小田原 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 月報
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1. 谷崎潤一郎全集 月報

した。この通りを「さいかち通り」と云いました。さいかちの木 のです。子供の私は面白くて、暫く眺めていました。 でもあったのでしようか。両側に桜の並木があり、いわば屋敷町 その頃の小田原は静かな城下町でした。まだ勿論、市にはなっ ていませんし、第一、小田原駅が開通したのは、私どもが小田原でした。通りの西の端は例の軽便鉄道のレールに出てしまうと終 トから海岸に向う小道路に突当りま りで、東端はメインストリー の住人になってからのことで、汽車は国府津で下車して、電車に 乗換えるのです。その電車は小田原のメインストリートを箱根のす。その道路の東側は三尺幅位の小川が海に向「て流れていまし た。東側から這人って来ると浜側に大きい場所を占めていたのは 方に向って走るのですが、確か早川の手前までしかなかったのだ そこからは、また真鶴の方 ~ 行く「軽便鉄道」水産講習所でした。私どもの借りた家は水産講習所を少し西 ~ 行 と思います。 った、およそ通りの中程の処でした。通りの両側、家々の前には、 というものがありました。本当に貧弱な、トロッコのようなレ 一尺幅位のドブ川が流れているのです。どこに行「ても流れてい ルの上をゴトゴト走る玩具のような汽車でした。 小田原城址は、大きな石垣とお濠に囲まれたよい所でした。濠るのです。それは東京などでは考えられない、綺麗な水で、ドプ といってよいかどうか、皆、小さい石垣で組まれていて、人の家 には蓮が一杯咲いたし、濠端には桜がたくさんあって、花の頃は の前だけは、渡るために石か板が渡してあるのですが、あとは裸 ポンポリを付けたりして、夜桜見物で賑いました。濠の前には小 の流れが、静かな音を立てて流れていました。ーー現にこの石垣 学校や女学校がありました。 の間に細い竹の先にミミズを通して餌にしたものを差人れると、 城址の奥、西北にはなだらかな丘陵があって、小峰公園という 間々鰻が獲れるのでした。小蟹は珍しくありません。 梅林があり、丘の上には大久保神社とか、県立小田原中学校があ 荷物を先きに汽車便で出して、私どもは夜具蒲団を手荷物にし りました。中学校の鐘は美しい響きを立てて遠くまで聞えました。 なんでも日清戦争で日本に捕獲された軍艦「鎮遠」のものだ「たて、小田原に向「たのです。それは十二月の大晦日に近い頃でし たしか北原武夫氏などもこの学校のた。国府津からは自動車でした。もう夜も遅か「たようです。メ というので有名でした。 インストリートに差掛かった処で、有名な「ういろう」という薬 御出身です。それから、もっと高い処には閑院宮の別邸がありま した。さらに少し南 ~ 降。て来た方だ「たと思うのですが、北原屋さんが見えたのを憶えています。それは昔風な厚い壁で塗込め 多分、そんなご縁で小田原にた、ナマコ塀などのある、芝居で見るような建物だったからです。 白秋が住んで居られたのです。 家に這入るとガランとした何も道具のない座敷に、見知らぬ人 住むようになったのではないかと思います。序に中し上げると、 この辺の丘陵をモデルに使「たのが兄の「鶴唳」という作品です。が火鉢に炭を起して、留守番をして待「ていてくれました。 十字町というのは、メインストリートを海岸の方に向「て這入多分、北原白秋さんの処の方だ「たと思います。 そうです、いま思い出しま 借りた家は、大坪さんという人の持家で、借家として建てたの った、かなり大きな通りでした。 にぎわ こがに

2. 谷崎潤一郎全集 月報

先生は業の原稿を見てやろうなどという柔しい気は微塵も見せ てくれなかった。従「て僕も先生には生原稿を見て頂こうとは思 ってもみなかった。消したり、書き足したりした汚らしい生の原 稿を平気で見て頂きたいなどという無礼は断じて出来なかった。 それを清書して見て頂くのも気がひけたくらいだから、況んや時 今東光 には先生とも人さまの小説の出来や不出来を話すのに、手前のあ 毎日のように人りびたっていた東京の小石川の家が、ま「たく んまりうまくない小説など御覧に人れるに忍びなかったのだ。 突然のように小田原の十字町に移転したのが大正八年の暮だ「た。 はじめて小田原の新居にうかがうと、直ぐ冬の海辺を一緒に赦 あくる年には僕らの仲間と同入雑誌でも始めたい気持で、毎夜、歩し、何か先生の傍に居ることで安心感があ「た。妙なもので、 川端康成、鈴木彦次郎、石浜金作の四人が集「ては語り合「たが、海辺にあ「た養生館の三人兄弟と知り合「たのも先生のところに 何とい「ても先立っ金が無い連中とて、その話はとかく空想的に行きだしてからだ。因縁というものは不思議なもので、この養生 走り易く、自分らが下手な小説を書くよりは、他人の小説を読ん館の末弟が映画俳優を志し、後年、僕が顧問をした阪東妻三郎プ では芸術論に花を咲かせたものだ。その芸術論も多分に浮ついた ロダクションの草間実の内弟子となったのには驚いた。先生は小 もので、畢竟、銭の無い奴等がどうしたら時間潰しが出来るかと田原で映画用の原作を書いたり、大正活映のスタディオが出来る いうために芸術論みたいなものを喋り合っていたに過ぎない。 のを待ちながら忙しい日夜を過されていた。 というのは谷崎潤一郎先生が忽然として小田原に居を移された その頃、小田原の山の手に北原白秋が住んでいて、先生は僕を からで、急に僕の目の前から姿を消されたのは何としても淋しい つれて訪ねられた。殆んど三日にあげず会「ていられた風だ「た。 ことだ「た。当分は心に空洞が出来たようで何となく毎日が頼り僕にと「て「邪宗鬥」以来の懐しい白秋さんで、その風雅な「木 なかったのは事実である。 兎の家ーの客となって僕等は昔の話をしたものだ。 本牧時代 月報 8 昭和年 6 月 〈普表版第八巻付録〉 目次 本牧時代 「愛すればこそ」の映画化 回想の兄・潤一郎 7 三代文壇小史 8 第八巻後記 今東光 : 吉村公三郎 : ・ 4 谷崎終平 : ・ 三好行雄・ : 9 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1 みみ

3. 谷崎潤一郎全集 月報

草人さんは後日、「アラビアンナイト」から取材したダグラス・ は京都のお寺に再婚されたと聞いていますが : そんなことで、 フ = アバンクスの有名な映画「、、ハグダッドの盗賊」にモンゴール白秋氏と兄とも当分気まずいことになったようです。 白秋さ 王子になって一躍名を挙げて、凱旋将軍の勢いで帰朝したのですんの方に心残りがあったのかも知れません。 今東光さんなども、小田原の夏の海岸では若者どもに君臨して みみずく 北原白秋さんの家は「木兎の家」という名で小田原では有名で勇名を馳せたようです。私の小学校の友人にというのがいて、 した。白秋さんはぎよろりとした大きな目で、ロ髭を生やした、 今では田舎で獣医をしていますが、君の兄貴なども、少々不良 でつふりした大黒様のような入でした。大変無邪気で子供を可愛がっていて、今さんのお供をしていたのではないかと思っていま がったようです。何でもそのころ、白秋氏の無邪気な話で、こんす。が田舎に引込んでしまったので、今はその兄と結構友人に なことを聞きました。家に見えられて話込んでいて、一時間程しなっていますし、大人となってつき合ってみると、人のいい男な たら、急に大笑いされたので、端が驚いたところ、先刻の洒落がのですが、子供の頃には、このの兄が怖かったものです。の 今、判ったというのでした。 処に遊びに行くと、何かで急にの兄が私に怒って来ました。す その頃、うちの茶の間に久しく、色の浅黒いちょっと男つぼい るとは「よしてくれよ兄ちゃん ! これは僕の友達じゃない 感じもある、三十台の終りかそこらの婦人が、長火鉢の前に坐っ か ! 」といって私をかばってくれました。の兄はもっとも、今 て煙草を喫って、鼻から煙を出していたのを思い出します。これでも時々むかっ腹を立てる人です。 たしか小田原中学で北原 は白秋夫人でした。何か間違いがあって兄が間に入って、白秋氏武夫さんと同期だったと聞いていますが : と離婚することになって暫く家に居られたのでした。後にこの方 ここでもう一度、石川のお婆さんという兄嫁の養母の話をした いのです。私は自分が意気地なしなので、灰の強い性格は好かな かったのです。 これは四十台まで続きました。今では一概に そうも思いません。弱い人はそれなりにずるかったり、他人に迷 惑をかけたりする人もありますから。 このお婆さんは、後に七十歳を過ぎてから字を憶えたりして、 教育は昔のこととて無かったが、利ロな入でした。この人の晩年 には二入は非常に仲良しになったものです。私はよく講談本など を読んで聞かせてあげたものですが、「何といい幕だか ! 」とか ( 芝居でも見ている気になるのでしよう ) 「何て憎らしい奴だ しゃれ 上山草人く右〉とともに ( 昭和 5 年 2 月 ) こわ あく

4. 谷崎潤一郎全集 月報

い上 3 の周 気に入「た方を谷崎さんにと「て貰「た。あとから、モデルの方はどうも不安な心持もしたが、まだ充分な活動力を持たれたまま、 これが君との最後のおわかれになってしまったのである。 も大分閉口されたように仄聞した。 ( 日本画家 ) そのスケッチの際、あまりモデルが動くので話を始めたが、懐 旧のことが多く、小田原時代、時本という茶屋で少しばかり二人 で芸者遊びをやった時に、当時〇子という若い妓が目立った美人 で、谷崎さんのお気に入りだったらしいが、時折その妓が私の一 人でいるところに話に来ることもあったりしたので、氏は私に関 係のある妓と思っていたそうである。 翌年私は小田原を去り大磯へ移った。その時分氏が再び小田原 谷崎終平 に滞留した際にはその妓を手に入れてしまった。その妓が、私は 藤蔭静枝の妹ですといったので、他日、新橋の検番で尋ねたら、 静枝には妹はないといわれました等々、スケッチより話の方が面兄は大正四年、数えの三十歳で結婚しました。私は小学校の二 白くなってしまった。 年生でした。「今日は帰るといってはいけないんだよ」と母にく それから二年後 ( 四十年 ) のやはり春、御夫妻で来られた。第どくどと云われて、私も披露宴に列席しました。 一回の手術後で、心臓も少し弱っているとかで案じられたが、京 偕楽園の御主人笹沼源之助氏の御媒酌でした。大広間の床間に じよううば 都のうまい 高砂の尉と姥の島台や掛軸が型の如くありました。出席した人々 噫の鈍い私は何も思い出せません。笹沼さ ものが食べが誰々であったか、記 画り 岱たいし、京んが高砂の謡を唄われて、新夫婦が着座すると、三重ねの杯が上 村集 ト痴舞の師匠や座から順に廻って来ました。一番末席に居る私の処へも、女中さ に画代老妓達にもんが台に載せた杯をも「てきてびたりと坐りました。私はきまり が悪いのでためらいましたが、無理に杯を持たされました。飲み 対刊会いたいか 巳 9 らあちらへほすとあわてて杯を投げるように置いて、人々に笑われました。 才行「て来まそれと、広い便所の窓から大川を隔てて遠く浅草の十二階の夜景 すよと元気が見えたのを憶えているのですが、最近、人に訊くと、その料理 だった。私屋は浅草であったという話で、大川を隔てて見たと思っているの ■回想の兄・潤一郎■ 蠣殻町時代 -0

5. 谷崎潤一郎全集 月報

拝している女性の手にかかって死んでも悔いないというフ = ミニが窺われ、「鍵」では妻が自分の日記が夫に読まれていることを ストぶりや、自分の殺される場面を友人に見て貰いたいというマ知って嘘を書き、その死を早めるという犯罪トリックに使用して ゾヒズム的な傾向は、作者の特色だが、それを逆用して、トリッ クに使用している。 涙香を日本推理小説の先覚者とすれば、谷崎はその中興の祖で、 「柳湯の事件」はサディストの神経興奮の生んだ幻覚だが、無気佐藤春夫、芥川らの先蹤をなした。しかも推理的なものの他に、 ( 文芸評論家 ) 味な感覚的描写はユニークで、「呪はれた戯曲」は犯罪心理を克怪奇、幻想小説を開拓した第一人者でもあ「た。 明に追求するとともに、その構成はいわゆる筋書殺人の先鞭をつ けたものとして注目される。 ・回想の兄・潤一郎・ 「或る少年の怯れ」は夙くから人間不信を知った少年のあわれな 境涯に焦点をあわせているが、兄嫁の殺害や少年自身の生命の恐 布に、より強烈な印象が与えられる。 曙町から小田原へ 中でも「途上」は、乱歩が「世界に類例のない探偵小説」と称 揚したもので、プロバビリティーを狙った犯罪工作として、はじ 谷崎終平 めてのものである。 「私」は作者自身、自作の犯罪物としてばかりでなく、全作品を大正八年の暮れです、小田原の十字町へ引越したのは。ですか 通じてすぐれているとも 、い、模倣でなく自然で必須な形式だと述ら曙町には一年とは居なかったのです。 べているが、あれほどポーを読んだ作者に、「お前が犯人だ」の 引越しではつまらぬ事を憶えています。運送屋が来て、木枠と あらなわ 一一一ⅱがなかったのだろうか 莚と荒繩で荷造りしたものですが、往来の板塀に大きな鏡が、ま 「或る罪の動機」では殺害計画に指紋を顧慮することを失念しただ裸で荷造り前の状態で、表向きに立掛けてありました。この鏡 ため、常識的にはもっとも疑われない書生の犯行が暴露する。 は大きなもので、幅三尺に長さは四尺位はあった筈です。油絵の 怪奇小説「友田と松永の話」では、嗜好の変化が肉体に影響を額縁のような、が「しりした枠にはま「ていました。この鏡は大 及ばし、さらに精神的にも一変するという、ユニークな変貌譚に きいから、ー 旧に立っと全身が映るのでした。そこへ一匹の大がや 成功した。 って来て、しきりに吠えるのです。犬は自分とは気付かず、自分 実話に取材した「日本に於けるクリップン事件」を書いて、犯が進めは、鏡の中の大も前進するので、やっきとなって吠えるの 罪怪奇文学と疎縁にな「たが、六年の「吉野葛」に推理癖の片鱗です。吠え疲れると退却するのですが、またもや鏡の自分に挑む

6. 谷崎潤一郎全集 月報

乏しいから、氏名は伏せますが、いかさま牧羊神に適はしい歓楽の横町の角だというから、谷崎家とは一層近く、約二町くらいの のひと時でした。「明治の青春」といふ課題に対し、これを以っ所であった。 せめ ( 作家 ) は小学校へあがる前に、池田学校という芝居の寺小屋そのま て責をはたしたことに致しませう。 まの私塾へ通わせられた。そこは蔵造りで、活版所の看板をかけ た谷崎家のうしろの大弓場の前に当「ていた。人形町通りは近か 谷崎さんと私 ったが、一町程はい「たあの辺は静かな街だった。谷崎さんの家 は街角で、私が小学校へ行くようになってからは、よくその前を 安田靫彦通った。 谷崎家の前を東へ行くと米屋町で、高く取引所が見える。その 谷崎さんと私とは二つ違いで、私の方が明治十七年生れの年嵩前あたりに、谷崎さんの伯父の久兵衛氏の店があ「た。その息子 ひやくせき の善三郎君は潤一郎さんの従兄弟で、私の小学校の同級生である。 である。その頃の私の家は、日本橋区新葭町の「百尺」という会 谷崎さんが学齢に達した頃に活版所をやめ、家は茅場町へ引越し 席料理屋であった。谷崎さんの生れた蠣殻町二丁目の家とは近い。 しかし私が生れたのは、蠣殻町にあ「た百尺の別宅で、芸者新道たため、阪本小学校の方 ~ 人学されたのであ「た。善三郎君や私 は、蠣殻町の水天宮の西方の有馬小学校へ通っていたのである。 ・価谷崎さん 0 記憶力は驚く。 ~ きもので、「幼少時代」の中にも、当 時のあの辺の地理風俗が鮮かに描かれている。 実際に谷崎さんに始めて会ったのは、ずっと後で、私の住居が 靫 小田原の天神山にあったとき、長野草風君の紹介でみえた。たし か大正二年だったと記憶する。噂は常にきいていたし、「刺青」や、 氏 「信西」の愛読者だった私は喜んで氏を迎えた。それに幼少時代 イの関係からも、特別の親しみを感じていたわけだ。谷崎さんはそ のとき、小田原早川村海岸の亀屋という小さい旅館に滞在して筆 谷 を執って居られ、「悪魔」などが、その頃の作品だったのだろう。 私の方からは仕事のお邪魔をしてはと、宿へはあまり訪ねず、私 の家や料理屋などでよく逢「た。中村吉右衛門や、修善寺の旅館 ふさ

7. 谷崎潤一郎全集 月報

詩集を手にしたのは、もっと後のお話です。それは兄が関西に住 むようになり、そこへ佐藤さんが暫くぶりで見えた折、第一書房 から出た横綴の蓮の花の表紙の美装本を頂いてからです。 そんなわけで、身びいきというものでしようか、小田原時代の ちんにゆう 私が幼稚な心で受け止めたものは、佐藤さんが家庭の闖入者、破 壊者として映ったのでした。何でも海岸に近い「養生館」という 旅館に佐藤さんは泊って居られたこともありました。 谷崎終平 四十数年も前のことだし、ばんやりの私はコントンとして、繋 私の親しい友であった大坪砂男は、青年時代の私を評して「十がった思い出はないのですが、断片を拾うと、せい子女史と兄嫁 台の君はませていたが、今の君は遅れているようだ」と言いましとが珍しく喧嘩をしていたこと、石川のお婆さんが何やら憤慨し た。私は兄の小説が変態だの悪魔主義だのと言われているのが恥ていたこと、兄嫁が泣いていたことなどを思いだします。これら そんなことがブレーキとなって、青年時代は同じ日の話ではないのです。そしてある日、佐藤さんが一度立 しかったのです。 を憂鬱な実行力のない入間にしたのかも知れません。無論、無能去ると、兄が、「おい、佐藤をもう一度呼べ ! 」と大きな声で二 階から叫ぶと、女中さんが、あわてて佐藤さんを連れ戻して来ま 力な私の消極的な性格が土台ではありましようが : 私の孤独さが神経質な私をませさせたのでしようか、そして私した。そんなことを今きれぎれに思い浮かべるだけです。 そうした嵐の去った翌朝だったと思うのですが、私は学校へ登 の頭の幼稚さは、私をばんやりな、うつけ者としたのでしよう。 みやげ ある時、兄嫁が上京した折、土産に何か面白い本をねだりまし校するのにお金の人用なことがあ「て、兄夫婦の寝所である二階 に行き、また寝ていた兄嫁に請求しました。姉は寝床に坐って枕 た。兄嫁が買って来てくれたのは、少年向きの「ドンキホーテ」 でしたが、それは和田垣謙三さんの訳されたもので、少々高級でもとの財布から小銭をくれました。その時、ちらっと姉の寝床の 恋などという言葉が多くて、私には面白くありませんでした。後中に、縮毛頭の兄が、す「ほり丸くな「て寝ているのが見えまし に中学に這人て読本の抜萃から知「て読んだ鷓外訳の「即興詩た。何か見てはならぬものを見たようで、私は急いで梯子段を降 りました。 人」に深い感銘を得るようになってから、初めて「ドンキホー 名高い佐藤さんの「秋刀魚の歌」も知りませんでした。先刻も テ」も興味深く読んだものです。 申しましたように、それを知ったのは関西住いするようになって 中学に人学してから、やっと詩にも少しは興味を憶えました。 とい「ても、藤村とか、啄木のようなものです。佐藤春夫さんのからのことです。その頃は私も人並みに失恋などをして、「また ■回想の兄・潤一郎第 6 小田原から横浜へ こに

8. 谷崎潤一郎全集 月報

白秋のやっている詩誌に参加してはという室生犀星さんのすすは白秋夫妻は屡々、犬もくわない夫婦喧嘩をしたとはいえ、実は めで手紙を書いたが、梨のつぶてで返辞が貰えなかった。僕の中あきもあかれもしなかった由で 学三年生の一学期だった。僕は白秋に黙殺され無視されたと思い 「谷崎君が余計なおせつかいをしてくれて、出さずもがなの女房 込んで、それきり手紙を書かなかったが、白秋さんは先生が僕をを追ん出した」 紹介すると と言って綿々と怨み佗び、遂にお二人は絶交の状態になってし まったのオ 「君の名は覚えています」 と語られたのは、白秋さんは悦んで僕の参加を認めてくれ、そ 間に立った僕は大閉ロで、稀には孤閨に沈吟する詩人をも慰め の旨を手紙に書いて返辞したら、思いがけなく僕の母親から長いなければならなかったし、先生のところでは白秋さんが案外、元 親書をもらったというのだ。その時に先生はアハハと笑われ 気に独身生活をエンジョイしているという風に粉飾してお伝えす 「それ。お母さんが出て来たよ」 るといったエ合で、これでみても夫婦喧嘩の仲には金輪際はいる と言われた。賢母は中学だけは完全に修めさせたいので、学業ものではないという教訓を受けたものである。これも大先輩のお の途中の寄り道をすすめないで呉れという内容だった、それで君かげだと思っているのだ。 の入会を見送ったというのだ。この母親は中学生の僕のやること この小田原時代に佐藤春夫さんが現れ、お千代夫人の問題で、 には悉く反対で、野球はもとよりあらゆるスポ 1 ツに反対、ひたお二人の絶交という重大問題が起った。先生に御紹介くだすった もの学間に精を出せと叱るのだが、こっちは文部省流の劃一主義のは他ならぬ佐藤春夫であり、僕は最も親しくしていたので、こ の教育に抵抗を感じて、劣等生として誇っていたのだ。僕は今更れには困惑した。この時代、佐藤春夫が「秋刀魚の歌」で一躍、 ら母親が白秋さんとの因縁を絶ち切ったことを思い知らされた。児女の紅涙をしぼったことは人の知るところであろう。 そんなことがあって小田原にお邪魔すると、先生と僕とはよく こんなことどもが遠因やら近因やらで、先生は横浜の本牧に移 連れ立って白秋さんの「木兎の家」を訪れたものだが、それから転された。 間もなく先生と白秋とは絶交して仕舞った。 大体、谷崎潤一郎という先生の移転は、ちょっと見るとまるで というのは当時、白秋夫妻は妻じい喧嘩をし、どうにもやりき自棄糞みたいな格好なのだ。いざ引越し先の家が見つかると、 れなくて先生に訴えると、先生は芸術家の夫を苦しめるような女きなり道具屋を呼んで家財道具をバッタに売り払って仕舞うのだ。 房は叩き出して仕舞えと、御自分が乗り込んで夫人を追い出してこれが頗る小気味が好い。今まで使っていたものは一切合切売り 仕舞ったのだ。この夫人は後に京都に行き、大徳寺のさる坊主と飛ばし、若干の蔵書だけで新居に移ると、今度は新しい家財道具 一緒になったというような噂を風の便りに聞いたが、厄介なことを買い入れるのだ。これくらい簡にして且っ要を得たものはない。 ミ」 0

9. 谷崎潤一郎全集 月報

ではなく、別荘として建てたので、今度は広い、木ロも上等な家ん ( 兄嫁の養母 ) 、私と女中さんでした。鮎子は聖公会花園幼稚 このお婆さんと一緒に通いました。 でした。まず、さいかち通りを海の方へ曲るとちょいと引込んで園というのに、 大きな石柱二つに板扉の門があり、その中の左側は竹柴垣で、そ兄は、その頃、大正活映という映画会社に関係して、女優にな しやくやく の中はたくさん芍薬の植えてある花畑でした。右側が私どもの玄ったせい子女史 ( 葉山三千子 ) と横浜の撮影所に通って留守勝ち 関口でした。玉じゃりなどが敷かれていて、両側は戸袋を兼ねたでした。「アマチュア倶楽部」の撮影が始まっていたのでしよう。 たたき この映画で思い出すのは、或日、皆で横浜の撮影所に行った 壁で二枚のガラス戸の箝った格子戸をあけると、玄関の三和上で した。階下が五間あり、二階は二間でした ( 手前の八畳が客間で、ことです。なんでも南京街から山手の方へ上った処だったと思い 奥は兄の書斎 ) 。表庭はガランとしていて、広いけれど庭木は殆ます。実は劇中劇の太功記十段目の「タ顔棚」の場面で、見物席 その時「初菊」に扮 どないのです。庭の中央に唯一本、枝をたくさん拡げた大きな蜜のエキストラに狩り出されたのでした。 柑の木がありました。ところが、実はお隣の家のものらしく、蜜した岡田時彦のういういしい女形ぶりの美しさは忘れられません。 ませがき 柑の根本から真直に三尺位の丸竹の籬垣が庭の中央を国境のようわれわれは見物人なのです。撮影の見物人でもありましたが、見 に両断していました。つまり四角の折紙を中央から折目をつけた物席の見物人だったのです。兄嫁と鮎子と私は並んで坐りました。 ように蜜柑を中心に同型の庭が二つあるわけで、向側の外れは同監督の槧原トーマスさんと撮影技師、兄などが、何かヒソヒソと じく高さ四、五尺の竹柴垣で、中央の籬垣さえなければ倍の庭と打合せをしています。やがてカメラが私たちの前に、でんと据付 いきなり栗原さんが、カメラの横手から けられました。すると、 見られるもので、庭は南面しているので陽当りがよい上に、縁側 がまた一間幅なので、ガラス戸の中で縁側に居ると温室のようで長身痩軅の長い腕を二本突出したと思うと、鮎子に向って「小父 さんが連れて行きますぞ ! 」と驚かしたのです。何が始まるのか した。家は東西に長く、北側に裏庭があり、お稲荷さんがあり、 と、無邪気に見ていたわれわれは驚きました。鮎子は「わーツ」 ここには椿や芙蓉の木がありました。女中部屋と湯殿、台所は北 と泣き叫んで、母親の胸にすがり付きました。私はおかしさと鮎 側に突出ていました。 海岸までは二、三町あったかと思いますが、夜、波の荒い時は子が気の毒で、クシャクシャな顔をして笑ったのでした。すかさ 地響がして、潮騒の音がしました。小田原の海は砂浜からすぐ荒ずカメラはジーツと音がして、この有様を撮り収めてしまったの つまりは「現れ出でたる : : : 」で竹藪から出て来た光 い小砂利になって、いきなり深くなるので、波乗りが出来るようです。 な、かなり泳ぎに自信のある人しか海には這入れません。その頃秀が、きっと睨んで決まる処で、見物席の子供が恐ろしさに泣き 出す想定で、挿人のワンカットに使われたのです。栗原さんは、 は小田原の鰤は美味で、地引網が毎日ありました。 いかにも申訳なさそうに「ごめんなさい ! 」「ごめんなさいね ! 」 この時分の家族は、兄夫婦と鮎子、せい子女史、石川のお婆さ ぶり まっすぐ はず まち

10. 谷崎潤一郎全集 月報

ある時、兄と佐藤春夫さんが、ふとそれを見付けて眺めていま さんは優れた文学作品を数多く生んだのではなかったか。想像上 の異常性欲満足を可能にした心的エネルギーが、谷崎さんの場合、した。佐藤さんは音吐朗々と読み上げて、何か兄と語りながら二 言語をも性的対象として取り上げたのであって、そのためにこそ階に上って行きました。 兄の書斎は、二階の奥の間で、大きな机の上には和漢洋の書籍 あの文学が成就したのではなかったか。なぜなら文学は言語への 一杯載っていました。そして床の間には、支那から買ってきた 愛によって支えられるものであるから。 の人形など 行列の木彫りの風俗人形やら、独逸製の美女のヌード 現実の異常性欲者には、文学は書けないのである。 ( 九州大学教授・独文学 ) が三つ四つ並んでました。押人れの中も本だらけでした。それか ら幅七、八寸で長さ一尺余りの小さな行李がありました。私は開 けたこともないので知りませんが、それは手紙が一杯詰まってい て、何でもあの、兄の和歌「箱根路をゆふこえくれば吾妹子が黒 髪洗ふ湯のけふりみゆ」の吾妹子の手紙だという話を、いっか誰 かに聞いたことがあります。これは本当かどうかは請け合いませ んが : 。床の間の隣りは北側に三尺ほどの小窓があり、二枚の 小障子がはまっていて、それを開くと遠く箱根の山々が遠望され 谷崎終平 るのでした。 ここで兄は一時、塑像に凝っていました。自己流なのか、誰か 孤児となった私は、一面呑気でばんやりな処もありましたが、 次第に孤独な憂鬱な少年になっていきました。劣等感ばかりつの先生に就いていたのかはわかりませんが、時々粘土で造ったもの が、いつの間にか石膏になっていました。女の裸体や首などだっ らせていったのです。その上県立の小田原中学を受けて失敗し、 たようです。ーーー兄にはそんな余技 ( ? ) もあったのです。 今は忘れましたが、何とかいう私塾に習いにも行きました。 せい子女史と私は、専ら「立川文庫」や黒岩涙香の「噫無情」 私は茶の間の片隅の自分の机の前の鴨居に、あの朱熹の有名な かしら や「巌窟王」「白髪鬼」などを読み耽ったものでした。「お頭 ! 偶成などを貼ったものでした。 首尾は ? 」などと、立川文庫の山賊の手下の様な怪し気なセリフ 少年易老学難成 でおどけた会話をしたものです。 一寸光陰不可軽 この時分、私は後にも先にも唯一度だけ、人々に心配させたく 未覚池塘春草夢 て、お芝居を打ったことがあります。今でも恥しい話ですが、こ 階前梧葉已秋声 ・回想の兄・潤一郎■ 5 田原時代 ふけ