潤一郎 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 月報
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1. 谷崎潤一郎全集 月報

礎とした商品的文学だが、同時に大衆の求める文学であったこと を見落してはなるまい。大正中期ごろの文壇文学は、閉鎖的な自 己の間題に低迷しがちで、身辺雑事的なものをうっしたものが多 く、新しく読者層として登場した新中間層の読書要求を満すもの とはならなかった。だからといっていわゆるありきたりの講談も 尾崎秀樹 のにもあきたりない。そこから新しい形式と内容をもった大衆的 な文学の創造がうながされたのだ。したがって、大衆文学は本質 純文学作家のなかには、大衆文学と純文学との間に意識的な一 線を画し、距離をおこうとする人が少くなかったなかで、谷崎潤的に通俗文学とはことなり、大衆のもっ健康で明るく、しかもク リエーティブなものにふれあう文学的形象化でなくてはならなか 一郎は例外だった。 った。それがいつのまにか一種の商品文学として、マスコミのド 「乱菊物語」が朝日に連載されたおりには、わざわざ「大衆小 説」というッノ書きを加えたほどで、昭和五年七月に発表したエ レイと化してしまったのは、大量伝達、大量消費という出版のマ ッセイ「大衆文学の流行について」の次のような一節を見ても、 スコミ過程で、大衆文学がもっ本来的な文学理念を喪失したため それは明らかである。 であろう。大衆文学の創成期の意欲と、その頽廃の現象を同一次 「もし告白小説や心境小説を以て高級と云ふならば、 : さう云元でとらえるのは、あやまりである。 ふものは決して小説の本流ではないと私は考へる。小説と云ふも 谷崎潤一郎は、文学の本質的なおもしろさを知っていた作家と のは、矢張り徳川時代のやうに大衆を相手にし、結構あり、布局して、日本の亜流化した自然主義文学の潮流に批判的であった。 ある物語であるべきが本来だと思ふ」 このことはまた文学の大衆的なひろがりに対して好意的であった 日本の大衆文学は、狭義には、関東大震災の一、二年後に成立ことともふれあう問題であろう。 したといわれる。それは社会的には、大量生産と消費の条件を基「私は、過去何年間かの自然主義時代、心境小説時代と云ふもの 公中公集 谷崎潤一郎と大衆文学 月報昭和年Ⅱ月 0 日ス版第十三巻付録〉 目次 谷崎潤一郎と大衆文学 「春琴抄」の前後 回想の兄・潤一郎肥 三代文壇小史 ′ 1 三ロ 第十三巻後己 尾崎秀樹・ 佐藤観次郎・ : 3 谷崎終平 : 三好行雄 : 朝 .2 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1

2. 谷崎潤一郎全集 月報

論争に変ると、 もつのまにかだんだん論争に変っていく。 本にあったらどんなにいいだろうな」という表情がありありと浮ちに、、 んでいた どっちもしだいに興奮してくる。谷崎も芥川も顔の色まで青くな そんな事があってからしばらくあとの事である。たしか大正八る。芥川の方がどうやら押され気味である。 そのとき武林無想庵が、まるでふたりの間に割ってはいるよう 年だったと思う。谷崎が本郷の曙町に引っ越してきたというので、 私と芥川龍之介と久米正雄の三人で訪ねていったことがある。家な形でしゃべり出した。私と久米とはそばで黙って聞いていると、 さかんにいい争っている谷崎と芥川よりも、武林無想庵の方が日 は森川町の空橋の下をくぐって坂を少しばかり上った左側にあっ 本の古典をはるかに沢山読んでもいるし、また、よく記憶しても た。二階に通されると武林無想庵も来ていた。 いる事がわかる。それには私もすっかり舌をまいた。 「この二階には北側に窓があるんでこの家を借りたんだ。ばくは やがて論争は結論がはっきり出ないままに打ち切られて、私た 」側からの光線でないと物が書けないんでね」と谷崎が説明した。 その窓に向って大きな栗色のデスクをすえ、前には回転椅子がおち四人は谷崎潤一郎の家を出た。そして武林無想庵は坂を上の方 いてある。床の間には竹久夢二がかいた京都の舞子のきれいな尺へ、私たち三人は下の方へと別れ別れになったとき、芥川が「無 想庵はじつによく読んでいるね」と感嘆の声を上げたが、「谷崎 三の軸がかけてある。 「これは夢二の版画でなくって肉筆ですね」と私がいうと谷崎は、潤一郎はばくよりもよく読んでいるねえ」とはついにいわなか「 ( 一九六七・一・二五 ) 「ぼくは夢二の絵、たいしてすきじゃないんだけど、折角くれた ( 作家 ) のでかけているんだ」といいわけらしくいっていた。 たちまち谷崎と芥川とのあいだに日本文学の古典についての話 がはじまる。どっちもじつによくしゃべる。自分がいかに多く日 本文学の古典をよみあさっているかということについて、敗けず おとらずしゃべるのである。源氏物語や枕草子はいうまでもない。 字治拾遺や今昔物語。紫式部日記に和泉式部日記。さらに蜻蛉日 瀬戸内晴美 記から栄華物語。万葉集から古今や新古今、という風に、つぎか らつぎへと古典文学の名をあげては、ふたりでもって、「あれが大貫雪之助こと大貫品川のことを谷崎潤一郎は三度モデルにし ( ももカここはよくない」 も」「これかいい」とか、「あすこよ、、。、、 て作品を書いている。 、。はじめのあいだは とか、「いや、自分はそうは思わない」とカ 一人の作家が三度も、その人物について書くということは、並 「いかに自分の方が多くを読んでいるか」を自慢しあっているう 並でない興味を品川という人物に抱いていたからだろう。 川への潤一郎の手紙 4

3. 谷崎潤一郎全集 月報

オカ谷崎はきき人れない。 テキやカツ。野菜サラダやオムレッ等々。つぎからつぎと注文し 「たって、きみの方で新小説の前借をばくの要求どおりにさせなては、、 もくらでもたべるのだ。私もその頃は大ぐいだったが、谷 いんだから、版権を売るよりほかに金の作りようがないじゃない崎の大ぐいにはとてもかなわない。谷崎潤一郎がおどろくべき大 か」 ぐいだということは、かねて久米正雄から聞いていたが、これほ どまでの大ぐいとは思わなかった。あとでわかったことだが、そ しばらく押し問答のあげく、とうとう版権を売ってしまった。 本で二冊分ぐらいのものらしかったが、何と何をいくらで売ったの頃から彼はすでに糖尿病にかかっていたのである。 いくことになって、旅の支度をし か私はしらない。そのあと、ふたりは日本橋の通りを万世橋まで 谷崎潤一郎がいよいよ中国へ ぶらぶら歩いた。「北京へいくんですか上海へ いくんですか」とているところへ遊びにいった久米正雄が、私のところへきて、 ーー支那へい 私がきくと、「南方へいくんですよ。ぼくはとくに長江が見たく 「谷崎潤一郎ときたら、きみ、大へんな野郎だね。 ってもこれだけあれば大丈夫たろうといって、 O O の箱を開け ってね」と谷崎がいう。「日本の長江ではまにあいませんか」と て見せるんさ。なかにサックがいつばいつまっているんだ。たし いう私の長江とは、当時の有名な評論家生田長江のことである。 かに百以上はあったね。支那であれをみんな使うつもりなんだろ 「ヘッ、日本の長江ですか。あんな腐ったツラなんか見たくもな うか」と、おどろいていた O O というのは、当時の金口つき い」と谷崎はかんで吐き出すようにいう。その頃、生田長江のハ 、 / セン氏病を極度の外国タバコで、一と箱百本入りだった。 ンセン氏病ははっきり顏にあらわれていたノ、 やがて谷崎潤一郎が中国旅行から帰ってくると、まっさきに土 にこわがる谷崎は、生田長江が大きらいだった。 そのときふたりは万世橋ホテルの二階で昼飯をたべた。洋食を産話をきいた久米正雄がまたしても私のところにやってきて、そ 谷崎がおご の話を報告する。 ってくれた 「きみ。谷崎がね。上海だか南京だかで、ある晩女を買ったら、 郎きのだ。テー そのべッドのスプリングがとてもやわらかで、ひどく寝心地がい 国のプルをはさ いんだそうだ。夏のことだからべッドに蚊帳がつってあって、蚊 越魚 名人 んで向い合帳の四すみに鈴がさがっているんだそうだよ。そうしてね。いよ 挿月ってたべて いよモウションを起すと、モウションのリズムと一しょに四すみ 姫年いると、谷の鈴が一せいにチリンチリンといい音をさせて鳴るんだそうだ。 鶯 6 正 崎のくうこああいう風流なのが日本にもあるといいんだがなといっていた 大 し J ノ、、つこし J よ」と、話して聞かせる久米正雄の顔にも、「そんな風流なのが日

4. 谷崎潤一郎全集 月報

に至る間に発表されたものである。前巻同様年代順に配列し、各と銀一 ( 大正七年十月刊 ) および『金色の死他三篇』 ( 大正十一年 篇の発表年月と掲載新聞雑誌単行本名はそれぞれ中扉裏に曷げこ。 才オ五月刊 ) 所収の本文と校合した。「懺悔話」は初出紙から直接覆 これらの作品は、発表後逐次単行本に収録され、次表のごとく刊刻した。 行されている。 単行本『甍』は「憎み」 ( のち「憎念」と改題 ) 「熱風に吹かれて」の 二篇からなり、大正四年十一月に『小説二篇』と改題されて、同じ紙型 戀を知る頃恐怖 大正 2 ・川『戀を知る頃』植竹書院刊 を用いて刊行されているが、「甍」という題の小説は存在しない。本巻 憎念熱風に吹かれて大正 3 ・ 3 『甍』 鳳鳴社刊 の時期の小説として「樺太へ往きたがる人」 ( 大正三年一月十一日「大 捨てられる迄饒太郎 阪毎日新聞」掲載 ) という作品があるが、これは生前、著者の言葉で、 『麒麟』 植竹書院刊 友人の作品に名を貸したものであることが判明しているので、削除した。 春の海邊 お艶殺し 大正 4 ・ 6 『お艶殺し』千章館刊 ・刊行室から 金色の死 日東堂刊 大正 5 ・ 6 『金色の死』 ▽「谷崎潤一郎全集」豪華普及版の第二回配本・第二巻をお届けいたしま 「少年の記憶」は発表後どの単行本にも収められず、昭和三十四 す。この巻には大正二年一月から大正四年一月までの作品が収められてい 年七月刊行の「谷崎潤一郎全集」 ( 新書判全集 ) 第十四巻に初め ます。 ▽本全集の第一巻は、発売とともに好評で、読者の皆さまから多数愛読者 て収録された。「懺悔話」は従来「懺悔」という題で年表などに カ 1 ドを寄せられるなど御支持をいただいております。今後ともいっそう は記載されていたが、今回初めて確認されたものである。 の御支援をお願いいたします。 本巻のテキストは「恐怖」「少年の記憶」「戀を知る頃」「憎念」 ▽昭和四十一年の全集刊行時に御購人の機を逸せられたかたをはじめとし 「お艶殺し」の五篇については新書判全集を底本とし、初出の新て多くの読者、とくに若いかたがたから本全集の刊行を喜んでいただいて おります。いままでに「谷崎潤一郎全集」再刊の御要望を寄せられた皆さ 聞雑誌単行本およびその他の版本を参照校訂した。なお「お艶殺 まに厚く御礼を申し上げます。 し」は著者が戦後『お艶殺し』 ( 昭和一一十一一年六月、全国書房刊 ) ▽第一巻の本欄で「奧付の検印は棟方志功氏の刻になるものです」と記し ましたが、故富本憲吉氏作の陶印の誤りでした。刊行室の不注意を深くお で相当の斧鉞を加えたので、初出とはかなりの異同がある。 詫び申し上げるとともに、謹んで訂正させていただきます。 新書判全集に収められなかった作品が五篇あるが、「熱風に吹 ▽次回配本 ( 十二月十一日 ) の第三巻は、大正四年四月から大正五年四月 かれて」は単行本『甍』所収の本文を底本とし、初出誌と校合し までの左記作品を収めてあります。御期待ください。 た。「捨てられる迄」 ( 初出題名は「捨てられるまで」 ) と「饒太「創造」「華魁」「法成寺物語」「お才と巳之介」「獨探」「訷童」「鬼の面」 郎」は、単行本『麒麟』所収の本文を底本とし、初出誌、改造社▽小社から野村尚吾著「谷崎潤一郎ー風土と文学ー」が近日発売されます。 文豪谷崎潤一郎に師事した著者が、作品成立の経緯を現地に訪ね、回想す 版「谷崎潤一郎全集」第四巻 ( 昭和六年四月刊 ) 、その他と校合 るユニークなもので、谷崎文学の研究と鑑賞に得難い資料です。併せて御 した。「金色の死」は単行本『金色の死』を底本とし、初出紙、『金購読ねがいます。 ワ 1

5. 谷崎潤一郎全集 月報

井荷風の晩年と谷崎潤一郎の晩年とのきわだ「た対照は、〈荷風 第十八巻後 の死以後、私はたどりつくべき老年ということを、身にしみて考 える時をもつようにな「た〉平野氏をまつまでもなく、わたした第十八巻所収の作品八篇は、昭和三十三年二月から昭和三十六 ちにまさにひとごとでない実感をも「てせまる。孤独と恩愛、寂年七月までに発表されたものである。これらの作品をそれぞれが もいかえてもよい両者の対照は、明治四十年最初に収められた単行本の刊行順に並べると、次の如くになる。 寥と至福など、どう、 代の最初の出会いまでを思いあわせるならば、い「そういたまし出版元はすべて中央公論社である。 昭和 ・ 7 「谷崎潤一郎全集」第三十卷 四月の日一一一ⅱ く痛切だといえよう。 しかし、それにしても、荷風と潤一郎の距離はそのおもてにあ夢の浮橋高血壓症の思 ・ 2 『夢の浮橋』 ひ出 ささ らわれた形ほどに真に遠いのであろうか。荷風の奇行は、、 三つの場合おふくろ、 かの逆説もなしに、かれの健康の明証だ「たはずである。状況か 3 ・ 4 『三つの場合』 お關、春の雪親父の話 らもっとも隔たった場所に自己の世界をまもること。多くの明治 ・ 9 『嘗世鹿もどき』 昭和 常世鹿もどき 作家に課せられたこの信条にも「とも忠実だ「たひとりが荷風に 本巻初収録 ほかならぬ。だとしたら、自己の文学にその信条を別な形で生か殘虐己 した谷崎潤一郎もまた、まぎれもなく明治の作家であ。た。「毎「殘虐記」の本文は初出誌に拠り、原稿を参照した。 「四月の日記」は新書判全集以後『夢の浮橋』にも収録されてい 日新聞」の記者に荷風の死についての感想を求められて、谷崎は るので、『夢の浮橋』の本文を底本とし、初出誌および新書判全 つぎのように語った。 《明治大正以来私には一番身近かな作家だ「た。ずい分自分とは集と照合した。 その他の六篇は、それぞれ前掲の初版本を底本とし、初出の雑 違う面もあるが、それでもなお身近かに感じられる人である。 : あんな孤独な生活を私もしてみたらよかったと思うほどうら誌・新聞と照合した。 やましかった。》 ( 「毎日新聞」昭和三十四年四月三十日夕刊所掲 ■刊行室から 談話 ) ▽第十八回配本。第十八巻をお届けいたします。 荷風の生き方をあえて〈うらやましい〉という感想におそらく ▽次回第十九巻は三月十日に配本になります。昭和三十六年十一月から昭 嘘はない。おなじ談話で、谷崎は荷風を〈同じ種族〉ともいも 和四十年九月の絶筆まで、左記七篇が収められます。 っている。荷風にとって、なによりも〈身近かな〉鎮魂歌だった「瘋癲老人日記」「四季」「台所太平記」「雪後庵夜話」「京羽ニ重」「おし ゃべり」「七十九歳の春」 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) はずである。

6. 谷崎潤一郎全集 月報

人のをんな』は、文学を読むことの愉しみそのものを蔵いこんで いるような本として、中学生だったわたしの眼にうつった。 「猫と庄造と二人のをんな」は、ただ造本という点で異色だった のではなく、日華戦争開始前後の、文学までがしだいにカ 1 キー 色の軍国的色彩にいろどられていった時代の異色の作として深い 田切進 感銘を覚えた。「春琴抄」の徹底した美への傾倒にくらべて、は わたしの手許にある『猫と庄造と二人のをんな』は、昭和十四じめは期待を裏ぎられるようなもの足りない印象を受けたが、一 年九月に発行された普及版の第十三版で、この作品が本になった匹の猫をめぐって動いてゆく登場人物たちの巧緻をきわめた描写 昭和十二年七月の、初版刊行のさいに出た限定本でもなければ、 と、入や猫の動きだけでなく、阪神地方の自然や風物、町の様子 特別ないわくつきの本ではない。何度も引っ越しをするうちに、 や家の内部のことなどまでがきわめて鮮やかに描きだされていて、 安井曾太郎装釘の外函はこわれかかっており、本そのものも黄ばやはり非凡の作だという印象が強かった。 んでいるが、わたし一個について言えば、戦争下の学生時代のさ やがて戦局がきびしくなり、「細雪」の掲載が禁止されるなど まざまな記憶につながる愛着の深い書の一つである。谷崎潤一郎のことがおこった。大学生になっていたわたしは数人の仲間たち の書物の中では、特に凝った造本とは言えぬが、『盲目物語』な と、丹羽文雄や石川達三を、舟橋聖一や阿部知二を、中野重治や どの渋い和装変型判にくらべると、現代ものにふさわしい一変し宮本百合子を読むようになっていたが、その頃になってひそかに た瀟酒なタテに長い変型判で、「蓼喰ふ虫」や「春琴抄」も、「吉わたしは荷風や潤一郎の作品に読みふけっていた。かえって「春 野葛」や「陰翳礼讃」も同じ創元社の叢書版でしか読むほかなか琴抄」の美への傾倒が、あまりにも讃美だけでつらぬかれている のにわたしは疑間をいだき、「猫と庄造と二人のをんな」の卓抜 った戦争下の時代には、函や扉の装釘から、用紙、活字、挿画、 奥付、見かえしにいたるまで谷崎好みで造られた『猫と庄造と二したリアリズムをあらためて眼をみはる思いで読みかえしたので 中公集 「猫と庄造と二人のをんな」のこと 小 月報料昭和年月 〈普及版第十四卷付録〉 目次 父・潤一郎と戯曲 回想の兄・潤一郎 三代文壇小史Ⅱ 第十四巻後記 「猫と庄造と二人のをんな」のこと小田切進・ 観世栄夫 谷崎終平 6 三好行雄 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー・ 1

7. 谷崎潤一郎全集 月報

決して保証されないはずである。 は、西洋を理念とする文学史の物差でははかれぬほど遠く伸びて などと、顧みて他をいう筆法は、もう止めておこう。一年半の いるようである。日本の近代文学の構造自体から、日本の近代文 空白は、誰れよりも、わたし自身にとって有難かった。この一年学史の評価基準を発見することが緊急の課題なのだが、その意味 でも、谷崎潤一郎の存在は かれがまぎれもなく、わたしたち 半の間、わたしはいうところの〈東大闘争〉に首まで埋まって、 きりきり舞いしていたからである。途方もない、空白の時間だっ の同時代の作家であるという重い事実の消えぬうちに、あらため た。情況に足をすくわれる主体の脆さを実感するたびに、清况をて振りかえられてよいと思う。 以上が書きたいことのひとつである。 無視して生きえた文学的個性の大きさがあざやかに見えてくるの をどうしようもなかった。それは幸田露伴であり、谷崎潤一郎で あり、川端康成であった。 谷崎潤一郎の晩年の作品といえば、「鍵」や「瘋老人日記」 文学史家は、あるひとりの作家が同時代の情況のなかに見たのなどが文壇の視聴を集めた傑作として、すぐに思いうかぶ。事実、 を、その作家とともに見ることができる。と同時に、かれはまた、それにふさわしい異色作であることもまちがいない。しかし、そ その作家にはーーっまり同時代には 決して見えなかったもの うした問題作のかげに隠れてとかく忘れられがちだが、わたしは を、後代の遠近法によって見ることもできる。作家の見たものとむしろ「当世鹿もどき」「三つの場合」「台所太平記」「雪後夜 見えなかったものとを二重写しする複眼であり、文学史とは結局、話」などといった一連の作品を、もうすこし高く評価してみたい そうした複眼で過去と現在とを相対化した図式にほかならぬだろような気がする。「瘋巓老人日記」が三島由紀夫氏のいうように、 う。歴史的な相対化によって、あらゆる作家の生が〈私〉の視野〈老いによって、人間の普遍的条件に直面し、人間の原質へ降り にくみこまれーーーその〈私〉の視野を原点とする座標系に統括さて〉いった傑作だとしたら、「当阯鹿もどき」以下は老いを円熟 れた図式である。 のための幸福な時間に化しえた才能が、実生活と仮構を自在に往 その図式からはみだす部分の多い作家ほど、文学史家にとって復してきずいた融通無礙の芸術品であろう。随筆とも小説ともっ 手に負えない作家になる。たとえば、わ , たしたちはまだ、幸田露かぬ自在な語りくちが、陰影にとむ典雅な日本語と、軽やかに飛 伴の位置づけに成功していない。 というより、手こずっている。翔する精神との微妙な交感をくりひろげている。 谷崎潤一郎もやがてそうなるかもしれない。 これらの作品は発表誌の『中央公論』では、確か創作欄に組ま だから、どうだというわけではないが、問題は文学史の評価基れていたように記憶する ( もっとも、「台所太平記」だけは『サ 準にもかかわっている。〈近代〉が〈反近代〉をどう評価できる ンデー毎日』に発表されたものだが ) 。この全集でも〈作品〉と かということなのであって、情況から抜けだした谷崎の個性の影して、随筆とあきらかに区別されているようだが、こうした作品

8. 谷崎潤一郎全集 月報

そればかりでなく、ある激しい気魄の一貫するものがあって、私 は、読みすすむうちに、これは谷崎さんがその生涯の重要な節々 についての遺言のような気持で書いたものだな、と考えた。 この随筆の冒頭に「我といふ人の心はたゞひとりわれより外に 知る人はなし」という歌が載せられている。これは多分谷崎潤一 郎の作品だろうと田 5 う。前にどこかに発表されたものか、それと 谷崎潤一郎が自分を語った文章の中で、昭和三十八年に「中央もこの随筆にはじめて現われたものか、私には分らない。谷崎さ 公論」に連載した「雪後庵夜話」がもっとも力のこもったもののんのものは一通り読んでいるが、記憶の悪い私は傍から忘れるか ように思われる。 らである。いずれにしても、この歌は素晴らしい。日本の近代短 この文章は、松歌の歌いぶりの枠の中にあるものとは思われず、百人一首の中に 郎子夫人と知り合っおけば落ちつきのよいような歌である。歌として美事であるばか 潤た事情や、その後りでなく、谷崎潤一郎という、悪魔主義とか、変態心理の作家と りし の結婚までの経過か言われ、あの数々の数奇な物語を書いた人が、七十八歳という とな ゝルなどから書き起さ晩年になって、自己の心懐を托した言葉として、これ以上の表現 」たる は知れており、よくこはない。その思想表現がそのまま「新古今」あたりの歌風の中に 。心に の外こまで打ちあけてきちんと納まっていることに私は感歎した。 , 一いれ書く気になった、 その「雪後庵夜話」の中でも、最も迫力のあるのは、松子夫人 〔」とわ 我と思われるほど直との結婚までの事情のいきさつであるが、これは多分、後世にい 截なものであるが、ろいろ伝説や風聞となって悪質なものに転化することを夫人のた わこ穹かて に一叩 公中公 「我といふ人の心」 伊藤整 月報 2 昭和れ年月 〈普及版第一一巻付録〉 「我といふ人の心」 目次 放浪時代の谷崎 回想の兄・潤一郎 1 三代文壇小史 2 第二巻後記 三谷澤伊 好崎田藤 行終卓 雄平爾整 11 10 6 3 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1

9. 谷崎潤一郎全集 月報

大正Ⅱ お國と五平 7 『お國と五平他二篇』春陽堂刊「永遠の偶像」「彼女の夫」「本牧夜話」「白狐の湯」は新書判全 本牧夜話白狐の湯 集を底本とし、それぞれ初出と照合した。 『愛なき人々』 改造社刊 愛なき人々 「お國と五平」は新書判全集を底本とし、初出および戦後版の 大正 アゴ・マリア ・ 3 『アゴ・マリア』新潮社刊『戯曲お國と五平他二篇』 ( 昭和二十二年二月、国際女性社刊 ) 昭工ゅ 4 ・ 2 『近代情痴集』 ( 新潮文庫 ) 靑い花 と校合して、若干の補訂をした。 昭和 4 ・ 5 『潤一郎犯罪小説集』 ( 新潮文庫 ) 或る罪の動機 「愛なき人々」は初出以来の伏字が初版本から改造社版全集まで 昭和 6 ・ 6 『谷崎潤一郎全集』第九卷 蛇性の婬 蹈襲されたが、戦後、文潮社版『愛すればこそ』と「谷崎潤一郎 改造社刊 作品集」第八巻 ( 昭和二十五年十二月、創元社刊 ) とにおいて、 本巻初収録 奇怪な記録 それぞれ別々に著者の手により伏字の部分が埋められた。新書判 以上のうち「奇怪な記録ーと「ア・マリア」の二篇は新書判全集は創元社版作品集を底本としたものである。本巻のテキスト 全集に収められていない。 は新書判全集を底本し - こ、初出、初版本を参照した。 「愛すればこそ」のテキストは新書判全集を底本とし、初出、初「アズ・マリア」は戦後版の『アズマリア』 ( 昭和二十二年十月、 版本と照合、戦後版の『愛すればこそ』 ( 昭和二十二年四月、文全国書房刊 ) を底本とし、初出および前掲初版本と校合した。 潮社刊 ) 、『信西他』 ( 昭和二十五年十二月、朝日文庫 ) を参考と ■刊行室から した。 「或る罪の動機」は新書判全集を底本とし、初出と照合、著者の▽「谷崎潤一郎全集」豪華普及版の第八回配本・第八巻をお届けいたしま す。この巻には、大正十年十二月から大正十二年一月までに発表された作 歿後発見された手入れ本によって若干の補訂を行なった。 品十二篇を収めました。 「奇怪な記録」は初出から直接覆刻した。 ▽本巻ロ絵の、箱根で撮影された写真は、故久米正雄氏夫人艶子氏の所蔵 になるものです。なおこの写真は、大正九年八月号「文章供楽部」のロ絵 「蛇性の婬」は新書判全集を底本としたが、新書判全集の本文は に使用されています。 改造社版全集に拠ったものであり、初出の「鈴の音」にくらべて ▽小社から発売中のペー ーバックス版「日本の文学」 ( 全巻 ) の「谷 場数や字句で脱落と思われる部分があるので、本巻では大幅に初 崎潤一郎」 CÜÜは、円地文子、サイデンステッカ 1 、ドナルド・キーン 出の本文を取り入れた。したがって場数は通し番号とせず、初出氏がそれぞれ解説を執筆されています。併せて御購読ねがいます。 ▽次回第九巻は六月十一日に配本されます。関東大震災をはさんだ大正十 に拠って欠番もそのままにした。 二年一月から大正十三年二月までの左記六篇が収められています。 「靑い花」は新書判全集を底本とし、初出と戦後版『靑い花』 ( 昭 「肉塊」「神と人との間」「雛祭の夜」「港の人々」「無明と愛染 ( 戯曲 ) 」 和二十二年六月、新生社刊 ) を参照した。 「腕角カ ( 戯曲 ) 」

10. 谷崎潤一郎全集 月報

寺の庫裡を借りている。彼はとうとう女装を試みて徘徊し、寄妙も亦上乗とは云はれない。若しも所謂探偵物の作家が最後までタ な体験を得るのだが、ドイルの「四入の署名」や涙香の小説を読ネを明かさずに置いて読者を迷はせる事にのみ骨を折ったら、結 んでいる。 局探偵小説と云ふものは行き詰まるより外はあるまい。読者の意 「白昼鬼語」には、活動写真と探偵小説を溺愛する男が登場し、表に出ようとして途方もなく奇抜な事件や人物を織り込めば織り ポ 1 の「黄金虫」に出てくる暗号記法が利用されているし、殺人込むほど、何処かに必ず無理が出来自然の人情に遠くなり、それ 現場を覗きに出掛ける二人が、「ホルムスにワットソン」を気取だけ実感が薄くなるから、たとひ意表に出たにしてからが凄みも るところがある。 なければ面白味もなく、なんだ馬鹿々々しいと云ふことになる」 また「金と銀」では、ライバルの一方が他の芸術家を殺そうと われわれが本格推理小説と呼んでいる定石的なもの、すなわち 思案し、犯罪の痕跡を留めないよう頭をひねる。その際ホルムス謎があって推理があり、意外な解決で終るという型にはまったも のような、デュ。ハ ンのような名探偵がいたら、彼らを欺けるかどので、最後の意外性だけを狙っておれば、早晩行き詰まるといっ うかと検討し、ドイルが探偵の資格として挙げた三つの要素を記 ている。このことは内外の論者によって繰り返し説かれているこ しているし、「金色の死」にポーの影響のあることは前に述べた とであるが、ここに推理小説の宿命があるともいえよう。 通りで、ポーとドイルへの傾倒はいちじるし、 この公式を打破しようと、いろいろな傾向が起ったけれども、 明治四十年代の推理小説界は、はなはだ低調であったから、翻ポーの創始した形式がやはりもっとも効果的で、他はそれに含ま 訳や日本製品が創作意欲をかきたてたはずがない。潤一郎の場合れている要素の一部を犠牲にしている恰好である。だからこの形 は英文小説の渉猟が、ポー ドイルを発見させたのだろう。涙香式に執着をもてばもつほど、新しいトリックに窮して、読者の興 の世界を思い浮べる主人公も登場してはいるが、海外正統派の作味や驚きは減じつつある。 品に早くから親しんだことが、推理小説の早い時代におけるよき 潤一郎はさらに「単に読者の意表に出ると云ふだけなら、奇抜 理解者となったのである。 な筋を考へないでも、書きゃう一つで実は案外たやすいのであ その潤一郎の推理小説観を窺うには、「春寒」 ( 昭和五年四月る」と述べ、また「今の探偵小説は一面に於いて奇抜な思ひっき 「新青年」 ) が便利である。これは推理作家で、「新青年」の編集を競ふと同時に、一面に於いては愚にも付かない事を書きゃう一 者であった渡辺温が、潤一郎を原稿依頼のため訪ね、その帰途事つで勿体をつけてゐるのがある。中には相当にカラクリが巧く出 故死に遭ったのを偲んだ文章だが、いわばこの奇禍が機縁となっ来たのもあるが、要するに婦女子を欺くものに過ぎない」ともい っている。 て、「新青年」誌上に「武州公秘話」が連載されたのであった。 この文章の中ほどに外国の作品の例を引いているが、「今の探 「味噌の味喩臭きは何とかと云ふが、探偵小説の探偵小説臭いの 4