまざまに分れるだろう。しかし最も有名ように見える。ただし、このことから推して、一般に小説家のほ うが国文学者よりも、青年のほうが老人よりも、落ちついている なものが何かという問ならば、答えることはすこぶる容易である。 『細雪』以外の何かをあげるためには、よほどの無知が必要であものだなどと考えるのは間違いだろう。ここではむしろ、中村個 ろう。 人の文学的姿勢とか、あるいは、日本の現代小説の代表作を世界 そしてこういう高名な作品である以上、じつに数多くの『細の小説史のなかに位置づけようとするとき彼は必然的にこういう 態度をとらねばならなかったとか、そういう面に注意するほうが 雪』論が書かれたし、そのなかには優れた評論がすくなくない。 正しいような気がする。 だが、そのなかでばくを最も感嘆させた評論をあげるとすれば、 中村はまず『細雪』を「甚だ複雑な形をとった」「逃避の小説」 中村真一郎の『谷崎と「細雪」』と折ロ信夫の『「細雪」の女』と いうことになる。今ほくは二つの批評を自分が読んだ順であげた「或いは遊離の」小説と規定する。また、「遊離的な市民小説」と のだが、一 両者は甲乙をつけがたい見事な出来ばえのもので、こう要約する。彼はもともと谷崎を、反政治的、反社会的な作家と考 いう批評の傑作が二つも書かれたということほど、『細雪』の魅えているのだが、そういう作家が、現代から離れた物語の世界の なかにひたるのではなく、自分の逃避が成功したのちに、現代に 力の豊かさを証するものはないだろう。 公中公 二つの『細雪』論 月報昭和年 1 月 〈普及版第十五巻付録〉 目次 二つの『細雪』論 二つの感想 谷崎文学関西風土記 1 三代文壇小史新 第十五巻後記 丸谷才一・ 竹西寛子 : ・ 4 野村尚吾・ : 6 三好行雄 : 朝 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
礎とした商品的文学だが、同時に大衆の求める文学であったこと を見落してはなるまい。大正中期ごろの文壇文学は、閉鎖的な自 己の間題に低迷しがちで、身辺雑事的なものをうっしたものが多 く、新しく読者層として登場した新中間層の読書要求を満すもの とはならなかった。だからといっていわゆるありきたりの講談も 尾崎秀樹 のにもあきたりない。そこから新しい形式と内容をもった大衆的 な文学の創造がうながされたのだ。したがって、大衆文学は本質 純文学作家のなかには、大衆文学と純文学との間に意識的な一 線を画し、距離をおこうとする人が少くなかったなかで、谷崎潤的に通俗文学とはことなり、大衆のもっ健康で明るく、しかもク リエーティブなものにふれあう文学的形象化でなくてはならなか 一郎は例外だった。 った。それがいつのまにか一種の商品文学として、マスコミのド 「乱菊物語」が朝日に連載されたおりには、わざわざ「大衆小 説」というッノ書きを加えたほどで、昭和五年七月に発表したエ レイと化してしまったのは、大量伝達、大量消費という出版のマ ッセイ「大衆文学の流行について」の次のような一節を見ても、 スコミ過程で、大衆文学がもっ本来的な文学理念を喪失したため それは明らかである。 であろう。大衆文学の創成期の意欲と、その頽廃の現象を同一次 「もし告白小説や心境小説を以て高級と云ふならば、 : さう云元でとらえるのは、あやまりである。 ふものは決して小説の本流ではないと私は考へる。小説と云ふも 谷崎潤一郎は、文学の本質的なおもしろさを知っていた作家と のは、矢張り徳川時代のやうに大衆を相手にし、結構あり、布局して、日本の亜流化した自然主義文学の潮流に批判的であった。 ある物語であるべきが本来だと思ふ」 このことはまた文学の大衆的なひろがりに対して好意的であった 日本の大衆文学は、狭義には、関東大震災の一、二年後に成立ことともふれあう問題であろう。 したといわれる。それは社会的には、大量生産と消費の条件を基「私は、過去何年間かの自然主義時代、心境小説時代と云ふもの 公中公集 谷崎潤一郎と大衆文学 月報昭和年Ⅱ月 0 日ス版第十三巻付録〉 目次 谷崎潤一郎と大衆文学 「春琴抄」の前後 回想の兄・潤一郎肥 三代文壇小史 ′ 1 三ロ 第十三巻後己 尾崎秀樹・ 佐藤観次郎・ : 3 谷崎終平 : 三好行雄 : 朝 .2 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
三重吉が、「赤い鳥」で実行しようとしたことは、童話、童謡 を文学の高さにまで持って来ようとしたことだった。それには一 流の文学者に書いてもらうしかなかった。だから、童謡は毎号北 原白秋、三木露風に寄稿してもらい、中頃から西条八十にも参加 かなりあ してもらった。西条八十は「唄を忘れた金絲雀は : : : 」のような 島政二郎 優れた童謡を書いてくれた。作曲は山田耕筰がしてくれたり、お 。ゝ、「八の馬鹿」という小説を「中央公論」に発表弟子の成田為三がしてくれたりした。 鈴木三重吉カ 童謡の方は、三重吉が付き合のある作家を歴訪して執筆を依頼 したのは、大正何年頃のことだったろうか。 あれが三重吉の小説の最後のもので、それッきり小説の筆を折して廻った。彼は流行作家で、大抵の作家と面識があった。酒飲 ってしまった。「八の馬鹿」は、一人の作家が痩せ枯れて、何もみだったから、すぐ人と親しくなる得があった。一面わがままだ 。「小鳥の巣」を始め「桑の実」「櫛」 ったから、敵もあったが 書くものがなくなって、それを最後に筆を折る覚悟をしたような 「一枚の瓦」のようないい作品を書いていたから、文壇から相当 哀れな作品ではなかった。 筆も生き生きとしていたし、話も面白いし、三重吉がそれまで重んじられてもいた。 思い切って出せなかったユーモラスな味があって、これから新ら彼は仕事熱心だったから、森鷓外のような大先輩のところへも しい持ち味を生かして、漸く彼の本質を掘り当てた第一作になる「赤い鳥」の運動へ参加してもらいに行った。その外、先輩では のだろうと私などは期待を抱いた。 徳田秋声、島崎藤村、泉鏡花、高浜虚子、同輩で森田草平、後輩 ところが、事実はそんなことになり、やがて彼は童話に筆を染では豊島与志雄、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄などへも寄稿を め始めた。そうして間もなく、童話童謡の雑誌「赤い鳥」を発行依頼に行った。 した。 今から思うと、嘘のような話だが、人から借りた千円の金で始 公中公 秘密の話 月報 7 昭和年 5 月 〈普及版第七巻付録〉 目次 秘密の話 大正活映時代の人々 回想の兄・潤一郎 6 三代文壇小史 7 第七巻後記 小島政二郎 : 内田吐夢・ : 4 谷崎終平・ 三好行雄 : 朝 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
たからと云って、年玉の取ってあったのをくれた。その時分の金 で二円だったと覚えているが、私は大喜びで翌日早速学校の帰り に神田の中西屋まで行き、そこで、憧れの『女人神聖』を買って、 勇んで家へ帰って来たことを覚えている。 後年、谷崎先生にお眼にかかるようになったとき、作品の話に 円地文子 なると、先生は極く初期のものと、中期以後のものはいいが、 谷崎閹一郎全集第五巻の目次を見ると、私は懐しさに気もそぞ頃のものが厭だと云われ、その中にこの時代の作品を繰人れてい られた。「女人神聖」が先生の生前の新書判全集に人っていず、 ろな感慨を催すのである。 それは恰度私が女学生時代に谷崎先生の作品を貪りよんだ頃に今度の全集に収められたのも、大方そういう事情の為であったの 当るので、短篇集『二人の稚児』『金と銀』や、長篇『女人神聖』であろう。 この集に集められた作品には、「人面疽」「人間が猿になった などはいずれも乏しい小遣いを割いて、神田の本屋へ飛んで行き、 話」のような怪異談の傾向の強いものと、「前科者」「白昼鬼語」 買って来たのであった。 「女人神聖」は「婦人公論」に連載されたものであるが、そんな「金と銀」のような推理小説的な傾向のものが重なっている。 ことはずっと後に知ったので、赤い和紙の美しい装釘の本を店棚第一の作品群は後の「美食倶楽部」や「天鵞絨の夢」を通して、 に見つけた時から、欲しくて欲しくてたまらなかったが、その頃「白狐の湯」「白日夢」あたりで他の系列に流れ入って行き、第二 の山ノ手の家庭では女学校へ通う女の子に小遣い銭を多く持たせの系列は「途上」「黒白」を通して、これも後年には「武州公秘 る習慣がなかったので、私は可成り長い間指をくわえて、空しく、話」のような特異な作品の中に溶解して行ったように見える。 書架に並んでいる『女人神聖』を横目で睨んでいた。ある時、祖余り多くの人に読まれていないようだけれども、私はこれらの 父の家に何かの用で行ったら、年始の時に、風邪ひきで来なかっ作品の中の「人間が猿になった話」を愛読した。これは谷崎文学 公中公集 若き日に愛読した作品 月報 5 昭和年 3 月 〈普及版第五巻付録〉 目次 若き日に愛読した作品 谷崎の推理怪奇小説 回想の兄・潤一郎 4 三代文壇小史 5 第五巻後記 円地文子 : ・ 中島河太郎・ : 2 谷崎終平 : 三好行雄 : ・ . り 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1