兄 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 月報
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1. 谷崎潤一郎全集 月報

それに妙な言い方をしますが、兄と私は会話をする習慣がなか ったのです。私が兄に伺いを立てることは、皆な姉を通してする のでした。ある時、多分二十二歳ころだったと思いますが、私は 自分の前途に迷っていました。やっと肺病が納まってきて、東京 の大学に就学しようとしていた時分でした。私は兄に相談したい と思って姉にその由を中しました。 昼食を済ました兄は新築の書斎に上るところで、下の畳座敷で 谷崎終平 行ったり来たりしながら私を待っていました。そこへ私が呼ばれ 高野山時代を最後として、私は兄と一緒に生活する機会がなくて行くと、兄はいきなり「何だね ? 」と言いました。私は、もう なったのです。それから晩年まで、一、二泊で兄の家に泊ったこそれだけですくむ思いでした。やっと勇気を出して話しかけまし とはありますが : た。「僕はどうしたらよいでしよう ? 」先きにも中した通り兄と ある時、辻潤さんが「君は、ああいう兄の側にいて苦しいだろ話し合ったことのない私は、十分に自分の思いを語れないのです。 う」という意味のことを言って、私に同情 ( ? ) してくれたこと兄は申しました。「そんなことは僕にもわからないよ ! 」と。そ がありますが、劣等感に悩んでいた私は大変兄に圧迫を感じましれでこの会談は終りになったのです。 た。とにかく、始終ビリビリしていました。といって、兄は私を ひとつは兄が放任主義であったので、私は却って自分を、自分 叱るわけではないのです。私は兄に叱られた記憶がないのです。 の責任重大と考えて、あれこれ思案ばかりしていたのです。兄が これとて私が悪か もっと干渉したら、かえって反発出来たかも知れません。 ったとも言い切れなかった事柄なのですが : : : ) この点は長兄と次兄の性質は真反対でした。次兄は真面目な儿 そんなわけで、むしろ私は兄に見放されてしまっているという 帳面な入です。教育家向きです。次兄には始終叱られ通しでした。 思いが多く、愛されていないと思う自分が哀れだったのです。 叱られるのは不愉快でしたが、どうしたことか、次兄には叱られ ひそ いま考えると、私の思い過ごしも随分あったようですし、第一、ても毎々の事なので、私もそんなに応えませんでした。私かに兄 自分が後から次第に兄の年齢を重ねて行って、人の親ともなると、の小言幸兵衛ぶりを軽蔑していました。 今考えると若気の至 よくわかるのです。兄は私が、グンと兄にぶつかって行ったら、 りで申訳ないとは思いますが : もっと受け止めてくれたろうと思うのです。そんな処は、私はく 若い時分の私は長面痩躯でしたが、よく次兄に似ていると人に だらぬ遠慮をしていたのです。グジグジした性格だったのです。 いわれました。兄もまた私と似ていると人に言われましたが、す ( 一度だけありますが、今は申しません。 ・回想の兄・潤一郎■ 1 長兄と弟妹たち -0

2. 谷崎潤一郎全集 月報

泣いて「ごめんなさい、ごめんなさい」と叫びながら茶の間の柱その頃のこと、ある日晩飯のお菜にえびと豆腐の鍋料理が出た。 に必死に抱きついて母に抵抗した。先生の病気見舞に行くのは悪両親、兄、私、末弟で食卓を取り囲んだが、鍋が煮えてくると、 いことではないのだから、兄としては自分の行為に対する弁解は兄はまずえびを取「て食べ始めた。うまかったのか、兄は続けて えびばかり鍋から取って御飯の上へのせた。 あったのであろう。早く白状すればよかったのだろうが、兄は強 「潤一、そう一人でえびばかり食べちや仕様がないじゃないか。 情にどこまでも母の推定を否定した。 精二たちの食べる分がなくなってしまう。少し豆腐を食べろ。」 「さあ、追い出してやる。今すぐ追い出してやる。」 たけ 母はますます猛りた「た。私が母の顔を見上げると、母は真青兄の様子を見て父はそう小言を云「た。豆腐にくらべてえびが な顔をして身体中をふるわせていた。子供心にも始めは単なるお少なか「たのかも知れないが、兄の振舞があまりに勝手に見えた どかしだろうと思っていた私も、「こりや本当に兄を追い出す気らしかった。だが兄は意地になってえびばかり食べ続けた。変な もので、そうなると私も意地になってわざと豆腐ばかり食べた。 かも知れない。大変なことになった」と感じて、母と同じように 全身がふるえて来た。最後はどうな「たか、折りよく父が帰「て「仕様がない奴だな、潤一は。精二、早くえびを食べないとなく 、、ゝ、はっきり記憶しなってしまうぞ。」 来て、母をなだめ、兄を叱ったようにも思うカ 父は不機嫌になって顔をしかめた。兄がそれまで、父の云うこ ていない。 とを聞かなかった例がしばしばあるので、父は兄に対して多少反 大人になってから兄がいこじだったもう一つの例を思い出す。感を抱いていたのかも知れない。 大正の始め、作家として一人前になってから、兄は家を出て旅館「小言なんか云わずに、放っておけばいいのに。」 めがお そう思いながら私は兄の顔を見上げた。兄は眼顔で私に笑いか 住まいをしていたが、糖尿病になって砂糖を入れた料理が食べら けていた。「おれの気持、わかるだろう。」とでも云いたげに。 れなくなったので、家へ帰って来た。兄が結婚する少し前で、私 ー私は急におかしくなって、笑いがこみ上げて来た。だが私が笑 も無論独身で、親の家にいた。 「勝手に家を出て行「たくせに、病気になるとのこのこ帰「て来い出したら兄も笑うだろう。そうなったら怒った父の面目がまる つぶれになるので、私はじっと我慢した。 る。あきれた子だねえ。」 一応意地を通したので気がすんだのであろう。兄はえびをやめ そう云いながらも母は兄のために砂糖を入れないでサッカリン で味をつけたお菜を造ってくれた。兄だけ別のお菜にするのは面て豆腐を食べ始めた。私も豆腐をよして残「たえびを食べ始めた。 ( 英文学者・早稲田大学名誉教授 ) 倒なので、一家全部がサッカリン料理を食べさせられたが、サッ わるあま カリンの不自然な悪さに私などは閉ロした。 4

3. 谷崎潤一郎全集 月報

父は痩身で、すらっと背の高い方で、母は丸顔で小太りしていま その中には、弟妹の。フライベ 1 トな事や親類縁者の無心の事な した。長兄の体質が母親似で、次兄が父親型かと思われます。でど出て来て、関係者には少し気の毒ですが、私たち弟妹が、兄た も次兄だけがズバ抜けて背が高いのですが。そして三男の兄は若ちに大変厄介を掛けたと、つくづく、有難くも済まなくも思う次 い時分は太っていて長兄型でしたが、今は痩せて、次兄と父親の第です。 合の子のような様子になりました。長姉の伊勢子は若い時から次手紙の中で長兄は「僕は親子兄弟と云ふ血縁の関係ある者に対 兄タイプで次兄とは馬が合ってました。次姉の末子は長兄型で、 してはどうも打ち解ける事が出来ない」といっています。そんな 長兄とは似た処がありました。 兄なので、私も近付き難かったのです。とにかく兄は仕事第一に 長姉のことは曙町時代のことをお話した折に塩原温泉で縁談が生きた人と思います。そして努力の入でした。 起きた話を書きましたが、その入と結婚したのですが、その人が 昭和二十四年の秋、文化勲章を頂いた折、兄に紹介してくれと、 連帯責任で判を突いたことから、仕事を失いプラジルに渡ったの文芸春秋の上林吾郎君に頼まれ、赤坂の福田家に兄の来ているの を知り訪ねました。兄は愛想よく初対面の上林君を迎え、「文化 でした。子供の愛にひかされて同道した姉はブラジルで離婚し、 苦労したのち再婚してから仕合せになったようです。長兄はこの勲章をお見せしましようか」などと出して来て見せていました。 処が、あとで大変叱られました。知らぬ人を一緒に連れてい 姉の多少センチメンタルな手紙に閉ロしていました。この姉は三 った事で。私は外ならぬ文春の人だからよいと思っていたのです。 十七年ぶりかで東京オリンピックのあった前年に、日本に一度帰 兄に面会するのには前以て都合を聞いて、何日に来いと許可 って来ました。多少ハイカラになって、枯れて来て落着いた良い 初老婦入になって戻って来たので、長兄も嬉んで迎えてくれましを得なければなりませんでした。上林君には「終平さんの兄弟は た。晩年の兄に会えてよかったと思います。兄は伊勢は良くなっ変っているねえ」と感心されてしまいましたが、でも晩年の兄は 私にも優しく、心よく普通の談話をしてくれました。 たと鮎子にもらしていたそうです。 次兄は「はしがき」の中で、手紙の上で喧嘩したことも幾度か 末姉の方は、わりに無ロですが、ずんぐりしていて、母にも少 と書 しは似てますが、長兄に似ています。若い時分、ずばりと思ったあるが、今となってはなっかしい思い出となっている。 いて、さらに「弟の分際で兄につけつけ文句を云うのが兄には気 ことは自分で行動を起す処が、長兄型でした。 い。だが私たちの弟や妹は年齢の隔たりもあ 次兄がこの春『明治の日本橋・潤一郎の手紙』という単行本をに入らなかったらし り、若い時から世話になってもいるので兄に頭が上がらず、結局 出しました。後半の「潤一郎の手紙」というのは、次兄宛に来た 手紙約五十通程の中から選んで、手紙の原文と解説を次兄が付け弟妹のために、彼等の代理となって私が不満を述べざるを得なか たものなのです。 ったのである」と書いています。 こぶと

4. 谷崎潤一郎全集 月報

クリスタル・ストッパ ( 朝日新聞学芸部 ) へ人社、婦人記者として活動していたが、三アルセーヌ・ル。ハンの「水品の栓」などを精細に憶えていて巧み 年ほどで退社、雑誌「旅」の編集長だった山下繁氏と結婚した。 に話して聞かせました。それにも増して私にドストエフスキーを 人間としての谷崎さんは、友情に厚く、義理堅くて、礼譲を重教えてくれたのは彼でした。また入麻呂の長歌なども暗誦してみ : 」と せて、私は驚嘆しました。「天飛ぶや軽の路は我妹子の・ んずる人だった。外見は河内山宗俊のように堂々とふてふてしい いう、あの有名な長歌などです。 感じだが、案外はにかみ屋で、人見知りする方だった。新聞記者 を毛嫌いして寄せつけなかったといわれるのも、はにかみのせい 兄は一室を占領して勉強していますので、私達は大坪君と毎日 かも知れない。 ( 元朝日新聞社出版局長 ) 遊び廻っていました。 ( この時、せい子女史はどうも一緒でなか ったように思うので、彼女はあるいは京都で、もうという青年 と結婚していたのかと思います。 ) 兄嫁と鮎子と私の三人は兄の おきふし ■回想の兄・潤一郎・ 隣の部屋に起伏して居りました。ある日食堂で外人が鮎子にチョ コレートをくれました。兄嫁が兄に礼を云ってくれというと、兄 は自分でいえばよいというのです。だって英語が話せないからと 北畑から好文園へ 兄嫁が云うと、兄は「チョコレート・ サンキュー」といえばい、 さ、といったのを思い出します。 谷崎終平 びろう 大変尾籠な話で恐縮ですが、兄と私は生理的時間が似て居りま 私は数えで十七歳だったはずですから、北畑の家に引越した年して、朝食前に必ず上厠します。ホテルのトイレットは二つ並ん ( 大正十三年 ) の夏だったと思います。兄が書きものをするため、でいました。ある朝、私は一方をノックしましたが、返事があり ひと夏有馬温泉に滞在することになり、私も兄嫁と鮎子と一緒に ません。試みにそっとノップを引いてみても開かないので、隣に つれて行って貰いました。 這人りました。暫くすると隣で兄の咳払いがするのです。私は隣 に兄がいると知ると落着かなくなり、兄が出て行くまで、息をこ それは有馬ホテルという古風な木造の古めかしいホテルでした そらしていました。 なんて人だろう、ノックに答えたらよさそ が、正式な西洋生活で、外人なども泊っている処でした。 うなものだ : こで四、五回前にちょっと書きました、親友になった大坪砂男に 出会うことになります。彼は四つ上でしたから、二十一歳で東京 洋食に飽きると、私達は兄に連れられて、外に和食や鳥鍋を喰 薬専の学生でした。 べに行くのでした。ホテルの玄関の上がちょうど二階のべランダ この入は大変記憶力のいし 一風変った個性の強い人でした。 で、いつも二人で仲良く、唯黙って籐椅子に向い合って何時間も、

5. 谷崎潤一郎全集 月報

「アカイキココハカネケ ! 」「ハーカハーカ」といった調子です。というのがありますが、これを思い出すと当時が偲ばれてなりま また一冊の本を二人で覗き合って読んでいたこともあります。鮎せん。 子も読書力は随分早い方でしたが、鮎子が一頁読む頃には兄はも 当分は新聞記者に悩まされました。撃退役は私でした。門を開 う見開きの二頁分を読んでいて「鮎子はまーだそんな処読んでるけないで内と外からの問答です。中には会わないとは無礼ではな の ! 」などと申していました。 いかと怒る人もいる始末で、当時苦労しました。 こんな事もありました。佐藤氏と兄は例によって草人 ( 上山 ) その頃でした。お名前は忘れましたが、ある日小学校で兄を教 さんの口調を真似て会話をするのですが、二人はそれで大笑いすえたという老先生が見えました。兄はどうしてもお目にかからぬ るのです。食事が終って、佐藤氏と兄が客間に引きとると、一緒 というので、先生は仕方なく、とばとぼ戻って行かれました。気 に食事をしていた私の直ぐ上の姉すえ子が「アーおかしい ! 」との弱い私は、大変お気の毒で、またご無礼ではないかと気になり ました。どんな事情だったかは知りませんが : 笑い出したのです。何がおかしいのかと皆がいうと、兄さんでも 私は兄の作品で「蓼喰ふ虫」が一番好きです。それには、い あんなに笑うことがあるのかと思ったら、おかしくなった、と、 うのです。それほど当時は身内には機嫌の良い顔はめったに見せらか個人的な事情もありますが、そうばかりでもないと思ってお ります。検べてみると昭和三年の十二月から大毎と東日に載った ませんでした。佐藤さんさえ一緒なら、私が佐藤氏に言う洒落な どにも、佐藤氏に答えるような顔で、批評したりするのでした。 のでした。小出楢重さんの挿画が大変な評判でした。兄も大層気 それから後のこと、兄が独身となり、暫く女中さんと、私の直に人っていてこの挿画にカ付けられたと書いています。 小出さんは小柄な方で、当時流行した「お釜」といった型にソ ぐの姉と私とだけで生活したことがありましたが、その折の食事 は淋しいものでした。姉のすえ子が給仕をしながら、三人一緒にフトを被って居られました。大変座談のうまい人でした。少々ど するのでしたが、その間始めから終りまで、三人共無言なのです。もり気味のひょうきんな、何ともいえぬューモラスな口調で話し 何か重苦しいものでした。沈黙に耐えかねて、私が姉に何かいうて、同席の人々を笑わせるのでした。 しじま と、ポツリと返事が却って来ますがそれで終りです。反って静寂ある日、たいそう華やかな若い婦人達が大勢現われて兄の客間 が深くなるようなものでした。兄は食事以外は地唄の三味線を弾が賑やかになりました。それは大阪の女子専鬥学校の方々でした。 くか、猫に餌を与えるだけでした。後は書斎に籠っているのです。皆さん英文学専攻でした。それは白髯 ( ? ) さん、隅野さん、武 市さん、江田さんとかいう方々でした。その中に古川丁未子さん 秋ともなると兄も淋し気に見えました。その頃の兄の和歌に も居られたのでした。 縁側にひとり淋しくうづくまる 猫の背中に秋の風ふく この方々を交えて、小出画伯と、客間でタ食会があったことも かぶ しらひけ とみ

6. 谷崎潤一郎全集 月報

「校正がすんだら、あの原稿は、わたしにくださいね」と、中村こともないのでかられたのです。兄に「何をしているんだ、早 さんま、つこ。 、つし J ひ要」自 5 に - 一 く呑んで辻さんに返しなさい ! 」と云われて、 わたしは、虚をつかれたように、どきっとした。それから、机んで返盃したものです。 そのころ、文芸春秋社から「映画時代」という雑誌が出ていて、 の抽斗をあけると、谷崎氏の原稿をとり出し、掌中の珠を奪われ 古川緑波さんがやっていました。緑波さんは早稲田中学の出身で、 るおもいで、中村さんに渡した。 このときほど中村さんを怨めしくおもったことはなかった。中私が一年生の時分には四年生か五年生かで、その時分から人気者 村さんとても、やはり編集者生活の記念として、谷崎氏の原稿をのようでした。ある日、緑波さんが玄関に立って来意を告げまし た。その時分兄は梅林の近くに勉強部屋を借りて居りました。私 所蔵したかったのであろう。 というわけで、「続蘿洞先生」の原稿は、、 まも恐らく、辻堂はそこに案内したのでした。それは岡田嘉子さんと兄との対談が の中村さんの家に大事に残っているはずだ。 「映画時代」に載ったのだったと思います。 以上が、「続蘿洞先生」始末記。 それから間もなく竹内良一と岡田嘉子の逃避行が当時新聞を賑 わせました。私も大阪の松竹座で二人のアルトハイデルベルクを 見たことがあります。かぶりつきの連中が盛んにやじを飛ばすの ■回想の兄・潤一郎■ です。ハインリッヒとの別れの処になると、「嘘つけ ! 楽屋で待 っているぞ ! 」と竹内との事をひやかすのです。終いに嘉子もか っと逆上してしまって、客席に向って、「うるさい 好文園から梅ヶ谷へ ささか興ざめでした。 と怒鳴りつけたのには、、 昭和一一年、私は肋膜炎の病後でした。この家で、例によってぶ 谷崎終平 らぶらしていました。まだ坂を上ったりすると、胸が痛く、息切 好文園の家の様子は前回に書きましたが、ここでは佐藤春夫されしました。兄の命で、神戸の税関まで、老酒入りの大きな土瓶 ん、芥川龍之介さん、辻潤さんなどが見えたことを憶えています。を二つ、受け取りに行きました。上海の中国の人から贈られたも 辻さんとは北畑の家から親しかったので、二階の座敷で酒を呑のでした。それは二つさげると、かなり重く、私はあえぎあえぎ、 み交して居る兄の処へ呼ばれて加わったこともありました。私は休み休みして持帰りました。そして兄の病人に同情がないのを情 けなく思いました ( 兄は兄で、私の意気地のないのを情けなく思 辻さんに盃を貰って、もじもじしていました。二十歳になってま っていたことでしよう ) 。 したが、まだお酒を呑みませんでしたし、兄の前で盃を手にした ( 作家 ) だまれ ! 」

7. 谷崎潤一郎全集 月報

ありました。多分、当時、岡本の鳥屋のかしわが非常にうまかっ 古川丁未子さんが兄嫁となったのには少し驚きました。でも、 もものです。 たので、鶏のスキヤキ会だったと思います。私も女性を意識する家の中に若い美しい人がいるのはい、 年頃にはなっていましたし、例のコン。フレックスで、同席したの 丁未子さんは私より一つ年長でした。私は好意を持って貰いま ですが、恥かしくて殆ど下を向いていたのではないかと思われました。でも姉さんとはいえなかったように田 5 います。兄は「ちょ す。小出画伯が急に、近頃は女性が活漫になって、男性の方がお いと ! 」と呼ぶのでした。次は「奥方はどこですか ! 」といも となしい。と身振よろしく女性達を笑わせました。何だか私が皮した。私もきっと「奥方」とでも云ってたのでしよう。私は当時、 肉られたようで、私はますます堅くなるのでした。 東京の次兄の家から大学に行っていたので、普段の兄夫婦の生活 そのうちに、兄のアシスタントとして、武市さんが家に見えま は、もうこの頃から一緒に住まないので知りません。唯夏休みに、 した。多分兄の「卍」を関西弁に直すためだったかと思います。佐藤家から文化学院に行っていた鮎子と一緒に当時高野山の泰雲 あるいはハーディ 1 の下訳だったかも知れません。そのうち武市院という坊を借りて避暑をしていた兄夫婦の処に一夏行きました。 さんは結婚されたが、若くして亡くなられたように聞いています。昭和六年のことです。親王院という厳格に精進しているお寺で普 小さな能面のようなクラシックな顔をしていました。その後で見茶料理を御馳走になりましたが、こんな美味な精進料理を味わっ えたのが江田治江さんでした。この人は丸顔の大きな目をした、 たことは後にも先にもありません。 大柄でがっちりした身体の方でした。 この親王院の和尚様は学者で水原堯栄さんと申されたと思いま すが、さつばりした、話の面白い方でした。兄はこの方に就いて 仏教方面の話なども伺っていたようですが、終いにはお経の読方 を習いに通うようになりました。何事もやり出すと熱心な兄は、 かんきん 夜中の創作の仕事の延長で、引続いて早朝五時の看経に親王院へ 行ったことも再三ありました。遂には丁未子さんまで習い出しま した。 丁度、岡本から妹尾氏が御夫婦で来て居られました。身内の者 に対しては、あまり感情を示さない兄ですが、この御夫婦のきさ くな態度に兄も皆打ち興じて、楽しく暮らしました。 ある晩、妹尾御夫妻と兄夫婦、鮎子と私は盆踊りを見物に行き ました。毎晩の様に場所を変えて盆踊りがあったのです。見物し 昭和 5 年冬 , 兵庫県岡本梅ヶ谷の自邸書斎にて ( 昭和 6 年 10 月刊「谷崎潤一郎全集」第十二巻より )

8. 谷崎潤一郎全集 月報

いうより、本当の事をすっかり話して納得させるのが一番だとい 昭和五年の夏でした。暑い盛りに私は前回に書きました茶の間 の上の、梯子で登る屋根裏の部屋に寝起きしていましたが、小田うのが兄の考えです。だが、今と違。て男女同権どころか、男だ 原の時とは違「て、私も兵隊検査を済ました年頃でしたので事情けに離婚の自由があ「た時代ですから、殊に文壇人は新聞雑誌の はよく判っていました。あるよんどころない仕儀もあって、兄夫ゴシップ種でした。噂話が当分大変だろうと思われました。 鮎子は十四歳になっていました。聖心女学院に通っていました。 婦は別れるより仕方のない情況でした。 ある晩、佐藤春夫さんと兄嫁と私は、寝床の敷いてある布団の彼女は父親に似たのでしようか、気の強い処があ。て、何を考え 上に三人横になって遅くまで話していました。蚊帳も吊れない低ているのか、容易に心中を見せませんでした。鮎子に話をするの さなので、渦巻きの蚊取線香を燻ゆらせていたのです。兄嫁の考は兄がする事になり、東向きの客座敷に、ある晩、夕食後兄は鮎 えは堂々廻りして、決心が着かないようでした。無理もない事で子を呼んで二人きりになりました。流石に鮎子は涙を見せて自分 とじこも した。ふと気がつくと、焦げ臭いのです。皆が鼻をくんくんさせの部屋に閉籠「てしまいました。だが直ぐに元気顔を見せて出て て検べると、いつのまにか布団の裾の方に置いた蚊取線香が倒れ来ました。皆貰い泣きしてしまいました。ーー鮎子も了承したと い、つことでした。 て、布団に火が着いていたのです。バケツに水を汲んで来て掛け その折に、久楽堂さんの為に揮毫した感懐があります。 るやら大騒ぎです。布団の綿は中へ中へと燃えひろがるもので、 つのくにの長柄の橋のなかなかに 大きくお尻が這人るほども焼けていました。 潤一郎 渡りかねたるおもひ川かな 結局、久楽堂南洲さんも東京から来て、兄の我儘から端を発し 水かれし流もあるを妹背川 たものでしようが、どうにもならないこの夫婦の結末が来ました。 春夫 深き浅きは問ふなかれゆめ 兄にしてみれば、別れても、兄嫁が幸福になってくれなければ心 世の中は常なきものを妹背川 配だという訳で、それには気心の知れた、しかも以前にその意向 潤一郎 なとか淵瀬をいとふへしやは のあった、また現在独身である佐藤さんと再婚すれば、一番安心 久楽堂さんは新たに原稿用紙と便箋の商売を初めるために、兄 だという話なのです。 唯鮎子がいちばん可哀そうだと私は思いましたが、それは誰しに短冊を多く書かせて、それを売「て元手を作「たのだ「たと思 います。 も同じだったでしよう。殊に母親は最もその事を考えたことでし 一体、兄は恥しがり屋だったせいか、身内のものには用のロ以 よう。兄は、鮎子は母について行けばいいし、父の処にも自由に 来たい時は来ればいい、幸い佐藤さんは子煩悩で、鮎子を大変可外に殆ど喋らないのです。僅かに鮎子とは話していました。例え 愛が「ていましたし、その点も好都合だし、子供には下手な事をば、カキクケ「を挿んで話したりします。 こ はさ わす

9. 谷崎潤一郎全集 月報

は理髪店だったと思います。大正八年です。まだのんびりとした成績の悪い私は転校を断わられました。 時代です。生垣や竹垣を廻らした静かな住宅街でした。ですが、 ある日、兄が二階の書斎で外出のため、洋服に着がえるのを、 兄の借りた家は新建ちの新しい二階家で、板塀に囲まれた家です。私はじっと見ていました。退屈で、ほかにすることもなかったの わずかな庭と、使える部屋は下二間と二階三間でした。ちょうどです。引越して間もない時で、兄は孤児となった私を可哀相に思 風呂場と台所の上に当る二階の三畳が私の部屋でした。新しい机 ったのでしようか月イ 、吏銭をくれて、上野の博覧会でも行ってお いでと、 と椅子を置いてくれました。初めて自分の部屋が持てて私は嬉し もいました。当時の小学生としては潤沢な小使でした。今、 かったものです。 ふと、こんなことが思い出されました。 その時の家族構成は、兄夫婦と鮎子、私の姉の伊勢と、兄嫁の この年の夏は一家をあげて塩原に行きました。何でも先きに兄 妹の小林せい子と私でした。このせい子という人は、葉山三千子達が出かけていったのだと思います。私は学校があるので、夏休 という名で女優になって、当時のモダンガールとして有名でした。みになるまで姉の伊勢と二人で曙町の家に居たのたと思うのです。 今は堅気のいい奥様になっていますが、兄の「痴人の愛」などの 大正八年頃の塩原は、確か西那須野まで上野から汽車で行って、 モデルといわれ、当時は派手な存在でした。音楽学校の神田 ( ? ) あとは人力車でした。もっとも馬車もあったようです。例の豆腐 らつば の分教場に声楽などを習いに通っていて、家でソプラノの発声の屋のようなラツ。ハを吹く馬車で、「とうとうと喇叭を吹けば塩は 稽古などをしたものですが、その頃は一般の人は大正琴かハモニらの深染の山に馬車入りにけり」という有名な斎藤茂吉さんの和 カ位しかやらない時代ですから大変でした。御用聞きの小僧さん歌にある奴です。 人力車を連ねる客が多いので、二十台も三 など、自転車を塀に立てかけて、塀の節穴から家の中を覗く始末。十台もの人力車が続くのです。何かの都合で先頭の車が、徐行か 当時はまだ漆黒の頭髪がふさふさして、それをオールバックに止まるかする場合は、「ホイ」とか何とか掛け声をかけるのです。 メイランファン した「和製梅蘭芳」といわれた今東光氏なども、よく遊びに見えすると次から次へと、その掛け声は送られて行くのです。そうし ました。氏は兄の門弟と称して居られますが、兄の処へ見えたのないと、みんな、。 ふつかり合ってしまうからです。天狗岩とか児 も事実でしようが、葉山女史の方へも来られたのだろうと思う次太郎ガ淵とか、七つ岩とか、福渡戸とか、御用邸のある辺りまで 第です。 が有名で、大部分の人はその辺に宿をとったと思います。なんで 兄はその頃、外遊を志していたように思います。何でも一時はも紅葉が金色夜叉を書いたといわれる宿屋などもあったのです。 一家を挙げてフランス渡航を企てていたのだったと思います。そ車夫が塩原は四十八滝六十橋といわれていると話してくれました。 れで、私もその頃フランス語を教えている唯一の学校であった暁私どもの宿は、門前という塩原でもだいぶ奥の方でした。そこ 星の小学校に転校させようと、兄は思ったのですが、残念ながらの鹿踊かなにかで有名なお寺の前の何か商売をしていた家の二階 しんだ かわいそう

10. 谷崎潤一郎全集 月報

ある時、兄と佐藤春夫さんが、ふとそれを見付けて眺めていま さんは優れた文学作品を数多く生んだのではなかったか。想像上 の異常性欲満足を可能にした心的エネルギーが、谷崎さんの場合、した。佐藤さんは音吐朗々と読み上げて、何か兄と語りながら二 言語をも性的対象として取り上げたのであって、そのためにこそ階に上って行きました。 兄の書斎は、二階の奥の間で、大きな机の上には和漢洋の書籍 あの文学が成就したのではなかったか。なぜなら文学は言語への 一杯載っていました。そして床の間には、支那から買ってきた 愛によって支えられるものであるから。 の人形など 行列の木彫りの風俗人形やら、独逸製の美女のヌード 現実の異常性欲者には、文学は書けないのである。 ( 九州大学教授・独文学 ) が三つ四つ並んでました。押人れの中も本だらけでした。それか ら幅七、八寸で長さ一尺余りの小さな行李がありました。私は開 けたこともないので知りませんが、それは手紙が一杯詰まってい て、何でもあの、兄の和歌「箱根路をゆふこえくれば吾妹子が黒 髪洗ふ湯のけふりみゆ」の吾妹子の手紙だという話を、いっか誰 かに聞いたことがあります。これは本当かどうかは請け合いませ んが : 。床の間の隣りは北側に三尺ほどの小窓があり、二枚の 小障子がはまっていて、それを開くと遠く箱根の山々が遠望され 谷崎終平 るのでした。 ここで兄は一時、塑像に凝っていました。自己流なのか、誰か 孤児となった私は、一面呑気でばんやりな処もありましたが、 次第に孤独な憂鬱な少年になっていきました。劣等感ばかりつの先生に就いていたのかはわかりませんが、時々粘土で造ったもの が、いつの間にか石膏になっていました。女の裸体や首などだっ らせていったのです。その上県立の小田原中学を受けて失敗し、 たようです。ーーー兄にはそんな余技 ( ? ) もあったのです。 今は忘れましたが、何とかいう私塾に習いにも行きました。 せい子女史と私は、専ら「立川文庫」や黒岩涙香の「噫無情」 私は茶の間の片隅の自分の机の前の鴨居に、あの朱熹の有名な かしら や「巌窟王」「白髪鬼」などを読み耽ったものでした。「お頭 ! 偶成などを貼ったものでした。 首尾は ? 」などと、立川文庫の山賊の手下の様な怪し気なセリフ 少年易老学難成 でおどけた会話をしたものです。 一寸光陰不可軽 この時分、私は後にも先にも唯一度だけ、人々に心配させたく 未覚池塘春草夢 て、お芝居を打ったことがあります。今でも恥しい話ですが、こ 階前梧葉已秋声 ・回想の兄・潤一郎■ 5 田原時代 ふけ