足、遊宴などの思ひ出と結び着き、作者に取ってなっかしいものか残っている。 ばかりである。就中『吉野葛』を書くに就いては、大阪の妹尾健「天井裏のやうな低い二階のある家が両側に詰まってゐる。歩き 太郎氏、大和上市の樋口氏、飯貝村の尾上氏、吉野桜花壇の辰巳ながら薄暗い格子の奥を覗いて見ると、田舎家にはお定まりの、 裏口まで土間が通ってゐて、その土間の入り口に、屋号や姓名を 氏等の好意と配慮とを煩はしたところが頗る多い 此の書の装幀は作者自身の好みに成るものだが、函、表紙、見返白く染め抜いた紺の暖簾を吊ってゐるのが多い。 ( 略 ) 孰れも表 まぐち し、屏、中扉等の紙は、悉く『吉野葛』の中に出て来る大和の国の構へは押し潰したやうに軒が垂れ、間口が狭いが、暖簾の向う 栖村の手ずきの紙を用ひた。此れは専ら樋口喜三氏の斡旋に依るに中庭の樹立ちがちらついて、離れ家なぞのあるのも見える。」 とあるが、まったくそのままの家の造りを見るにつけ、その細 のである。」 と記してある。樋口氏の手紙によれば、吉野紙は、氏の祖先が密に描写されているのに驚いた。また、嬉しかったのは、古いう 開発して一村の職業に広めたものだそうである。その樋口氏の生どん屋兼菓子屋が一軒あったが、先生はどうやらこの店に入って、 うどんか草餅を食べたのではないかと思えたことである。という 家は、上市では最も古い家で、材木商だったそうだが、現在では うどん のは、作品中に、「饂飩屋のガラスの箱の中にある饂飩の玉まで 荒物屋に代変りしている。 上市の町並も表造りは、最近式の商家らしく変えた家が多いけが鮮やかである。」とあるのと、「中には階上から川底へ針金の架 れども、「吉野葛」の中に描かれているような家も、まだいくら線を渡し、それへバケツを通して、綱でスルスルと水を汲み上げ るやうにしたのもある。」という仕掛けは、この家の台所にあっ たのだというからである。 年 だが、現在はその家の裏の川縁には、国道六九号線が通るよう 学芻 郎昭 になり、木材や砂利を積んだトラックが疾走してくるばかりでな 、遠く大台ヶ原山と山上ヶ岳の谷間をぬけて、和歌山県の新宮 谷 市までの。ハスも通うようになっている。 むたの あ に 吉野川は下流の下市のへんに椿橋、その上に美吉野橋 ( 六田橋 ) 、 狐 桜橋と架っているが、昔はいずれも渡しがあったわけだ。桜橋 ( 上市と飯貝を結ぶ ) から見る妹山と背山のコントラストが、大 栖 野変美しく、樋口氏から聞いたそのイメージと歌舞伎とが結びつい て、まず谷崎先生を、吉野に遊ばしたにちがいない気がしてきた。
そればかりでなく、ある激しい気魄の一貫するものがあって、私 は、読みすすむうちに、これは谷崎さんがその生涯の重要な節々 についての遺言のような気持で書いたものだな、と考えた。 この随筆の冒頭に「我といふ人の心はたゞひとりわれより外に 知る人はなし」という歌が載せられている。これは多分谷崎潤一 郎の作品だろうと田 5 う。前にどこかに発表されたものか、それと 谷崎潤一郎が自分を語った文章の中で、昭和三十八年に「中央もこの随筆にはじめて現われたものか、私には分らない。谷崎さ 公論」に連載した「雪後庵夜話」がもっとも力のこもったもののんのものは一通り読んでいるが、記憶の悪い私は傍から忘れるか ように思われる。 らである。いずれにしても、この歌は素晴らしい。日本の近代短 この文章は、松歌の歌いぶりの枠の中にあるものとは思われず、百人一首の中に 郎子夫人と知り合っおけば落ちつきのよいような歌である。歌として美事であるばか 潤た事情や、その後りでなく、谷崎潤一郎という、悪魔主義とか、変態心理の作家と りし の結婚までの経過か言われ、あの数々の数奇な物語を書いた人が、七十八歳という とな ゝルなどから書き起さ晩年になって、自己の心懐を托した言葉として、これ以上の表現 」たる は知れており、よくこはない。その思想表現がそのまま「新古今」あたりの歌風の中に 。心に の外こまで打ちあけてきちんと納まっていることに私は感歎した。 , 一いれ書く気になった、 その「雪後庵夜話」の中でも、最も迫力のあるのは、松子夫人 〔」とわ 我と思われるほど直との結婚までの事情のいきさつであるが、これは多分、後世にい 截なものであるが、ろいろ伝説や風聞となって悪質なものに転化することを夫人のた わこ穹かて に一叩 公中公 「我といふ人の心」 伊藤整 月報 2 昭和れ年月 〈普及版第一一巻付録〉 「我といふ人の心」 目次 放浪時代の谷崎 回想の兄・潤一郎 1 三代文壇小史 2 第二巻後記 三谷澤伊 好崎田藤 行終卓 雄平爾整 11 10 6 3 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
た。中間の板の間に二階に上る階段と便所があります。板の間の 時だけで殆ど昼間は使いません。夏の暑いのには閉ロしました。 北側は一段高くなっていて、畳敷で西側は板戸の押人れで南側は ですから屋根裏も人れて母屋は四間しかありませんでした。 ン」′ノ月′ト宀う・ そこで、東京の偕楽園から棟梁が来て、兄の設計で、日本と支廊下でした。北側の東の陽に梯子段があって二階に通じていまし この梯子段を上って行くと上に板戸があって、中からし 那との合ノ子の様な家が西側に新築されることになりました。 ーそれは南北に長い矩形の二階建で南面した方は厚い白壁でお城か開かない様に厳重な桟があり、そこが兄の書斎でした。北側も のようでした。その白壁を切り抜いて細い桟が支那風な模様で這白壁で、お城の様な太い桟のはいった明り取りがありました。っ 人っている障子窓がありました。中は檜木の七、八寸位の幅があまり下の座敷の上が兄の書斎です。兄は北側に机を置いてました。 る板敷でした。この部屋の広さは十二畳位ででもありましたろう この部屋で変っているのは南側でした。上下に仕切られていて、 か。そして西側に石畳の廊下があり、その外側も支那風の桟のは下は、全部朱塗りで、鉄の鐶の付いた簟笥が並んでいたことです。 まったガラス戸でした。そして南側の窓の近くに四角い大きな炉上は襖の押人れです。箪笥が切れた右側に出人口があり、ここも ここを出ると下と同 が切ってあって、その周囲を四角く七、八寸の板がテーブルの様厳重に鍵が掛かる様になっていました。 に囲んでいて、お茶などを置く台なのです。主客はそれを囲んでじ中の板の間になっていて東側に湯殿があり、これはタイル張り 椅子に坐るのです。そしてこの部屋の北西の隅には竹細工の支那です。次に南側の板の間の部屋になるのですが、この境の襖が変 風の、小屋の中にべッドを置いた様な感じの、小寝室がありまし っていました。二枚なのですが一枚が一間半位ある大きなもので した。そして大きな引手に紫の総が付いていました。板敷の間は て ガランとして何もなく、唯一つ大きなお子がありました。これ ー巻 は、何とかいう奈良のその道の名人が、わざわざ時代の古びを出 第 の す造り方をしたものだということで、中の仏像は四尺位のものに 台座が付いているので、殆ど等身大近く見えました。何でも弘仁 岡 期 ( ? ) の木彫で、準国宝ぐらいの値打ちのあるものだとの話で 一庫谷しこが、止〕しいことに、鼻が欠けていました。 月 そして、この家は全部電気を使っていました。二つある風呂も、 月 年年炉の火も小さな径四、五寸のヒーターが四つ位、石綿の灰の中に 昭和埋めてありました。水道がないので井戸水を使用していましたが、 これもモーターで吸上げているので、水道栓をひねると、すぐモ さん 、 ) 0 、じ、さ
翌日、私は姉川の古戦場から「盲目物語」の舞台でもある小谷 「この風が吹くと、明日も天気はいいですよ」 と船員は、甲板掃除をしながら、明日の好天を楽しそうに予言城址 ~ と廻「た。姉川の古戦場から、小谷山はすぐ間近く、八キ ロぐらいしか離れていない。しかも四百五十五メートルというが していた 長浜は、近江の浅井氏を滅ばした後に、木下藤吉郎秀吉が居城平地に一山だけが聳えているので、山容もなかなか見事で美しい すぐ左手には、信長軍が対陣した虎御前山があり、この方はずつ した土地である。今はその城の跡にも、これという物が残ってい ない。佐和山城同様に、徳川の天下にな「たため、旧勢力の遺物と低い。私は最初、姉川の南岸の信長軍陣地跡の竜ケ鼻から、 村橋を渡って、野村の部落に入った。「天亀庚午古戦場」の碑が はなるべく残さないように、 破壊したものであろう。 現在の湖畔の石垣も、大正期に公園にするために築いたものだあり、その傍らに「姉川戦死者之碑」が建「ている。現在浅井町 と、土地の古老がわざわざ念を入れて教えてくれた。しかも見晴野村とな「ていて、田圃の中の村落だが、落着いた感じの家々が らしのいい公園 ( 城曲りくねった道の両側に並び、その家の前にはきれいな水が流れ 、址 ) の中ほどに、白ていた。私は、「この土地が、わが " 父祖発祥の地 , なんだな」 み 5 堊三階建の国民宿舎と回顧しながら、小谷山 ~ と急いだ。 小谷山は南側から見ると、相当急峻に見えるが、ちょうど、中 「長浜豊公荘」なる 央部の所が台地になっていて、そこに本城があったという。湖畔 ものが竣工した。 の方から見ると、南側の斜面の中ほどが平地になっていて、城址 せめて「初昔」の 中にあるように、湖だったことがよく分る。だから、頂上まで登る必要はないわけだ。 庭岸の水辺の波打際に ( 頂上には大嶽城という一城郭があったそうだが。 ) 山麓の小谷寺 の左手の坂を登る。追手口の左が出丸跡である。一時間ほど木立 園かけて、園内一面の ~ 市見事な桜の樹を、その茂みの下の、物寂しい道を登ると、小谷城址にたどり着く。 。ど彦のままにしておいて 「盲目物語」のお市の方のことが思い出されてくる。お市の方と くれたらよかったの幼い三人の姉妹が落ちて行った場所は、本丸の東にある桜馬場の に、と違和感をもっ下の須賀谷だと、教えてもらった。その急な崖の下は、今は水田 て威圧してくる「豊になっているが、奥深く切り込んだ断崖である。女の身で、お市 公荘」を、私は見やの方がよくこの深い急な崖を這い降りたものだと、寒気がするほ ったものである。 どであった。
かぬ残念さと口惜しさに、情けなくなったが、先生もその無情さである。頼綱はのちに、女婿である定家の嗣子為家にこの山荘を 譲ったが、為家が晩年に阿仏尼と共に暮していた中院山荘の跡で に、ひどく腹を立てて、当局を非難され、慨嘆されていた。 なかのいんえんりあん 先生はたいてい二尊院の前から愛宕参道に出て、中院の厭離庵あろう。現に庵の東に、為家墓と称するものがある。 で、持参の弁当をつかわれたという。厭離庵は現在は尼寺で、通定家の「明月記」から推しても、時雨亭は二尊院の裏山の中腹 あたりと見られているけれども、それはともあれ、先生には由緒 りから人った竹藪の小径の奥にひっそりと静まりかえっている。 本堂入口には、わずらわしいので拝観はやめてほしいと婉曲に拒ある静寂な休憩所だったろうと思われる。 絶した意味の和歌が貼り出されていて、一般の訪間者は中へは入先生は嵯蛾では、遍照寺山の影を写す広沢池の桜の風情を愛さ れてくれないのだが、先生は前からの知りあいなので、尼さんのれていた。広沢池の長堤も、最近では自動車の往復が激しく、な 出してくれるおかなか落着いて桜見物を楽しめないけれども、「細雪」の中に、 撮茶で、中食をと女主人公たちをまじえた美しい描写がある。 筆られたのである。 「 : : : : ・約東を違へず送って来てくれた中に素晴らしいのが一枚 余談になるが、あった。それは此の桜の樹の下に、幸子と悦子とが彳みながら池 この厭離庵は藤の面に見入ってゐる後姿を、さゞ波立った水を背景に撮ったもの 原定家の小倉山で、何気なく眺めてゐる母子の恍惚とした様子、悦子の友禅の袂 荘の跡ともいっ の模様に散りか、る花の風情までが、逝く春を詠歎する心持をエ て、定家の時雨まずに現はしてゐた。以来彼女たちは、花時になるときっと此の 一雨亭とか〃硯の池のほとりへ来、此の桜の樹の下に立って水の面をみつめること の水〃という井戸を忘れず、且その姿を写真に撮ることを怠らないのであったが、 や定家塚などが幸子は又、池に沿うた道端の垣根の中に、見事な椿の樹があって しんく 嵯あるけれども、毎年真紅の花をつけることを覚えてゐて、必ずその垣根のもとへ むしろここは定も立ち寄るのであった。」 花見といえば、やはり「細雪」の中に出てくる平安神宮の紅枝 家が百人一首を 障子に書いてや垂桜を、一番先生が愛好されたというべきであろう。 った宇都宮頼綱花は紅色がかって、艶美とでも形容すべきもので、垂れる枝先 の山荘跡のようを支え竹が何本も伸びており、遠目には美しい花笠をつけたよう だれ べにし
山田博士は、当時、主上が女御更衣の住む御殿に行くことはあ 五音節の短く切れる言い方である。泣きじゃくりながら祖母の前 おえっ と書き人れなさったとのことで、わたくしは同じ源氏 に立「た十歳の女の子が、祖母の慰めと救いとを期待して、嗚咽りえない、 の中からとぎれとぎれに言。たことばだ。ところが予期に反して物語の絵合の巻で主上が弘徽殿や梅壷に渡御されたことや、枕冊 祖母が動じない。それで遺憾の意を強調しようとして、「ふせご子に一条天皇が登花殿に定子中宮を訪われた例など用意して行「 たのだが、山田博士は、弘徽殿などと桐壷 ( 淑景舎 ) とでは格が の中にこめたりつるものを」と、こちらは一口に言う。 この二文のあいだの遺憾の意を直観されて「折角私が大切にし違おう、とお「しやる。それはその通りで、淑景舎に主上が渡御 された確実な例は用意していなかったので、大いに困却した。 て」という原文にない語を谷崎さんは補われたのではなかったか。 若い者の困っている顔を見て可哀想に思われたのか、山田博士 とすれば、この語を原文にないからとて削られたことは、よ、 ことであ「たか、どうか。そして削除の理由の中に、わたしの大は最後には許して下さ「たので大喜びし、暑い夏の日中であ「た、 真面目の反論に対する顧慮が少しでもあ「たなら、と思い、以後仙台市の中央で郵便局を捜すと、広い百メートル道路であろうか、 その向こうに小さく見えるのがそれだと教えられて、あえぎあえ とくに意見具申に気を使うようになった。 聞くところによると、山田博士の書き入れがあると、必ず多少ぎ辿りつき、熱海の谷崎先生に報告の電報を打「た。 この事を谷崎先生はおぼえていられて、拙著「源氏物語評釈」 なり手を人れられたそうである。桐壷の巻「あまたの御かたみ \ を過ぎさせ給ひて、ひまなき御ま ~ 渡りに、人の御心を尽くし給に椽筆を請うたとき、書きつけてドさ「たのも、もう五年前のこ と、さいわいこの七月に五十四帖の評釈、十二巻を出しおえた所 ふも、げにことわりと見えたり」の「ひまなき御まへ渡り」を旧 この小文を命ぜられたのも「さきの世のちぎり」であろうか。 訳では更衣の伺候とするが、タイプ原稿では主上のお通りになおに、 ( 大阪女子大学教授・国文学 ) してあった。 それが印刷され刊行されたのを見ると、もとの更衣伺候説に戻 っている。おどろいて伺うと、山田博士がタイプ原稿に長い書き 入れをして来られたので、ということであった。 全巻完了してから、改訂版が出るときに、若干の訂正を申し出 た中に、この所があった。谷崎さんは、山田博士の承認があれば とおっしやる。 何時でもなおすけれども、わたしからは言えない、 それではわたくしが参りましよう、と、当時仙台にお住まいの山 田博士のお宅に参上した。 入江相政 谷崎さんと私との縁、一方通行的な、片思いみたいなものは、 中学二、三年、大正のおわりごろからのことだが、謦咳に接した 日本語への愛着
それだけ彼にと「て文学上の影響はなか「たことは窺えるし、又が起「た。尤もこの詩は小学校時代の旧友を憶い、その美しい友 習得については取り立てての材料もない。唯二入の忘れられない愛をうた「たもので、問題のところは谷崎の幻想なのだというこ こわ 記憶は「にせさん」が恐くって通学の毎夜毎夜が苦の種であ「た とが判明して事件は無事治まったが、この旧友とは君のことだと ことである。その頃書生仲間では「にせさん」がはやり、美少年専ら噂が高いという話しであ「た。そういわれれば思いあたるこ 「ちごさん」を追い廻していた。これは薩摩から伝わったという とはある、問題の二行の様なことは馬鹿げた話で事実無根である ことで、青年が可愛いい少年をつかまえていたずらをするのだと が、私は銀座の或る洋品店のウインドーで舶来の高級置時計を見 教えられていた。事実は血気の青年が少年を追い廻し、その恐が 付け、あまりの美しさに魅せられて写生をした。それは時計の両 るのを面白が「たのだろうが、幼ない子供としてはそれが迚も恐脇にエンゼルが体を横たえて寄り添うた金色燦然たる工芸品で、 いことであった。そんなに恐いことなら谷崎にしても私にしても 私は心を込めて金泥で描出し、これが学友間に好評を博し、殊に 親に話して何とか助けてもらえばいいのに子供心に有勝ちな物お谷崎は激賞したが彼は共れを忘れずにいて、作詩の際、感興の趣 じから打明けもせず、ただお互に恐がり合っていたのであった。 くままに、いに浮んだ幻想をうたい上げたに相違ない。私の知る彼 授業が終る頃になる午後五時から六時にかけて彼等は窓の外から には生れ付きの官能から、又幼少時の生活環境からして現実に幻 内部をのぞき、お互にロ笛で何やら合図をする、そうすると二人想を架構する性癖が強く、この詩がその適例と云える。後年文壇 は身も世もなく恐怖におびえ、どうして帰りの難関を突破しよう に華かに登場、自然主義全盛の時代に新風を吹き込み、センセー かそのことのみ考える、「にせさん」が狙らったのは谷崎と私と ションを捲き起した先見の明は彼の文壇動向の達観によるとして もう一人山岡という少年であったが、三人共連絡をとり通学中と も、これは後々のことで、この詩に見てもハッキリ云えることだ うとうつかまえられずに済んだのであった。 が、生れ付き空想と幻想との資質が彼の胸中に常に沈潜していた 小学校を卒業して谷崎は府立一中、笹沼は府立三中、私は麻布ことは明瞭で、それが「刺青」となり、続く作品に織り込まれ、 中学と別れ別れになり、自然往き来も疎く、殊に私は住居が転々文豪とも称せられ、大谷崎とも呼ばれる様にな「たのだと思う。 し、四年以後は麻布の江原塾生となったので交渉は殆ど中絶した 中学課程を了えて谷崎は一高、笹沼は蔵前高工電気科、私は一 が、谷崎の噂は折にふれ耳にした。或る時、谷崎が学友会誌に発ッ橋と又々学校は別々とな「たが、谷崎が東大、笹沼は卒業、私 表した詩が間題となり、右派学生が鉄拳制裁を加える相談が寄りは専攻部 ~ 進級した頃、何が動機であ「たか記憶はないが三人の 寄り起「ているという、これは只事でないと考え伝手を求めて事行き来は又々繁くなり、遂には一週中二、三日、谷崎と私は笹沼 実をきくと、間題とな「ている詩の中に「君と寝たる床の中、ちの家に寝泊りすることが習慣とな「てしま「た。今から考えると、 ぎる情はふかくして」という一一行がある、これが間題の種で騒動笹沼は結婚して間もないのによくも新夫入をほ「たらかしにし、 とて 4
は、勤め先の週刊誌に連載小説を頼んでほしいというわけなのだの春」である。 が、長篇の執筆中であり、大変評判だからといって、依頼に行く「私たちは平安神宮や嵯蛾の桜とこ、の踊りを見ないことには春 のも、 いささか気がひけた。 が来たやうに感じない癖がついてゐるので、戦争中と病気の時と しかし、お目にかかると、ちょうど昼寝しておられたのを起さを除いて、この行事を欠かしたことがない。」 れたところだというのに、あるいは昼寝のあとだったせいなのか と、書いてある。 ( こ、の踊りとは、都をどりをいう ) 大変上機嫌で迎えてくださって、久々の話につい時間をすごして嵯峨の花見コースは、天竜寺の前を過ぎてすぐ左に曲り、欝蒼 ののみや しまった。しかも連載小説のほうは、思いがけなくすらすらと話とした竹林の中を行くと、前方に野宮神社がすけて見えてくる。 いっきのみや が進み、 黒木の鳥居と小柴垣に囲まれた小さな社で、平安時代の斎宮の 「今年は無理だが、来年ぐらいなら書いてもよろしい」 跡である。皇女が伊勢神宮に斎宮として奉仕される前に一年間 という承諾の返事をもらい、私はとびあがるほどの嬉しさで、 ここの野宮に籠って潔斎されたといわれる。その野宮神社の樹木 潺湲亭を辞した。その時の先生は、、 もままでになく動作が活漫で、や竹で覆われた薄暗い道をさらに行くと、山陰本線の踏切りに出、 大変元気に見受けられたのが、私を喜ばした原因の一つであった。それを越して再び欝蒼とした〃野宮竹〃の茂みの中を行くうち、 年譜を見ても、三十一年は執筆量が多い。前年から引続きの「幼急に前面カ 。、ヾッと明るく開ける。目をあげると、峰に赤松の生え 少時代」に、一年間にわたる「鍵」、それに「鴨東綺譚」 ( 六回た見なれた小倉山が、おだやかに裾をひき、山との間には田畑が 分 ) と、珍しく同時に二作を平行して執筆されている。 ひろびろとしていて、なんとも言えぬのどかな静けさに、「嵯俄 「新訳源氏完成後の三、四年、昭和卅、卅一、一一、 三の期間は老だな ! 」と思わすものがある。先生はその風景が好きで、嵯峨行 後に於いて私が最も健康を享受した時代であった。私は見るから きの楽しみの一つにされていたのである。 に丈夫らしく円々と肥え、『お年の割りに何と云ふ元気さであら そこから田舎道を歩いて、右手の去来の落柿舎にたどり着いて う。とても七十の御老人とは思はれません』と、会ふ人毎に皆び一休みされるのが習慣になっていたそうである。私も以前に つくりしたやうに云った。」 の道を見つけて、嵯蛾へ行くといつも、一人このコースをたどる と、「高血圧症の思ひ出」の中で述懐されているが、私が意外のを楽しみにしていたのだが、はからずも先生と同じだったのか なお元気さに驚いたのも、無理ではなかったわけである。この集と、嬉しいようなてれ臭いような思いをしたものである。 に収められている作品は、しこゞ オカってそのような良好な健康状態 ところが戦後、数年たって行ってみると、一瞬に開ける田畑の の下に執筆されたものばかりということになる。 一部に、府営・市営住宅がぎっしり建っており、小倉山の姿さえ その健康さをいかにも楽しそうに書いていられるのが、「老後遮られて全容を見ることが出来なくなっていた。取りかえしのつ
巻の予定だったが、実際には全十二巻となった。 昭和ニ十九年六十九歳 九月、「源氏物語の新訳を成し終へて」を執筆。「中央公論」 十一月号に発表。 十二月、『新訳』完結。なお、この『新訳』は、橘氏の『著 書総目録』によれば、番号は「第百五十三冊」である。 この『新訳』は、さまざまの形ででているので、以下、橘氏 の記録より抜粋して一表にする。刊行はすべて中央公論社。 〇第百六十二冊潤一郎新訳源氏物語全五巻愛蔵本昭和 三十年十月定価壱万五千円 〇第百六十五冊潤一郎新訳源氏物語全六巻絵入普及版 昭和三十一年五月定価二百五十円 〇第百七十三冊潤一郎新訳源氏物語全八巻新書判昭和 三十四年九月定価百八十円 〇第百八十四冊潤一郎訳源氏物語全五巻別巻一巻愛蔵版 昭和三十六年十月定価七百円 ( 注、この版の「序」で谷崎 さんは「もう新訳でもあるまいと思って新の字を省くことに した」と書いておられる。 ) 昭和三十九年七十九歳 十一月、『新々訳』全十巻別巻一巻の刊行始まる。巻一には 「新々訳源氏物語序」が書かれた。 昭和四十年八十歳 七月三十日死去。 十月、『新々訳』完結。『新々訳』はその後は今回の全集第二 十五巻以下四巻に始めて収められることになった。 『旧訳』には削除した部分があった。それについて、谷崎さんが 自身で記しておられる文章を並記しておこう。 〇正直を云ふと、此の原作の構想の中には、それをそのま、現 代に移植するのは穏当でないと思はれる部分があるので、私 はそこのところだけはきれいに削除してしまった。〔実際そ れは構想のほんの一部分なのであって、山田博士も既に指摘 してをられる通り、筋の根幹を成すものではなく、その悉く を抹殺し去っても、全体の物語の発展には殆ど影響がないと 云ってよく、分量から云へば、三千何百枚の中の五分にも達 しない。〕 ( 昭和十四年一月、『旧訳』の序 ) 〇私は飜訳の当初、此の原作の構想の中には現代に移植するの に穏当でない部分があることを認め、さう云ふところは削除 したのであるが、その後各方面からの注意などもあって、第 一稿の当時よりは削除の部分がや、増加する結果になったこ と、又、全く削除しない迄も表現の仕方に多少の手加減をす る箇所を生じたこと等を、お断りしなければならない。しか しさう云っても、それらは物語の発展にさう重大な影響を及 ばす程のものではなく、且その削除した部分なるものも全体 としては極めて僅少であって、「分量から云へば、三千何百 枚の中の五分にも達しない」と云ふ序文中の言葉は、矢張修 正する必要があるまいと思ふ。 ( 昭和十六年七月、『旧訳』の 奥書 ) 古典の源氏物語そのものまでも、皇室の尊厳を犯すという理由 で、焚書ならぬ、禁書にして、葬り去ろうという意見が、しきり
きつがれていたことも有名である。荷風もまた、谷崎潤一郎とお複する部分もあるが、各巻の刊行された年月を記しておく。 ( 私家版 ) 昭和 『細雪上卷』 細雪上卷 なじよ、つに、〈戦後〉を信じていたひとりといえよう。 中央公論社刊 昭和 『細雪上卷』 偏奇館を空襲で焼かれ、明石や岡山の旅舎に仮寓した荷風は昭 中央公論社刊 昭和 『細雪中卷』 細雪中卷 和二十年の八月十三日に、岡山県の勝山に疎開していた谷崎潤一 中央公論社刊 昭和 『細雪下卷』 郎を訪れている。焼け残りの全財産をカバンと風呂敷包の振分け細雪下卷 以上三巻が纏めて刊行されたのは昭和二十四年二月刊の「帙人 荷物にし、背広にカラーなしのワイシャッという風態だったとい う。しかし、その嚢中には「ひとりごと」以下の原稿があった。特製愛蔵本全三巻」および昭和二十四年五月刊の「上製再版全三 それを谷崎に托して、荷風は十五日に辞した。その日、太平洋戦巻ーであり、一冊本に収められたのは昭和二十四年十二月刊の 争が終るわけだが、谷崎が敗戦を知らされたのは、「ひとりごと」『細雪全』 ( いわゆる「縮刷版」 ) である。 本全集所収の本文は、「谷崎潤一郎文庫」 ( 中央公論社刊 ) の の原稿を読みふけっている途中であった ( 「疎開日記」 ) 。 「細雪」はようやく〈完成発表に差支なき環境〉にめぐりあった「細雪」上・中・下三巻 ( 昭和二十八年九月刊 ) から作られた新 のである。昭和二十一年以降、上・中巻が相次いで刊行され、下書判全集の本文を底本とし、初出誌および前掲初版本三巻、さら に「縮刷版」と校合した。異同の個所はすべて原稿を参照した。 巻の原稿は、京都南禅寺下河原町の潺湲亭や南禅寺塔頭真乗院で 書かれた。「婦人公論」に連載して局を結ぶのは、昭和二十三年 の十月である。最初の発表から完結まで、まる六年の歳月が過ぎ ■刊行室から たことになる。この六年の時間は、〈暗い谷間〉に耐えて自己の ▽第十五回配本・第十五巻をお届けいたします。毎日出版文化賞および朝 世界をまもったひとりの作家が、文学的抵抗の記念碑を刻む時間 日文化賞を授賞した「細雪」上・中・下三巻を一挙に収録いたしました。 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) でもあった。 ▽本年八月に刊行されました野口武彦氏の『谷崎潤一郎論』が第五回亀井 勝一郎賞を受けました。生涯賭けて永遠の女性を描きつづけた谷崎文学の 美とメタェロティシズムの本質を解き明し、芸術的長寿を全うした文豪の 全貌を捉えた本格的谷崎論を併せて御味読いただければと存じます。 第十五巻後記 ▽次回第十六巻は一月十日に配本になります。昭和二十一年八月から昭和 第十五巻には昭和十八年一月から昭和二十三年十月にわた「て二十六年十一月までに発表された左記十三篇が収められます。 「磯田多佳女のこと」「同窓の人々」「『潺湲亭』のことその他」「都わすれ 断続的に発表された「細雪」上。中・下三巻を収める。前回まで の記」「越冬記」「月と狂言師」「京洛その折々」「少將滋幹の母」「 < 夫人 の例と違って、雑誌に発表された部分と単行本として発表されたの手紙」「疎開日記」「乳野物語」「小野篁妹に戀する事」「忘れ得ぬ日の記 部分と人りまじっているので、題扉の裏に銘記した発表年月と重鐐」 23 22 21 19 12 2 6