の「水道路」はもちろん、六甲山を背景にした豪勢な屋敷もそのれは芦屋市三条町二〇八の木場悦熊さんで、これは先生自身より、 ままである。戦後の変動で、いくらか所有主が代ったにしろ、外松子夫人の古くからの友入である。木場夫人の話によると、松子 夫人は先生との恋愛事件、同棲当初の問題などを、しばしば相談 見はゆったりと静かな邸宅街である。 に見えたということである。また時には、自宅で「春琴と佐助」 いわば阪神地区の代表的な富裕な町で、「細雪」の蒔岡一家が 役に気骨が折れると、息抜きに遊びに見えたこともあったそうで、 住むには好適なため、この地を舞台に選んだのであろう。今もこ その前後は経済的にも楽でなかったのに、松子夫人にはそんな所 の一割を歩いていると、「細雪」の雰囲気が思い浮んでくる。 説に出てくるかかりつけの櫛田 ( 実名重信 ) 医院も、ほとんど違がちっとも見えず、いつも変わらずゆったりされていたという。 わぬ表つきで開業している。実際また、ここはいまでも。ハチンコ生来身についた優美さなのでしよう、ということだった。 屋やバ 1 などは、 またこの木場夫人は、「細雪」の中に陣場夫人として、縁談の 撮町規で許可しな世話などよくされている。もちろんそのままモデルにしたわけで 筆いことにして なく、現在出版社を経営している e ・さんとの二人を巧みにミ るそうだ。 ックスして、一つの性格に創造されているらしい 家 の ところが谷崎 さらに木場夫妻は、先生と松子夫人の頼まれ仲人でもある。 林 高 結婚届は昭和十年五月三日となっており、夫人も根津家からい 反先生は、現実に 戸 醂は芦屋川に居住「たん実家の森田姓にもど「て、大阪市西区靱上通一丁目三十一 ん されていたこと番地に届人れられている。だがこれは便宜上のことで、その番地 ~ だが正式の挙式は届出 まがないのだ。多も、創元社 ( 大阪 ) のあった場所らし、 年分知人でもいて、より数カ月早い、一月だったということである。 じっさいは芦屋市宮川町十二番地、詩人の富田砕花氏が現在住 ら時おり出かけた んでいられる住居で、結婚式をあげられたのである。木場夫人の 啾のは間違いない だろう。はっき話によると、古式にのっとり燭台の灯に映えた金屏風をひきまわ 和 郵りしているのは、し、仲居が三人ほど式の世話にあた「たという。雄蝶・雌蝶のよ うな役もやったものかと思われるが、関西の本式の結婚式には、 一ただ一軒だけ、 当時からの親し必ず席に侍るのだそうである。 い家がある。そ そのころの宮川町は、畑や原が多く、今のように立て混んでい
僕は先生に見習って東京から河内の天台院に移る時は、茶碗まで浮名を立てたりしていた時だったので、夫人は空閨の淋しさから 近所へ呉れ歩き、本だけを担いで入山した。すると天台院のある谷崎家を憩いの家として泊りがけで遊びに来られたものだ。 八尾中野村の人々は 後年、先生の御手紙によって知ったことであるが、彼女に恋慕 「何にも家財道具おまへん引越しだんな」 したのは三人で、花柳章太郎はてつきり先生の彼女だと思い、先 と、いみじくも匕日商しこゞ、 才キ / カこれだけは今でも先生の真似をし生は僕の彼女だと信じて控えていた由で、僕はまた僕で花柳とい て古道具類を持ち運ぶ愚劣な引越しだけはしない。何ともさばさ う猛者が彼女を慕って横浜くんだりまで来るのだと思い込み、三 ばして気色が好いもので、古シャツを脱ぐようだと思えば好い。 すくみの体で彼女は貞淑たり得たという面白い消息を頂いて、僕 この本牧の家は文壇の人達も知っている人が少くない筈だが、 は恋は思案のほかと悟ったことであった。 隣りが有名なチャブ屋の「キョ・ ハウス」だった。このことはあ この夫人の御嬢さんは秋田に嫁し、秋田グランド・ホテルの専 んまり知る人が少いだろうから書いておくが、キョの主人は茨城務夫人として健在され、僕は時折り秋田に講演に赴いてはいたく 県下妻の産で、後年、僕が病いを養うために小さな別荘を建てた御厄介になる次第で、母子お二人の深い因縁を重んじて御交際を 結城郡大花輸村というのは下妻とは至近距離にあったので知り合 つづけているのである。僕は彼女に谷崎先生を御紹介する約東を ったわけだ。 し、先生もまた彼女を是非見たいと仰せられ、何とも懐しいこと このキョ・ ハウスには酔いどれの紅毛人等が素っ裸の洋妾を抱であると僕にその段取りを仰せつけられながら、雑事のため東奔 いて踊るという有様で、それを芝生つづきの庭から眺めている若西走、遂にその機を逸して先生の御長逝にこの企画を頓挫せしめ い僕にはたまらない刺激で、お茶を引いた売れ残りの妓を抱いてたことは何とも申訳ないことだと痛恨しているのである。ヘンリ せめてもの慰めにしたが、こんな勘定の尻ぬぐいまでして頂いた ー前夫入は離婚してアメリカに帰られ、彼の地でお亡くなりにな かと思うと罰が当るような気がするのだ。 ったと聞いているが、想えば本牧時代に谷崎邸でお目にかかった この本牧にお住いの頃、先生の「本牧夜話」が久保田万太郎さ御方々は、吉井勇、久保田万太郎、喜多村、花柳と数えれば枚挙 んの演出で浅草の公園劇場で新派が上演することになり、本牧見に遑ないほど多くの仁が既に亡く、僕また古稀の年に達してこの 学という名目で喜多村緑郎や花柳章太郎などの面々が能く横浜に ような思い出を綴らなければならないとは何とも佗びしいことと 来たものだ。 言わなければならない。 ーマス・Ⅱ・インスの高弟だった小谷ヘンリ ーとい、つ名キャ 大正活映というのは或る汽船会社の系列にあった会社で、横浜 メラマンが松竹に入社し、このヘンリーの奥さんが二世で、まこ の外人墓地に近いところにスタディオを設立し、栗原トーマスが とに麗しい感じの好い御方だった。ヘンリ ーが女優の英百合子と監督として「アマチュア倶楽部」だとか「葛飾砂子」だとか「蛇 しもづま
べにしだれ ない寂しい土地だ「たという。富田氏の兄の広い土地を分割して平安神宮の紅枝垂桜は大変先生もお気に入りで、家を移るたび 建っていたこの家は、現在でも門やその右にある風変りな中二階 に必ずこの桜を植えさせていたほどで、作中でも一方ならぬ愛着 とその下の格子窓、塀の中の松など、外貌はそのままである。し が示されている。また螢狩も岐阜県垂井の松子夫人の知りあいの かし内部は、例の関西の風水害のさい、すぐ東寄りに流れている旧家に、しばしば招ばれたときのことだという。先生は夫人や妹 宮川の氾濫で、破損したため建て直されている。ただ庭園の大きさんたちと一緒に、螢狩、茸狩にじ「さい出むかれたのである。 な敷石と燈籠、それに井戸だけが当時のものだということだ。私余談になるが、偶然私はそのすこし後に飛騨の高山市で、先生 はその大きな敷石を見ていたら、執筆の余暇に縁側からふらっと にお目にかかったことがある。私は合掌造りと大家族制度で有名 下り立「てあたりを見やっていられる先生の姿が彷彿として来た。な飛騨の白川村に取材に行った。昭和十六年の七月か八月だと思 ( 谷崎先生はそれより前の昭和十一年秋に神戸市東灘区の住吉町う。私は北陸に寄「て帰京するつもりで、疲れた体で時間つぶし 反高林に引越されていて無事だったわけである ) に、新聞社の通信部で休んでいた。そのとき通信部主任がカメラ 松子夫人の末妹嶋川信子さんの思い出話によると、三人の姉妹を持「て出ていったと思うと、まもなく通信部のすぐ前の旅館に がいちばんよく集「て、遊びに行く相談をしたり、買物の打合せ先生ともう一人の方が、玄関先で記者の注文に応じてカメラに納 をしたのは、この住吉と、住吉川をへたてた魚崎町魚崎の家だっ まっていられた。私は思わず腰を浮かしたけれども、まだ親しく たそうである。三人の姉妹の特有の言動や優雅さは、「細雪」のロをきいたこともないし、旅疲れのところ ~ 割込んでもと、思い 中によくとらえられており、見事に情緒が描きだされているのは、直してやめた。もう一人の背の高い人は、岐阜県の郡上八幡から 一読すればよく分るはずである。 高山へ案内してきた方たということだった。鮎や踊りで有名な郡 また末妹の信子さんを、御主人の嶋川信一さんもそうだが、以上八幡へ誘われ、そのあと高山見物に来られたものらしかった。 前からの知人は本名を呼ばず、小説に出てくるように「こいさん」 そのころの先生は、客ぎらいなたけでなく、美しく着飾った三 、らし、 と呼んでいるし、またそのほうが神戸では通りがい 入の姉妹たちの「家風に任せ、必要な時は自分だけひとり書斎に 「こいさん」に「『細雪』の中でいちばん楽しい部分は、どのヘ閉ち籠る」ような生活をされていたことが「雪後庵夜話」に出て んです ? 」と聞いたら、「やつばり平安神宮の花見や螢狩の場面 いるし、古くからの東京の友入とさえ、交際を嫌い、家で夫人を が好きですねん」ということだった。 紹介したがらなかったとある。 作品の中でも、右の部分はたしかに圧巻だが、そのうえ「こ、 その極度にあったのが、この住吉・魚崎時代なのである。初め さん」は、「ほんとうのことをちゃんと書いてあるよって : : : 」 川の西側の住吉町反高林に住んでいたが、その後川の東側の魚崎 し J 、もいっていた 0 町に転居された。それも知入の家と交換して移られたのである。
「細雪」が発表されたのは周知の通りである。 却説、谷崎松子夫人の「倚松庵の夢」を読んで、私は谷崎との 交友関係、それも松子夫人と結婚してから今日に至る迄の永い年谷崎は一生かけた芸術のために求めあぐんだ女性に奇しくもめ ぐり会え、余命を芸術に捧げるためには世の毀誉褒貶は物の数に 月の杜絶えの真因を解明されて釈然、又幽明境を異にする彼を追 憶して感無量なるものがある。「倚松庵の夢」には彼が松子夫入も値しなかったであろうし、松子夫人は阯間の義理合いを一切す とのめぐり会いから結婚に至る迄のいきさつが彼の手紙をあげててて芸術至上の作家を理解し、その持てるものを発揚させる手助 けに挺身する決意を固めての万難を排しての結婚は如何なるもの 書かれてある。その手紙の中で彼は 、「肓目物語」は始終松子夫人のことを念頭において書き上も介人は許されなか「たであろう。「倚松庵の夢」は谷崎と私と の永い間のそして、水遠の友交の空白を解きほぐしてくれた。松子 げたこと。 二、彼は崇拝する高貴な女性がなければ思うように創作が出来夫人は「倚松庵の夢」の終りにタゴールの詩を引いて谷崎は断じ これがようよう今日になって始めてそういう女性にて死んでいないと結ばれたが、私には彼の死それが生んだ「倚松 庵の夢」が私の心に永久に消えないことになった。 めぐり合うことが出来たこと。 谷崎は芸術に生まれ、芸術に生き、芸術に死んだのだ。 三、谷崎としては芸術のための夫人ではなく、夫人のための芸 ( 元高分子化学工業株式会社社長 ) 術であり、夫人なしでは彼の今後の芸術は成り立たぬ。も し夫人と芸術とが両立しなければ彼は喜んで芸術を捨てる。 と切々思慕の情を披腮している。谷崎としては、これ迄求めに これ迄の力強さに事欠く 求めあぐんだ理想の女性にめぐり合い 幻想を追うてのことと事変り、現実の対照を念頭に置いて創作す ることが出来る様になったのである。彼が松子夫人宛の手紙の中 で「御寮人様の御ことならば一生書いても書き、れないほどでご ざりまして今迄とはちがったカが加はって参り不思議にも筆が進 野村尚吾 むのでござります全く此の頃のやうに仕事が出来ますのも御寮 人様の御蔭とぞんじ伏し拝んでをりますいづれ時機がまゐりま「鍵」は昭和三十一年、数え年七十一歳の時の作である。私はそ の年の九月下旬に、下鴨の潺湲亭に久しぶりに先生を訪間してい したらば自分の何年以後の作品には悉く御寮人様のいきがか、 ってゐるのだといふことを世間に発表してやらうと存じます」とる。多分一年以上お目にかかっていなかったように思う。 九月といえば、まだ「鍵」の執筆最中である。お会いした用件 胸のうちを打明けている。そして矢つぎ早に「蘆刈」「春琴抄」 ・谷崎文学関西風土記■ 嵯峨。平安神宮の桜
の提灯が、引き廻してあって、赤毛や黒い毛の外人向きの女がい いうか、サロンでした。海に面した処は廊下で、ガラス戸が嵌ま て、賑やかなレコードをかけて騒いでいました。私の家で石垣が っていてサン・ルーム兼用といった処です。 ちょっと切れていて横丁になっているのです。つまりアレクセイ その頃、兄夫婦とせい子女史はロシア入に正式にソシアル・ダ の家と反対側は横丁になるのです。ですから家は角になります。 ンスを習っていて、毎日毎晩、練習をねての家庭舞踏会でした。 その横丁には海から石の階段があって、登りつめた処が家の玄関サロンと廊下を踊り廻るのです。私はレコード係です。まだ、そ でした。だから玄関は横丁から這人るのです。ーー・処が、裏通りの頃はワンステップ、ツーステップ、フォックストロット、ワル に面した処にも、鉄門があって、なぜか、例えば夜遅く南京街でツ、タンゴ位でした。私はせい子女史が教えてやるというのを、 食事をして、元町を散策して戻るというような場合は、裏町の鉄嫌だ嫌だと逃げ廻っていました。鮎子など、子供は早いという話 卩のくぐり戸から戻りました。その戸を這入ると、アレクセイのでじきに踊り出しました。二階は海に面した二間の洋間で、一つ 庭に出るのです。石垣沿いのコンクリートの道を通って庭から家は兄の書斎で、一つは兄達の寝室でした。 に帰るのが兄はすっかり洋風の生活を始めました。そして正式に英国人の 常でした。 ミスター・マラ、、 ーという人に英会話を習いに行きました。マラ 玄関は土 ー氏は典型的英国紳士で、赤ら顔の背の高い人でした。たしか ー , ( 一イん間で、それ高知の高校の英語の先生をしていたのでした。マラバー夫人は日 から、板敷本人でした。マラバー氏の教え子だったようです。やや赤味がか ~ ) ゾ第 月 去」が亠め・り・、 った金髪で、青い眼の、そばかすだらけだが大変可愛らしい三つ 年 玄関の奥は四つのお嬢さんがいました。メアリーという利ロな子供でした。 大ただ一つ畳 マラバー夫人は美人ではなかったけれど、何でもこなす賢夫人 画の間があり、でした。英国風料理も編物も上手で、兄嫁に伝授していました。 七海に面した夫人は家に嫁いでいて、私と同じ年頃の子供を頭に二入の子供 岡 二間は洋風が居たがマラバー氏と恋愛して、子供を置いてマラバー氏の処に 画 】 ) , ( 、 ~ 。第を ) ) を・挿でした。玄来たという話でした。後に私の親友とな「た、家に置いて来た 人関に近い方長男と、私は関西に行「てから知り合うのですが、後のお話です。 が食堂で奥夏など海水浴を目当てに若い人々がたくさん集まって来て、キ は応接間と ハウスに負けぬ位賑やかなサロンとなりました。今東光氏や ョ
はりむしろ を地でゆく忠実さで、もうけられた座が結構過ぎて時に針の蓆に形だが、或は、谷崎さんが、普通の母性とか所帯染みた女房は好 まれずに、夫入はこんなひどい目に会はれた、と私には考へられ 感じられる日もあった。好奇心と嫉視との中で私は耐えること、、 演出家のイメ 1 ジを害わぬように神経を使うことに疲れて、病気た。 しかし、この夫人の受難のあとには、 この受難によるのだ ・ : と、「春琴抄」の執筆当時のことも述べてあ 勝ちであった。〃 と私は思ふが、 谷崎さんが創作力の爆発噴火と共に、夫人の 昭和十年一月に、目出度く結婚されて、翌くる昭和十一年一月資質から続続と放射される、インスピレ 1 シ「ンの感受も、鮮か の改造には、小説「猫と庄造と二人のをんな」が出た。私は今又、に冴えたやうだ。戦中から戦後にかけては、ひたむきに長篇小説 この小説も読んだ。これは作者が家庭の事情を巧妙に換骨奪胎し「細雪」に没頭完成された。「細雪」は、夫人たち三姉妹がモデル た風俗小説で、飼猫をむしゃうに可愛がる、人のよいグウタラ男と、もつばら評判の作で、これは一面私小説とも言へる。王朝物 が、働き者の女房と別れて、持参金付きの新嫁をもらって、愛猫語の「少将滋幹の母」も、夫人のおもかげが色が濃いやうだ。年 男はまたその愛猫に逢ひに行く。阪急齢のちがふ夫妻の性生活の問題小説「鍵」とか、花やかな若返り は別れた女房に遣ったが、 沿線の風景と庶民生活とがリアルに活写されて、私はこれも名作の小説「瘋老人日記」とか、賑やかな女中たちの小説「台所太 よ ) 0 平記」とか、凡そ家庭が中心で、私にはどの作にも夫人の姿が感 と見た。俳諧にいふ″細み〃心のこまかさの見える名作オ じられた。 昭和十三年から昭和十六年にかけて、現代語訳「源氏物語」が 中央公論社から出版の「潤一郎訳源氏物語」全二十六巻が松子夫入は、谷崎さんの創作の、インスピレーションの宝庫で いまあらた 完した。この長い根気仕事の家庭には、松子夫人の内助のカづあった、と私は今更めて思ふ。 因みに、昭和十七年の随筆「初昔」に書かれた、松子夫人が人 けも大きかったらうが、これには普通の家庭夫人の内助だけでは なく、渾氏物語の女性のおもかげの、活きたモデルの役目も果さ工流産の受難のことは、昭和四十二年十二月最新刊の遺作集「雪 後庵夜話」に、その二六頁から三一頁にわたって、谷崎さん自身 れたか、と私には考へられた。 昭和十七年に、日本評論に連載の「初昔」といふ随筆は、谷崎がくはしい告白もある。これを約めると、谷崎さんが世話女房は . ムよ、 さんの家庭の事情をありのままに書かれたもので、私は今読んで好まれずに、敢へて妊娠中絶を強ひられたわけで、〃・ みた。これの後半には、夫人が人工流産の人院中の状況が、詳細私の子の母と云ふものになった子を考 ~ ると、彼女の周囲に揺 いたま曳してゐた詩や夢が名残りなく消え去ってしまふのを感じた。私 に写されて、四ヶ月か五ヶ月の胎児を流産手術の所など、 はさうなったä子を考へるに忍びなかった。みと、こんな告白の しい、むごたらしい感じだ。私は実に惜しい感じだ。夫人が弱 しい体質のために、医師たちのすすめによって、人工流産された言葉もある。 ちな
少年たちを奴隷のごとく扱い、湯上りの足の爪を切らせたり : Urine を飲ませたり とある。その横文字は女学校のリーダー にまだなかったので、英和辞書をひくと〃尿〃とあったのにびつ くりした。 これが谷崎文学との出会いであり、長じてからもこの作家の作 品はまず読み落しなく単行本もだいたい揃えていた。そしてその 谷崎潤一郎 ! この名は生れながらに〃文豪〃の星を持ったよ作家に初めて会ったのは、昭和六年の初夏だった。その頃女性評 うな威風堂々として、そしてゆたかな抒情を含んだ名だったと思論家で作家でもあった三宅やす子夫人 ( 三宅艶子さんの母 ) は、 、つ 芥川龍之介も菊池寛も久米正雄も、けっして政治家や実私よりはるかに年長のひとだったが、若い私たちはこのひとに 業家には似合わず必ず文学者でなければならない気がする。 えて友だちつきあいだった。その夫人と共に京阪の旅に出て大阪 その谷崎潤一郎という名を私が活字で見覚えたのは女学校の一一一に滞在中、三宅夫人が当時阪神電鉄岡本の谷崎家を訪問したいと 年生の時だった。それは二番目の大きい兄が講読していた「スパ発議されたのに私は驚きおじけてしまった。ところが三宅夫人は ル」という歌や詩や小説の雑誌で戯曲「信西」を読んでからだっ この大作家と相識の間らしかったので、ついに私もその腰巾着と た。これが平治物語からのものともまだ知らない少女にはあまり なって伺うことになった。それにはその時の谷崎夫人は私もよく 感興もなかったのに、この新鮮な感じの文学雑誌に発表される作知っていた美しい婦人記者だった e 子さんであったせいもある 品はとても高級なものと思い込んでいたから、それで覚えている。 ( このひとはのち谷崎家を出られて、幸福な再婚をされた ) 。 けれどもそれからまもなく同じ作家の「少年」がやはりこの「ス その岡本の大きな谷崎邸で見たものは、中国から送らせたとい バル」に掲載されたら、私には一大驚異の妖しい世界に誘なわれう紫檀の大いなる寝台だった。これは先年刊行の谷崎松子夫人の たようにまったく夢見心地で幾度も読み返した。作中の美少女が『倚松庵の夢』にもしるされてあって、私は三十数年前の谷崎家 公眥中公 豊饒なる美的生活 吉屋信子 月報昭和年 1 月 〈普及版第二十八巻付録〉 目次 豊饒なる美的生活 谷崎と古典 「少将滋幹の母」から「新訳源氏物語」へ 谷崎源氏年代記 4 第二十八巻後記 田 野屋 弥 克甞信 郎朗 12 9 6 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
て、すつぼり合えば、それが自分のサイズだと教えてくれたのをがして、地震が始まりました。家の隅の鴨居がギーギー鳴って口 ころ 憶えています。私が長敬と憧れの眼で夫人を見ていたのは夫人もを開けるし、歩こうと思うと畳が突き上げて来て転びそうで立っ 御存知だったと私は思っています。私をも子供として馬鹿にせず、ていられません。柱にまって居るのが、やっとのことでした。 深切にしてくれたのでした。 赤子が下に寝ていましたが、次兄夫婦はその時は、二階に居まし た。地震が納まって夫婦が二階から降りて来た時の顔色は全く血 私は大正十二年の夏は山手の家で留守番をしていたのです。兄の気がなく、土色でした。自分もそうだったのだろうと思います。 達は箱根の小涌谷ホテルに避暑をしていました。鮎子の学校が始横浜や兄の事も心配でしたが、それからの二、三日は自分達の生 まるので、仕事を抱えた兄一人を残して、鮎子と兄嫁とせい子女活で一杯でした。震れ返しはあるし、瓦などが落ちて濛々とした 史は山手に戻っ土煙でした。幸い山の手は火事はありませんでしたが、すぐ食料 潤て来ました。私難でした。乾物屋など、罐詰一つでもなくなってしまうし、電気 谷も九月一日には がっかないから、蠍燭もたちまち売り切れてしまったのです。 右 学校が始まるの そのうえに不愉快な記憶は朝鮮人騒ぎという流言蜚語です。私 で、前日に牛込が卵子を買いに使いに出ると町会の人々が関所を作っていて、何 ' 一一飜の次兄の家に戻処 ~ 行くかー とか風呂敷包を探って、爆弾ではないか ? とい 〕一の、って来ました。 う始末です。何でも言語の不明瞭な人はアイウェオまで言わされ 上 九月一日は午たという話でした。そのうえ井戸に毒を人れられたとか、色々な ほうたい わ前中で学校は終噂が飛び、人力車に乗った頭の繃帯に血の滲んだ人も見かけまし 合 打り、私は友達とた。私は関所で谷崎だと云「て釈放されました。早くそう云えば 郵映画に行くこと いのに、あんた怪我するよー と大人共に云われました。私は 」になっていて、 その時、数えで十六歳でしたが、あんまり大人の人のわけのわか 牧昼食を済ませて、らぬ興奮振りに反感をもったのです。 「さて出かけよう 兄が出ないので私が夜警団に加わりました。私だけ年少だった 年と思っている時ので大人は好意を示してくれました。二人ずつで、町内を一廻り でした。何かゴして来ると半時間掛かるのです。宗参寺というお寺の墓地など、 ものすご 大 ーツと物妻い音大入も嫌だったのでしよう。もうこの辺でよいでしようと、
に、松子夫人の場合にはなぜ相談をしなかったかの不審も解け、 それならば何もお互に意地を張り合って行き来を中止することは なかったのにと今では思っている。 世に名が出てから間もなく、谷崎は私達お互の幼少時代のこと を書くと いいながら彼の癖でなかなか実行が伴なわず、それでも 伊藤甲子之助 晩年七十歳の春漸く手を著けはじめ、昭和三十二年纏って単行本 谷崎と私、それからもう一人笹沼源之助の三人は明治の中頃東『幼少時代』が出来上った。読んでみると当時のことが克明に書 京市日本橋区内で生まれ、幼少の頃目と鼻の先に住み、谷崎は私かれてあり、私のことも数カ所にわたり相当詳しく載っておるが、 より二つ年うえ笹沼は一つ上であったが、谷崎は一年生を繰返し、中には彼の考え違いから事実相違の点もある。それはそれとして、 私は一年早あがり人学のため三人は一年生から同級で阪本小学校彼が省略したこと、書き落したこと、同じ事でも見方は十人十色 を卒業した。それから中学、大学の課程を了えて社会人とな「てであるから私は私なりに寸見を書いてみる。 何としてもすぐ頭に浮ぶものは谷崎を込めて友達十人あまりが も親交がつづいたが、谷崎と松子夫人との三度目の結婚について 笹沼から私に申し合せがあり、私も同意して谷崎と私等二人との寄り合い、作っておった回覧誌「学生倶楽部」のことである。こ 行き来は中止となっていた。その後谷崎と笹沼とは撚が戻「たが、のことは谷崎著『幼少時代』の末端「文学熱」の項に書かれてあ るが、主筆格は中学中退の野村孝太郎で、部員は各自半紙に文章、 私は和歌山に移り住み、遠く離れ、谷崎との関係はそのままでい どうさびき るうちに、過ぐる四十年七月三十日谷崎は急逝、今日に及んでい史伝、小説、地理、科学、雑録を毛筆でかき、絵画は礬引半紙に る。処が、谷崎松子夫人の随筆「倚松庵の夢」を読んで初めて第水墨又は彩色で仕上げ、七、八十枚を糸綴じにし、毎月一回発行、 三結婚の真相がわかり、それ迄は、例えば千代子夫人との結婚離持ち廻り回覧方式であった。谷崎の『幼少時代』には書いてない 婚、丁未子夫人との結婚、それぞれ何くれとなく相談を受けたのが、第三号には懸賞小説「五月雨」の応募作品が発表され、当時 中公 谷崎潤一郎と私 ひとり 目次 谷崎潤一郎と私 月報貰昭和年 3 月谷崎文学関西風土記 3 三代文壇小史 〈普及版第十七巻付録〉 第十七巻後記 野伊 好村甲 行尚子 雄吾助 12 10 7 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1 といろ
カけた」 持たず、碑も見すごしがちである。 とあり、遠く和歌山市の灯が足もとにちらついていたことが、 私も以前に来たとき、霊宝院や金堂を見ながら、その碑に気づ 夫人の文に記してある。それは、私が行った戦後もかわりなかっ かず、こんど初めて知った。 前回来たときは、当時高野山大学の佐和隆研教授 ( 現京都美大た。 ところが昭和三十六年に日本道路公団が一億六千万円を投じて、 、また毎日新聞社の嘱託通信員の長氏に、 教授 ) に案内してもらい 五年がかりで有料道路を完成した。そのアスファルト道が大門を 高野山滞在中の谷崎先生の話を、いくつか聞いた覚えがある。 相当気をつかい、先生の前では固くなっていたらしく、「買物ぐるっと回って、そこが終点となったため、マイカー族や観光バ スがひっきりなしに、通過するようになり、逆に大門がぼつんと、 や用足しを頼まれたりしたが、気骨が折れました」と話していた。 、いっ道路のまん中に孤立した感じになった。 その氏こそ、盆踊りを見物されている先生の写真をとり おかげで、高野山の参詣者が急増し、年間百何十万人とか誇称 しょに踊りの輪に入って踊ったと新聞に書きたてたご仁である。 根本中堂の鮮かな朱色にも、落着きが出てきた。それだけでなするようになった。いっそ密教の聖地などといわず、避暑地にし たらいいかもしれない。独立していた泰雲院も、竜泉院に吸収さ く、たしかに高野山は戦後いちじるしく変貌した。もうのんびり した信仰の山というより、めまぐるしい山の町に近くなった。交れるのが当然に思えた。 「それにしても」と、私には一つの思いが取りついて離れないの 肩にも書いたけ 通信号まで設置されねばならなくなったことは、 れど、金堂から西へ十数分行った大門のあたりは、以前はひっそであった。 りとさびれていて、ここまで足を運ぶ入も少なかった。 それは他にも書いたことだけれども、この高野山の寺で書かれ もともとこの大門は高野の表門で、ここをくぐって山に入った た「盲目物語」の女主人公お市の方ーーそのイメ 1 ジはまだ根津 わけだが、女人堂口にケーブルカーが出来てから、大門方面は逆夫入であった松子夫人だということである。それは谷崎先生自身 の位置にあるため、参詣者の入山が反対になってしまった。先生も告白されていることである。 が滞在された昭和六年頃は、夜になると大門付近にはむささびが 「 : : : 根津家に出人りして根津夫人としての彼女と交際を許され 出るほどだったとある。 てゐた頃から、既に私の書くものは少しづ、彼女の影響下にあっ たに違ひなく、『盲目物語』や『武州公秘話』などにその兆しが 「大門の夜は真暗い。 月夜でも大門は高い屋根が月光を弾き返してしまふので影の中見える。」 ( 「雪後庵夜話」 ) で真暗だ。けれどもこのまっくらな楼門をくゞって狭い平地へ抜そればかりでなく、最初に出版された「盲目物語」の題簽の揮 けると、そこから仰ぐ月は素晴しい。私達は度々ここへ月見に出毫を松子夫人に頼み、北野恒富画伯のロ絵の女性は、松子夫人を