たちが、いすれもかっては日本留学生であり、かれらの教養時代能になりつつある当時の中国で、なんら懸念するところなく逸楽 に、日本の近代文学の作品に親しむ機会があ「たので、自然、日の日を回想する田漢の勇気に驚嘆したものであ「た。しかし今日 本文壇にもはや揺ぎない地歩を築いていた谷崎潤一郎を敬愛するからみれば、まだ一九五三年ころは、中国もはるかにおおらかで 気もちが、十分に深かったことをあげることができよう。ましてあったことを思わずにはいられない。 創造社は、最初は芸術至上主義の旗幟をかかげていた文学者の団 田漢も今回の文化大革命では、もののみごとに顛覆させられて 体であってみれば、潤一郎にいっそうの親愛感をもったことは、 しまったが、かれのゆきかたとしては、むしろ当然すぎることで なおさらのことであったろう。 あったろう。 近代中国文学は、その発足において、日本の近代文学の影響を 潤一郎をはじめとして、大正の文学者たちの胸裡に往来する中 うけることが深かったことは、文学研究会においても、また創造国は、中世中国とそして新時代中国との二つであったが、その本 社においても、ひとしく知られていることであるが、当時そうし筋は中世のよさにあ「た。そして若々しい新しい中国の心音に、 た文学的資質に恵まれた中国の青年たちが、笈を負うて、はるば快い未来の楽しさを夢みていたことであったろう。しかしそれは る日本に遊学してくるものが少くなか「た。たとえば前記の欧陽け「して今日のように一切の古さを拒否して、確然たる断層を設 予倩は、中国新劇の開祖ともいうべき人物であるが、これは新派けるものとは、まったく異質のものであって、おそらく古くから の藤沢浅次郎の俳優学校に学んだ特異な存在であった。 いいならわされている温古知新の中国へのなっかしみであったこ ( 慶応義塾大学教授・中国文学 ) 大正の文学者たちは、中世的な中国の逞しさに、直接触れると とにまちがいはないようである。 ともに、またこういう新時代の心音にも耳をすますことを忘れな かった。古い中国の美と新しい中国の夢とを、ともに迎える心を もって、親しく訪中の旅へ上っていった。 谷崎文学雑感 これは余談になるが、一九五三年、わたくしは安倍能成先生た ちとともに、中共に招かれて久しぶりに中国を訪れた。 高橋義孝 その際、中国作家協会の招宴で、わたくしはたまたま田漢と卓 を同じくした。田漢はわたくしに向って、往年日本にいたときの この巻の月報に一文を寄せるために、また改めてこの巻に収録 ことを、いかにもなっかしげに語り、村松稍風の近況などをたずされる作品の若干、その他の作品を読んでみたが、以前のように ねるのであった。そしてかれの談は、稍風とともに流連荒亡した 割り切ったものの言い方の出来ないことにまず気がつく。纏まっ ことなどに及んだので、わたくしは、すべて革命の教条主義が万たものは何一つないけれども、私も私なりに谷崎さんの作品につ
むしろしばしば耽美の精神に発するものであることを見おとしてただそのことばが、あまりにもしずかであったり、幽かな光をた たえていたりするとき、気ぜわなわれわれは、ややもするとこれ はならないであろう。 わたくしは隠逸という古いことばが、文人趣味の一般通念としをごく単純に、世捨人のそれとみあやまっていることが多い て考えられてきたことを、かならずしも全般的なあやまりとはみ 隱逸と耽美は、ひとつのものの表裏にほかならない。ただそれ ないまでも、一方的に、隠逸の心だけをもって、文人趣味のすべ が静に示されるか、それとも動に示されるかのちがいはあるにし たするものである。 てを尽したものとみることには不賛成である。なんとなれば逸ても、たどってゆけば結局は一に ということばの内容こそ、耽美に異るものではないからである。 潤一郎も龍之介も春夫も、その文学は動に発して、耽美を追求 陶替に発し、した。その意味で中国は大きくかれらにのしかかっていたとみて にこ、つ」つ、よカフつ、つ 曽がれ、やがて 当時中国には、また村田孜郎とか、井上紅梅というような、い 真山民等宋代わゆる〃中国に溺れる人たち〃が多く在住していた。そしてそう 夫 春詩人に流れて いう人たちの書いたものが、逞しく中世そのものを生かし続けて 一佐い「た隠逸の いる中国人の生活感情を、ほとんど驚異にちかい新鮮な味わいを 氏詩情を、もしもって、いかに日本人の空想を刺激したことであったか。 一心を細かくし大正の文学者たちは、そういう中国に触れ、そういう中国の感 て味うならば、覚を満喫したのであ「た。これはとても今日からは考えられない 」それはけ「しことであろう。 →」て世捨人のそ そういう中世が生きている一方、新しい中国の胎動が、刻一刻 や れでないこと とうごいていた事実をも、われわれは見おとしてはなるまい。そ み の 行 に気づくであして訪中の文学者たちは、そういう新文化の心音を、耳さとく聴 旅 国ろう。かれらきとってきた。 は耽美に徹し 谷崎潤一郎が、郭沫若、田漢、欧陽予倩等、中国の新文学の選 景 た、はげしい手たちと、交わりを訂したのは、大正十五年の第二回の訪中の際 であった。かれが主としてこうした創造社の文学者たちと交遊関 粥心をもってい るものである。係にあったという理由のひとっとしては、こうした中国の文学者 , ーに = 第を、ン 0
その第一回のまとめとして、翌大正八年眷、「蘇州紀行」を書 いうべき詩情を生んだ、ひとつのうつくしい妣の国を訪れるとい もている力も 、まわたくしの蔵となっている蘇州図は、そのとき う田 5 慕に似たものがあったといえよう。それはちょうどヨーロッ 購求されたものか、それとも第二回の中国旅行の際に入手された ハの詩人文人たちが、しばしばギリシャ、ローマの地を訪れ、文 ものか、残念なことについこれを聞きもらしてしまった。い まに明の源泉を掬んで、その詩嚢を肥した動機と、ほぼ軌を一にする しては知るによしないことである。 ものがあったといってもよい わたくしはこの蘇州風景を、朝夕眺めくらして、ここに四十年大正年間といえば、一九一一年の辛亥革命を経て、中国の文壇 ちかい歳月を送り迎えてきた。そしてこの図に対してつねに思う にもまた華々しい文学革命がおこり、続いて一九一九年の五四運 ことは、大正年間の日本の文学者たちが、中国について、いかに動の疾風怒濤時代を迎えるといったように、新文化が、みずみず その想思をめぐらし、 いかに中国を摂取したかということである。しく実りはじめた時代であったとはいえ、社会一般の状態は、ま 谷崎のほかに、芥川龍之介、佐藤春夫等、みないずれも中国に さに中阯そのものであり、その中世の靄のなかに、旧文化は古い 遊び、それぞれ紀行文学をのこしている。いまこうして潤一郎、時代の燦めきを、依然としてのこしていた。 龍之介、春夫と列挙しただけでも、これがひとつの系列をなして、 大正の文学者たちが訪れた中国、そしてかれらが得た中国への なにかおのずからわれわれの胸懐に、中国という古い国の幻影が、情感は、大勢としては中世が低迷し、そして新しい文化が、よう かれらに共通した映像をうっしとらせたことを感じることができやくいぶこうとしているその最中の印象によって規定されたもの 2 な , レ亠まいカ といってよかった。 その映像はかならずしも後年中国にわたった文学者や画人たち もともと潤一郎といい、龍之介といい、春夫とい 、すべて明 のそれと、共通したものが絶無とはいわないまでも、またその趣治から大正へかけての教養人であって、その教養の根柢には、深 きを、まったく同じくしたものでもなかった。いわんや兵馬侘偬い東洋的文人趣味がひそんでいた。その東洋的文人趣味が、直接 を告げるにいたった昭和十二年以後、大陸に遊ぶものが激増して中国に触れ、その入情に際会して、 いっそう深められないはずは からとは、その渡航の意図も感激も、まったく異ったものとしてなかった。 あらわれた。さらにこの二十年、中国の変貌とともに、かの地を 一口に東洋的文人趣味といえば、人はただちに琴祺書画を連想 訪れたものが、もつばら混迷に終始し、混濁低迷の印象を得て、 するであろう。琴棋書画や文房古玩の類は、これもまた文人趣味 その整理に苦しんでいるのとは、雲泥の相違があることは、、う のひとつのあらわれにはちがいない。そして潤一郎も龍之介も春 までもないことだ。 夫も、そういう意味の文房古玩に対するゆたかな文人趣味も、ひ 大正文入の訪中は、一言にして尽せば、日本の文学の母胎とも ととおりはもっていたとみてよい。しかし文人趣味の精神内容は、
それは蘇州閭門の風景である。水郷蘇州の石橋を、大官の行列 とおぼしき一行がわたってゆく。その行列の先頭に、警蹕の吏が 路傍の民を追いはらうありさまを描き、これがその画の中心であ り、これに配するに、蘇州の各商賈が、それぞれ商牌を掲げる情 景をもってし、殷賑の状なおまのあたりに視るごときものがある。 奥野信太郎 閭門といえば、瞿宗吉の剪燈新話におさめられた聯芳楼記によ って、その艶情麗趣は、はやくから人の知るところである。 いまからほとんど四十年近い昔のことになる。思えば青年客気 の勇に駆られて、わたくしは無謀にも、請われるままに、大先輩「これは谷崎潤一郎の中国みやげだが、記念に君に贈ることにす 佐藤春夫の中国訳詩集『車塵集』のために、かなり長文の序を書る。なんでも谷崎は、この辺でなかなか愉快な思出があ「たらし 、こ。詞藻に乏しく、情思の薄いこと、まことに恥ずべきものの いいながら画の一部を指して、わたくしに説 多い一文でありながら、黄ロの一青年がものしたこの拙文は、美佐藤春夫は、そう 明した 装の巻頭に麗々しく掲げられた。 いま読みかえしてみれば、その稚拙まことに穴でもあれば、は蘇州闖門は、わたくしにとっても曾遊の地である。芝居の衣裳 いりたいほどの悪文であるが、佐藤春夫は一言一句も改変するこをひさぐ店舗が、軒なみにならんでいるところであるが、その画 にはそれはみえていない。あるいは明代のころには、その地に芝 となく、全文をとってこれを用いた。まことに先輩の寛大これよ 居の衣裳屋が、のちのようにはなかったものかもしれない。 り過ぎたものはないといわなければなるまい 谷崎潤一郎は、大正七年の晩秋、三十三歳のおりと、それから そしてわたくしにその礼だといって、みごとな明代版画を、わ ざわざ朱色の額縁に入れて贈呈された。そのときの感激は、いま八年後、大正十五年初春、四十一歳のおりと、二回中国に遊んで にしてなお鮮やかなものを感じている。 公眥中公 大正文人と中国 月報 6 昭和年 4 月 〈普及版第六巻付録〉 目次 大正文人と中国 谷崎文学雑感 回想の兄・潤一郎 5 三代文壇小史 6 第六巻後記 奥野信太郎 : 高橋義孝・ : 4 谷崎終平 : ・ 7 三好行雄・ : 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
こよ、中国文化はあまりにも旧式であったし、それ以後 とのべているのは、まことに正しい評価であろう。たしかに政治それ以前ー ( 小説の時代ではあったが、ただ、日本の明治初期とちがっているは、日中間の政治状勢が険悪になる一方で、両国文人は、たがい のは、李大釗らによって、この年、北京にマルクス主義研究会がに相手を警戒せずにはいられなくなったからである。もちろん、 表面は有名な日本の小説家を歓迎する喜びにあふれているようで 組織されたことである。 大正十五年、八年ぶりに上海を訪れた谷崎氏は、中国では青年も、郭沫若たちは、すでにこの年の三月に「文学革命より革命文 文士芸術家の新しい運動が起りつつあり、日本の小説戯曲など、学へ」のスローガンの下に「創造月刊」を創刊しているくらいだ から、内心の緊張は並々ならぬものであったにちがいない。それ めばしいものは大がい彼らの手によって中国語に訳されていると だからこそ、斜橋徐家漁路一〇新少年影片公司で催された「文芸 いうニュースに驚かされている。武者小路実篤の「或る青年の 夢」を魯迅が訳了したのは大正九年であ。た。また周作入の名儀消寒会」の、午後二時からはじまり夜を徹した馬鹿騒ぎの記録が で『現代日本小説集』を出版したのは、大正十二年であった。厨貴重なのである。 女占師あり、剣術名人あり、音楽家あり、女優あり、「大地震 川白村の『苦悶の象徴』が出版されたのが大正十三年、同じく 『象牙の塔を出でて』が、やはり魯迅訳で大正十四年に出版され後の東京はどんな風になりましたか」と質問する退役の陸軍中将 ている。内山書店の紹介で、谷崎氏の面会した上海文化人の中で、あり、三味線もでる、琴もでる、日本語のでかんしょの合唱もで 現在でも有名なのは、郭沫若、欧陽予倩、田漢その他である。魯る、胴上げされて酔っ払い、人事不省におちいる、そのような色 迅が出席していないのは、当時は北京にあって教鞭をとっていた彩も音響も豊かな描写は、いかにも谷崎らしい。とにかくギラギ からである ( もっとも、この年の八月に魯迅は北京を去って、厦ラとあぶらぎった一夜の快楽のあと、現中国科学院長、郭沫若大 門大学に赴任しているが ) 。当時の上海は、郭沫若たちの創造社先生に酔後の介抱をしてもらった日本人は、谷崎氏のほかにはあ がめざましく活躍している、上海派の根拠地であった。魯迅たちるまい。しかし谷崎氏は青年文士たちの心中を、鋭くも見ぬいて いたようである。氏は次のように彼らの言葉を記録している。 の北京派は「莽原」「語絲」などの同人誌によって、上海派とは 「 : : : われ / \ の国では外国入が勝手にやって来て、われ / \ 対立していた。上海文人諸氏と親しく語りあった谷崎氏の見聞録 の利益も習慣も無視して、彼等自ら此の国の地面に都会を作り、 のなかに、魯迅の名があらわれないのは、おそらくそのためでは 工場を建てるんです。さうしてわれ / \ はそれを見ながら、ど あるまいか。 うすることも出来ないで蹈み蹴られて行くんです。此のわれ 「上海見聞録」も「上海交遊記」も、実に羨しいほど楽しげであ / 、の絶望的な、自滅するのをじーいッと待ってゐるやうな心 る。このように中国の青年文化人たちと、自由奔放につきあうと 持は、決して単なる政治問題や経済問題ではありません。日本 いうことは、それ以前にもそれ以後にも不可能なことであった。
目次 現代語訳の諸問題 賀静の霊 谷崎源氏年代記 2 第二十六巻後記 その第一は、谷崎さんの精神の内部における影響である。 『源氏』の飜訳をはじめる直前くらいの谷崎さんの内部は、作家 として非常に煮詰まっていた。ということは、文体が小説的描写 『谷崎源氏』についての感想 から、説話的叙述へと簡素化していて、初期の豊かな饒舌は影を ひそめ、一時はバルザックに比較されるほどだった、営養のいも 中村真一郎 時には悪趣味とさえ評された、谷崎潤一郎のごった煮的な魅力は、 戦前に谷崎潤一郎が『源氏物語』の現代訳をはじめたと聞いた ト説としては淡彩に過ぎるような、筆をつつしんだものに変って 時、私は一体、それが完訳となるのか、また果して完結するのだ来ていた。これは氏の文学的趣味が近代の複雑から中世の簡潔へ ろうかと怪しんだ。そして、いや、当の谷崎さん自身、仕上げると転じて行ったということで、氏自身、それを日本の伝統への復 自信も時間も根気もあるのだろうか、結局、面白い部分だけの凝帰と考えておられる気配があった。近代西欧小説のあの部厚くて った訳が発表になって終るのではなかろうか、などと思った。 4J い、つこし J 細まかい描写というものは、日本人の肌に合わない、 しかし、谷崎さんは持前のねばり強さで、とうとう数年かけて、らしかった。ところが『源氏』の世界への数年間の没頭は、いっ 完訳を完結した。これは驚くべきことで、この頃になって二、三 の間にか谷崎さんをもう一度、あの豊饒で精細な描写の文学の方 の作家がやはり『源氏』を飜訳する計画をたてているらしいが、 ~ 連れ戻すことにな「た。そういう意味では『源氏』は、いわゆ それももし谷崎さんが現にやってみせてくれていなかったら、やる「日本的」な簡素とか枯れたとかいうものではなく、中国や西 れるかどうかもっと躊躇することになったのだろうと考えられる。欧の散文物語の持つような、油っこい、どこまでも対象を追いっ この谷崎さんの『源氏』への没頭の数年間は、色々の副産物をめる執こさを特徴としている。 生んだものと思われるが、特に次の二つは、日本の文学にとって 谷崎さんの文学的趣味は、平安朝にまで遡行することで、もう 大きな意味を持っているように感じられる。 一度、逆に近代小説の描写に通ずる世界へ出ていたのだった。 中公集 月報跖昭和眄年Ⅱ月 〈普及版第二十六巻付録〉 『谷崎源氏』についての感想 社 中村真一郎 論央 7 、中 2 ・・サイデンステッカー・ : 3 ノ都橋 土田直鎮 = ・ 6 央京京 池田弥三郎 : ・ 9 中
あれだけ書いていながら、かせいだ金は片つばしから使ってしました。谷崎潤一郎でも下宿代をふみ倒すことがあるのかと思った う。だからいまだに税金というものを一文も払っていない。税金からだ。そのことを字野浩二に話すと、「谷崎ならそのくらいな の通知が来そうになると、下宿から下宿を転々と引っ越して歩い ことは平気でやるよ。ああ金使いが荒くっては」と笑っていた。 てはうまく逃げまわる。ところが本郷のどこかの下宿でとうとう しかし鴻の巣の出版記念会ではじめてあった谷崎潤一郎には、 税務署員にふみこまれた。そのときその若い税務官吏がーーあなそんなけはいなど全然見えない。服装もしゃんとしているし、毅 たの小説の収入は毎月百円ぐらいはおありですか、ときくと、谷然として人にたいするところは、まことにさっそうたるものがあ 崎はーーべらばうめ。たった百円ぐらいでメシがくえるか。人をる。とくに芥川龍之介と座甯を向い合わせにして一ばん上席にす ばかにするな と、どなりつけた。すると税務官吏はーーはあ。わらせたせいでもあるのか、ふたりがさかんに文学を論じあって そうですか。よくわかりました。じゃ月収三百円としておきます いる姿はまさに談論風発という感じがあって、とてもたのもしか といってたちどころに月収三百円で年収三千六百円という査った。 定をつけられて、さすがの谷崎もひどくよわった。年収三千六百 翌大正七年、谷崎潤一郎は中国旅行に出かけている。日本の流 円というと、当時の夏目漱石の朝日新聞の年俸と同じだった。と行作家で中国旅行に出かけたのは谷崎潤一郎がはじめてのように いう話をしたあとで、「べらばうめ ! 一月百円ぐらいでメシがおばえている。芥川も中国へいったが、谷崎のだいぶ後である。 くえるかい」と税務署をどなりつけたところは、じつに痛快だねそのとき谷崎は旅費を作るために中央公論や新小説からずいぶん といって宇野浩二がすっかりよろこんでいた。この頃の谷崎原稿料の前借をしたようだ。それでも足りなくって、春陽堂へ自 分の小説の版権まで売っている。 潤一郎は、彼の悪魔主義を地でいって、生活のなかに生かしてい たと考えられるふしがある。 私も春陽堂から短編小説集を出すことになっていたので、その 私の大学生時代には本郷の下宿同業組合では、正月になると前頃は日本橋通三丁目にあった店に立ちよると、ちょうど谷崎潤一 の年に長期にわたって下宿代を滞納して、そのまま逃げるか追い郎が版権売り渡しの交渉をしているところだった。 出されるかした男の名前を、ずらりとならべて大きく印刷した紙「でも、谷崎さん。版権だけはお売りにならない方がいいんじゃ を、玄関のよく眼につくところに張り出す習慣があった。 ないんですか。一たん手放したら、先にいってまた本をお出しに なるときでも、その分だけの印税はあなたの手にははいらないん その頃私は本郷の弥生町の坂の上にある不破という下宿にいた。 忘れもしない大正三年の正月のことである。不破の玄関にやはりですから、 : 私の方では、買えとおっしゃればよろこんでちょ うだいいたしますけど : : : 」 そういう紙が張り出された。見ると頭から二つめに谷崎潤一郎と いう名がちゃんと出ているではないか。それを見て私はびつくり 木呂子という番頭がしきりに版権を手放すことを惜しんでいる。
「僕もそう思ったが、両方参って来た」 彼は下の道で私たちは上の道だった。別れて墓前へ行くと、小 さかったしだれ桜が驚くほど大きくのびて水々しく繁っている。 東山の一部で、樹木のよく繁茂する上地だから、桜もずんずん伸 ロ松太郎 びるのだろう。お墓が小さいからこのままで行くとしまいにはし だれ桜の陰に包まれてしまいそうだ。先生の墓所はや。ばり寂の 七月の二日に京都へ行った。永田雅一母堂の葬儀参列の為めだ 「たが、同時に今年は先生の三回忌に当る。折から京都は連日の方で、うしろに可愛い数本の塔婆が立「ている。法然院の塔婆は 雨で、この日もどしゃ降りの雨だ「たが、法然院の先生のお墓 ~ 他の寺よりも小形で赤味のある木肌に気品ある文字で書かれ、ど お参りに行「た。雨の法然院はなかなか風情のある眺めで、濃いれもみんな同じ形に統一されて行儀よく並んでいる。 お墓が小さいので腰をおろしてしやがまないと拝んだ気がせず、 青葉が雨に濡れそばれて道の上へしたたるように美しい。妻と二 人で一本の借り傘をさしかけながら、墓所の小道を登「て行くと、白い小石を敷きつめた中で暫く合掌した。かなりひどい降りだが、 石碑の間から舟橋聖一夫妻の姿が見えた。目の悪い体でいながら此処の墓地は白小砂利が敷きつめてあ「て、いくら降「ても水を 吸い込んで靴は汚れない。しとどに濡れたしだれ桜と、気品ある 奥方の案内で先生の墓所へ参ったのだ。 お墓の前にしやがんでいると、「細雪」の中の人物になったよう 「思いは同じだね」 な気がする。平安神宮の紅しだれの美しさをめずる描写を、小さ と私 く此処へ写したような心地さえする。 「空と寂と二つのお墓のうちどっちなんだ」 先生が京都を好きになったのは大正十二年の関東大震災以後だ。 と舟橋氏 「僕も忘れてしま「たが、空が御先祖で、寂が御自分ではないの箱根で地震に合い、命からがら逃げ帰「て、一家ともども関西 ~ 公竺中公 プラトン社時代 月報加昭和年 8 月 〈普及版第十巻付録〉 か」 目次 川口松太郎 : 。フラトン社時代 「上海交遊記」時代の中国文壇武田泰淳・ : 4 谷崎終平・ : 回想の兄・潤一郎 9 三好行雄 : ・ 9 三代文壇小史川 .1 第十巻後記 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
少年たちを奴隷のごとく扱い、湯上りの足の爪を切らせたり : Urine を飲ませたり とある。その横文字は女学校のリーダー にまだなかったので、英和辞書をひくと〃尿〃とあったのにびつ くりした。 これが谷崎文学との出会いであり、長じてからもこの作家の作 品はまず読み落しなく単行本もだいたい揃えていた。そしてその 谷崎潤一郎 ! この名は生れながらに〃文豪〃の星を持ったよ作家に初めて会ったのは、昭和六年の初夏だった。その頃女性評 うな威風堂々として、そしてゆたかな抒情を含んだ名だったと思論家で作家でもあった三宅やす子夫人 ( 三宅艶子さんの母 ) は、 、つ 芥川龍之介も菊池寛も久米正雄も、けっして政治家や実私よりはるかに年長のひとだったが、若い私たちはこのひとに 業家には似合わず必ず文学者でなければならない気がする。 えて友だちつきあいだった。その夫人と共に京阪の旅に出て大阪 その谷崎潤一郎という名を私が活字で見覚えたのは女学校の一一一に滞在中、三宅夫人が当時阪神電鉄岡本の谷崎家を訪問したいと 年生の時だった。それは二番目の大きい兄が講読していた「スパ発議されたのに私は驚きおじけてしまった。ところが三宅夫人は ル」という歌や詩や小説の雑誌で戯曲「信西」を読んでからだっ この大作家と相識の間らしかったので、ついに私もその腰巾着と た。これが平治物語からのものともまだ知らない少女にはあまり なって伺うことになった。それにはその時の谷崎夫人は私もよく 感興もなかったのに、この新鮮な感じの文学雑誌に発表される作知っていた美しい婦人記者だった e 子さんであったせいもある 品はとても高級なものと思い込んでいたから、それで覚えている。 ( このひとはのち谷崎家を出られて、幸福な再婚をされた ) 。 けれどもそれからまもなく同じ作家の「少年」がやはりこの「ス その岡本の大きな谷崎邸で見たものは、中国から送らせたとい バル」に掲載されたら、私には一大驚異の妖しい世界に誘なわれう紫檀の大いなる寝台だった。これは先年刊行の谷崎松子夫人の たようにまったく夢見心地で幾度も読み返した。作中の美少女が『倚松庵の夢』にもしるされてあって、私は三十数年前の谷崎家 公眥中公 豊饒なる美的生活 吉屋信子 月報昭和年 1 月 〈普及版第二十八巻付録〉 目次 豊饒なる美的生活 谷崎と古典 「少将滋幹の母」から「新訳源氏物語」へ 谷崎源氏年代記 4 第二十八巻後記 田 野屋 弥 克甞信 郎朗 12 9 6 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
の人にはさう云ふ経験がないのだから、とてもお分りにならな質問された。私が「まあ、一枚千円ぐらいでしよう」と答えると、 いでせうが、此れがわれ / \ 青年の心をどれほど暗くしてゐる労働者出身の胡万春さんは「では、一月分の米代をかせぐには何 ことか。対外的の事件が起ると、学生たち迄が大騒ぎするのは枚原稿を書いたらよろしいか」と聞かれ、皆で首をあつめて考え ( 作家 ) そのためなんです」 たか、うまく答えることが出来なかった。 憂国の青年文士の、夜の更けるまで尽きようとしない言論を聞 きとって、谷崎氏は「私は一々尤もであると思った。仮りに両君 の観察に誤ったところがあるとしても、 ( 私はあるとは信じない ) 両君の胸を暗くしてゐる悩みそのものは、尊重しなければならな いものである」と、はっきりと書きとめている。 功徳林の精進料理をほめそやしているのも、私は嬉しかった。 たしかに中国の精進料理の技術は、魔術的な域にまで達していて、 谷崎終平 あれが日本に紹介されないのは残念だと思っている。 もう一つ参考になるのは、欧陽予倩の母親の大晦日の姿を眺め関東大震災が切掛けで長兄一家は関西に住むようになり、私は やったとき、氏が次のように感じ入っていることである。「田漢焼けなかった牛込弁天町の次兄の家から、早稲田中学に通って居 りました。三年生でした。 君へ送る手紙」に 「わたしは日本へ帰っても、もう父もなく母もありません。さ そのうちに、私は風邪を引いたのですが、いつまでたっても微 うして日本にはかう云ふ楽しい年越しの夜もありません。どう熱がとれないのです。結局肺尖カタルだったのです。 かお邪魔でせうけれども、此の遠くからやって来た一人の旅人兄達の相談の結果、学業を休んで、関西の方が気候もよいし、 に、あなたを『お母さん』と呼ばして下さい」 と、僕は空気もよいからということで、私は再び長兄一家と生活をともに することになりました。 あの「お母さん」に、さう云ひたかったのでした。 とある。谷崎氏の母恋物は国際的な幅をもっていたことが分る。 その時代は肺病といえば伝染病だし、不治の病いとして、人々 に恐れられていました。死の宜告を受けたも同然と思ったもので さらにもう一つ、つけ加えたいのは、中国作家たちの、日本に おける原稿料の計算の仕方に対する質間である。向うでは、千字す。 でいくらと、正確に計算するが、日本では大ざっぱに一枚いくら長兄一家は初め京都の等持院に居たのですが、私が京都に行っ である。戦後第三回目の訪中、今年の四月、私も原稿料についてた時は、三条の要法寺というお寺の寺中で、もう須弥壇もなくな ・回想の兄・潤一郎■ 9 京都から阪神間へ