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検索対象: 谷崎潤一郎全集 月報
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1. 谷崎潤一郎全集 月報

第十七巻後記 第十七巻には昭和二十七年一月から昭和三十二年十月までに発 表された作品八篇を収める。これらの作品をそれぞれが最初に収 したが、期せずして、この小説も青春の性風俗の大胆な描写によめられた単行本の刊行順に並べると、次のくになる。 って物議をかもすことになった。選考過程での評価の対立が〈作過酸化マンガン水 昭和Ⅱ 『過酸化マンガン水の夢』 の夢上山草人の 者の美的節度の欠如〉を責める佐藤春夫と、〈快楽〉への徹底Ⅱ 中央公論社刊 こと或る時 肯定的積極性を評価する舟橋聖一との論争などに発展するわけだ 昭和 中央公論社刊 『鍵』 が、それとともに〈太陽族〉という流行語があらわれたり、戦後鍵 昭和認 『幼少時代』文芸春秋新社刊 幼少時代 世代の生態が社会間題化したりという事態もまぬがれなかった。 昭和・「谷崎潤一郎全集」第二十八卷 大衆社会の成立にともなう〈文学の芸能化〉をあやぶむ声がきか老後の春 中央公論社刊 れたのも、おなじ頃である。 昭和 ・ 7 「谷崎潤一郎全集」第三十卷 吉井勇君に 「鍵」と「太陽の季節」と、このふたつの作品のおかれた運命は 中央公論社刊 どこか似通ったところがある。そこに昭和三十一年という時代の 昭和 中央公論社刊 『夢の浮橋』 親不孝の思ひ出 意味が顕現するのだが、論証ぬきにいっておけば、それはやはり、 以上のうち、「親不孝の思ひ出」以外はすべて新書判全集に収 ながかった〈戦後〉の終りにほかならぬ。「鍵」にしても、「太陽 載されているので、それらの作品の本文は新書判全集を底本とし、 の季節」にしても、戦後文学における性の禁忌からの解放がなけ 初出の新聞雑誌および初版本と校合して作製した。 れば決して現われなかった作品なのは間違いない。しかし他方で 「親不孝の思ひ出」は初出のさいは未完であったが、前掲『夢の 、石原慎太郎の出現は戦後の文学を主導した戦後文学運動の終 浮橋』の再版で著者の加筆があり、完成原稿の形をとったので、 焉を告げる事件であった。いわゆる戦後派の影響からまったく自 それを底本として、初出を参照した。 由な、新しい文学世代の出現を意味し、それにともなう文学の質 的転換を象徴したのである。そうした文壇の転換期に、老大家と ■刊行室から 新人のふしぎな親近は谷崎文学の〈若さ〉の明証といえよう。 ▽第十七回配本・第十七巻をお届けいたします。 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) ▽諸資材加工費等高騰のため、今回配本 ( 第十七巻 ) 以降の巻より、やむを えず新定価一一〇〇〇円 ( 第二十四巻は二五〇〇円 ) に改めさせていただきま す。諸事情御賢察の上、引き続き御愛読いただきたくお願い申し上げます。 ▽次回第十八巻は三月十一日に配本になります。昭和三十三年二月から昭 和三十六年七月までに発表された左記八篇が収められます。 「殘虐記」「四月の日記」「高血壓症の思ひ出」「夢の浮橋」「おふくろ、お 關、春の雪」「三つの場合」「親父の話」「當世鹿もどき」

2. 谷崎潤一郎全集 月報

で し る 分 と 感 時 る 故 こ反ー 道天 は 円 く の が と ら 話 く 、怨 人慶 想 わ 調 し 許 対 賀 と 長皇 だ は は が お も あ 霊 け 悪 自 に 出 が そ ふ 円 く し 静 け も っ を り は で 座 っ ま 心、 分 ろ 異八 れ も た が た な で る 周 結 り が 存 い を 記 は 主 な 上天 の 天 て も、 日 ん 日 っ 話囲構去 上 て こ賀ー オこ で 皇 対 な な な を ぞ ぜ ロ の 筋 い贈 な 静書 強 あ い 左 っ し い わ と て と の カゝ で 出状 す た ら る 主 日 大 る 硬 や い カゝ て . る の い な来 勢 かカ 現 や 贈 て 天 を 邪 を 臣 て ら だ だ っ す な座 ノ、 い ず け異逃位 、彼追魔奏藤 を と ら か ぎ い 、怨主 月 ま 座 る 屋 の 議 は 贈 て ち の 道 が上原 ら 不 腰意長平 て し た 主 を 、す 入 し道 の ぶ 賀 に慶先 の 主 賀 と も 満 た長 り と る を そ て る 要 青笋 日 静贈 ん 由 の な 円 を 向 で な の な を 表 た よ 求 あ称 る 発力 っ 重 だ が た な っ を の て激天霊 揮 対 ま 別 る 内 そ 静 っ を る は 力、 た て ね の ら い天怒 台 て慶 と す 手 し れ が わ と の 小 て 仕 も 更 ら 皇 な 慶 し座 円 紙 あ る は が し は か る の 刀く 僧 甲 主 ら 難 を 起 し な カゞ い 円 は さ の た て わ航 、筈 自 と 現 位 正 い た わ 人 が わ お を わ れ 妥 り 贈 だ 身力、 た の な た ぎ れ れ ヤ た か に イ立 る 協 ら 送 僧 ら 時 ら の ら た ろ る み の レ 大 座な ヤ を 正 だ れ り が が で 追 と 、申 っ 慶 レ体 主も、 は の ろ の た そ あ て 贈 人 イ立 っ 円座 そ 朝 相 日 い し 記 談 か を 、子 先 れ 廷 が主 れ と て た と も さ の や 贈 で望 い 慶 め 実 例 弱 の 弓虫 れ く も で る を の さ 資 を っ道法硬 ら っ す は な っ は 片ノ 円 力、 て れ 自 慶オ た れ 正 せ も ぞ た は よ に 円 け る 出 あ 事 と 重力 に件 い現 話 想 と た 血 そ の が で 像 と が 歹台 子 民 が し も と ら と 翌 け る わ え は フ カゝ わ考 出 れ 条 算 供部付 さ す わ す な 年片 で ど は の 天 さ 時 天 は 同 か ノ、 の な く ろ 、付 を と か だ て な れ る ん と キ丁 い始 ォこ 皇桓じ で け く い 方 さ い な き ぞ い な い 歎 の 算えよ れ少 る 、長 付 さ と か め は の っ た る の カゞ っ し 首 し 女 が く い 加 る 僧 ま し た 正 た の 小 と で と っ の た 持 ざ だ右外但 げ 0 ) 甲 と 眼 し あ と い な た 房 そ さ か た聖 が ー乗 っ 事 記 孫 目艮 記 の ま も し ま つ と っ は か り し 天移 姿 天皂病 。知 さ 見 も こ後天 の っ僧 が ろ い の て は そ : 条 皇 の は 皇 カゞんの え 並 と ら っ て オも の て の け 性 左霊 た す あ 時 れ 天 る の 、条 が も 写 な は が て の を 出 の 右 が 鏡 け 賀天 驚 時 が 皇 あ ら さ よ さ い 日 れ童 乗 が本 の く が静皇病 ま る わ は る だ の あ て の り 来 で狗 て 女 眼 わ と は ら て は じ れ は の わ い 並譲 の 病 る と 力、 ね そ て つ が位進 る 移 よ ら け、 れ 天 つ も ら で た の の の っ 際な 皇 翼す か 天ほ 、天 る 子 ら せ だ な の の 皇 る 退 が 乗 か く 皇か を 女 ろ な ぞ し の と を せ る か 抱房 ら 病 と 条 の て け あ は の り が に ひ の が油気近陀ナ る 移 童 恐 は ろ 至 ら を は れ ま い は と 頃観 な 出 女定 断 ら 天 や ど 山 ら し を い け、 る ま い ら て も 聖 く 豸句 が 石 は も が て の 回 か き し と の れ っ て て る な 丿 ( い 最 天 て 来 た 夢 で復 な く で な と い り ば お あ と る 賀 れ 豸句 小 り 、女 中 ら も る 天 っ い あ る 静 で 枕 を 者 と る ず と 傍陀 性 が 皇 な ば っ て の 怠、 ふ も 甲 記 は 、イ旦 の 観 自 の い し の の わ : 霊 霊 自 の 身 る 子 並 カ・ の わ ね そ し の つ 分 霊 記 ざ は が て も が れ を え の の れ つ が 8

3. 谷崎潤一郎全集 月報

法のようなもので、訳文の流麗さを考えずに、訳すとすると、 ありました ( 昭和二十六年、谷崎潤一郎。『新訳』 ) 。 「 : : : というのではないお方で、その方は : : : であるお方、があ〇位が高く勝れた身分 ( 分際 ) ではない方 ( 者・人 ) で ( 昭和 った」ということになる、というように、わたし達は先生の源氏三十三年、山岸徳平。『岩波古典文学大系』頭註 ) 。 だれ の時間に教えられていた。 〇たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいている方があ あら探しをするわけではないが、試みに手もとにある諸家の訳 りました ( 昭和三十九年、谷崎潤一郎。『新々訳』 ) 。 を、年代順に並べてみよう。 〇たいして重い身分ではなくて、めだって御寵愛の厚い方があ 〇最上の貴族出身ではないが ( 明治四十五年、与謝野品子。『新った ( 昭和三十九年、玉上琢弥。『源氏物語評釈』 ) 。 訳源氏物語』 ) 。 以上を通覧すると、国文学界も、徐々に進歩して来ていること 〇すぐれた家柄の出ではないが ( 昭和三年、吉沢義則。『逐語がわかるというものだ。 源氏物語全訳』 ) 。 〇そんなに貴い身分といふではないが ( 昭和五年、島津久基。 ところで、前に述べた「現代ロ語文の欠点について」の中で、 『対訳源氏物語講話』 ) 。 谷崎さんは、日本語の敬語に触れ、「敬語は単に儀礼上の言葉で 〇さう高貴な身分ではない人で羽振のよい人 ( 昭和十一一年、吉はない。文法上立派に一つの働きを持ってゐる」と言っておられ、 沢義則。『対校源氏物語新釈』。これは頭註。ただし今手もとにあその結論への導きとして、源氏の「空蝉」の冒頭を引用して論じ るのは、昭和二十七年版であるが、ここで始めて、正解がでてくておられる。 る ) 。 源氏物語の「桐壷」から「花の宴」迄を調べて見ても、冒頭 〇非常に高貴な家柄の出と云ふのではないが ( 昭和十四年、谷 のセンテンスに主格のあるのは、「桐壷」、「帚木」、「紅葉賀」 崎潤一郎。『旧訳』 ) 。 の三篇だけで、その他の五篇は悉く省略してゐる。 〇非常に高い家柄の出ではないが ( 昭和二十年起筆、五十嵐力。と述べ、「空蝉」冒頭の本文をあげて、最初のセンテンスの中に、 『昭和完訳源氏物語』 ) 。 隠されている主格が二つあることを指摘し、だから源氏物語の文 〇歴とした重い地位 ( 皇后をさす ) ではないお方で、格別羽振章はわかりにくく、しかもそれだから美しいのだ、としておられ のよろしいお方 ( 桐壷更衣 ) があった ( 昭和二十六年、池田亀鑑。る。 ねられ給はぬままに、われはかく人に憎まれてもならはぬを、 『新講源氏物語』 ) 。 右の池田氏の本の出た年に、谷崎源氏の新訳がでている。 こよひなんはじめて憂しと世をおもひしりぬれば、はづかし どなた 〇格別重い身分ではなくて、誰方よりも時めいてをられる方が うて、ながらふまじくこそ思ひなりぬれなどのたまへば、涙

4. 谷崎潤一郎全集 月報

お祝いの書を揮毫されていると、急に右手からカが抜けた感じが したものの、大したこととも思わず、しばらく横になっていたと う。ただ、「お祝いの席には出られなかったのが残念で」と、 しきりに繰返しておられたそうである。 その時は三十分ほどで、部屋を出たが、二十度をこすストーブ の熱さに、額が汗ばんでならなかったのを覚えている。 その発作のため、結局は右手が自由に使えず、ロ述筆記になっ 野村尚吾 こうじゅっ たわけである。先生はロ授といって、絶対にロ述といわれなかっ 谷崎先生を苦しめた右手の疼痛は、「高血圧症の思ひ出」によ た。右手が不自由になってから発表された最初の随筆は「気にな ると、昭和三十三年十一月の廿八日に起きた軽い発作の時からとること」であるが、その原稿は前半が先生の自筆で、後半がロ授 ある。 になっている。 私が虎ノ門の福田家に見舞ったのは、十二月に人ってまもない 「志賀 ( 直哉 ) さんにこの間会ったら、あれはロ授だろう ? と 頃だったと思う。階下の日本間に寝ておられたが、元気のいい大見抜かれたよ」 声で話しておられ、大したことはないのだが、大事をとっている と苦笑されていた。つづいて「高血圧症の思ひ出」、小説では とのことで、実際いまにも起き出して話されそうなので、私もそ「夢の浮橋」が最初である。そのへんの事情は、「わが小説 れほどとは思わずにいた。そんなわけで、 『夢の浮橋』」の中で、 「新聞には絶対知らせないでほしい」 「創作では『夢の浮橋』が最初の試みであった。さう云ふ意味で、 と堅く念を押されたし、ニ「一ースにする気もなかった。新聞社作品の出来不出来にかかはらず、『夢の浮橋』は私に取って忘れ に戻っても、二、三日したら熱海に帰られるそうだ、といった程られない小説なのである。」 度にしか報告しなかった。 と結んであって、前者の筆記者は田畑晃さん、後者は伊吹和子 その時の松子夫人の話では、親友の笹沼源之助氏の金婚式があさんである。伊吹さんの話によると、「新訳源氏物語」の時は、 るので、東京へ出て来たのだが、その朝血圧を計「たら百九十五先生の机の横にすこし離れて並んでやったそうだが、「夢の浮橋」 ぐらいあったので、見合わすように止めたのだが、折角親友のめの時は机を間にして向かい合い 、書いていく字面を反対側から見 でたい日なのだからと、上京されたとのことである。 ながら、ロ授されたという。 ちょうど夫人が発熱して具合が悪かったので、単身上京され、 そのために枡目のすこし大きくした原稿用紙をつくらせて、そ ・谷崎文学関西風土記■ 4 「夢の浮橋」と潺湲亭 くじゅ

5. 谷崎潤一郎全集 月報

崎潤一郎のもっているロマンティシズムとが、一脈の相通じるも のもある点で、芥川は谷崎潤一郎にそうとうな敬意を払っていた と考えられる時期だったからでもある。 私が谷崎潤一郎の「刺青」を第二次新思潮でよんで感嘆したの は、熊本の第五高等学校の二年生のときである。さらに「麒麟」 江口渙 をよんで驚嘆した。その悪魔主義的な官能描写にも圧倒されたが、 私が谷崎潤一郎をはじめて知ったのは大正六年の六月だったと偉大なる聖人孔子を引きずり出してきてその古い道徳観を無残な 思う。芥川龍之介の処女出版『羅生門』の出版記念会が日本橋のまでに叩きのめして見せた点に驚嘆したのである。それいらい私 はできるだけ多く谷崎潤一郎のものを読んオ 鴻の巣でもよおされたときのことである。この出版記念会は私と 明治四十五年の七月に熊本の五高を卒業した私は、同じ年の大 佐藤春夫とが思い立ったもので、『羅生門』の出版を祝うととも に、北原白秋の『思ひ出』の出版いらい久しくとだえていた出版正元年九月に東大の文科にはいった。それから一年ほどしたころ、 記念会というものを、もう一度文壇に復活させようじゃないかと偶然宇野浩二と親しくなった。そして宇野浩二から谷崎潤一郎に ついてのいろいろなうわさを聞かされたものである。たとえば伊 いう意図もあって、ふたりで考えついたものである。 その晩の谷崎潤一郎は純白の麻の背広に白靴をはいていた。主勢丹がまだ外神田にあったころ、谷崎が大島紬の羽織と着物のお 人公の芥川龍之介もやはり白い麻の服だった。会は二十五、六人っいを注文し、はじめから筒袖に仕立てさせてきているのはいい が、いまだに金を一文も払わないので、伊勢丹でひどくよわって ほどの小さな集りだったが、芥川はとてもよろこんでくれた。と いるという話もした。また島崎藤村のなじみの芸者が日本橋かど くに谷崎潤一郎が来てくれたことを一ばんよろこんでいた。その こかにいるのを谷崎が「どうしてもあの芸者を横取りしてやる」 当時の谷崎潤一郎の文壇的地位はすでに確固としたものであり、 その上、芥川龍之介のもっているロマンティシズムの一面と、谷といってやっきになっているという話もきかせた。また、谷崎は 中公 谷 郎 の 出 月報 4 昭和年 2 月 〈普及版第四巻付録〉 目次 谷崎潤一郎の思い出 川への潤一郎の手紙 回想の兄・潤一郎 3 三代文壇小史 4 第四巻後記 三谷瀬江 好崎尸ロ 行終晴 雄平美渙 11 10 6 4 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 一】

6. 谷崎潤一郎全集 月報

『都わすれの記』創元社刊 都わすれの記 色の月」が発表され、「入間」の創刊号には里見弴の「姥捨」や ・ 7 『月と狂言師』 ( 謄写版印刷 ) 月と狂」一一口師 正宗白鳥の「『新』に惹かれて」などが載った。「中央公論」の復 梅田書房刊 刊号以下には永井荷風の「浮沈」が連載され、谷崎潤一郎に托さ 同窓の人々「潺湲 れていた「踊り子」も「展望」の創刊号を飾った。谷崎自身もむ ・ 3 『月と狂言師』中央公論社刊 亭」のことその他昭和 ろんその一入で、ややおくれて「細雪」の濃艶な世界を完結し、 「少将滋幹の母」によって独創的な王朝絵巻をくりひろげること疎開日記 昭和・ 4 『京の夢大阪の夢』 になる。 京洛その折々 日本交通公社出版部刊 日本の近代史の浮沈を身をもって生きたこれらの作家たちは、 昭和 ・ 8 『少將滋幹の母』毎日新聞社刊 少將滋幹の母 昭和世代の作家がなんらかの形で戦争と敗戦の衝撃をまぬがれな 昭和 『少將滋幹の母』毎日新聞社刊 乳野物語 かったのに比して、はるかに自在に暗黒の時代をくぐりぬけたよ ・ 9 「谷崎潤一郎文庫」川 野篁妹に戀する事昭和 うである。〈古き時代のかたくなさ〉がより牢固だったわけだが、 中央公論社刊 それだけに作品自体の高度な完結性はともかく、主題や方法が戦 昭和訂 『過酸化マンガン水の夢』 夫入の手紙 後社会の特殊な状況と直接に交叉することはなかった。しかし、 中央公論社刊 かれらによって戦後文学の最初の頁がめくられた事実の意味は、 まもなく戦後派の文学運動の擡頭した同時代よりも、むしろ後代越冬記忘れ得ぬ日昭和 ・ 7 「谷崎潤一郎全集」第三十卷 中央公論社刊 の記録 の評価にゆだねられるべきであろう。 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) 以上十三篇の本文はすべて新書判全集を底本とし、それぞれ初 出の雑誌、新聞、単行本および前掲初版本と校合した。 第十六巻後記 ・刊行室から ▽第十六回配本・第十六巻をお届けいたします。 第十六巻には昭和二十一年八月から昭和二十六年十一月までに 発表された作品十三篇を収める。これらの作品をそれぞれが最初▽次回第十七巻は二月九日に配本になります。昭和二十七年一月から昭和 三十二年十月までに発表された左記八篇が収められます。 ( ゴチック体は に収められた単行本の刊行順に並べると、次の如くになる。 新書判全集に収録されなかった作品 ) 昭和・ 9 『磯田多佳女のこと』 磯田多佳女のこと 「吉井勇君に」「或る時」「上山草人のこと」「幼少時代」「過酸化マンガン 水の夢」「鍵」「老後の春」「親不孝の思ひ出」 全国書房刊 二一口 昭和 昭和 28 26 25 24 23

7. 谷崎潤一郎全集 月報

私の初戀映畫のテクニック栗原 に収められなかった作品は次の三六篇である。これら三六篇をそ トーマス君のこと關西文學のため れぞれが最初に収められた単行本および全集の刊行順に並べると、 に故入と私天狗の骨蠣殼町と 次の如くになる。 大正 8 『自畫像』春陽堂刊茅場町シンガポール陷落に際して本巻初収録 淺草公園 ふるさと秦豐吉君のこと「法成 ノートブックから一又十ロ一相 1 『藝術一家言』金星堂刊寺物語」囘顧武林君を悼む千萬 日本の活動寫眞私のやつ大正 0 子からの雪だより てゐるダンス父となりて 昭和 4 ・ 川『饒舌録』改造社刊 以上のうち「私の姓のこと」には単行本『倚松脆隨筆』の頭注 川「谷崎潤一郎全集」第十二巻 ( 「谷を文末に付した ( 第二十巻後記参照 ) 。 崎氏」と蒲生氏 ) 改造社刊 なお「『カリガリ博士』を見る」は、新書判全集では初出を大 昭不 7 ・ 4 『倚松庵隨筆』 創元社刊正十年八月号「活動雑誌」とし、その本文に拠ったが、今回、そ れが大正十年五月の「時事新報」からの転載であり、しかも末尾 川「谷崎潤一郎全集」第十一一卷 改造社刊 に相当部分の削除があることが発見されたので、「時事新報」の ・ 1 『あまカラ隨筆』 ( 河出書房編集本文を全文収録した。 河出書房刊本文校訂にあたっては、新書判全集に収められている作品はそ れを底本にし、その他は最も新しい刊本を底本として、初出の新 聞雑誌および単行本と校合した。 ー刊行室から ▽「谷崎潤一郎全集」の第二十二回配本・第二十二巻「随筆小品」をお届 けいたします。 ▽次回の第二十三回配本は八月十日、第二十三巻「序跋・雑篇飜訳」で す。明治四十五年から著者の歿年である昭和四十年まで、五十三年間の広 範囲にわたる百九十五篇に、「ウヰンダミーヤ夫人の扇」「ボードレール散 中央公論社刊文詩集」「タゴ 1 ルの詩」「グリ 1 ブ家のバアバラの話」「カストロの尼」 の飜訳五篇を収録いたしました。文豪と称されるにふさわしい著者の多彩 な活動を物語る貴重な資料篇ともいえる一巻です。 私の姓のこと 鳥取行き 「九月一日」前後のこと 昭和 6 ・ 昭和 6 ・ 「すむつかり」贅言 吉井勇翁枕花若き日の和 辻哲郎古川綠波の夢伊 豆山放談幼少時代の食べ 物の思ひ出日本料理の出 し方について千萬子抄 京都を想ふ女優さんと私 わが小説ーーー「夢の浮橋」 「越前竹人形」を讀む「撫 山翁しのぶ草」の卷尾に ~ 崎、ヒわ一 昭和新 部編 ) 昭和 4 ・貶『雪後庵夜話』 ・ 4 『三つの場合』 中央公論社刊

8. 谷崎潤一郎全集 月報

それは蘇州閭門の風景である。水郷蘇州の石橋を、大官の行列 とおぼしき一行がわたってゆく。その行列の先頭に、警蹕の吏が 路傍の民を追いはらうありさまを描き、これがその画の中心であ り、これに配するに、蘇州の各商賈が、それぞれ商牌を掲げる情 景をもってし、殷賑の状なおまのあたりに視るごときものがある。 奥野信太郎 閭門といえば、瞿宗吉の剪燈新話におさめられた聯芳楼記によ って、その艶情麗趣は、はやくから人の知るところである。 いまからほとんど四十年近い昔のことになる。思えば青年客気 の勇に駆られて、わたくしは無謀にも、請われるままに、大先輩「これは谷崎潤一郎の中国みやげだが、記念に君に贈ることにす 佐藤春夫の中国訳詩集『車塵集』のために、かなり長文の序を書る。なんでも谷崎は、この辺でなかなか愉快な思出があ「たらし 、こ。詞藻に乏しく、情思の薄いこと、まことに恥ずべきものの いいながら画の一部を指して、わたくしに説 多い一文でありながら、黄ロの一青年がものしたこの拙文は、美佐藤春夫は、そう 明した 装の巻頭に麗々しく掲げられた。 いま読みかえしてみれば、その稚拙まことに穴でもあれば、は蘇州闖門は、わたくしにとっても曾遊の地である。芝居の衣裳 いりたいほどの悪文であるが、佐藤春夫は一言一句も改変するこをひさぐ店舗が、軒なみにならんでいるところであるが、その画 にはそれはみえていない。あるいは明代のころには、その地に芝 となく、全文をとってこれを用いた。まことに先輩の寛大これよ 居の衣裳屋が、のちのようにはなかったものかもしれない。 り過ぎたものはないといわなければなるまい 谷崎潤一郎は、大正七年の晩秋、三十三歳のおりと、それから そしてわたくしにその礼だといって、みごとな明代版画を、わ ざわざ朱色の額縁に入れて贈呈された。そのときの感激は、いま八年後、大正十五年初春、四十一歳のおりと、二回中国に遊んで にしてなお鮮やかなものを感じている。 公眥中公 大正文人と中国 月報 6 昭和年 4 月 〈普及版第六巻付録〉 目次 大正文人と中国 谷崎文学雑感 回想の兄・潤一郎 5 三代文壇小史 6 第六巻後記 奥野信太郎 : 高橋義孝・ : 4 谷崎終平 : ・ 7 三好行雄・ : 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1

9. 谷崎潤一郎全集 月報

強く、容易には許されない事情でありました。然し、私にとって、 この桁はすれに新しい世界へ踏み切ることに依って、私が周囲の 期待している無難な、所謂良家 ( ? ) の子女の道を取ることを拒 んだことを自分自身にも確認させ、周囲にも無言のうちに示し、 認めさせる第一歩となったことのために、人生的にも忘れ難い事 ロ晃 件となったのでした。 間もなく、熱海、伊豆山の先生 ( そう呼び慣らわして居りまし 谷崎潤一郎先生の秘書をしていたのは、私がまだ旧姓 ( 田畑 ) を名の「ていたころで、昭和三十四年の一月から七月頃までの短た ) のお住居の近くに下宿を見つけて頂き、朝九時から五時迄の また自分の全力を挙勤めが始まりました。動作の大変のろい私は、つねづね時間に間 い間でしたけれども、相手どる人物といも に合わなくて苦労致しますが、大方作家というものは、時間など げてぶつかってみた仕事であったこと、作家という、私のそれ迄 の環境とはガラリと景色の異「た職場に、周囲の不賛成を身に感は余りきちんとなさらぬものと多寡を括「ていたのが失策のもと、 じながら遂には踏み切「たこと等の為に、忘れられない印象を今当初から電声一喝、手きびしく言い渡されました。少し都合で遅 れますと、家を出かける前に連絡して置いたからと、安心してノ も刻み込まれている半歳の経験でした。お相手がお相手だけに、 コノコ出頭したところ、「僕は待たされるのは大嫌いです。今後 一躍華やかな座に上ったようにいろいろ興味をもって噂されたり、 は待たせないで下さい。以前にもこんな風に待たされた事があっ 訊ねられたりすることは気が進まず、ほんのごく親しい友人だけ て、とっても嫌な思いをしました。」私はたヾもう小さくなって に知らせました。 内緒で面接試験を受けたものの、採用に決まると、氏の経歴、汗をかいて居りました。先生の日常生活は規則正しく、人を待っ また当時世間で評判とな「ていた「鍵」の内容のために、家族ののもお嫌がるが、御自分もきち「としておいででした。 当時住まって居られた伊豆山のお住居は、終戦後「細雪」がよ 者や友人達の間にも、無理解や誤解、意見の相異が思案を越えて 公眥中公 秘 の 甲、 出 月報 こう 8 昭 . 和お年・ 4 月 〈普及版第十八巻付録〉 目次 秘書の思い出 「蓼喰ふ蟲 j 補説 谷崎文学関西風土記 4 三代文壇小史 第十八巻後記 野篠川 好村田口 行尚 雄吾士晃 12 10 7 5 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1

10. 谷崎潤一郎全集 月報

としてあるが、私は別の本で読んオ 谷崎さんの懶惰の説は、この説と同じような心境を語っていて、 随筆というものを生んだのはフランス十六世紀の文入モンテー そこからモンテ 1 ニュにおけると同じように、随筆が生れたので ニ「一であるといわれ、その随想の書き方がイギリスでも広まって、はあるまいか。 イギリス文学の誇とする随筆 ( ェッセイーーその名もフランスか そしてわが魂をのぞいてみると、そこには陰翳がその東洋的な ら学んだ ) となったのだが、モンテーニ = の随想の来るところは美を誇っている。この礼讃は、実にすぐれた説である。谷崎随筆 懶惰の精神であるとしてよい。モンテ 1 ニを英語に訳した最初ないし美論のうち最もすぐれたものであろう。 の人は、フローリョだが、その訳本の第八章が「懶惰について」 その人いまやなし、そして私自身、十分以上老いた。ふり返っ である。英語では of ldlenesse となっている。次に拙訳を添えてみると、私は一生谷崎さんの文学の読者であった。『都わすれ の記』という歌集も、一つ一つの歌に、私自身の思出があるとさ え感じられる。歌、随筆、戯曲、そしておびただしい小説。私は 余り久しからぬ前、私は私の邸に引退したが、その目的は、 心の趣くままに、すべて仕事のわずらいから逃れ、独り静かに、戦争の合間には時々谷崎源氏を読んでいた。これは南海の戦線で 残り少ない余生を過してゆきたいという以外に何もなかった。死んだ従弟の残していったものであった。私の一生の日々には、 そこでは私の魂に余すところなき懶惰を与え、思うままに接待谷崎潤一郎の文学という金屏風がいつも飾ってあったというべき ( 東京教育大学名誉教授 ) してやり、かくして、好みに任せ楽をせしめる。これ以上わが 魂を愛する道はあり得ないと思っていたのである。段々この頃 はわが魂も落つき円熟して来ているのだからそのような楽居は 易々たるものと思っていた。ところが 谷崎さんのこと 絶工間ナク、懶惰 「細雪」に関する思い出など ワガ心ヲガス : 即ち、わが魂は私の中に言葉をかけて奇々たるキミーラ、 生島遼一 怪々たる怪物を生ぜしめたが、その秩序なき様いわれもなく相 重なる様は、遂に私をして、閑に任せ、その愚かさと法外なる戦後、「婦人公論」に「細雪」の終りの方が連載され、それが 寄妙さとを、見るに従って書きとめさせるに至った。もし生き完結したとき、「中央公論」からこの小説の批評をたのまれた。 延びてゆく末もあらば、いっかわが魂を恥しめ、みずから顔を「『細雪』問答」という対話体の評論を書いたが、新しかったので わりに好評だったらしく昭和二十五年度の「文芸評論代表選集」 赤らめさせるつもりもあったのである。 ミ ) 0