兄 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 月報
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1. 谷崎潤一郎全集 月報

小言幸兵衛の処もなくなりました。かえって私の方が兄に その通りでもあるけれど、二人の兄の真反対のような性格の相 ブラジルの姉の病気に長兄ずけずけ不遜なことを申したりして、あとで悔んだりしておりま 違もあって、次兄は伊勢と気が合い が送金してやらないと怒って、当時私は次兄の家から大学に通っす。 ていましたが、 直ぐ長兄のもとへ行け、お前の面倒は見ないこと長兄は黙っていましたが、見ないような顔をしながら、人の事 良貝しました。長兄も次兄のこの突然を良く見抜いている点もありました。次兄は真面目な善良な人で になった、といわれて私は豸ー すが、若い時は少々、おっちょこちょいな、江戸っ子的幄薄さも の仕打ちに憤慨して、二人の兄は絶交してしまうのでした。 この間四年位あって次兄の先妻が亡くなった折、長兄が早速弔間ありました。次兄の家から大学に通っていた時代のことですが、 私は長兄から紺サージのダブルの背広を貰い、それを初めて着て、 に行って和解することになったのであります。 長兄がお金を出してくれる時は、黙ってズバリとくれるのです家を出ました。何処かへ遊びに行くところでした。初めて背広を が、次兄は冗談ながらも「ああ損をした、終平に xx 円とられた、着た処ですし、少し私にはダブダプだったので、横丁の往来で尻 貧乏になってしまった」とか、なんとか言わすには置かないのでの方を振りかえって、恰好を見ていました。すると外出から戻っ す。こっちは唯でも済まなく思っている処を、そんな風にいわれて来た次兄が、「ちえ、よせやい、お古の背広なんか着やがって 気取ったって始まるかい ! 」、あたかも、そんな言葉でも吐きそ るので、同じ貰うにしても、何だか有難味が薄れるのです。 長兄が次兄と絶交する時の手紙の中で、弟妹が、次兄を嫌ってうな、さもさも軽蔑したような眼顔で、苦笑しながら通りすぎて よそお いると兄嫁から聞いていると書いていますが、私は別に次兄を嫌いきました。若い私は平然とした顔を装って、すれ違いましたが、 カッと取りのばせました。今の言葉でいえば頭へ来たとでもいう っていた訳ではないのです。唯小言幸兵衛の処は閉ロでしたが、 その外には別に何もないのです。強いて言えば、そのころ次兄は処です。こんな場合、長兄だったら表情一つ変えないで通り過ぎ ただろうと思います。 夫婦仲が険悪になっていて、家庭の中が冷たくなっていたのが、 若かった私につらかっただけなのです。 長兄も世間的な出世を喜ぶような処もありまして、精二も文学 長兄は再参申しましたように、日常弟妹に冗談一つ言う人では部長になったとか、文博になったとかいって喜んでいたこともあ なかったので、その点次兄の方が組しやすいというか、親しみやりました。終戦も近くなり、空襲が始まったころでした。私は、 すい処があったのです。でも末姉は直接世話になった事がないせもういっ会えるかという気持ちで、熱海へ長兄を見舞ったことが いか、今でもなぜか少しく次兄をきゅうくつに感じているようでありましたが、その折兄が、「お前秀男 ( 次兄の長男 ) の事を聞 たかい ? 」と静かに言いました。そのころ、静岡辺で軍隊にと す。やはり性格の相違かも知れません。 られていた秀男が、なんでも反戦的な言辞を書いた日記を上官に 今は次兄も老人となり、性格も落着いて枯れてきて、やさしく

2. 谷崎潤一郎全集 月報

じ 0 と日向ば「こをしている老人夫妻がありました。まるで尉と六段などの三部合奏をしたこともあります。辻潤氏はどういうも 姥のようでした。人生の終末に温泉ホテルに来て、ひっそりと、 のか私を可愛がってくれました。 つつましやかに坐っている老夫婦は美しいな、と感動しました。 十八歳の時だったと思いますから、私は翌年の晩春の頃だった 八月末、鮎子の学校が始まるので兄を残して私達は先きに帰宅ろうと思うのですが、風邪らしい様子で寝込んだ処、三十九度も しました。私にとって、塩原以来の楽しいことでした。 熱が出て咳が出るし、胸が痛みました。岡本の駅の近くに人間田 秋になって、緑のものもだんだん枯れて、十一月も末になると、 さんというクリスチャンの謹厳な内科の先生が居られて、往診し いくら暑い関西でも、うす霜が降りて朝は吐く息が白く見えます。て貰うと急性肋膜炎で、入院した方がよいとの事です。私は入院 そんな朝、私は門前の石段に立「て、いつまでも通行人を眺めては厭だと言い張りました。何故かと云われて答えるのが恥しか「 いました。働きに出る人、学校に通う子供達、人々は自分の営みたのです。便器を使用して他人の世話になるのが何とも恥しいか に、それぞれ励んでいます。 自分はどうすればよいのだろう らなのです。医者は、かすかに笑って、そんなことは直ぐ馴れま か、学校にも行かず、病気も良くも悪くもならない様だ。ただ兄す。皆初めは誰しも、そう思うことですが : というのでした。 の脛を噛「ている、怠者の無能者にすぎない。心細く、次第に憂とうとう前にちょ「とお話した甲南病人ホームというサナトリ 欝はつのってくるばかりです。 アムに入院しました。絶対安静ということで、遂に小用は妥協し その年の大晦日でした。私は何もしない自分が、たまらなく不ましたが、どうしても出ないからと、私は高熱の中を自分で立上 愉快でした。十七歳もこれで終るのだ。庭に一面に生えている雑「て用便に苦しい中を強情に通いました。病院は水道路を東 ~ 数 草を引き抜いて、掃除をしようと思い立ちました。朝からタ方暗町行「た小高い処にありました。大阪の回生病院の院長さんが個 くなるまで、黙々と草取りをやりました。暗くなっても終らない 人的に経営している胸の病人専門で、菊地先生という謹厳なクリ ので、窓から電気スタンドのコードを延ばして来て外を照らして、スチャンの老紳士がその院長で、ささやかなチャベルもありまし やっと仕事を終えました。何かしたような気がして、兄嫁にねぎたが、別に強制的にお祈りをするわけでもありませんでした。 らわれて、ちょっと嬉しくなりました。 兄は入院手続の事で一度病院の医務室の方へ立寄ってくれまし ドストエフスキーに夢中にな「たり、兄の処へ寄贈されてくるたが、病室には一度も来てくれませんでした。兄嫁は時折御馳走 雑誌にばかり読み耽「ていました。飽きるとバイオリンを鳴らすを携えて見舞に来てくれました。 のですが、長く弾いていると、どうやら胸が痛む程ではないが、 私は病院で久保田という五つ年長の親友を得ました。それから 響いて気持が悪くなるのでした。その頃から辻潤氏が時折見えるⅡという三つ年上の女性に恋心を抱きました。アララギに投稿し ようになり、兄嫁の三味線と私の下手なバイオリンと氏の尺八で、ている人でした。万葉を読んでいた私は直ぐに話合うようになり ふけ じよう

3. 谷崎潤一郎全集 月報

みづくろ 教えるのも言葉でなく、音と手でした。そしてまた鏡で身繕いしと東光さんが「フン、生意気にヴィブラートなんか入れるんだ ひそ て帰って行くのです : ね ! 」と中され、私は心中私かに ( 貴方なんかに聞かせてるんで どな 前回に申しました兄の家の上の角の家はロシア人の家で、ター 子さんに聞いて貰うんだ ! ) と怒鳴っていたもので おおおんな ニアさんという大女の娘さんがいて、この人の恋人が日本の医学す。 生か何かで、よく私は手紙の封筒の上書きを書かせられました。 この子さんは従兄弟のもファンでして、二人は子さんに 一度、この人がどうしても一緒に伊勢佐木町まで散歩しようと云好意を持っているので共通の話題で仲良しでした。前回書きまし われて閉ロしました。大きなお乳をした外人などと連れ立って行たが、山手の焼跡の家を見に行ったのは、このと二人で、東京 く気になれないのです。そして、この人は牛肉のような臭いがし からやっと開通した無蓋の貨車に乗っていったのでした。この時 ました。日本語の会話は出来ますし、片カナくらいは読めるのではもう、兄の家族は全部無事で杉並のの家に厄介になっていた した。 のです。ですから焼跡が見たいことと、子さんがどうしている その頃有田ドラッグというものが方々にありまして、主に花柳か、案じて出掛けたのでした。焼跡からは銀製の小さい花瓶の、 病の薬か何かを売っていて、蠍入形で病菌に虫喰まれた顏だの手しかも底が抜けていて、変色し、歪んだものを記念に拾って来ま だの足だのの模型がウインド 1 に出ているのです。その看板をした。 「アリタド冫ッグ ! 」などと人中で大きな声で読むのには参りま 今東光さんが、本牧の思い出を書いて居られますが、その中で カメラマンのヘン リー小谷さんの奥様の事を語って、兄と東光氏 さんすく 本牧のアレキセイは将軍の子でしたからよかったのですが、こ と花柳章太郎の三氏がこの婦人のファンで、三人とも三竦みだっ の娘さんには降参しました。彼女は沢庵漬が好きで、よく家に来たと書いて居られます。その事実は知りませんが、私は尊敬する て喰べました。タクワンの好きな外人に始めて会いました。 程、憧れていました。美人という程の方ではなかったと思います 「港の人々」を読み直してみて、″子さんのこと〃という一章が、 東光さんも「まことに麗しい感じの好い御方だった」と申さ を見て、あの頃の子さんのことをいろいろ思い出しました。私れていますが、私は初めて日本の奥様で暖いデリケートなものを はどうやら子さんが好きだったようです。 持った、そのくせ大変理智的な方を見たと思いました。ある時、 その頃私は自己流でヴァイオリンを弾いていました。ある晩、例の如く南京街に兄一家とこの奥様と支那料理を喰べた後だった 食堂の片隅で音を出していると、子さんが見え、続いて今東光と思いますが、兄嫁が私の靴下を買ってくれるために店屋に這人 氏が這入って来ました。子さんが何か弾いて、というものだか った折、サイズが判らなかったのです。そうしたらへンリー夫人 ら、私は勇を鼓してグノーのアヴ = ・マリアを弾きました。するが握拳を靴下の上に置いて、爪先から踵までを拳の上に持って来 こ むしば にぎりこぶし かかと 8

4. 谷崎潤一郎全集 月報

1 ターが回転して、その音は夜中でもやまず、うるさいほどでし繋がれた梅の木の周りをぐるぐる一日中廻って吠えるだけで、食 た。当時電気代が高かったと見えて、兄は遂に悲鳴をあげること事をやる入一人だけを許すが、あとは近付くと噛むので返しまし になりました。 これで実用にならぬ部屋もあるけれど新旧合 た。それからテッというシェ。ハ ド、、ツビーというェアテール せて八つの部屋になったわけです。忘れていました。北側の裏鬥 ( これは先方から付いて来た名 ) 、市 ( これは妹尾家から来たワイ つぶら の近く、玄関の畳敷の裏側に三畳程のじいやさんの部屋と、石川 ャーヘア、もじゃもじゃの毛の中から円な瞳を輝やかせていた ) 。 のおばあさんの部屋も出来たのでした。 この時の家族構成は兄夫婦、鮎子、石川のおばあさん、私のす 明須・大 正昭和三代文壇小史第 ぐ上の姉、私、です。 女中さんは二人の時も、三人の時もあったような気がします。 一番大勢の時は、じいやさんも、竹村という書生さんもいました。 旧世代の退位と命脈 もっともこの人は通いでした。ここに移ったのは昭和三年ですが、 何月だったかは忘れました。私はそのころ二年ばかり京都に下宿 三好行雄 して、学校に行っていたので記憶が途切れ途切れです。 兄は地唄を習い出しました。菊原琴治さんという盲目の師匠で 昭和二年七月二十四日に芥川龍之介が自裁し、それから正確に した。この方は琴も大変上手で、たまには何かをねだって特別弾一年後、昭和三年七月二十三日に葛西善蔵が病歿した。芥川の死 いて貰うのでした。そんな時、そっと音を立てないように席を離が知識階級の動揺と敗北の象徴だったとすれば、葛西の死は、同 れ、皆庭に出て、思い思いに、梅の木の蔭などに蹲って耳をすま時代がいちはやく評したように〈日本の芸術家と芸術の達し得る せて聞き人るのでした。また鮎子に地唄舞いを習わせ、妹尾さん最後の壁〉 ( 間宮茂輔「葛西善蔵氏の歩いた道」 ) の崩壊とひとび の夫人や、根津夫人御姉妹なども見えました。そんな時にはお胼との眼に映じた。作家のある生き方の死に通じるものとして受取 られ、芥川の死とあわせて、そこに市民文学の弔鐘を聞こうとす 子のある二階の板敷の間が使われたのです。 猫が五匹、犬も三匹も居りました。猫は最初のミイとスズ ( べる人も多かった。 ルシャ系の純白長毛 ) 、チ「【ウ ( イギリス種の鼈甲猫、これは仔昭和三年といえば、わが国のプロレタリア文学運動がひとつの 猫から来ました。敏捷で、食事の時、兄が高く箸で支えている刺転換期にさしかかった年である。大正末期の福本イズムの導入以 身を、二尺も飛上って奪いました ) 、コチ ( チ「一ウと同系の雑種 ) 、後、理論闘争と組織の分裂をくりかえしてきた運動のジグザグな 歩みにようやく戦線統一の気運が生まれ、この年の三月、マルク ギン ( 妹尾家から来ました ) 。犬も最初コリーを飼いましたが、 べっこう 住

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ですが、その折「あんたなど読者がなくなり、執筆出来なくなるのような道で、明るい土地柄でした。そしてどこかゆったりして ぞ ! 」という意味の発言があって、今でいう吊し上げを喰ったと いました ( もっとも戦時中から戦後にかけて、すっかり変ってし いうことです。兄はそんな時世が来れば教師でもすると答えたと、 まった処もありますが・ : ・ : ) 。 誰かに聞いたことがあります。 阪神間に移って横浜の人にも再会しました。一人は子さんで 兄は、大阪に出たり、神戸に行ったりして、相変らず御馳走をす。神戸元町の本庄という写真屋に勤めていました。もう一人は 喰べていたようです。 マラバー夫人です。この人はミスターに死別して、神戸の山手で ろれつ ある冬の晩、呂律が廻らなくなって帰宅しました。神戸で河豚素人下宿を始めていました。 を喰べて来たのだという話で、兄嫁は心配して「当ったらどうす 私は本山村の家で、マラバー夫人が連れてきて親友となった、 べっちゃく るんです ! 」となじると、「何、ふぐで死ぬなんて何千人に一人 別役憲夫君と相識りました。これはマラ。ハー夫人の前夫の長男で だ、そんなことなら伝染病で死ぬのと同じことだ ! 」と言訳をい した。寺田寅彦先生の甥に当るのです。五尺八寸もある長身でし って苦笑していました。関西は肉も野菜もお魚も、食物は何によ たが、大変デリケートな人でした。高知の人ですが、長じて学生 らずおいしいのでした。兄にとって口腹の楽しみがいや増したことして上京する折、母と再会したのです。戦時中檀一雄さんが満 とだろうと思います。お酒も灘が控えています。支那料理も神戸州でこの別役君と親しくなったと伺い懐しく思ったことです。 の第一楼はおいしかったし、後では、大阪川口の天仙閣という家 は本当においしかったものです。たまに私も連れていって貰いま 三代文壇小史題 したが、身体中に栄養が充ちわたるような気がしました。 そういえば、神戸はまた横浜ともちょっと趣きは違うのですけ れど、矢張り港町のエキゾチズムがあり、元町という処もあるで 東と西 はありませんか。 トーア・ホテルのあるトーアロードなども坂が あって、横浜の山手に似通っていました。 阪急電車というのは客種のよい電車でした。阪神の方は海岸に 近く、いわば下町人種というか庶民的で、荷物を持込む商人など 関東大震災の直後、谷崎潤一郎とおなじように、東京の焦土を が多いのでした。阪急の方は高級住宅が多いためか、品がよく、 嫌って関西に逃れた作家は二、三にとどまらない。江戸後期の文 スピードも早く、駅なども一つ一つ個性があ「て、春は桜並木、化東漸以来はじめて、上方に文学の花がひらいたといえばむろん 夏には夾竹桃の花咲く美しい駅などもありました。一体に白い砂大袈裟すぎるし、嘘にもなるが、それにしても谷崎のいわゆる 明治・大 正・昭和

6. 谷崎潤一郎全集 月報

迄以上充実して続刊する」と新潮社は発表した。これは灰になっ も英語の先生ではなく、その方の妹さん二人の住んで居られた家 た小出版社はつぶれるかもしれないから、申合わせて一ヶ月休刊でした。そして兄嫁が習った洋食は、おせいさんという、ミス・ しようという動きに対する挑戦であった。 マラバー家のアマさんのコックさんからでした。地形や方角など だが読み物すべてを灰にした市民は、飢えたるもののように新も不正確のようですが、これは訂正する程の必要もないかと思い 刊雑誌をむさぼり読んだ。店頭の雑誌はほとんど売切れとなり、省略しておきます。 「改造」は再版したがまた売切れた。「中央公論」も「改造」も十山手の家で思い出すことを、もう少しお話しますと、先ずサロ 一月号から増刷したことを覚えている。雑誌の再版が売切れると ン ( ? ) です。映画関係の方々が集まって、その頃チャップリン の いうことは、これまでに例のない出来事であった。 これは彼自身は登場しない作品でしたが、評判になった ( 元「改造」編集長 ) 「巴里の女性」というのがありましたが、その技巧やら演出の巧 みさを当時の映画青年諸氏が集まって熱心に語ったりして居たも のです ( 今は大家の内田吐夢さんもお仲間だったと思います ) 。 何でも、田舎の若い恋人同士が打合せて、駅で待合せて。ハリに駈 落する筈なのに、相手が来ないので、電話はどこ ? と聞くと、 駅員が切符売場の小窓から、唯片手だけ出してその場所を教える という、ワンカットなのですが、その手の表情が素ばらしく旨い 谷崎終平 という話で、皆な熱い思いをして議論していたようです。 それから、鮎子にピアノを教えに見えたロシアの白系亡命貴族 私は前回で、本牧から山手の家の事をお話したのですが、記憶のお嬢さんの事です。私はなるほど貴族とはこんなものだろうと が悪いうえに、何分にも半世紀近い以前の事を思い出すままに書思いました。美しいし上品だし、何か優しさの中に犯し難い威厳 いているので、怪しい処があります。兄に「港の人々」という随が備わっていました。二十歳になってなかったと思います。たし 筆がありますが、それに精しく出て居ります。前回にそれを読んかゴドウイスキーの弟子で、間もなくアメリカに渡るのだという でから書けばよかったのですが、前の小型の全集にあるのを忘れことでした。 て居て、見ないで書いたのです。 この人は玄関を這入ると決まって、廊下に掛けてある鏡で帽子 それで、二、 三、訂正しますと、本牧の裏のお宅は吉田さんでなど、身嗜みを直してから客間に這人るのでした。兄の不在の折 なく、岡田さんでしたし、山手の家というのは、マラバ ーさんでは、会話の出来る者がいないので、殆ど唖の会話でした。鮎子に ・回想の兄・潤一郎■ 8 横浜から関西へ みだしな

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えるのも、主として女性であった。女性がねだると、痛む手を我と書いております。 この場合年齢は数え年であります。 慢してまでも色紙に筆を染めたことさえあったらしい。谷崎から 私にも四歳の記憶があるのであります。 再々著書を送られて、そんな具合に人情家になった谷崎を想像し なぜ、はっきり四歳といえるかというと、私のひと廻り年上だ て、私は寧ろ淋しく思った。 った姉 ( 園子 ) が亡くなったのが数え年十六歳でありまして、す 最後に私の見ていた谷崎を率直に云わせて貰う。生来谷崎は涙ると十二歳下の私は四歳となるからです。 もろい感傷家であったが、それを他人に見せないよう、平素心掛 兄のものに『異端者の悲しみ』というのがありますが、これは けていたのだ。谷崎のこの痩我慢を知「ている者は恐らく夫人と入物が戯画化され誇張されてはおりますが、写実的な作品であり 私ぐらいなものだろう。金銭のことでも、決して谷崎は入情すく ます。そこには、この姉の死が扱われており、その時の家が神保 の憐みから他人を助けるようなことはしなか「た。この点では谷町なのであります。 ( 作品では八丁堀とな 0 ている。 ) 崎は荷風によく似ていた。己の欲する生活を、誰れ彼れに遠慮す 次兄 ( 精 (l) の話では南神保町でもだいぶ今川小路寄りであっ ることもなく、平然と送り通した人であった。 たというのですが、私にはどうも今の岩波の売店の附近に思われ ( 英文学者・元日本大学教授 ) るのです。そのころ、というのは明治の末から大正になろうとす る時代ですが、ランプが電気に代りつつあった時分です。とにか 、神保町の交叉点に近い、九段に向って左側にコウモリ傘屋が ありました。そのころの商店には、縦に長い看板が吊されてある とか、横長の文字看板が屋根に置かれたりしていました。または キセル 煙管を売る家では、何十倍も大きな煙管の作り物を看板にしたり、 遠くから一見してその商売がわかるような看板を出している所も ありました。 谷崎終平 この洋傘屋の場合は、真赤な布地に白いペラベラの横襞をつけ 私の育った時代の下町と、したがって私の一家を、おばろげな たコウモリ傘を上から順に、次第に大型になるように何個か吊り めじるし がら、子供の眼を通してお話してみようと思います。 下げたものが目標の看板でした。傘屋から交叉点に向って二、三 兄はその『幼少時代』で「一般に人は五歳の時あたりからや、軒い「たところに、わずかな板塀があり、裏露地の入口がありま 明瞭な記憶を持ち始めるのが普通のやうで、四歳の時のことを覚した。 この板塀の左側に庇のついた木枠があって、その中に えてゐると云ふ人もないことはないが、さう多くはない。 写真が飾ってありました。それは附近に写真屋があったのだった ■回想の兄・潤一郎・ 神保町から箱崎町へ

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ではなく、別荘として建てたので、今度は広い、木ロも上等な家ん ( 兄嫁の養母 ) 、私と女中さんでした。鮎子は聖公会花園幼稚 このお婆さんと一緒に通いました。 でした。まず、さいかち通りを海の方へ曲るとちょいと引込んで園というのに、 大きな石柱二つに板扉の門があり、その中の左側は竹柴垣で、そ兄は、その頃、大正活映という映画会社に関係して、女優にな しやくやく の中はたくさん芍薬の植えてある花畑でした。右側が私どもの玄ったせい子女史 ( 葉山三千子 ) と横浜の撮影所に通って留守勝ち 関口でした。玉じゃりなどが敷かれていて、両側は戸袋を兼ねたでした。「アマチュア倶楽部」の撮影が始まっていたのでしよう。 たたき この映画で思い出すのは、或日、皆で横浜の撮影所に行った 壁で二枚のガラス戸の箝った格子戸をあけると、玄関の三和上で した。階下が五間あり、二階は二間でした ( 手前の八畳が客間で、ことです。なんでも南京街から山手の方へ上った処だったと思い 奥は兄の書斎 ) 。表庭はガランとしていて、広いけれど庭木は殆ます。実は劇中劇の太功記十段目の「タ顔棚」の場面で、見物席 その時「初菊」に扮 どないのです。庭の中央に唯一本、枝をたくさん拡げた大きな蜜のエキストラに狩り出されたのでした。 柑の木がありました。ところが、実はお隣の家のものらしく、蜜した岡田時彦のういういしい女形ぶりの美しさは忘れられません。 ませがき 柑の根本から真直に三尺位の丸竹の籬垣が庭の中央を国境のようわれわれは見物人なのです。撮影の見物人でもありましたが、見 に両断していました。つまり四角の折紙を中央から折目をつけた物席の見物人だったのです。兄嫁と鮎子と私は並んで坐りました。 ように蜜柑を中心に同型の庭が二つあるわけで、向側の外れは同監督の槧原トーマスさんと撮影技師、兄などが、何かヒソヒソと じく高さ四、五尺の竹柴垣で、中央の籬垣さえなければ倍の庭と打合せをしています。やがてカメラが私たちの前に、でんと据付 いきなり栗原さんが、カメラの横手から けられました。すると、 見られるもので、庭は南面しているので陽当りがよい上に、縁側 がまた一間幅なので、ガラス戸の中で縁側に居ると温室のようで長身痩軅の長い腕を二本突出したと思うと、鮎子に向って「小父 さんが連れて行きますぞ ! 」と驚かしたのです。何が始まるのか した。家は東西に長く、北側に裏庭があり、お稲荷さんがあり、 と、無邪気に見ていたわれわれは驚きました。鮎子は「わーツ」 ここには椿や芙蓉の木がありました。女中部屋と湯殿、台所は北 と泣き叫んで、母親の胸にすがり付きました。私はおかしさと鮎 側に突出ていました。 海岸までは二、三町あったかと思いますが、夜、波の荒い時は子が気の毒で、クシャクシャな顔をして笑ったのでした。すかさ 地響がして、潮騒の音がしました。小田原の海は砂浜からすぐ荒ずカメラはジーツと音がして、この有様を撮り収めてしまったの つまりは「現れ出でたる : : : 」で竹藪から出て来た光 い小砂利になって、いきなり深くなるので、波乗りが出来るようです。 な、かなり泳ぎに自信のある人しか海には這入れません。その頃秀が、きっと睨んで決まる処で、見物席の子供が恐ろしさに泣き 出す想定で、挿人のワンカットに使われたのです。栗原さんは、 は小田原の鰤は美味で、地引網が毎日ありました。 いかにも申訳なさそうに「ごめんなさい ! 」「ごめんなさいね ! 」 この時分の家族は、兄夫婦と鮎子、せい子女史、石川のお婆さ ぶり まっすぐ はず まち

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ると兄は「あんな奴に似ているものか ! 」というので、私も負け がて夫人が出て来られて「この人はじーじ ( 長兄の事です。兄も ずに同様なことを人に言いました。病気をしたせいか、私は十六、大層この孫を可愛が「ていました ) の弟、じーじに似ているでし 七で丈はストップしてしまい、四十前後から太りだして、今では よう」と申されると、この神経質そうな、利ロそうな子供は、私 長兄に似ていると人に言われるようになりましたが、菊池寛先生を見もしないで、本から顔を上げずに一言「似てない ! 」と言い に初対面した折 ( 私の三十四、五の時でしたが ) 、菊池先生が「君ました。子供は良く見ているものだと思いました。 は潤一郎にも精二にも似てないね」という意味のことを申されま 前にもちょっと書きましたが、長兄と次兄は甚だ性格が違いま ぜいたく したが、どうやら独立出来たように私は大変我が意を得たりと思す。長兄は派手好みですが、次兄は地味です。長兄は贅沢で美食 いました。最近次兄の処の次男から聞いた話なのですが、井伏鱒家です。次兄は質素で、不味ものでも平気です。長兄は趣味の広 二さんが「精二が一番変っていて、次にまともなのが潤一郎で、 い方でしたが、次兄は実用的です。例えば長兄はステッキでも太 終平が一番まともだ」という意味のことをお「しや「たそうです。い銀や象牙の彫刻を施したにぎりのものを選び、次兄は細身の飾 ( 井伏先生間違りのないもの、または洋傘を仕込んだャポな、雨の折便利といっ っていたら、ごた実用品です。長兄は若し財布から拾円札を一枚抜き取っても知 ふくさ めん下さい らないでいるでしようし、次兄はキチンと財布を袱紗に包んで持 新た聞きな話なの っていましたし、外出から戻ると机の上に銭を残らずあけて、一 銭に至るまでキチンと勘定をして検べていました。長兄は季節に / 阪で。 ) 大 これも最近のよって掛軸を変えたりしましたが、次兄の家では欄間に四十年以 月 こと、私は松子上も同じものが掲げられています。長兄はたくさん本を集めまし 年 夫入に要件があたが、次兄は机の上に二、三冊の本をキチンと置いているだけで こんな風に書けばきりがありません。 , 。「て赤坂の観世す。 彦家に伺いました。次兄の次は三男の得三、その次が前に書きました十六歳で亡く なった園子、次が今プラジルで仕合せにくらしている伊勢子、次 菅観世家のまだ小 学校前の長男桂が私の直ぐ上の姉末子です。 携男君が居て、長長兄、次兄、ブラジルの姉、末姉とも、最初の結婚に失敗して います。 椅子で本を読ん でいました。や 一体に兄弟の多い家は二手に別れるのが多いように思いますが、 ます ふたて

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ました。もっとも、それにはこの人が兄妹で人院していて、治療したようです。 費を安くして貰っている関係から、患者の配膳などの手伝いをし やがて兄一家は北畑から、岡本の駅より西の方の好文園二号と ていて、男の部屋にも自由に這入って来たからです。本を貸借り いう処に引越すことになるのですが、どうもこれがいつの事だっ こゝ、はっきり思い出せないのです。 しているうちに、本の中に手紙を挿んで意見を交し合うようにな その辺の処はもう少し ったのです。私は五、六人同居の大部屋に居たのですが、隣の個先きでゆっくり考えてみましよう。 室に居るという私と同年配の少年を、このⅡが特別世話を焼い 好文園というのは、たしか大阪の「伊藤萬」の経営でテニス・ ているのです。私は羨望に耐えませんでした。処がこの少年があコートもある、大小何軒かの家々が、整然と纏まって、一区劃を る雨の夜、病院を抜け出して投身自殺をしてしまいました。私は なしている処でした。桜並木などもありましたし、庭には名実共 Ⅱを悪魔と罵って絶交しました。処が、実は思い切れないので、 に梅の木もありました。後に兄が初めて普請をした、梅ヶ谷と、 毎日無言で哀れな恰好でいたのです。病院の先生も心配して、何う処は「岡本の梅林」といわれた処のそばでしたが、梅も桜も多 ・というばかりで とか云ってくれるのですが、放っといて下さい い処でした。確かその頃岡本に来られた芥川龍之介さんの俳句に ねぎばたけ 兄嫁が心配して、一日許可を貰って神戸に連れて行ってくれまし「岡本や花散りそそぐ葱畑」というのがあったと思います。 た。それはマラバー夫人が下宿人を置いている家でした。日本人阪急の岡本の駅を出て南に向うと両側は桜並木でした。そこを も居たのですが、その中で美しい英国の婦人がピアノを弾いてく東西の道路まで下って来て右へ折れると路の両側は家々が並んで れました。それに私は痛く感激しました。 どうやら話が脱線ますが、その裏は畑です。そんな処を通って、また阪急のガート を越して北上すると好文園でした。好文園でも二度かわりました 浩 が、最初の家はだらだら坂を上って行くと道の中頃の右側にあり ました。門構えで玄関に通じた小路の右脇に満天星が柴垣に沿っ 影 て植えてありました。柴垣を右に這人れば庭で、左は勝手口に通 て じていました。 本 二階家で、玄関を上れば三畳程の畳があって、奥座敷に通じる 月 襖と二階に上る階段がありました。奥座敷は八畳と六畳が、鍵の 年 手になった縁側に沿って、庭に面して並び、六畳の奥に三畳程の 正 女中部屋があって、台所に通じていました。二階はすぐ、階段を 大 上った左手だけが洋間で、ここが兄の書斎でした。上海に遊んで ののし どうだん