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検索対象: 谷崎潤一郎全集 月報
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1. 谷崎潤一郎全集 月報

年に、溝ロ健二が「雨月物語」によって国際的な評価を得ている。刊 ) に収められたさい、本巻の五二二ページ十三行目から五二三 ページ四行目にあたる一節、および五二四ページ七行目から五二 雨月の映画性に着目したあたり、谷崎の映画を見る眼は確かだっ ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) たようだ。 五ページ一行目にあたる一節が著者によって削除され、新書判全 集にも蹈襲されたが、本巻では初出に従ってその部分を補った。 「蘇東坡」と「鶴唳」は前掲初版本の『との話』を底本とし、 第七巻後記 初出の「改造」および「中央公論」の他に、「蘇東坡」は『無明 第七巻所収の作品十二篇は、大正九年一月から大正十年十一月と愛染』 ( 大正十三年五月、プラトン社刊 ) 、改造社版全集第十巻 ( 昭和五年十二月刊 ) の本文と、「鶴唳」は「現代小説全集第十 までに発表されたものである。これらの作品をそれぞれが最初に 巻・谷崎潤一郎集」 ( 大正十五年八月、新潮社刊 ) の本文と、それ 収められた単行本の刊行順に並べると、次の如くになる。 ぞれ照合した。「檢閹官」は『 << との話』所収の本文によった。 との話私途上不 川・加『 << との話』新潮社刊 幸な母の話檢閲官鶴唳大正 大正十年六月号から十月号にいたる「活動雑誌」にシナリオ「アマチ ュア供楽部」が〈谷崎潤一郎原作並脚色〉として連載されているが、新 月の囁き蘇東坡 書判全集編集のさい ここに掲載されたものは、原作は確かに自分のも 大正Ⅱ ・ 5 『潤一郎傑作全集』第五卷 のではあるが、監督の トーマス栗原が撮影用台本に書き改めたものであ 春陽堂刊 廬山日記 という著者の意向があ るから、自分の作品として全集には収めがたい、 大正・川『藝術一家言』金星堂刊 って削除したので、本巻にも収録しなかった。 「廬山日記」中の日付が「 ( 大正七年 ) 十一月十日」から始まって「十 大正Ⅱ・ 6 『愛すればこそ』改造社刊 或る調書の一節 月十一日」「十月十二日」と続いている。この不整合は初出誌「中央公 大正・川『藝術一家言』金星堂刊 生れた家 論」 ( 大正十年九月号 ) 以来のもので、年譜上からは「十一月」が正し 『鮫人』 改造社刊 大正 いと思われるが、従来の刊本通り、初出のままにしておいた。 以上のうち、新書判全集に収録されなか「たのは「蘇東坡」「鶴「検閲官」は初出未詳である。内容の性質上、新聞なり雑誌に掲載する のをはばかり、直接単行本『 << と ;q の話』に収めたものかとも思われる。 唳」「檢閲官」の三篇である。したがってその他の九篇はすべて 新書判全集を底本とし、初出雑誌および初版本、戦後にも刊行さ ■刊行室から れた作品はそれぞれその戦後版を参照してテキストを作製した。 ▽「谷崎潤一郎全集」豪華普及版の第七回配本・第七巻をお届けいたしま なお「私」は、著者の歿後に発見された手入れ本と照合して、 す。 ▽次回鋓八巻は五月十日に配本されます。大正十年十二月から大正十二年 若干の補訂を加えた。 一月までの作品十二篇が収録されています。御期待願います。 「或る調書の一節」は戦後、『私』 ( 昭和二十二年三月、全国書房 っ 1

2. 谷崎潤一郎全集 月報

て、文壇の主流としてなお有力だ「た。芥川の「 MENSURA 全集を参考にして校訂した。 ZOI こ」 ( 大正五年 ) は直接には広津の批評に反撥して書かれた新書判全集に収められなか「た作品は、この他に「少年の脅 小説たが、その間の事情を如実に伝えている。「早稲田文学」諸迫」と「人間が猿になった話」の二篇であるが、ともに初版本以 同人の大正期新世代 ~ のはげしい反撥にしても、その根底には文後では大正十三年九月、新栄閣刊『小さな王國』に収められてい 学観の根ぶかい対立が横たわ「ていたわけで、自然主義との対立るだけである。しかしこの本は初版本の紙型をそのまま使用した 関係を通じて、新技巧派の = 「ールとして意味が明確にな「てゆものなので、本巻のテキストは初版本を底本とし、それぞれ初出 くのである。 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) の新聞・雑誌と照合して作製した。 他の七篇はすべて新書判全集を底本とし、初出の新聞・雑誌お よび初版本を参照校訂した。 第五巻後記 なお、著者の歿後、その蔵書の中に改造社版全集に加筆した手 第五巻所収の作品十篇は、大正六年九月から大正七年七月まで入れ本が若干発見されたので、本巻中の「金と銀」「白晝鬼語」 に発表されたものであり、それぞれ次の如く単行本に収められた。 についてはこの手人れ本と照合し、若干の補訂を加えた。 大正 9 女人神聖 『女人神聖』春陽堂刊 假裝會の後 ■刊行室から 大正 7 ・ 8 『二人の稚兒』春陽堂刊 兄弟 ▽「谷崎潤一郎全集」の豪華普及版第五回配本・第五巻をお届けいたしま 大正 8 ・ 6 少年の脅迫 『小さな王國』天佑社刊す。この巻には、大正六年九月から大正七年七月までの作品が収録されて います。 前窄者 ▽本巻のロ絵写真として掲載した「二人の藝術家の話」 ( 改題「金と銀」 ) 人面疽 大正 7 ・ 8 『二人の稚兄』春陽堂刊 の前書原稿は、橘弘一郎氏の御好意によるものです。 二人の稚兒 ▽次回配本 ( 三月十日 ) の第六巻には、大正七年八月から大正八年十二月 までの左記作品十六篇が収められています。御期待ください。 金と銀 『金と銀』 春陽堂刊 「小さな王國」「魚の李太白」「嘆きの門」「柳湯の事件」「美食倶樂部」 白書鬼語 「母を戀ふる記」「蘇州紀行」「秦淮の夜」「呪はれた戲曲」「西湖の月」「富 人間が猿になった話大正 8 ・ 6 『小さな王國』天佑社刊美子の足」「眞夏の夜の戀」「或る少年の怯れ」「或る漂泊者の俤」「秋風」 「女入聖」は初版本以後、改造社版「谷崎潤一郎全集」第一巻「天鵞絨の夢」 ▽本全集は昨年十月に刊行を開始してから好評をいただき、第二巻は品切 ( 昭和六年三月刊 ) に収録されただけである。したがって本巻の れとなっておりましたが、ただいま再版が出来ております。お買い洩れの テキストは初版本を底本とし、主として初出誌と照合、改造社版 かたは、最寄り書店または本社へお中込みください。

3. 谷崎潤一郎全集 月報

う。潤一郎自身もそうした動向に触発されて、みずからディアボ また「鬼の面」は前表の初版本を底本とし ( 大正八年十一一月、 リズムの仮構に身をまかせたふしもあるが、それが所詮〈一種の春陽堂刊の『自畫像』に収められている本文は、挿画は変ってい 装飾的思想〉 ( 佐藤春夫 ) にすぎなかったのは、また別な問題であるが初版本と全く同じ紙型を使っている ) 、初出の新聞によって る。 校訂した。 いずれにしても、入道と悪魔は大正期初頭の文壇で、自然主義「華魁」は掲載誌「アルス」 ( 大正四年五月号 ) がこの作品のた 否定の二旒の旗差物だったのである。 め発売禁止となり、未完に終った。「お才と巳之介」は戦後刊行 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) された『お才と巳之介』 ( 昭和二十四年九月、愛翠書房刊 ) で著 者の斧鉞が加えられている。「訷童」は本巻三六五ペ ージの十一 行目から十六行目にあたる一節が、新書判全集の際に著者の手に 第三巻後 より削除が行われたが、本全集では初出に従った。 第三巻所収の作品七篇は、大正四年四月から大正五年四月まで 第一巻月報の本欄に、「未完の作品『彷徨』も『新思潮』発表以後は 刊行されず、昭和三十三年一月刊行の『谷崎潤一郎全集』第一巻に初め に発表されたものである。これらの作品はそれぞれ次のように単 て収録された。」と記したが、これは「昭和五年六月改造社刊行の『谷 行本に収められた。 崎潤一郎全集』第二巻に初めて収録された。」と訂正する。 大正 5 ・ 6 『金色の死』 日東堂刊 創造 昭和 5 ・ 9 『谷崎潤一郎全集』第七卷改造社刊 華魁 ・刊行室から 5 ・ 9 『刺青外九篇」 春陽堂刊▽「谷崎潤一郎全集」豪華普及版の第三回配本・第三巻をお届けいたしま 法成寺物語大正 す。この巻には大正四年四月から大正五年四月までの作品が収められてい 加『お才と巳之介』 新潮社刊 お才と巳之介大正 4 ・ ます。 大正 5 ・ 6 『金色の死』 獨探 日東堂刊▽本全集の第一巻、第一一巻ともに好評をいただいております。読者の皆さ 大正 5 ・ 6 『神童』 須原啓興社刊 御童 まがたに厚くお礼申し上げます。なにとぞ全巻御購読くださいまして、こ の世界的文豪の全集を書架に備えていただくよう御願いいたします。 大正 5 ・ 9 『鬼の面』 須原啓興社刊 鬼の面 ▽小社から、伊藤整著「谷崎潤一郎の文学」、谷崎松子著「倚松庵の夢」 このうち「創造」と「鬼の面」の二篇は新書判全集には収録さ が出版されています。前者は具体的作品の鋭い分析を通して谷崎文学の思 面し、二十世紀文学の正統の位置に据えた批評家としての著 れなかった。したがって他の五篇のテキストは新書判全集を底本想性を高く評イ 者の代表的作家論です。後者は、亡き大谷崎への至純の愛と献身に生きた とし、初出の雑誌、初版本、その他の版本と校合したが、「創造」 夫入がつづられた文豪追慕の書です。そのほか、三島由紀夫著「作家論」、 は前表の『金色の死』の本文を底本とし、初出誌と『金と銀』 トナルド・キーン著「日本の作家」にも谷崎潤一郎論が収められていま ( 大正七年十月、春陽堂刊 ) の本文を参照校訂した。 す。本全集と併せて御購読をお願い申し上げます。 一三ロ

4. 谷崎潤一郎全集 月報

大正 『肉塊』 春陽堂刊 肉塊 文学運動が「文芸戦線」によって出発する。その前駆の「種蒔く 『神と人との間』 新潮社刊 人」は大正十年二月に創刊されていた。時代はすでに否応ない転神と人との間大正 本巻初収録 ースペクテイプでいえ雛祭の夜 換期に入っていたのである。現代からの。ハ 大正 改造社刊 ・ 9 『赤い屋根』 ば、震災はやはりエボックメーキングな事件であった。関東平野港の人々 を震撼した衝撃は同時に、明治から大正にかけて形成された文学無明と愛染 『無明と愛染』 プラトン社刊 腕角カ 理念、市民文学といってもよいし、個人主義文学といってもよい が、その理念の根底にもはげしい一撃を加えてすぎたのである。 以上のうち「肉塊」「神と人との間」「雛祭の夜」の三篇は新書 大震災とおなじ年の六月、有島武郎が軽井沢で波多野秋子と情判全集に収められていない。 死した。かれは前年の「宜言一つ」で、第四階級の擡頭を前にし 「肉塊」のテキストは前掲初版本を底本とし、初出の「東京朝日 て知識人がついに無力であるゆえんを、自嘲を交えて説いていた。新聞」と校合した。 その有島を同人のひとりとする「白樺」は震災で九月号が焼けた 「神と人との間」は初版本を底本とし、初出誌および「現代小説 のを機として、あしかけ十四年におよぶ歴史を閉じた。これもま全集第十巻・谷崎潤一郎集」 ( 大正十五年八月、新潮社刊 ) 、「現 た、〈揺らぐ大地〉を象徴する事件といえよう。 代長篇小説全集第八巻・谷崎潤一郎篇」 ( 昭和四年十一月、新潮 社刊 ) と照合した。 さて、谷崎潤一郎は小涌谷にたどりついてから、九月四日に沼「雛祭の夜」は初出誌から直接覆刻した。 津へ出て、汽車で大阪にむかった。九日に神戸で上海丸に乗船し「港の入々」「無明と愛染」「腕角力」は新書判全集を底本とし、 て帰京、十一日にはじめて妻子と再会した。その月の二十日に、 それぞれ初出誌および初版本と照合した。 家族とともにふたたび上海丸で関西へむかい、以後二度と東京へ ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) 帰らなかった。 第九巻後記 第九巻所収の作品六篇は、関東大震災を中にはさんで、大正十 二年一月から大正十三年二月までに発表されたものである。これ らの作品はそれぞれ次の如く単行本に収められた。 ■刊行室から ▽「谷崎潤一郎全集」豪華普及版の第九回配本・第九巻をお届けいたしま す。毎月御購読くださいましてありがとうございます。 ▽次回第十巻は七月十日に配本されます。関西移住後の大正十三年三月か ら大正十五年十二月までの作品で「痴人の愛」など十三篇が収録されてい ます。御期待願います。 ▽小社では六月十日から「中公文庫」を発刊いたしました。御支援をお願 い中し上げます。 っ朝

5. 谷崎潤一郎全集 月報

や菊池寛らに見られるように、 この派の諸作家にほぼ共通のメル部」「富美子の足」「眞夏の夜の戀」「天鵞絨の夢」の四篇を除い ク・マールとなった。 た十二篇は、すべて新書判全集を底本とし、初出の新聞・雑誌お 谷崎潤一郎も当時〈芸術的完成に努力する作家〉 ( 三上於菟吉 ) よび初版本、戦後にも刊行された作品はそれぞれその戦後版を参 という苦しい理由づけで、新現実主義の一員として指名されてい 照してテキストを作製した。 る。しかし、自然主義との対立が新技巧派の〈技巧〉の意味から「美食倶樂部」と「天鵞絨の夢」はそれぞれ前掲初版本の『女人 喪失したとき、かれを新現実主義の内部につなぎとめるいかなる神聖』と『天鵞絨の夢』以後刊行されていないので、テキストは 親和力ももはや存在しない。谷崎が文壇の動向から離れ、孤立を初版本を底本とし、初出の「大阪朝日新聞」と照合した。 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) ふかめてゆく機縁である。 「富美子の足」のテキストは初版本の『近代情痴集』を底本とし、 初出の「雄辯」および『新選谷崎潤一郎集』 ( 大正十三年十二月、 改造社刊 ) 、改造社版全集第七巻 ( 昭和五年九月刊 ) と照合した。 第六巻後記 「眞夏の夜の戀」は初出の「新小説」から直接覆刻した。 第六巻所収の作品十六篇は、大正七年八月から大正八年十二月 大正七年八月号の「赤い鳥」に谷崎潤一郎の「敵討」という童話が掲 載されている。この作品は新書判全集第十四巻に収載されているが、大 までに発表されたものである。これらの作品をそれぞれが最初に 正八年十月春陽堂から刊行された鈴木三重吉編「世界童話集」第十四編 収められた単行本の刊行順に並べると、次の如くになる。 その他に、「珊瑚」という題で、鈴木三重吉の作品として収められてお 小さな王國魚の李太白 り、谷崎潤一郎の作品と看做すには疑問の余地があるので、本全集では 削除した。 8 ・ 6 『小さな王國』天佑社刊 母を戀ふる記柳湯の事件大正 秦淮の夜蘇州紀行 ■刊行室から 大正 8 ・ 7 『呪はれた戯曲」春陽堂刊 呪はれた戯曲 大正 8 ・ 9 『近代情痴集』新潮社刊▽「谷崎潤一郎全集」の豪華普及版第六回配本・第六巻をお届けいたしま 富美子の足西湖の月 す。 大正 9 『女人神聖』春陽堂刊 美食倶樂部 ー文学と風土」 ▽第二巻の本欄でお知せしました野村尚吾著「谷崎潤一郎 或る少年の怯れ秋風嘆 ( 価六〇〇円 ) が好評発売中です。御購読お願い中し上げます。 『恐怖時代』天佑社刊 ▽次回第七巻は四月十日に配本されます。大正九年一月から大正十年十一 きの鬥或る漂泊者の俤 月までの左記十一一篇が収録されています。御期待ください。 大正 9 ・ 6 『天鵞絨の夢』天佑社刊 天鵞絨の夢 「途上」「鮫入」「蘇東坡 ( 戲曲 ) 」「月の囁き ( シナリオ ) 」「私」「不幸な 本巻初収録 眞夏の夜の戀 母の話」「鶴唳」「との話」「廬山日記」「生れた家」「檢閲官」「或る調 以上十六篇のうち、新書判全集に収録されなかった「美食供樂書の一節」

6. 谷崎潤一郎全集 月報

はなはだ不同である。したがってこれらの作品が収載された単行大正六年七月号の「中央公論」に発表された「異端者の悲しみ」 も、その「はしがき」 ( 本全集では第二十三巻収載予定 ) に「此 本の刊行順に作品を並べると、次の如くになる。 の一篇は昨年の九月の中央公論定期增刊號に載せる積りで、その 人魚の嘆き術師病蓐 大正 6 ・ 4 『人魚の嘆き』春陽堂刊 の幻想鶯姫 夏の八月に脱稿した。さうして既に校正刷まで出來上った時分に、 突然、編輯局の一部から發賣禁止の惧れがあると云ふ意見が出た 異端者の悲しみ晩春日記大正 6 ・ 9 『異端者の悲み』 玄弉三藏詩人のわかれ 阿蘭陀書房刊爲めに、當分掲載を控へる事になった」とあるように、執筆と発 ハッサン・カンの妖術十 表とに約一年のズレがある。なおこの作品の末尾の一節 ( 本巻四 大正 7 ・ 8 『二入の稚兄』春陽堂刊 五二ペ 五夜物語或る男の半日 ージ ) は、新書判全集の際に著者の手により削除が行われ たが、本全集では初出に従った。 大正 9 ・ 2 『恐怖時代』天佑社刊 恐怖時代 啓明社刊 昭和 ・ 6 『馳風』 大正六年四月刊『人魚の嘆き』は、名越国三郎の挿画四枚のうち「魔 術師」と「鶯姫」の挿画二枚のため発売禁止になったといわれる。 昭和 ・ 6 『飃風』 啓明社刊 亡友美男 「晩春日記」中に「四月三十一日」という日付がある ( 本巻四五九ペー 本巻初収録 既婚者と離婚者 ジ ) 。初出誌「黒潮」以来すべての版本が訂正していないので、本巻で も蹈襲した。 これらの作品は「既婚者と離婚者」を除いて、すべて新書判全 巻頭のロ絵写真で「『羅生門』出版記念会」の出席者名は、発起人の 集に収められているので、本文校訂については前巻までと同様の 一人であった江口渙氏の記憶をもとに、『芥川龍之介Ⅱ日本文学アル。ハム 方法をとった。 6 凸 ( 筑摩書房 ) を参照、有島生馬氏、谷崎精一一氏、和辻照氏、林原耕 「恐怖時代」は掲載誌「中央公論」 ( 大正五年三月号 ) がこの作三氏に照会して記載した。 品により発売禁止となったため、大正九年二月に刊行された『恐 ■刊行室から 怖時代』では、作品名に〈改作〉と冠され、ト書きに大きな削除 が行われている。初出の形にもどされたのは前掲『飃風』 ( 発禁▽謹賀新年 ▽「谷崎潤一郎全集」豪華普及版の第四回配本・第四巻をお届けいたしま 作品五篇を収める ) においてである。 す。今年もいっそうの御支援をお願い中し上げます。 「亡友」と「美男」もそれぞれ掲載誌の「新小説」と「新潮」 ( と ▽この巻には、大正五年三月から大正六年十一月までの作品十五篇が収め られています。 もに大正五年九月号 ) がこれらの作品により発売禁止となったた ▽本全集第一一十二巻に「『越前竹人形』を読む」という水上勉著『越前竹人 め、初めて単行本に収められたのは前掲『颱風』においてである。 形』についての著者の一文が収録されますが、同書は水上氏の名作として また「亡友」中の伏字は、第一巻所収の「飃風」の場合と同様、 小社では昭和三十八年七月の初版発行以来版を重ねています。新春からテ レビで放映中でもあり、新装版を発売しています。御購読をお願いします。 初出誌以来の伏字であり、これを埋めえない。

7. 谷崎潤一郎全集 月報

に至る間に発表されたものである。前巻同様年代順に配列し、各と銀一 ( 大正七年十月刊 ) および『金色の死他三篇』 ( 大正十一年 篇の発表年月と掲載新聞雑誌単行本名はそれぞれ中扉裏に曷げこ。 才オ五月刊 ) 所収の本文と校合した。「懺悔話」は初出紙から直接覆 これらの作品は、発表後逐次単行本に収録され、次表のごとく刊刻した。 行されている。 単行本『甍』は「憎み」 ( のち「憎念」と改題 ) 「熱風に吹かれて」の 二篇からなり、大正四年十一月に『小説二篇』と改題されて、同じ紙型 戀を知る頃恐怖 大正 2 ・川『戀を知る頃』植竹書院刊 を用いて刊行されているが、「甍」という題の小説は存在しない。本巻 憎念熱風に吹かれて大正 3 ・ 3 『甍』 鳳鳴社刊 の時期の小説として「樺太へ往きたがる人」 ( 大正三年一月十一日「大 捨てられる迄饒太郎 阪毎日新聞」掲載 ) という作品があるが、これは生前、著者の言葉で、 『麒麟』 植竹書院刊 友人の作品に名を貸したものであることが判明しているので、削除した。 春の海邊 お艶殺し 大正 4 ・ 6 『お艶殺し』千章館刊 ・刊行室から 金色の死 日東堂刊 大正 5 ・ 6 『金色の死』 ▽「谷崎潤一郎全集」豪華普及版の第二回配本・第二巻をお届けいたしま 「少年の記憶」は発表後どの単行本にも収められず、昭和三十四 す。この巻には大正二年一月から大正四年一月までの作品が収められてい 年七月刊行の「谷崎潤一郎全集」 ( 新書判全集 ) 第十四巻に初め ます。 ▽本全集の第一巻は、発売とともに好評で、読者の皆さまから多数愛読者 て収録された。「懺悔話」は従来「懺悔」という題で年表などに カ 1 ドを寄せられるなど御支持をいただいております。今後ともいっそう は記載されていたが、今回初めて確認されたものである。 の御支援をお願いいたします。 本巻のテキストは「恐怖」「少年の記憶」「戀を知る頃」「憎念」 ▽昭和四十一年の全集刊行時に御購人の機を逸せられたかたをはじめとし 「お艶殺し」の五篇については新書判全集を底本とし、初出の新て多くの読者、とくに若いかたがたから本全集の刊行を喜んでいただいて おります。いままでに「谷崎潤一郎全集」再刊の御要望を寄せられた皆さ 聞雑誌単行本およびその他の版本を参照校訂した。なお「お艶殺 まに厚く御礼を申し上げます。 し」は著者が戦後『お艶殺し』 ( 昭和一一十一一年六月、全国書房刊 ) ▽第一巻の本欄で「奧付の検印は棟方志功氏の刻になるものです」と記し ましたが、故富本憲吉氏作の陶印の誤りでした。刊行室の不注意を深くお で相当の斧鉞を加えたので、初出とはかなりの異同がある。 詫び申し上げるとともに、謹んで訂正させていただきます。 新書判全集に収められなかった作品が五篇あるが、「熱風に吹 ▽次回配本 ( 十二月十一日 ) の第三巻は、大正四年四月から大正五年四月 かれて」は単行本『甍』所収の本文を底本とし、初出誌と校合し までの左記作品を収めてあります。御期待ください。 た。「捨てられる迄」 ( 初出題名は「捨てられるまで」 ) と「饒太「創造」「華魁」「法成寺物語」「お才と巳之介」「獨探」「訷童」「鬼の面」 郎」は、単行本『麒麟』所収の本文を底本とし、初出誌、改造社▽小社から野村尚吾著「谷崎潤一郎ー風土と文学ー」が近日発売されます。 文豪谷崎潤一郎に師事した著者が、作品成立の経緯を現地に訪ね、回想す 版「谷崎潤一郎全集」第四巻 ( 昭和六年四月刊 ) 、その他と校合 るユニークなもので、谷崎文学の研究と鑑賞に得難い資料です。併せて御 した。「金色の死」は単行本『金色の死』を底本とし、初出紙、『金購読ねがいます。 ワ 1

8. 谷崎潤一郎全集 月報

新技巧派と自然主義との対立は大正六年から七年にかけて、も現実主義の要求というような形をとり、新技巧派と自然主義の対 っとも明瞭な文壇現象となった。しかし、大正八年にはいると、 立に重層して、ネオ・ロマンチズムと現実主義の対立関係が生じ この対立関係ははやくも崩れ、両者をひとしなみに包括する新現たりする。たとえば生えぬきの自然主義者である本間久雄によっ 実主義の概念が成立する。対立の意味を明確にするいとまもなく、て、「浪漫主義か現実主義か」という間題の整理がおこなわれた 文壇の動向はまことにあわただしく、つぎの曲り角にさしかかっ のは大正七年十月である。しかし、この鬼子の成長は急速だった。 たのである。その背後には、民衆芸術論の唱道にはじまる、社会まもなく民衆の概念に働く者Ⅱ労働者の自己規定があたえられ、 主義文学の新しい波の擡頭があった。 へと変 さらに階級理論と握手することでプロレタリア文学の前兆 貌してゆくのである。 大正期前半は、日本の社会主義連動の〈冬の時代〉であった。 明治四十三年の大逆事件の大弾圧以後、運動は指導者の大半をう労働者文学の概念が明確になるのは大正八年で、この年「黒 しなって完全な屏息を強いられた。あやうく難をのがれた大杉煙」と「労働文学」が同時に創刊され、「近代思想」の土壌に育 栄・荒畑寒村らは大正元年に「近代思想」を創刊し、わずかに った宮島資夫や宮地嘉六らの荒削りだが、不敵な文学がようやく 〈哲学や科学や文学の仮面〉のかげで、思想のほそばそとした命文壇の地平に姿を見せてきた。 脈をたもっていた。この雑誌は石川啄木の「果しなき議論の後おなじ年、既成文壇はかれらの現実主義に対して、新しい現実 に」などが掲げられたことでも有名である。 主義の主張で武装しつっその地図の再編成をいそぐ。新技巧派と しかし、第一次世界大戦による社会構造の揺動や大正デモクラ自然主義の対立は解消し、両者をひとしなみに括る巨大な輪のな シイの原理化、ロシャ革命の成功など、さまざまな要因がふたた かに、大正期文壇の現有勢力をほとんど網羅する視点が成立した び社会主義思想の雪解けを用意することになる。「近代思想」の のである。いまなお文学史の概念として生きのびる新現実主義の 廃刊は大正五年一月だが、このとき仮面の使命はまったく終って縁起である。 こう見ると、新現実主義の概括自体は流派としての必然性をも おなじ年に、民衆芸術論がはじめて文壇に現われる。 たぬ無意味な輪にすぎない。社会主義文芸の擡頭を迎えた既成文 本間久雄・大杉栄・加藤一夫らの唱道した民衆芸術論はその詩壇の防衛的視点であり、やがて昭和文学の内部で顕在化するはず 的実践としての民衆詩派 ( 百田宗治・福田正夫ら ) の動向をふくの市民文学と、プロレタリア文学の対立関係の原型であった。そ めて、まだ漠然とした教化的・人道主義的な民衆への接近にとどして重要なのは〈現実〉を原点とする座標系によって市民文学の まり、そのかぎりでは自然主義や白樺派のモチーフの変奏、いわ統一が求められたこと。大正文学のひとつの解答がそこにあった ばその鬼子にすぎなかったともいえる。文壇への波紋もはじめはわけで、具体的にいえば、志賀直哉への傾倒がたとえば広津和郎

9. 谷崎潤一郎全集 月報

フなどのおびただしい翻訳劇の上演表目を見れば明白である。こ有三や菊池寛を抑えている。当時の劇作家としての世評を示す資 の日本語の徹底的な無視は新劇連動そのものの遊離と閉鎖を招き、料のひとつだろう。 鵰外のいわゆる演劇場裡の詩人Ⅱ劇作家を内部から育てることも築地小劇場は昭和二年四月に、谷崎の「法成寺物語」を上演し できなかった。 た。道長が友田恭助、院源律師が青山杉作、四の御方が山本安英 新劇運動における劇作家の不在は逆に大正期に入って、小説家という配役で、端役だが、東山千栄子も顔を見せている。これが による戯曲の執筆、創作劇の流行という現象をもたらす。その間実は新劇運動とのほとんど最後の接触であって、以後、谷崎文学 の因果はさほど簡明ではないが、谷崎をはじめ久米正雄・菊池寛・の世界は歌舞伎や新派の舞台で、濃艶で廿美な、大輪の花を咲か 山本有三・久保田万太郎・里見弴らの才華が相次いでドラマの世せることになる。 界に参加してきたとき、新劇運動の空白はかれらによって埋めら それに関連していえば、谷崎は大正二年にはやくもイプセンを れるべきだった、ということはできよう。事実、大正八年に芸術否定し、〈思想内容の深刻な芸術よりも、官能的な快味の豊穣な 芸術を喜ぶ〉という理由で、ダンヌンチオやワイルドの上演を待 座が解散し、自由劇場が消減して以後の新劇運動の空白期に、こ れらの劇作家たちの存在は〈戯曲が新劇運動を導くという逆様の〉望している ( 「劇場の設備に対する希望」 ) 。松井須磨子がサロメ ( 舟橋聖一 ) 事態さえ生じたし、それはやがて大正十三年一月にを演じた事実はある。しかし、その舞台効果は谷崎の期待にはは 創刊される「演劇新潮」 ( 谷崎も編集同人として参加 ) の運動とるかに遠かった。新劇運動の本流が思想の深刻のみをめざしたの は否定できない。様式美を見うしなって社会劇へ傾斜する新劇の なって結実し、岸田国士を生むことになる。 しかし、日本の新劇と創作劇との接点はまだ不在だった。「演ひずみを、もっとも正確に見抜いていたのはあるいは谷崎潤一郎 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) だったかもしれない。 劇新潮」にややおくれて、築地小劇場 ( 小山内・土方与志 ) によ って新劇運動が再起したとき、小山内が創作劇の拒否を宜言し、 「演劇新潮」同人とのはげしい応酬があったのを見ても事態は明 第八巻後記 瞭である。演出中心主義と戯曲中心主義の相剋でもあったが、結 果として、新劇運動はふたたび実験的性格に自己を閉鎖した。 第八巻所収の作品十二篇は、大正十年十二月から大正十二年一 小劇場が日本の創作劇を上演するのは第三年度 ( 大正十五年 ) 月までに発表されたものである。これらの作品をそれぞれが最初 に入って、逍遙の「役の行者」が最初である。それに先立って観に収められた単行本の刊行順に並べると、次の如くになる。 愛すればこそ永遠 客の希望を投票で募ったが、最高は岸田国士で三十八票をあつめ ・ 6 『愛すればこそ』改造社刊 の偶像彼女の夫 た。二十二票を得た谷崎は、武者小路に続いて三位に人り、山本

10. 谷崎潤一郎全集 月報

鵰外文学の根っ子も明治という一時代の光彩と暗黒にふかくっ は嗽石が芥川龍之介にあてた遺書だともいえよう。すくなくとも、 ながれていた。かれもまた新しい時代を迎えて、自己の思想の生 新しい世代への遺書だったのはたしかだが、 その芥川もたとえば きるてだてに絶望したひとりである。この年の七月に随筆「空 「将軍」で、自刃の前日に写真を撮った乃木将軍の衒気を衝くと いったていの底のあさい批判をやってみせる。「将軍」を書く芥車」が書かれた。なにものも載せず、大道を濶歩する巨大な車へ 川が「こ、ろ」を想起していたとしたら、大正の世代は漱石の投の感動をかたった文章だが、同時に、おのれを一箇のむなぐるま げたおもい問題を正確にはうけとめなかったことになる。漱石のとして目送する時代への醒めた認識が底に沈んでいる。ふたたび 死によって、明治の命脈がまたひとっ絶たれたのは確かである。 比喩としていえば、「空車」は新しい世代へ寄せる鷓外の遺書で 漱石の葬儀は十二月十二日に青山斎場で執行され、多くの弔問 もあった。翌六年の「北条霞亭」を最後に、鵰外は本格的な創作 客があいついだ。この日、芥川は受付で忙殺されていたが、かれ活動をほとんど廃するにいたるのである。こうして、漱石の死と にもっとも強烈な印象をのこした弔問客のひとりは森鷓外だった鷓外の沈黙があいついだ大正五年から六年にかけて、〈明治の終 らしい。芥川はその印象をつぎのように回想する。 焉〉が文学史上の顕著な事実として記録されることになった。 《霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺をさし出した り。その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云ふべきか、滅多に 大正六年六月二十七日の夜、芥川龍之介の第一短篇集『羅生 世の中にある顏ならず。名刺を見れば森林太郎とあり。おや、先 門』の刊行を祝う会が日本橋のレストラン鴻の巣でひらかれた。 生だったかと思ひし時は、もう斎場へ入られし後なりき。》 ( 「森当日の出席者には小宮豊隆・有島生馬・豊島与志雄・佐藤春夫・ 先生」 ) 久米正雄、そして谷崎潤一郎らの名が見える。谷崎の出席は芥川 人数だがにぎ 芥川はのちに〈漱石と鷦外の私生子〉という奇妙な呼び名で評を有頂天にさせたとも伝えられるが、とにかく、小 されたこともあるが、漱石を葬る斎場での鷓外との対面というこやかなこの日の顔触れこそ、明治の終焉を強いた新しいエリート ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) の一幅の図柄は、さながら明治から大正への世代の交替を告げるの集いだったのである。 劇のひとこまとして興味ぶかい 大正五年の鷓外はすでに「渋江抽斎」以下の史伝の世界に踏み 第四巻後 こんでいた。〈皆当時ノ尺牘等ニ拠リテ筆ヲ行リ一ノ浮泛ノ字句 ナキハ著者ノ敢テ保証スル所〉 ( 自筆広告 ) とみずからいう史伝第四巻所収の作品十五篇は、大正五年三月から大正六年十一月 の試みが、史料の内部に作家主体を埋没するきびしい決意の裏に、までに発表されたものである。この時期は著者の作品が発表と同 現前の紛々たる事象への断念をかくしていたのはいうまでもない。時に発売禁止の厄に遇うことが多く、単行本に収められた順序も 一三ロ